シアワセの容相

あしたはこっちだ

「毎年やってるから」を理由にするのはやめよう

今年も、保育園の年長組の子どもたちが我が家にやってくる。息子が保育園の年長さんだったときに始まったこの行事、今年で9回目。よくここまで続いたもんだと思う。

中身は至って単純。保育園の子どもを5〜8人ぐらい(年によってちがう)のチームに分けて自宅に招待する。お茶(といってもふつうのお茶)を飲みながら、1時間ほどおしゃべりをする。それだけのことだ。ま、少し趣向がないこともないのだが、それは重要なことではない。長いこと続けてきて、このイベントの最大の効用は子どもたちに「よそのお家」を見てもらうことだと思うようになったからだ。

私が子どもの頃には小さな子どもは基本的に世界がフリーパスで、よその家に上がりこんでも、「子どもだから」と許されるところがあった。まあ、狭い世間で、誰がどこの子だかもわかっていたしね。だから、よその家の暮らしが自分のところとちがうことぐらいすぐにわかった。子どもたちは無意識のうちに多様性に対する耐性を身につけていた。ところが最近では、密室性の高いよその住宅に足を踏み入れることは安全性の上から想像さえできなくなった。必然的に、生活空間は自分の家や親戚、親しい友達の家ぐらいしか知らなくなる。そういう子どもが、往々にして「ふつう」という言葉を口にする。たとえば、「おうちではどんなストーブを使ってる?」と尋ねたら、「ふつうの」という返事。自分の家のふつうがひょっとしたらよその家のふつうではないんじゃないかというような想像力は働かない。だから、「よその家」を訪問する価値は十分にあると、ここ数年は特にそう思うようになった。

理屈はそのぐらいでいい。このイベントのことを細かく書くつもりで書き始めたのではない。そうではなくて、このイベント、よく9回も連続したなあと、そんなふうに思う。来年はできないんじゃないかなあと、そんなふうにも思う。今年で最後かもと、毎年どこかで思いながらやってきた。その周辺のことを書こうと思う。

 

あるきっかけで始まったこのイベント、その次の年の年長組の担任が親しくしてもらっていた保育士さんだったので、翌年、ほぼ自動的に「今年もやりましょう」となった。そして次の年、これは恒例になるなと思って4月に保育園に相談したら、「じゃあ、また連絡ください」とのこと。特に日時を決めるわけでもなく、「いま言われてもなあ…」って反応。ああ、そうだ。ここはそういう場所だったんだと、改めて思った。

どういうことなのかというと、これは息子がこの保育園に入る前に半年だけ在籍した幼稚園との比較をするのがいちばんだろう。ちなみに息子は、親の引っ越しの関係その他で、3つの保育園と1つの幼稚園を転々とした。だから、これらの施設の運営方針が園によって大きく異なることは、実感としてわかる。やっていることは似たようなものであっても、よくよく見ればまったく別物。あと、もちろん幼稚園と保育園は組織もちがう。だからやることも多少はちがうのだけど、たぶんそのちがいは経営のポリシーのちがいによる方が大きい。

ともかくも、息子が通った幼稚園の方は、いつお迎えに行っても職員室で先生が残業をしていた。私たちはこの園のほとんど隣に住んでいたので、お迎えの時間どころか多くの先生が夜の9時過ぎまで残業していたことも知っている。夜遅くなって帰宅するときとかによくすれちがったからね。幼稚園は午後2時くらいまでが授業で、ウチのように保育園代わりに利用している家庭の子どもは3時半ぐらいから別クラスに入る。だから、担任の先生たちは園庭から子どもたちが消える3時半ぐらいからあとは事務仕事になる。その事務仕事が終わらない。夜遅くまで、終わらない。何をやっているのかといえば、たいていはイベントその他の下準備だ。このイベントは親の参観を前提としたものも、子どもたちだけのものもある。たとえば子どもの日が近づいたら鯉のぼりとか五月人形の折り紙、みたいな感じだったのだと思う。遠い記憶なのではっきりしないが、恒常的になにやかやと行事の多い園だった。

いろいろあったほうが、確かに子どもたちは飽きずに済むのかもしれない。けれど、非日常の連続が日常になっているというのも変だなあと思っていたのだが、ある日、何かのきっかけで謎が解けた気がした。息子が怪我をしたときだったかなんだったか、職員室に呼ばれて待ち時間があったのだと思う。あるいはお迎えに行ったときに職員室の中が見えるから、そのときだったのかもしれない。「○○園の取り組み見学」とか、「××の実践研究会」とか、やたらと研修系の行事が組まれていた。そういうのをぼうっと見ていて、「取り組み」とか「実践」って業界用語なのかなあとか考えていた。成果とか、けっこうみんな真剣に考えてるんだなあとか。そして、気がついた。全国いろんな園で、いろんな工夫が行われる。そういう「取り組み」とか「事例」をどんどん学んで取り入れていく。だから、あれだけ多種多様な行事ができる。そういうことなのか、と。そして、だからこそ、あれだけ先生方が忙しいのだと合点がいった。これは、まあ感謝すべきなのだろうと思った。それだけ仕事熱心な人々が幼児教育を支えている。その割に、いまひとつ息子の顔が冴えないのは、まあそういう時期なのかもしれないと思ったりもした。気のせいか他の園児たちもストレスフルな顔をしている。3歳児って、そういうものなのかもしれないとか。

この幼稚園から保育園に替わったのは、完全に親の都合だった。幼稚園は休みも多く、なにかと時間をとられる。働く親には保育園のほうが都合がいい。だから保育園に入りたかったのだが、まずは待機リスト入り。待っている間も仕事はやってくるから、つなぎのつもりで幼稚園に通わせた。そして半年、ようやく保育園の空きができた、というわけだ。

この保育園、ちょっと変わった園で、「運動会とか、やらないんですよ」と言う。「親御さんを呼ぶのは子どもにとっても負担ですからね。その代わり、運動会ごっことかやる年もあります」とか、入園前の面接のときに言う。なるほど、親を呼ばないから「運動会」という名前じゃないのかと思ったら、「まあ、やるかどうかは子どもたちの様子を見てになりますけどね」と、やらない可能性もある、という。一時が万事こんな感じで、「畑とか、やってるんですよね」とホームページの情報を元に聞いたら、「むかしは近所で借りてたんですけど、いまは園庭の隅にちょっとさつまいもを植えるくらいです」とか、伝統みたいなのにはぜんぜんこだわらない。

じゃあそれだけ手抜きなのかといえば、確かにこの園に残業らしい残業はない(後に知ったことだが、まったくないわけではなく、それこそ渾身のイベントみたいなときにはけっこう遅くまで残っていたりしていた)。早番の保育士さんなんかは、子どもと一緒に帰っている。遅番の保育士さんは子どもより後に出てくる。けれど、手は抜いていない。それどころか、かゆいところに手の届くような細かな心配りを見せてくれる。

そして「今日は天気がよかったので遠くまで散歩に出かけました」とか、「みんなでくふうして洗濯バサミでこんなものを作りました」とか、とにかく毎日とてつもなく楽しそうな出来事が起こっている。予め準備が必要なものもあれば、即興でやってしまったようなものもある。けれど、「子どもの様子を見ながら」必要と思ったときに的確なイベントを繰り出してくる。そして何よりも息子が活き活きとしてくる。毎日が楽しくてしかたないという顔をする。

しばらくそういう園のやり方を見ていて、ようやくわかった。「素晴らしい取り組み」とか、「指導の工夫」とか、「期待する成果」とか、そんなものは子どもたちの状況によって一律にはいえないのだと。どんなに評判のいいイベントを実施した実績があっても、そして仮にそれによって子どもたちも大きく伸びるようなことがあったとしても、次の年に同じことをやって同じことが起こるという保証はない。むしろ、同じことは基本的には起きないと思ったほうがいい。なぜなら子どもの集団というのは同じ年齢の同じ時期に同じ反応を示すようなものではないからだ。これは私も年に1回、年長児さんたちを毎年見てきて思う。子どもたち一人ひとりに個性があるように、その集団にも個性がある。去年通じたネタが今年通じないことはザラにある。もちろん、毎年同じような反応が来るものもあったりするのだけれど、これも「必ず」といえるものはひとつもない。

ここにきてようやく、なぜあの幼稚園で、あれほど勉強熱心、仕事熱心な先生たちが毎日残業をして子どもたちのために尽くしながら、なぜあれほど子どもたちがしんどそうだったのか、理解できた。つまり、過去にやって「よかった」と評価されたこと、さらに他の園の実践の中から「これはよかった」と評価の高いことをできる限り導入し、そして、いったん導入して「よかった」と評価したものに関しては基本的に次年度以降もやる。「よかった」ことをやらない理由がない。去年よかったことなら今年もいいはずで、そうやっていいことがどんどん蓄積していけば子どもたちにとっても素晴らしい幼稚園生活になるはずと、無条件に考える。だから仕事はどんどん増える。そうであっても、子どもたちのことを思えば、がんばれる。そうやって実際に若い先生たちは頑張っていたのだろう。だが、それは結果として子どもたちの負担を増やしていた。

一方のこちらの方の保育園では、過去の成果は、知識・経験としては蓄積されているが、それを自動的にスケジュールに組み込むことはしない。やってもいいし、やらなくてもいい。ただ、「ここで必要だな」と思ったら、すばやく実施に移す。その機動力、瞬発力は感心する。それよりなにより、子どもたちのニーズを的確に把握する能力は、ほんと、プロだなあと思う。そして、子どもたちはその保育士たちの手助けに敏感に反応する。心の底から笑い、そして成長する。

 

息子は結局その保育園を卒園した。そして、彼が年長児のときに私の思いつきに飛びついた保育士さんのおかげで、年一回のイベントが誕生した。しかし、そんな園だ。「今年はやめておきましょう」というのがいつあってもおかしくない。

そして、私の方も思う。「去年までやってたから今年も」と、惰性でやるのは子どもたちに失礼だと。本当に子どもたちがそれを望み、そしてそれが子どもたちの成長に役立つことをていねいに確かめながらでなければ、続けてはいけないことだと思う。

そして、いつかはこのイベントも終わりにしなければならないとも思う。長く続ければ、いつかそれは習慣のようなものになる。それはちがう。本当に必要なことをゼロから工夫して生み出すことを、人間は常に続けなければいけないのだと思う。そういう意味では、車輪は何度再発明されてもいい。

 

過去の取り組みに学ぶことは大切だ。過去にどんなことがあり、どんな成果が出たのかは、その道のプロであれば常に関心の対象になるはず。そこから引き出しを増やしていくことは、プロとしての成長になる。

しかし、そういった過去の成果を無条件に現在に当てはめることは誤りだ。そして決まり事をつくってしまうのはちがう。同じように見えても、去年と今年は同じではない。毎年続けてやっていることに「やめる理由」を見つけるのはむずかしいかもしれない。けれど、毎年のことであっても、「今年やる理由」を考えるべきだ。もしもそこに「去年よかったんだから」という理由しかないのなら、それはやめるべきだ。

惰性で生きるのだけは、やめにしよう。自分に言い聞かせながら、今年も年長児さんたちとひとときの楽しい時間を過ごす季節になっている。

 

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この記事は、こちら

makomako108.net

の記事にインスパイアされて書いた。「2分の1成人式」、場合によっては面白いイベントになると思うし、それが子どもたちの成長の糧になる場合もあり得ると思う。けれど、「去年やって評判がよかったから」とか、「他校の取り組みとして評価が高いから」みたいな理由だけでやるんなら、それはやめといたほうがいい。上記記事にあるように、否定的な理由だっていくらでもある。だからといって無条件にすべて廃絶すべきだというのもちがう。そうではなく、それが本当にその年度のその子どもたちにとって必要なのかどうかを真剣に考えて、その上でやるならやればいいと思う。 

ちなみに、小学校、中学校では、年中行事は既に年度初めには決まっている。それが必要かどうかを子どもたちの様子から判断するのではなく、「この年齢の子どもにはこれが良かろう」的な決め付けで行事が組まれているように思えてしかたない。それって、仕事を増やすだけで実効性が薄いんじゃないかと思うのは、ちょっと理想論過ぎるのだろうか?