因数分解とか、教える意味はあるの? - 教育についてウダウダ書く前に

なんで勉強するの?

中学生ぐらいの子どもたちに、「勉強、好きですか?」って聞いたら、10人のうち8人から9人は「嫌いです」もしくは「好きじゃない」と否定的な答えをよこす。正常だと思う。私も嫌いだった。いまでも嫌いだ。

もちろん、10人のうちに1人か2人は肯定的な返答をする。ただ、それは「好きな教科は理科です」みたいに「勉強」の中に無理矢理に好きなところを見つけようとするちょっと方向ちがいの反応だったり、「100点とったら気持ちいいから」みたいなやっぱり本質とはちがうところに楽しみを見出しているケースだったりする。それ以上に、「勉強が好き」と答える子どもの多くは、「自分は勉強が好きなはずだ。勉強が好きな子はいい子だし、自分はそういういい子であらねばならない」と、かなり抑圧された生き方をしているひと。大きな問題を抱えている。

安定しない本業では生活が成り立たないので空き時間で始めた家庭教師業も、いつの間にかベテラン領域に達してきた。なに、出入りの激しい業界だから、数年やったらもう周囲からベテラン扱いになる。これはこれで相当にブラックな業界なのだが、その話は別の物語。ともかくも、そうやって毎年何十人もの生徒に「勉強が好きか?」と尋ねる。反応は上記のとおり。ふつうは、嫌い。意外なことでも何でもない。

そこで私は、常々、疑問に思っていることを直接生徒に尋ねることになる。「嫌いな勉強をなんでするんですか?」と。嫌いならやめときゃいいのに。これは、ある意味、私の本音。本気論。

たいていの生徒は困った顔をする。そういう質問は想定していないし、だいたい、この男は何なんだ? 勉強を教えに来ておいて、嫌ならやめろとは、バカじゃないのか? ほんとうにプロか? まあ、そのぐらいは思っているだろう。

だが、私はしつこく食い下がる。そこから先が実は楽しみな展開になるのだが、それを書くと長くなる(どうしても知りたければ別な場所に書いているので、そちらを参照してもらえればと思う。末尾にリンクをつけておくので)。ともかくも、最終的に引っ張りだした返答のなかで最も多いのは、「勉強しないと将来こまるから」というもの。かくも根拠のない都市伝説を広めたのは誰だ?

学校の勉強をしなくても困らない

はっきりと断言しよう。学校の勉強をしなくても、将来困ることは何もない。もちろん、具体的な目標があって、それが達成できなければ困るということであれば、話は別だ。たとえば医者が人体の構造を勉強していなかったら本当に困るわけだし、英語の話せない通訳者とか、コードの書けないプログラマとか、勉強していなければあり得ない職業はいくらでもある。どんな職業であっても最低限のOJTはなければプロとしてお金はとれないので、そこまで勉強の範囲を広げたら、確かに「勉強しないと困る」のは真実だ。

だが、それらのスキルは、個別に、必要性に応じて身に付けるものだ。医師になりたければ人間がどんなふうに機能しているのかを基礎から学ばなければいけない。その勉強にはきちんとした筋道があるし、それは最終的には医師免許へと続く道のりのなかで体系化されている。その体系に接続する軌道に乗りたければ受験勉強の競争に勝ち抜く必要もあるだろうし、その前提条件として方程式やら因数分解の問題も素早く解けるようになっておく必要があるかもしれない。このように、ゴールオリエンテッドな展開をしていけば、たしかにいま、「嫌な勉強をする」ことの意味も見えてくる。だが、それは既に「将来こまるから」といった漠然とした不安感とは異質なものになっている。困るんじゃなくて、必要なんだ。そして、必要なものは、必要に応じてゲットすればいい。そのときには「嫌いな勉強をする意味」は、「次のテストで80点とっとかないと志望校に進学できない」とか、「数学わからないとプログラミングができないでしょう」とかいったもっと具体的なものになるはず。

だいたいが、ほとんどの子どもにとって、学校で勉強している学習内容が将来の生活に役立つことなど、ない。疑う生徒に私はこんなふうにいう。「連立方程式立てて買い物している人を見たことがありますか? テレビのスイッチ入れるときにオームの法則が必要ですか?」と。小学校で学ぶ漢字が書けて、やはり小学校レベルの四則演算と、中学1年の1学期で学ぶ負の数の計算ができたら、ほぼ、その後の生活に一生困らない。いや、そういったスキルでさえ、電卓やスマホが使えれば不要になろうというのがこのご時世だ。

いや、その電卓やスマホをつくりだしたのは人間で、そういう人間になるためには勉強が必要でしょう、という理屈を、教師はこねたがる。だが、冷静に考えてくれ。この先、たとえばどこでもドアーとか翻訳こんにゃくとかタケコプターとかいった夢の機器が人間社会から生まれてくるとして、それはたった一人の天才が開発するだろうか? いや、その開発は当然チームワークだし、開発チームを支える人々が無数にいるわけだし、最終的には一般消費者の支持がそういった製品を生み出す原動力になる。結局はみんなで創り出すことになるわけで、そのときの「みんな」のなかで因数分解とか解の公式とかを覚えていることが製品の誕生に寄与した人っていったらコンマ以下のパーセント比率の人数でしかないはず。素晴らしいテクノロジーを支えているのは「勉強」なのかもしれないが、大多数の人にとってはそれは不要という事実に変化はない。そして、さらに開発チームの中心人物になることと学校の成績が優秀だったことの間に相関関係があるかどうかも不明。私にさまざまな重要なスキルを教えてくれた師と仰ぐ人々のなかには、学校で優秀な成績をおさめた人もいるが、おそらくそうでなかろうという人だっている。完全な文系なのにプログラミング周辺のことを教えてくれた年下の友人には、いまだに感謝している。人は必要なときに必要なことを学ぶのであって、それは指導要領のカリキュラムの中にある学習項目のひとつひとつとは、直接の関係がない。

そういう話をすると、たいていはムキになって、「いや、私が○○の仕事をしていたときに学校で勉強した××の知識がそのまんま出てきて、やっぱり勉強しといてよかったなあって実感しましたよ」みたいな反論をしてくる人が必ず現れる。私だって学習参考書の編集をしているときには(呆れるほどあたりまえの話だけれど)、むかし習った「学校の勉強」の内容が役に立った。積分とか数列とか、およそそんなものが役に立つ場面がありそうにない知識だって、何かの報告書を書いたときには役に立ったようなうろ覚えの記憶もある。ただ、ひとつにはそういう知識は予め知っておかなくったって、必要なタイミングで1時間も調べ物をしたら泥縄的に補えるものだ、という事実がある。なにも十年以上前の教科書を引っ張り出してこなくったって、Googleを正しく検索して適切な参考資料を引っ張りだせば、あとはその場で「勉強」したって大丈夫。それを証拠に、実際にはほとんどの社会人が、学校で何を勉強したのかを覚えていない。断言するには大げさかもしれないが、たまたま私は学校で何が教えられているのかを知っている仕事をしていた。その私が、友だちと話していて「ああ、それって中学2年で勉強することだよな」みたいなことを言うと、たいていは「嘘つけ、最近知ったんだ」みたいな反応が返ってくる、ということを何回も経験している。つまり、多くの社会人は、学校で学んだことを一旦すっかり忘れてしまって、その上で自分に必要なものは自力で学び直している。そのぐらいにまっとうに社会で稼いでいる連中は優秀。そして「学校で習ったことが役に立った」という経験からすぐに「勉強が役に立つ」と結論づけられないもうひとつの理由は、そうやってごくまれにヒットするケースを除いて、「実際には役に立たなかったこと」のほうがはるかに多いからだ。そりゃあ確かに閃緑岩と安山岩を区別する方法が実社会で役に立った経験のある人だっているだろう。だが、役に立たなかった人のほうが圧倒的に多いはず。そして、それが役に立った人は、たぶん、連体詞と副詞の区別がつかなくても何の不自由もない生活を送っている。その知識が役立つ人は、たぶん三角形の合同条件を覚えていない。つまり、あれほど一生懸命に勉強したことって、ほとんど無に消えて、それでOKというのが、学校教育の本質。

教育の目的って?

「だから学校は要らない」みたいな結論を、だからといって早急に出そうというのではない。本音で言えば学校が必要なのかどうかということには疑念を持っているのだが、それは何も、「学校の勉強が役に立たない」からではない。そうではなく、「役に立たない勉強をするのはなぜなのか?」ということをもっと真剣に考えなければ、教育というものの抱える問題は見えてこないと思う、というのがここで言いたいこと。

その理由は単純だ。現代社会では、プロの仕事は常に「目的をどれだけ達成したか」で評価される。言葉を替えれば、目的のないところに業務はない。「何のために子どもたちを勉強に駆り立てるのか」という目的が明らかでなければ、教育に関わる全ての人々の仕事を評価することができない。基準が見えてこない。そうなると、「あのひとはいい人だから」とか、「子どもが慕っているから」とか、あるいは「残業もつかないのに頑張っているから」「休日でもクラブの面倒をよく見てくれるから」とか、およそ業務と無関係なところでしか評価ができなくなる。それって、おかしくないか?

いやいや、学校での学習内容の目的は、きっちりと「学習指導要領」に記載されている。「学習指導要領」。そう、ここには「勉強」の文字はひとつもない。だから、そこが既に学校が名目と乖離していることの証拠であるわけなのだが、それは長い話だからやめておこう。ともかくも、学習内容は目的とともにここに記載されているわけだが、それを教師は読んでいるのか? 「あたりまえです。しっかり内容は把握しています」と、条文を暗唱までしてくれた教師もいた。だが、その理解は本当に正しいのか? 彼らは、「目的」を正しく理解しているか? 正しく理解していて、その上でなお、「ここ。試験に出るから覚えておくように!」みたいな指導ができるんだろうか?

家庭教師という稼ぎをはじめてびっくりしたのは、教えられている内容が半世紀前からほとんど変化していないことだった。半世紀というのは大げさかもしれないが、調べてみたらだいたいそのぐらいになる。ところが、教育に関する思想はその半世紀の間に大きく変化した。思想だけではなく、法律も変わっている。学習指導要領の変遷の歴史をたどるだけでも、それは明らかだ。だというのに、教えている内容が同じでどうする? そりゃあ、少しは時代に合わせたアップデートはある。いくらかの工夫の跡も見られる。英語なんかはだいぶと進歩した。それでも、「たったそれだけ?」というレベル。もっと根本的な変革があっても不思議じゃないのに、基本的には私が教室の後ろのほうで居眠りをしながら聞いていた内容とおんなじ。なんで?

それはひょっとしたら、そもそも教師の心性に「自分が教えてもらったことを子どもたちに教えるのが自分の仕事だ」という感覚があるからではないかと、私は疑っている。これは、多くの教師が「私が学校の先生(そう、彼らは自分たちのことを「先生」と呼ぶ)になろうと思ったのは、小学校のときの担任の先生の影響で」とか言うことからも窺い知れる。彼らのなかには、自分が生徒だった頃の教師がロールモデルとしてある。それはけっこうなのだが、そのときに「してもらったことの恩返し」みたいな感覚が、「教えてもらったことを同じように教える」感覚につながっているのではないだろうか。

そうでも思わなければ、指導要領を読む限りはおよそ瑣末なことであると思われる因数分解の数々の技巧をあれほど熱心に解説する教師(そしてそれはテスト問題に反映され、生徒を悩ませ、家庭教師の仕事を困難にする)、現在完了形の3つの分類にこだわる教師(英語で喋っている人がそれを意識しながら使ってるとはとても思えない)、指導要領の範囲外と考えても差し支えのない回路の合成抵抗の問題を指導要領を曲解することで生徒に押し付ける教師など、優秀なのかもしれないが傍迷惑な人々があれほど多数いることが理解できない。そして、それは「自分が知っていることを生徒に伝えることが使命だ」みたいに、どこにも書いていなくて誰にも合意されていない目的意識を持ってしまっているのか、あるいはそもそも目的意識なんて何もないのか、どちらかに由来するのではないだろうか。

私は、中学校で生徒に因数分解を教える意味は、十分にあると思う。だが、その意味は漠然とした「将来こまるから」ではないし、まして、「いや、実際に役に立ったことがあるんですよ」という確率の低い事例報告によるものでもない。もっと、教育そのものの目的から解きほぐしていけば、より明瞭な意味が見えてくる。そのはずだ。そうでなければおかしい。

そこまで大上段に振りかぶるなというかもしれないが、社会的に教育というものをみんなで負担しましょうという合意がある以上、その合意の根本が納得できるものでなかったら、これはなおいっそう、おかしい。そして、それは、タテマエ的には法律に明記されている。法律に書いてあることが正しいというつもりはない。私だったらソクラテスに毒杯をあおるなと助言するだろう。けれど、それは出発点にはなる。

(教育の目的)
第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法

とりあえず、ここから出発すべきなんじゃない?

 

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タイトルに「教育についてウダウダ書く前に」と書いたが、十分にウダウダと書いてしまった。しかし、本論はまだまだ始まってさえいない。あーあ、もうちょっと簡潔に書けないのかよ。どんな教育を受けてきたんだよ、と、呆れた声が聞こえるような。

 

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