「大丈夫です」は、大丈夫なの?

ミルクを入れるべきか否か?

紅茶が2つ運ばれてくる。ミルクを入れたポットがひとつ。私はポットをとり、「ミルクは?」と聞く。向かいに座った若い人は、「大丈夫です」と答える。私はちょっと考えてから、自分のカップにだけミルクを入れる。

たぶん、若い人だったら考えもしない。やんわりと拒否する場面で「大丈夫です」という言い方は、たぶんここ5年ぐらいのスパンで言えばふつうに使われている。だが、その10倍も生きていると、そういう使い方には未だに戸惑いを覚える。ちょっと考えてから、「ああ、それは『私はミルクを入れなくても大丈夫です』という意味なんだな」と解釈する。

「大丈夫です」は、状況によってまったく別の意味にもなる。たとえば同じシーンで、私がミルクポットを手に「ミルク、入れてもいい?」と尋ねたのだったら、「大丈夫です」という返答の意味は「私はミルクを入れても大丈夫です」となる。許可を与える用法だ。どちらかといえば、この使い方のほうが馴染みがある。ここ5年とは言わない、もっと前から使われているように思う。それでも、私が若い頃は言わなかったような気がする。

ミルクを入れていいのか、ダメなのか、それは状況によって変化する。つまり、「大丈夫です」という表現は、コンテクストに依存している。どうも日本人はそういうコンテクスト依存型の表現を好むようだ。

 

なぜそんなもって回った言い方をするのかといえば、それが直截的なイエス、ノーよりも軋轢を生みにくいからだろう。明快なイエス、ノーは、それだけに失礼な表現につながりかねない。だから、わざわざ回りくどく言う。回りくどく言うと丁寧な表現になるというのは日本語だけのことではない。英語でも、ストレートな命令形よりは余分にpleaseをつけたほうが丁寧だし、Will you...と相手の意思の確認にしたり、あるいはWould youとわざわざ仮定法を使ったり、果てはWould you mind to...のように相手の感情まで慮った表現にしてストレートな意思表示を避ける。回りくどさが丁寧さになるということで言えば洋の東西を問わないようだ。

だが、こういった回りくどさは、同時にわかりにくさにもつながる。ときには誤解を生む。「大丈夫です」と言われてうっかりミルクを入れてしまうようなことにつながりかねない。

「立派な男子」(古語)ではないけれど

「大丈夫」という表現は、決して最近のものではない。たとえば、1960年代のテレビドラマ「仮面の忍者赤影」では、登場人物の青影が「だいじょ〜ぶ!」という決め台詞を使っている。これは当時の子どもたちの間でけっこう流行った。なにせ、いまとちがってネタの少なかった時代だからね。

ただ、この頃の「大丈夫」は、文字通り「 あぶなげのないようす」(三省堂Web Dictionary)であって、怪我をしていないとか、うまくいっているとか、そういう意味で使われた。だからある程度より上の年齢層の人々は、「大丈夫」を基本的にそういう意味で使う。たとえば、

「あ、すみません」(人にぶつかった)

「大丈夫です」(怪我はありません)

というような使い方だ。そして、そういう意味で「大丈夫です」を理解していると、次のような使い方をされるとひどく戸惑う。

「すみません」(2、3分の遅刻をした)

「大丈夫です」(かまいませんよ) 

え?と思うのは、「そんな数分の遅刻で大丈夫じゃなくなるような事態ってあり得るの?」と思うからだ。ぶつかったのであれば、当たりどころが悪ければ怪我をするし、所持品が壊れるかもしれないし、だいいち痛いのは間違いない。大丈夫じゃない事態はいくらでも想像できる。そんな状況で「大丈夫です」と言ってもらったら、それは非常にありがたい。ところが、数分遅れて、そりゃあ相手に対しては失礼だし、数分だけの時間の無駄という損害は与えてるし、気分を害したかもしれないけれど、少なくとも大丈夫じゃない事態、怪我であるとか破損であるとか、そういったことはそれが原因でふつうは起こらない。よっぽど体力のない人なら数分立ちっぱなしに放置されて足が痛いとか、あるかもしれないが、それはまた別の話。もちろん、待たされて「大丈夫です」と言った側は、そんなたいそうなことを言ってるつもりはなくて、「気にしないでください」ぐらいの軽い意味で言ってくれている。それを理解するまでに、こっちはワンクッションかかる。同じことなら、何も言わないで笑ってくれたほうがまだ話は通じやすいのだけれど、そういうことを若い人たちに求めるのが既に老人っぽいのかもしれないと思って黙るしかない。

けっこうvs大丈夫

では、昭和の時代にはそういうコンテクスト依存型の表現がなかったのかといえば、むしろいま以上にあった。そして、「大丈夫です」と同じ文脈で用いられる言葉に、やっかいな「けっこうです」という言葉があった。

「けっこう」というのは、「よい、すぐれている」というような意味だ。だから、「けっこうです」というのは、「いいですね」ぐらいの意味だ。たとえば、訪問して「けっこうなお宅ですね」といえば、「素晴らしい家ですね」と賞賛していることになる。「このアイデアはいかがでしょう」と尋ねられて「けっこうですね」と答えれば、「それは素晴らしい」ということになる。会議の提案に対して上司が「けっこう」と答えたら、それはゴーサインだ。

ところが、「お茶をお持ちしましょうか」「けっこうです」というような問答では、「けっこうです」は拒否の表現だ。これは、「お茶なんかなくても私はこのままでいいんだ」という意味での「けっこう」なわけで、お茶そのもの、あるいはお茶をもってくるという行為がけっこうなわけではない。ややこしい話だが、「要らない」とぶっきらぼうに言うよりは、「けっこう」と言ったほうが婉曲的で、失礼にあたらない。だから、昭和の時代からついこないだまでは、この「けっこう」が盛んに用いられた。

いま、「大丈夫」が「けっこう」に取って代わられている。それにはたぶん、理由がある。おそらく、「けっこう」は、長く使われている間にもともとの肯定的な意味よりも否定的な意味のほうが強まってしまったのだろう。つまり、Noを「よい」という婉曲的な言葉で表現していたはずが、いつのまにかストレートなNoに受け取られるようになってきた。そうなると、失礼を避けるためには新たな別の婉曲的な表現が必要になる。そこで選ばれたのが「大丈夫」ではないか。

そして、「けっこう」が客観的な「よい」であるのに対して、「大丈夫」は主観的な「問題はありません」という意味を帯びている。「自分はそれを拒否したいと思っている」という主観的な思いを伝える上では、「けっこう」よりも「大丈夫」のほうがしっくりくるのかもしれない。

 

とはいいながら、やっぱり私は、「大丈夫です」という表現に違和感を覚える。若い人の間には「何にでも使える便利な言葉」的な感覚があるようだが、忠告しておくと、そういう言葉ほど危険なものはない。コンテクスト依存型の表現は、往々にしてコンテクストの読み間違いを招く。そして、読み違えた人間を「空気の読めないやつ」として排除していく社会をつくりかねない。

だから、そこは失礼とかあんまり考えず、「はい」「いいえ」をメインで会話を進めていこうよ。文脈を読まなければ何事も進められないような過去の悪習は、もうそろそろやめにしよう。「大丈夫、大丈夫」と言っているうちに気がついたら大丈夫じゃなくなっている日が来てしまうかもしれない。空気を読めない人間を排除する社会ほど大丈夫じゃない未来はないのだからね。

蔵書は散逸してこそ - 古本はたいせつにしよう

桑原武夫蔵書破棄のニュースを聞いたときには、なんとも残念な気持ちになった。けれど同時に、「ああ、そうだよなあ」とも思った。

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敬意を込めて「桑原武夫」と敬称抜きで書くのだけれど、恥ずかしながらたぶん私は桑原武夫の著述を読んでいない。ただ、京大人文研という括りで見たら、今西錦司を筆頭とするその一派の人々の著作にはいろいろと学ばせてもらったし、何よりも私が若い頃所属した山岳部のトップにはその一派のさる碩学の教授がいた。話が長くなるのが嫌なのであえて名前は出さないが、この教授の没後、その書斎に入ることを一度だけ許されたのは、私の数少ない自慢話のひとつになっている。大学に寄贈されてコレクションとして管理されることが決まったその蔵書が移動される前に、山岳部関係の資料を持ちだしてよいと遺族の方が許可してくれたからだ。私は下っ端の荷物持ちとして先輩について行っただけなのだけれど、それでも静謐なその書斎の雰囲気は忘れられない。

そんなこともあったから、同じ京大人文研の桑原武夫の蔵書の一部が破棄されたというニュースは、ショックだった。だが、古びたものを無限においておくことはできない。それはこの世の定めだ。いつまでも残すわけにもいかないだろう。散逸してもやむを得ない。今回は散逸ではなく廃棄なので、失われたものは二度と戻らない。せめて古書店が引き取るものだけでも形が残ったらよかったのだろうけど、まあ、完全に同じものでないとはいえ別のコピーもあるだろうから、情報がこの世から失われたわけではない。

 

廃棄されることでこの世から消えてしまうような儚い情報もある。だが、それらは、消えてしまっても仕方ないものであるかもしれない。私はこれまでに何度か本を処分している。特に大量に本を処分したのは結婚前後の数年間の時期だった。その少し前まで私はある非常にマイナーな分野の微小な雑誌を編集していて、そのおかげで大量の資料を収集していた。その中には、小部数しか発行されていない自費出版本や手作りのミニコミ紙などのコレクションがあった。それらの資料はけっこういろんなネタのソースとして役立った。おそらくほかにはどこを探してもそれだけのコレクションはなかっただろう。なにせ、マニアックな分野だから。そしてそれらは、編集が私の手から離れるときに一緒についていき、そして散逸した。おそらく二度と復元できないだろう。情報としても、あのコレクションは失われてしまった。

結婚してからは何度か引っ越したが、そのたびに本を処分した。比較的まとまったシリーズは友人が新たにできるコミュニティ施設のような場所に本棚ごと引き取ってくれたが、数年たってその施設が閉鎖されるときに恐らく廃棄された。むしろ生き残ったのは、友人たちが借りて行ってそのままになっていた本たちだろう。私が基本的に「借りパチ」(借りっぱなしで失敬してしまうこと)を歓迎しているのは、実はそういう事情もある。自分の手元からは失われるけれど、それほど遠くないどこかで生き延びてくれるから。そして比較的どうでもいい本は、ブックオフ行きとなった。その中でもさらにどうでもいい本は、ブックオフ経由で廃棄されたはず。私にとっては貴重であっても世間的にそうでないようなものは、容赦なく破棄されるだろう。

 

そんなふうに本や資料を散逸させてきて、残念だなと思う一方で、それでよかったのかなとも思う。というのは、あの大量の資料を自由自在に使えたのは、私だけだったからだ。

どういうことか。編集者時代、資料はオフィスの本棚にぎっしりと詰めてあった。訪れる友人たちは勝手に手に取ることができたし、実際、そこから本を引っ張りだして読んでいく奴もいた。けれど、いろんな話をしていて、「そういえばこんなことが書いてあったよ」と本や雑誌、ミニコミなんかを引っ張り出してくるのは私だった。それをネタに話題が広がると、またそれに関連した資料を引っ張り出してくる。私にはそういうことができた。他の誰にもできなかった。

資料と私はワンセットだった。資料を失ってからは、「うん、たしかそういうのは『現代農業』のどっかに書いてあったはずだよ」みたいなことは言えても、不確かな記憶以上の情報は出せなくなった。けれど、どっちみち私自身の活動分野が他にシフトしていったので、そういう情報を必要とする機会も減っていった。私が資料を必要としなくなり、資料が私を必要としなくなって、散逸した。これは避けられないことだ。

 

そんな昔のことを思い出すと、結局のところ、大学者のコレクションにしたところで、それを隅々まで知っていてどう活用したらいいかをきちんと押さえている本人が生きて活動していてこそのものだと思えてくる。大先生の思想とコレクションは不可分のものだ。そして一方がいなくなってしまえば、コレクションだけ残っても意味はない。

もちろん、大学者の場合には思想を受け継ぐ人々がいる。そういう人にとっては、コレクションが散逸せずに一箇所に残っていることはありがたい。だが、一人の人間の思想をそのままの形で完全に継承することができるだろうか。私が死後に書斎を訪れたあの先生のコレクションでさえ、山岳部関係の部分は余分なものだと判断されたわけだ。一人の人間の興味関心の幅は広い。そして、その一見無関係な関心が総合されてひとつの思想をつくる。その思想は、別の人間の興味関心の対象となって継承されるが、そのときにはまた別な個人の別な興味関心のセットの中に組み込まれ、元の思想を形作った要素のかなりの部分は不要になってしまう。

だから、大学者の思想を受け継いだ人も、そのコレクションの全部は必要としない。そして、必要な部分は、継承者によって異なってくる。複数の継承者が共通して必要とする部分もあれば、一人の継承者がやっと必要とする部分、誰にも必要とされない部分さえあるだろう。そして、それらを全てセットとして残すことは、すでに大学者がこの世にいない以上、記念碑的な意味以上の意味はない。

つまり、蔵書のような研究資料は、本来散逸すべきものなのだ。散逸し、その行った先々で新たなコレクションの一部となって、はじめて役に立つ。そうならない部分については、いくら残念でも消えてしまうのが順当な運命だ。

 

ちょうど有機体のようなものだ。生物の身体をつくるタンパク質は、その生物が死ぬと他の生物に取り込まれ、別の生物を形作る一部となる。分解されてこの世から消えてしまうものもあるが、輪廻の中で生き続けるものもある。書物も同じようなもので、散逸することによって新たな別のコレクションの一部となって生き延びる。そうなるものもある。

もちろん、コレクションがコレクションとしてそのまま存在することにも、それはそれで意義はある。思いもかけない情報の間のつながりが、同じ空間に複数の書物が存在することによって見えてくることもある。だが、それを発見する能力をもった次世代の学習者は、おそらくそのコレクションがなくても、いつの日かそれを発見する。保存のためのコストは、循環させるために使ったほうがおそらく効率的だろう。

散逸の過程で消失し、取り返しがつかなくなる情報も少なくない。ただ、幸いなことに、これから先の未来に生まれていく情報は、基本的に電子データを伴っている。電子データは、物理的な書籍類に比べて保存も複製も容易だ。それらの情報に完全に失われるリスクは大きくあるまい。

 

そう思えば、なお一層、古い印刷物は情報のカケラとして大切だ。実際、50年前、百年前といった程度の古書からさえ、いろいろと学べることは多い。ああ、早稲田界隈の古本屋にまた行きたくなってしまった。もう長いことあのあたりには行っていないのだけれど、まだあるんだろうか?

ただ、それを集めはじめると、また本が増えてしまうのがなあ…

米はどこへ行った - 若い頃の疑問にここらで決着をつけておこう

学生の頃だったかあるいはその少し後だったかは忘れたけど、とにかく若い頃、「米はどこへ行った」という大きな疑問が私の中に生まれたた。現代の話ではない。江戸時代のことだ。

私が子どもの頃、教科書には「江戸時代には士農工商身分制度があり、農民が90%以上を占めていた」というようなことが書かれてあった。そして、「農民は五公五民とか六公四民とかいわれる重税にあえいでいた」というようなことも書かれていた。この2つを合わせると、論理的には非常に奇妙なことになる。米が余るのだ。

仮に90%が農民だとして、その農民が生産物の50%を収奪される。残りは農民の生存のために必要だ。では、収奪された50%はどうなる? 農民以外の10%の人々が食うのか? だとしたら、それらの人々は農民の9倍の米を常食しなければならなくなる。そんなに米ばっかり食ったら糖尿病になるぞ!

その疑問は、さらに年を経て、食のことに関心をもつようになって深まった。日本人全員が白米を常食にできるようになったのはようやく戦後十数年を経てからのことだというではないか。それ以前は粟や稗といった雑穀類、あるいは大麦や芋類を米に混ぜ込んだ糧飯が農村部で広く食べられていたという。ということは、さらに米は余るはずだ。

そして、農業のことを少しなりとも勉強するようになって、米が余るというのは確信に変わった。稲作は、投下労働力に対する生産効率が非常に高い。現代の機械化・化学化された農業であれば、1人の1年間の労働で数百人が1年間に消費する米をつくることは容易だ。そして、機械化される以前の農作業であっても、1人で3反程度の田んぼを耕作することは可能であり、そして3反の田んぼからは当時の標準でも5〜10人が食べられるほどの米が穫れるのがふつうだった。ちなみに、三反百姓は最小限自活できる零細農民の呼び名である。吹けば飛ぶような細農でも、一家が食べる分量よりも遥かに多くの米を生産する。そういう農民が国の大半を占めるのであれば、当然のように米は余らなければおかしい。

 

では、米はどこに行ったのか? 税として集められた米は、領内での消費分を除けば大坂の米問屋に送られ、換金されたという。では、大坂で売られた米はどうなるのか。上方や江戸の都市部で消費されるのだが、もしもこれが上記の計算通りなら、消費量を遥かに上回る米が取引されることになる。江戸時代の米は通貨単位としての性質をもつ。米本位制ともいえる経済物質でもあるから、すぐに消費される必要はないのかもしれない。けれど、米はミヒャエル・エンデ式にいうなら「腐る通貨」だ。保存性がいいとはいえ、数年で劣化する。どんどん増えたらそれでいいというものでもない。

食うものは、どうにかして消費しなければならない。米を消費する方法といえばもう食うしかない。そうだろうか。いや、それ以外の消費方法は、ある。それは酒だ。

上方には、灘、伏見という巨大な酒造産業集積地があった。灘と伏見に酒造業が立地した要因としてまずあげられるのは水だ。灘は六甲の花崗岩に磨かれた宮水、伏見は桃山丘陵をくぐった伏水という銘水の産地だ。そして、どちらも丹波・但馬・丹後(いわゆる三丹)という日本海側の後背地に近く、冬季の出稼ぎ労働力が確保できた。そこに原料供給地としての大坂がもうひとつの要因としてあったことはまちがいない。

若い頃の私は、このアイデアに飛びついた。過剰に生産された米は酒となって消費されたにちがいない。そして、一揆や打毀しが起これば必ず標的になるのは造酒屋だ。なぜならそこには米がある。酒造業はそのようにして、生産と消費の調整弁となった。なかなかよくできた理論だ。そして、それはすぐに実証できると思っていた。江戸時代の米の生産量と酒の生産量は、必ずどこかに統計があるはずだ。

ただ、当時はまだインターネット以前の時代である。インターネットそのものはこの世のどこかに存在したのだろうけれど、私は存在すら知らなかった。当然、いまのように検索すれば論文がゾロゾロ出てくるようなこともない。実証的な資料は、大学にでも行かなければ手に入らない。だからこれはあくまで仮説の域を出なかった。それでも私は、会う人ごとにこの仮説を披露して、そして「これで論文かけるはずだからぜひ実証的な研究してくれ」みたいなことを吹聴していた。

 

シロウトの考えなんて、ずいぶんと浅はかなものだ。だが、その浅はかな考えであっても、きちんと言うことは大切だ。なぜなら、それを批判し、訂正してくれる人が現れるからだ。人伝ではあったが、私のそういう言説を聞いてある郷土史家の方が「網野善彦を読みなさい」と教えてくれた。彼によれば、そもそも農民が90%以上というのがまちがっているのだそうだ。私にはそれが信じられなかったが、やがて網野善彦の本を読んで、納得した。「百姓」は、農民とイコールではない。年貢によって管理される武士以外の人々が全て百姓であって、その中には商工業者も含まれる。商工業者の中には農村にあって兼業的に事業を営む人々も地方都市で専業的に経営している人々もいる。それらの人々は年貢米を購入して納税するか、もしくは金銭でもって代替する。したがって、税収としての米は必ずしも生産量としての米の正確な反映ではない。領内での米の流通には食料としての流通だけでなく通貨としての流通もあったことになるし、それは全国でも同じこと。そして、その量は決して当時の日本人の人口で食べきれないほどではなく、むしろ不足するほどであった。

 

もっといい資料もあるのだろうが、軽くWeb検索をして出てくる論文を見るだけでも、どの程度の米の生産量があったのかはすぐにわかる。たとえば

社会経済的背景との関連からみた天明の飢饉と疫病(秋山房雄ら)

の表1によれば、天保年間の米の名目生産量(税収の基礎となる数値)は3000万石であるのに対し、実際の米生産量は2003万石と、2/3でしかない。石高は百姓が負担する税を反映しているわけだから、おおまかにはざっと1/3が農民ではないわけだ。つまり、人口の半分強が自分たちの生活に必要な米のおよそ2倍を生産し、余剰分を残りの半分が食べていたとすれば、食料としての米の収支はほぼ辻褄が合う。

ただ、そんな説明を受けても、私の中には釈然としないものが残った。たとえ非農業人口がかつての教科書の説明とは異なってずいぶんと多かったのだとしても、それでも日本はやはり農業国だ。それは、昭和になってからの農村の人口だけを見てもわかる。農水省の統計によれば、昭和35年時点でも農家人口は3千4百万人を数え、総人口の1/3を超えている。日本の耕作地の多くが明治維新までに開墾されていることを思えば、江戸時代にもやはり相当数の農民がいなければ話が合わない。そして、稲作の生産性が高いことは上述のとおりだ。さらに、山間部では雑穀飯、平野部では麦飯が伝統的に多く食されていたことは、やはり昭和初期の食生活を聞き書きした農文協日本の食生活全集を読めば明らかだ。

だから、「大坂に集積された米の大部分は酒に消えた」という持論は半分は撤回したけれど、それでも「米はどこへ行った」の命題は残るし、それを解決するのはやはり酒造業だろうと考えていた。江戸時代の酒造業は、灘・伏見だけではない。地方の蔵元から農家の台所でつくられるどぶろくまで入れたら、やはり日本人は米の相当部分を飲んでいたのではないだろうか。

 

しかし、こういった空想は、やはり実証的な数字によって訂正される。まず、上記の論文の表を見れば、米の生産量と人口から、1人1日あたりの米の量が計算されている。これによれば、先ほどの天保年間で2.0合である。1合は約150グラムだから、およそ300グラムの米になる。現代では日本人は1日平均200グラムも米を食べていない。その感覚からいけば300グラムの米は十分すぎるほどだが、米の300グラムはおよそ1200kcalであり、これは成人1日の所要熱量の半分にも満たない。毎日の食事の主要部分を穀物に頼っていた日本人の食生活を考えれば、少なくともこの2〜3倍の米を食わなければやっていられない。実際、こちらの論文によると

CiNii Articles - 移行期の長州における穀物消費と人民の常食 -  Grain Consumption and People's Staple Food in the Tokugawa-Meiji Transition Period(Special Issue 4 Commemorating the Twenty-Fifth Anniversary)

 幕末期の長州藩で1人1日あたり2.2合の米と、上記資料とほぼ一致する。そして、麦・雑穀などを加えて農村部で3〜5合の主穀類を1人1日あたり消費している。都市部では米が中心だっただろうから、農村部では米が半分以下の糧飯が主流だったというのはほぼ間違いなかろう。

ちなみに、同じ論文で、軍隊での米の消費量が1人1日あたり米643.39グラム、つまり約4.5合と報告されている。肉体労働をする当時の日本人では、このぐらいの米の消費はふつうだった。実際、宮沢賢治の有名な詩でも、「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」となっている。重労働をする大工や木こりなどでは「一升飯」という表現もふつうだったようだ。大量の米が必要とされる中で、限られた生産量の米はやはり貴重なものだったようだ。

 

とはいえ(しつこい!)、大坂には大量の米が集積される。それが本当に全て食料として消費されたのだろうか。もちろん、灘、伏見での消費は決して少なくあるまい。たぶん、探せば実際の米の消費量もどこかに数値はあると思うのだが、Webの検索から出てきたこの論文からでもおよその推察はできる。

近畿における近代酒造業の変遷 - 灘五郷を中心に(塩見侑吾)

ここにあるのは明治年間の数字であるが、およそ年間30万石の酒が灘で生産されている。私自身のどぶろくづくりの経験からいえば清酒1升には2合程度の白米が必要なので(搗精度合を上げると原料米はさらに多く必要になる)、30万石の清酒の製造には6万石ぐらいの原料米は必要になったことだろう。江戸時代の米の流通量は生産量の1/4程度に当たる500万石程度らしい。そのうちの200万石ぐらいが大坂で流通したようだから、その3%程度は酒造にまわったと考えていいようだ。

3%というのは、微妙な数字だ。物資の供給不足・過剰は、数%のちがいによって引き起こされることが多い。3%は余剰を吸収したり不足分を放出するバッファとして十分だろうか。だが、酒飲み連中は、飢饉だからといって飲むのをやめるわけではない。地方の蔵元であれば一揆や打毀しの対象にもなるかもしれないが、灘五郷の大店が襲われるようなこともなかなかないだろう。結局、若い頃に私が空想した「余剰米はみんな呑んでしまったに違いない」という理論は、どうやらどこにもその根拠を見出だせない誤りであったようだ。

 

それでも、私はなお、しつこく、日本の経済に与えた日本酒の影響というものをもっと考えていきたいと思っている。というのは、主食である穀物がそのまま酒造原料であるというのは、非常におもしろい構造だからだ。たぶんここには、なにかがあると思う。暇なときにはまた、Googleの論文検索でもあたってみて、いろいろな研究を見てみたいと思っている。暇さえあればねえ…。

 

なぜ坊主は妻帯しないのか - ある試論

人類がアフリカの片隅から世界中に居住範囲を広げていった速度は、大型哺乳類としては相当に速い。その後も、急速に生活様式や食性を変化させ、環境に適応していった。そうやってニッチごとに環境に適応していったのに、種としての同一性は保たれている。

このような人類の進化史は、人類が頭脳を発達させ、それを適応へのツールとして利用したことによって説明されるらしい。寒さに対応するのに身体の特徴を変化させるのではなく、火を使い、着衣で防寒する。大型獣を食料とするために牙を発達させるのではなく槍や鏃を使う。穀物を消化するために消化管を発達させるのではなく、調理法を考案する。海洋に進出するために鰭を生やすのではなく船をつくる。身体を変化させないから変化に要する時間は圧倒的に短くなる。遺伝子レベルの変化なら数十世代以上かかるようなことを一世代のあいだにやってしまう。そして、遺伝子が変化しないから、変化の後でも人類としての同一性は保持される。もちろん、マイナーな部分では遺伝子レベルの変化も起こる。しかしそれは、種としての同一性を脅かすほどのものではない。

どこで読んだのかも記憶にないが、こんな知識を仕入れた若い頃の私は、目の前が開けてくるような感覚を覚えた。遺伝子は、いってみれば情報を世代から世代へと伝えるメディアだ。その情報は、生物のライフスタイルを規定する。しかし人類は、ライフスタイルに関する情報を遺伝子から切り離し、大脳レベルで処理できる「知恵」に変えた。文化情報として伝達されるように処理系を変えた。遺伝情報と頭の中にある情報は形の上でも意味の上でもまったく別物だけれど、そこには同じ働きがある。それはわくわくするようなアイデアだった。

 

ネオ・ダーウィニズム的な生物学には、「利己的な遺伝子」という考え方がある。リチャード・ドーキンスが提唱したこの考え方は、私の学生時代にずいぶんと流行していた。私はその話を、高校時代に同級生だった生物系の大学生から聞いた。彼女と私はずいぶんと親密だったのだけれど、それはまた、まったく別の物語だ。

この考え方によれば、遺伝子の最大利益(すなわち最大限の増殖)は、必ずしもその遺伝子を保持している生物の個体の利益とは一致しない。「10人のいとこの命を救うためなら自分の命を投げ出す」ほうが、遺伝子にとっては都合がいい、というような議論だ。自分の遺伝子と同じ遺伝子は、血縁関係によって同族に共有されている。自分を犠牲にしても同族が繁栄すれば、結果として自分の遺伝子は広まっていくことになる。人間の社会行動をそういった考え方で説明することに、私は違和感を覚えていた。いまだにそれが正しいと言い切る気にはなれない。ただ、そういう考え方もあっていいのかなと思えるぐらいには、私も寛容になってきた。そして、ドーキンスの考え方も広く社会に受け入れられるようになってきた。

なぜ多くの宗教において聖職者の妻帯が禁じられるのか。それを考えはじめたとき、ドーキンスの考え方がしっくりきた。聖職者は、遺伝情報として自らの遺伝子の複製を残せない。しかし、文化情報として自らが受け継いできた思想を残すことができる。人間という存在を形作るのが遺伝情報だけではなく文化情報でもあるという事実を当てはめれば、聖職者は文化情報の伝達に特化することによって情報にとっての最大利益を達成する存在であると言えるのかもしれない。

人間という存在を形作る不可欠の要素として遺伝情報と文化情報を一元的に考えれば、この発想には無理はない。ただし、この2種類の情報は決して同じ性格のものではない。そこに多くの葛藤が発生する。ではあっても、多くの社会に遺伝子を残すことを禁じられた人々が存在することには何らかの合理的な説明が必要になる。この考え方は、そこによくフィットする。聖職者、宦官など、ふつうに考えたら絶対になりたいと思えないような職業が存在することを、この考え方はよく説明する。

実際、自分のライフスタイルを広めることは、人間にとってある種の快感をもたらす。それは、そういった文化情報そのもののもつ利己的な自己増殖性の反映であるのかもしれない。多くのひとのブログを書く情熱は、そんなところからきているのかもしれない。労働条件からいえば決してよろしくない教師の仕事が人を惹きつけるのは、情報を伝えることそのものに人間の根源に訴える何かがあるからなのかもしれない。そして、聖職者は特定の文化情報である教義を広めていくうえで、最もパワフルな存在だ。だからこそ、引き換えに遺伝情報の拡散を諦めてもらっても割が合う。

多くの宗教で聖職者に妻帯を禁じるのは、そのほうが文化情報の拡散と保存に都合がいいからだろう。独身を前提とすることで、聖職者は男女の禁忌を超えて多くの人々に接することができる。血縁関係の利害を超えて、情報の保存と伝達に専心することができる。そういった有利な立場に立てるから、遺伝子に関する不利を受け入れることができる。そういうことなのだろう。

 

だから私は、妻帯を禁じることを教義とする宗教にはそれなりの合理的根拠があると思う。自分自身はそういう宗教に関わりたいとは思わないが、もしもそういう宗教を信じるのであれば、その戒律は尊重すべきだと思う。

だから、現代仏教は糞だと思う。僧侶は、その役割として文化情報の伝達者であり、妻帯することによって遺伝情報も伝達できる立場に立っている。それって、ズルいじゃない。ひとつを諦めることによって得られるはずの立場を、諦めもせずにゲットしてるのは、どう考えてもズルい。

坊主なら、独身を貫けと思う。そして、もしもそれが無理だというのなら、それはもう、その教義そのものが時代に合わなくなったのだろう。つまり、もしも坊主が妻帯しなければ仏教がもたなくなっているのなら、そんな仏教など滅びたほうがいい。

仏教の教団は滅びても、二千年以上前にインドで修行者がたどり着いた境地は消えないし、幸いなことにその教えは多くの経典として残っている。現代は、二千年前とは情報の保存も伝達も、まったくちがった様式で行われる。 Wikipedia見たらわかるようなことを、坊主の説教から聞く必要はない。だから、宗教関係者は考えを改めたほうがいいんじゃないかな。

 

マストドンは絶滅しても

しょせんは亜流?

マストドン、最近何かと話題になっているツイッター・ライクなソーシャルコミュニケーションツールのことだけれど、これは流行る。いや、流行らない。どっちなんだ?

まず、現状のままのマストドンが流行るとは思えない。理由はいくらでもあげられるだろう。たとえば、

  • 先行のTwitterと比較して、ほとんど機能的に何も変わらない。
  • 主なメリットは、「Twitterではない」ということ。
  • 盛り上がっているのがオタクとGeekだけ。
  • ユーザーの増大によって発生する問題に無防備
  • インフラを維持するコストをどう償却するのかが見えない。

など、シロウトが思いつくだけでもいろいろとある。中身に入ったら、もっといろんな問題があるのだろう。上記は、外側だけのこと。

実際、「短文をつぶやく」という機能に限っては、マストドンTwitterクローンでしかない。140文字の制限が500文字まで長くなっているといったところで、流れてくるtootのほとんどが数十文字でしかないのだから、この違いはあってないようなもの。細かい機能の違いの中には(単純に慣れていないだけだろうが)使い勝手がわるいものもあるし、Twitterのように周辺にぶら下がって利用できるサービスもない。

そんななかで一部のユーザーが盛り上がっているのは、「Twitterが窮屈に感じていたのにここは自由だ」みたいな感覚が大きいようだ。つまり、「Twitterではない」ことがほぼ唯一のマストドンの強みになってしまっている。しかし、そういう感覚は、もしもマストドンがメジャーになってしまえば(あるいはTwitterを置き換えてしまえば)消えてしまうだろう。

ただし、Twitterとの違いがないわけではない。それは、自分の属するインスタンス内だけである程度世界が区切れるということだ。ただ、そうはいっても、それがどういうふうに発展していくのかはまだ不明。だからここは「現状」のほうに含めずに、後のほうで「将来」に含めて書く。

ユーザーが増大することによる問題は、ごく初期にエロ画像問題として発生していたが、不特定多数の人々が通信を行うことに伴って発生するさまざまなリスク(法的なリスクを含む)に対してどう対処できるのかは、けっこう大きな問題だろう。

Twitterのような営利企業はそういった問題の解決にコストをかけることもできるわけだが、マネタイズの方向性もわからないマストドンでは、それが可能かどうかもわからない。

とまあ、シロウトが観測した大雑把なところでもこんな感じだから、まずマストドンが流行することはない。しかし、じゃあそれでおしまいなのかといえば、そうではないと私は強く感じている。これは絶対に流行る。

進化は不可避

マストドンは、いつまでも現状のマストドンではないだろう。なぜならそれはオープンソースだからだ。オープンソースのプログラムの常として、進化は急速に起こる。いま、Geekたちのあいだでこれほど盛り上がっているのだから、開発が停滞することは考えにくい。1ヶ月後には、マストドンは現在のものとは一変しているはず。

そして、これもオープンソースで起こりがちなこととして、プログラムはフォークしていく。フォークするだけなら似たようなものが乱立するだけで「だからどうなの?」ということでしかないのだけれど、フォークした先で、思いもかけないような変化が起こる可能性がある。それは最初は現在のものにちょっとした機能を付け加える程度のことであるかもしれない。けれど、それが全体の性格を大きく変えるかもしれない。使い方が変わってしまうかもしれない。そうなれば、Twitterと比較することさえ意味を成さなくなるだろう。

そんな未来を考えたときに、マストドンのもうひとつの強みは、その分散型の構造だ。どこかに情報の処理が集中するのではなく、あちこちに林立したインスタンスごとに情報が処理され、その情報がインスタンスを超えて流通する。そういうスタイルそのものが、次の新しいメディアの基盤になる可能性は高い。

インスタンスごとに区切られた世界というだけなら、これまでにも閉鎖的な文化をもったWeb上の空間はいくらでもある。区切られた世界を繋いでいくことも(たとえばURLを貼り付ければ)可能だ。けれど、それがシームレスに行われることはなかった。そういう意味でマストドン的世界は新しい。


だから、マストドンは流行りかけて廃れるかもしれないが、それが残す遺産は廃れない。その遺産の中から、次世代のメディアが誕生する。それがマストドン直系であれば、「マストドンが流行る」未来が生まれることになる。私個人としては、そうなるような気がしてならない。

そろそろ次が来る──経験則でしかないけれど

というのも、Webに乗っかったメディアの変遷を見たら、「そろそろ次が来てもいいなあ」という頃だからだ。その出発点は、画期的なものである必要はない。発展していくポテンシャルだけあればいい。そして、オープンソースマストドンには、上記のようにそのポテンシャルがある。

思い起こせば、私が最初にWebをマス(といっても私の力では数百人程度まで)に対するアプローチとして使い始めたのはメールマガジンだった。そして、そのシステムを使い始めた最初は「それってローカルの同送リストと同じじゃないの」と思ったものだ。次にブログだったが、「それって逆順日記じゃない」としか思わなかった。Twitterが出たときも「ミニブログ」としか思わなかったし、Facebookに至っては「こんな個人掲示板みたいな古臭いものなんか使うもんか」と思ったりもした(実際使わなかった)。そもそもSNSなんか、みんなミクシィの亜流だとさえ思っていた。サービスが出始めた頃っていうのは、多くの人は過去にあったものに似たものとしてそれを理解しようとする。そして、「いまさらそれはないだろう」と否定的に思う。けれどいま、Facebookミクシィの真似だとかいったら、笑われるだけだ。だから、スタート時点の現在のマストドンTwitter亜流だからといって、それがここから先に大きな潮流にならないと否定する理由にはならない。

数年おきにメディアに大きな潮目が訪れるのは、ハードウェアが進歩するからではないかと思っている。パソコンをもつ人が増えて「ホームページ」が流行り、携帯でメールを受信できるようになってメールマガジンの影響力が大きくなった。常時接続が一般化してトラフィックの増大に耐えるインフラができ、ブログが流行した。SNSの大衆化はスマホの普及と軌を一にしている。通信技術が進歩して新たなデバイスやサービスが拡大すると、それに乗っかるようにしてコミュニケーションのためのメディアが勃興する。

じゃあ、いまはどんなハードウェアが生まれているのか? たぶん、10年後に振り返ったら、それが明らかになっているはずだ。だが、いま私には見えていない。ひょっとしたらそれは、「格安SIM」の普及かもしれないなとかも思う。私はMVNOのSIMを2011年から使っているのだけれど、最初の数年は完全に異端者だった。それがここ数年は一気に市民権を得てきている。そういう背景とマストドン的なネットワークは、どこかでシンクロしないだろうか? あるいは、そういう一国内特殊事情ではなく、もっとグローバルなデバイスの変化が起こっているかもしれない。いずれにせよ、スマホの拡大一辺倒で来たここ10年ほどのハードウェア的な状況に、そろそろ潮目が変わる時期のような気がしている。

 

だから、マストドンは流行するし、流行しない。いまの形のマストドンは、その名の通り化石となって埋もれていくだろう。だが、そこから生まれる新しい生物は、巨象のように大きなうねりとなっていくにちがいない。ま、私はそうなることに昼飯ぐらいなら賭けてもいいな。

 

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話題に乗っかってしまって、マストドンを10日ほど前から使っている。「使っている」といったらちょっとちがう。登録して、10人ばかりをフォローして、100ほど愚にもつかないことをつぶやいて、タイムラインを眺めて、それで何かが得られたかというと特に何が得られた気もしない。それでも、それをきっかけにいろいろと考えることもある。だから、無駄ではないのだろう。

どっぷり浸かっているわけでもないし、プログラムに詳しいわけでもないし、SNSには疎いし(Twitterをずいぶん昔に2年ほどやってやめてしまった)、どう考えてもこの新たなメディアを論評する立場にはないのだけど、思うところを少し書いてみた。

道徳教育推進教師に資格はない? - 無資格教員が教科を指導する矛盾

指導要領改訂で道徳科という科目ができるとかいう話を聞くのだけれど、家庭教師としては文部省のサイトに「道徳科の評価で,特定の考え方を押しつけたり,入試で使用したりはしません。」と書いてある以上、特に関心はない。特定の思想の押し付けはないと言い切ってる以上、科学教育への悪影響はあり得ないと考えざるを得ないし、成績に関係しないんだったら、まあ勝手にやってくれというところ。

けれど、ふと思った。教科になるなら、当然、専門の教師が必要になるはず。ということは、教員養成課程でそういう専門科が大学に設置されるんだろう。やっぱり社会科学の系統になるのかなあ、などと。

そこで調べてみたら、道徳に関しては「道徳教育推進教師」というのを用意するらしい(Q&A:文部科学省)。そしてどうやら、この「道徳教育推進教師」というのは学校内での役職名であって、資格ではない。いったん道徳教育推進教師になったら研修とかもあるらしいのだが、それは教員資格とは無関係なもののようだ。

これっておかしいよなと思う。というのは、現在の法体系では、学校では無資格の教員が(補助的な指導を除いて)教科指導をしてはならないことになっている(学校教育法教育職員免許法)。だから、たとえば私のような家庭教師が学校の教壇に立つことはあり得ない。そういうものとして運用されているのが学校制度だ。しかし、道徳科を教えるのに、道徳科の資格をもった教師がいない。これは法体系のほころびではないだろうか。

 

屁理屈のように聞こえるかもしれないが、これは重要なことだ。というのは、大学は腐っても大学、そこには研究もあれば学問の自治も(一応は)ある。道徳の指導ということをきちんと研究すれば、結果的に文部科学省のタテマエそのまま、すなわち

道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,自己の生き方を考え,主体的な判断の下に行動し,自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うことを目標とする。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2016/08/10/1375633_1.pdf

方法論、すなわち、正しい批判精神と共感をどのように身に付ければいいのかという社会学的な方法論に至るはずだからだ。そういった素養を身に着けた道徳科専門教師が指導をするのであれば、アホみたいな教育勅語論争とか、そういうものからこの教科は無縁でいられるはずだ。

ところが、これが大学教育とは無縁に行われるとどうなるか。OJTとして行われる「研修」は、現場の効率化とか恣意的な目標設定とか、そういうものと親和性が高い。結果として、指導要領に記載されているのとまったく別物の指導が推進されてしまう危険性がある。

そういう危険性を避けるために、法令は教員免許の必要性を定めているのだと思う。それを無視して専門性のない教員に指導を求める現行指導要領は、考えてみれば非常に奇妙だ。

 

指導要領をはじめとして、教育行政の公的な文書類は、素直に読めば決しておかしなことは書いていない。そりゃあ、頭のいい官僚たちが知恵を絞って書いているのだから、ある意味、非常にまっとうなことが書いてある。ところが、それが現場では全然まっとうじゃない使われ方をする。ほんと、それは呆れるほどだ。

つまり、法律は、読み方でどうにでも解釈できる、と思われている。そう扱われている。だから、法律で縛ってブレーキをかけるというのが非常に効きにくい風土になっている。そんなところに、そのブレーキを外してしまったような「道徳教育推進教師」の存在は、本当に危うい。

無資格教師が教えていいんなら、私はいつでも学校に行くよ。あそこで雇ってくれたら、こんな嬉しいことはない。ま、引っ掻き回されるのがわかってるような男を雇いたい学校なんて、あるわけはないのだけどね。

漢文を教える意味はあるのか? - そりゃあるんだろうけど…

別にウラをとったわけでもない単なる与太話なのだが、中学の教科書に漢文が載っている理由は、詩吟協会(なんてものがあるのかどうか知らないが)の陰謀ではないかとずっと思っている。詩吟というのは漢詩を独特の節回しをつけて読むもので、幕末ぐらいから流行したらしいから、それほど古いものでもない。ただ、漢文が読めなければ当然詩吟もないわけで、詩吟人口の確保には、漢文教育が欠かせない。どうせ詩吟なんてやるのは国語教師あがりぐらいに決まってるので、そういう点からもよく自己完結している。と、まあ悪口はこのぐらいにしておこう。

ただ、どう考えても中学生に漢文を教える意味がわからない。確かに、日本の文化は古代中国から流れ込んできた大量の文物を消化することによって成立した。古典を読む際に漢籍の素養が欠かせないのはもちろん、現代の日常的な語句にまで、中国由来の表現が無数に登場する。中国語の文献を日本独自の方法で読解する手法として発達した「漢文」は、日本文化を理解する上で非常に重要である。漢文の研究が途切れたら非常に貴重なものが失われるわけだし、それは歴史や文学の研究に大きな困難を引き起こすだろう。だから、決して漢文はおろそかにしてはいけない。

ただ、だからといって、研究者でもない中学生にそれを教える意味があるのだろうか。考えてみてほしい。たとえば聖書は、英語の血肉となっている。英語の本には聖書の知識なしにその表現を正確に理解できない箇所はいくらでもある。けれど、中学校でも高校でも聖書は教えない。シェイクスピアもそうだ。英文にはシェイクスピアの引用、シェイクスピアへの参照は無数にある。けれど、(高校なら教科書によっては扱うものもあるが)シェイクスピアを教えることは学校ではしない。基礎教育であれば、それで十分だ。そういう味わいのあるところは、大学の専門教育でやればいい。大学でそういう分野の研究がなくなったら問題だろうが、高校までの教育でそんなことを無理矢理に詰め込む必要はない。

同様に、漢籍の素養も、大学での研究が正常に行われていれば十分だ。もしもそれでは基礎が不足するというのなら、文系の高校生には漢文を選択できるようにしておけばいい。現在のように古文A、Bと不可分に漢文をセットする必要は、おそらくない。(あるとすれば詩吟業界の振興ぐらいか)

なんといっても、漢文の方法論、外国語を無理やりに日本語にしてしまう強引さは、歴史的事情を差っ引いたらおよそ学問の方法としてふさわしくない。語学教育全体を見渡してみれば、ああいう発想の解釈が通用し始めたらろくでもないことになるのは理解できるだろう。

 

もちろん、熟語(特に四字熟語)の成立など、漢文の知識から得られる日本語の理解は小さくない。けれど、それは返り点の打ち方とか、あるいは古代の詩歌の日本ローカルの解釈とか、果ては儒教の基礎知識とかを教えなくても、ごくふつうの解説文で補うことはできるだろう。もちろん、漢文をブラックボックス化する必要まではないので、そういうものが存在したことぐらいまでは歴史として教えてもいい。

けれど、そうなったら、教材の選択があれでいいのだろうかということになってくる。漢籍の解釈は、仏典の研究で広く用いられていたはずだ。ところが、教材は唐代の詩人と儒教聖典が中心になっている。つまり、実際に日本の歴史の中で用いられてきた場面とかなりずれている。

だから私は、「詩吟協会の陰謀だろう」と、あり得ない邪推をするわけだ。だって、詩吟では漢詩を使うわけだし、幕末に詩吟をやっていた壮士連中というのはだいたいが朱子学の徒の成れの果てだ。そういう流れの学問が存在してもいいし、必要なのだろうとも思う。だが、基礎教育の場では、それはちょっとどうなのかなあと思う。それって一部の人々を妙に優遇しているだけのような気がする。

中学生に漢文を教えるたんびに思うこと、こんなツイートを見て思い出したので書いた。ま、元ツイートの発言意図とは全然無関係なことなのだと思うんだけど。失礼!