ナフサとともに仕事がなくなる世界

大層なタイトルをつけたが、個人的なごく小さなことを書くだけなので、そこはご容赦を。今日、老母の家を訪問した際にその敷地内にある小さな工場に寄った。その際に「休みの日が増えたんで、用事があったら電話くださいね」と言われたという、具体的なエピソードはそれだけ。それを膨らませただけの話だから。

 

この工場*1、もとを遡れば60年以上前にもなる。当時まだ30歳手前だった母が、自立のために始めた事業だ。

「自立のために」といえば大げさなのだが、母が結婚した当時、女性の労働は世界に存在しないもののように扱われていた。もちろん、世界の半分は女性が支えているのであり、母だって高校卒業後は地元企業に事務職として採用されて結婚まではそこに勤めていて、ちゃんと給料だってもらっていた。ただ、その給料は安いものだったし、仕事の内容も低く見られるものばかりだった。情報機器の発達する前の事務職にはソロバンを弾いて計算をするだけが仕事というような「人力計算機」みたいな役割も必要とされていたわけで、「女の子」はたとえばそういうところに配属されていた。もちろん、時代の変化は急速で、母の就職とほぼ同時にその会社にはIBMの計算機が導入されたのだけれど、「あそこに配属されたのは頭のいい子ばっかりで、私はお茶くみの方」ということだったようだ。まあ、これは実のところまだいい方だ。

問題は、結婚後のことだ。結婚相手であった父は、大阪の松屋町筋にある包装資材問屋に勤めていた。この会社は父の兄、つまり私の伯父が戦後のドサクサ期に創業したものであり、伯父夫婦の商売の下働きとして15歳ぐらいで引っ張り出された父は、当初は住み込みの丁稚みたいな仕事をしていた。結婚する頃には会社は大きくなり、自社ビルも建て、父もいわゆるサラリーマン的な生活になっていたのだけれど、その裏には女性の無償労働が当たり前のように存在した。どういうことかというと、結婚してすぐ、母は社長夫人、つまりは義理の姉に呼び出された。会社まで来て昼の賄いを手伝えというのだ。高度成長期だから、会社は集団就職を九州の方から受け入れていた。若い男たちがたくさんいる。その従業員に食べさせる食事をつくるのは女の仕事だというわけだ。もちろん無償で。

母はこれが嫌だった。けれど、自宅は(いまでこそ住宅地だが当時は)農村の外れにあり、嫁が家業を手伝うのを当たり前とする空気がある。会社はその農村の延長のようなものであり、そこをサボって家に帰るのはあり得ない。なので嫌々でも賄い仕事を手伝わねばならない。妊娠は絶好の口実だった。長男を産み、育児中に次男を身ごもるというのはラッキーだったのか作戦だったのかよくわからない。ともかくも、それを機会に母は会社に呼び出されることもなくなり、そのうちに会社の方でもさすがに経営者の身内の無償労働をアテにするような前近代的なやり方はやめたのだろうと思う。もっとも寮は私が小学生の頃まではあったから、現代の労働観からみたらずいぶんひどい労使慣行が行われていたことは想像に難くないのだけれど。

ともかくも、次男である私が3歳になったとき、母は仕事を始める決意をした。そこには、また無償労働に呼び出されるのではないかという恐怖があったのではないかと想像する。高度経済成長期で父の給料はどんどん上がり続けていたから*2、経済的な理由ではない。当時一般化しつつあった「主婦」として家事だけやって過ごすことだって可能だったはずだ。けれど、そんなことをしていたらまた呼び出しが来る。実際にはその数年で既に時代が変わっていたからそういうこともなかっただろうとは思うのだけれど、そのぐらいには母は傷を負っていたのだろう。だから仕事をするしかないが、当時、既婚女性を雇ってくれる会社はなかった。だったら仕事は自分でつくるしかない。

どんな仕事をするかという段になって、その頃に急速に普及を始めていたポリエチレン袋の加工をしようということになった。これは父が勤めていた包装資材問屋がポリエチレン袋の専門商社に変化しつつあったからだと私は思っていたのだけれど、どうやらそういうことではないらしい。もちろん無関係ではない。父がそういう仕事だったから、業界の噂はよく入ってきた。その噂によると、製袋業(ポリエチレン袋の加工をこういうふうに呼ぶ)は儲かるらしい。そこで母は、紹介を受けて近所の製袋業者の工場を見学に行った。そして、「私ならもっとうまくやれる」と確信した。その確信があったから、母は寝室として使っていた6畳の一室を工場に改装し、機械を入れた。これが62年前の創業だ。

 

月日が流れた。細かく書くとキリがないから書かないのだけれど、この工場、長い休業期間を含めてアップダウンがけっこうあった。父が早めの退職をしてからは、その父を受け入れて、夫婦二人三脚で運営するようにもなった。そして父が高齢になり、「もう引退するわ」となったとき、その事業を当時の従業員に譲った。だから、工場はいまも動いている。ただし、それはもう、ウチのものではない。家主として工場の家賃だけ、毎月もらっている。

そのはずなのだけれど、母の意識はそうではない。あれは私の工場だという意識が、特に父が死んでからは日増しに強くなっている。そのあたりの話は少しこみいっているので詳しくは書けないのだけれど、なんのかんのあって、最終的に、この春から、次男である私が家賃を収納することになった。90歳を超えた老人に事務的な作業は無理だろうということで、これは母を含め、関係者一同で話し合って出した結論だ。家賃といっても実は世間相場よりも遥か遥かに低い。これはかなり以前に工場の仕事が極端に減ったときに、母が「気の毒だから」と下げてしまったからだ。一度下げた家賃は簡単には上げられない。そして、その間に母の年齢が上がり、認知機能が衰え、ある意味、「そこで仕事してくれてるだけでこっちは助かる」というふうに事情が変わってきた。家の敷地の一角に誰か信頼できる人がいてくれて、なんとなく母を気にしてくれている。そういう状態は、高齢者の一人暮らしには願ってもないことだろう。そしてまた、かつての従業員だった現在の経営者も、同時に高齢化してきている。体力のいる加工業だから、あまり詰め込んで仕事を入れることもできなくなっている。結果として、儲かりもしない仕事を高齢者が小遣い稼ぎ程度にこなして、それで無理がない程度の家賃負担、というところに落ち着いているわけだ。

そして、ある意味、これが現在の高齢化社会における製造業の末端の実態なのだろうとも思う。典型例とは思わない。むしろ、いろんな事情、いろんな歴史の中で、多様な形で零細製造業は暮らしの中に組み込まれている。ちなみにポリエチレン袋やポリプロピレン袋の製袋は概略だけいえば単純な工程で、チューブ状に成形されたポリエチレンを一定間隔でアイロンで熱圧着し、断裁して袋にする。もちろん細かいところでは様々なノウハウの蓄積なのだけれど、現代ではそれらも全て自動化され、高度に制御された大型機械が一気に大量につくり出す。ただし、数千枚単位の小さな需要に対しては、そういった大型機械よりも、60年前から何も変わらない原始的な機械のほうが小回りがきく。そしてポリエチレン袋に関しては、けっこうそういう細かな需要が絶えないのだ。だから、母の時代から受け継がれた工場は、いまでも動いている。そういう細かな仕事を受注した包装資材屋にとっては、小規模な印刷や小規模な製袋をやってくれる零細事業者は、なくてはならない存在なのだろう。

 

そして話が冒頭に戻る。今日、家賃の集金に行ったら(私は数日おきにしか老母のところに来ないので、本来は月末日の集金がズレることになる)、「休みの日が増えたんで…」と言われたということだ。もちろん

「例のナフサ、ですか?」

と尋ねたら、そうだという。仕事の受注がはっきりと減った。原料不足がそのまま目に見えるわけではない。なぜなら、この工場の仕事は原料資材であるチューブ(多くは印刷済み)支給でやってくるからだ。純粋に加工賃だけで業務を回している。だから、原料を仕入れる必要がない。したがってナフサ不足のせいで原料が入手できないという困難ではない。そうではなく、ナフサが不足すると包装資材屋の方でチューブを手配できなくなるから、仕事が発注されなくなる。結果、工場に出てもすることがないから、休みを増やすしか対応ができなくなる。

工場で機械を動かしているのは高齢者だし、ある意味、少しの骨休めになってちょうどいいのかもしれない。年金だってあるだろうから、生活に困ることもない。かつて農村が労働力の調整弁として機能していたように、現代の日本では高齢者が労働力の調節に役立っているのかもしれない。それでいいんだろうか?

 

規模拡大、コストダウンが経済だ。それはある意味、正しいのだろう。けれど、そこになじまない経済活動もある。それが周縁部に追いやられていくのは仕方ないのかもしれないけれど、戦争はそういったところから破壊していく。おそらく、日本全体ではナフサはそこそこあるのだろう。けれど、それがポリエチレンやポリプロピレンのチューブに姿を変えて零細製袋業者のところにやって来ることはない。老兵は死なず、ただ消えゆくのみ。そして老兵が消えたあとの世界は、いったいどうなるのだろう。

*1:「こうば」とルビを振りたい。「こうじょう」では断じてありえない。

*2:これが昨今のインフレとの大きな違いだ

千円ギターの話

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togetter.com

コメントに千円ギターの話を書いたら割とはてなスターがもらえたので、もう少しだけ詳しく書いてみる。

私はハードオフで千円で買ったギターでステージ立つよ。それをネタにして歌った曲がいちばんウケたまである

https://b.hatena.ne.jp/entry/4788109650506886754/comment/mazmot

この曲の音源があればそれを貼るだけでいいのだけれど、あいにく、そのときには動画とかとってなかった。なので、そのときに歌った内容を思い出して書く。ちなみに、私は割と即興で歌うので、このときも買ったばかりのギターをネタに即興で歌ったわけだけれど。

 

ギターはずいぶんむかしから弾いてきた。ただ、年齢とともにバンドとかもできなくなって、仕事やら子育てやらで時間をとられる中でたまに思い出したようにポロポロと弾くぐらいの感じになっていた。その子育てもだいたい片付き、その過程で中学生からギターを始めた息子が私よりもうまいギタリストになって、そして家を出ていき、そんな中でいろいろ思うこともあって、再びギターをしっかりやろうかと思うようになった。たぶん5年ほど前のことだ。

はじめのうちは古いギターを引っ張り出して弾いていたのだけれど、だんだんと機材に不満が出るようになってきた。思い切った改造とかもしてみたい。けれど、手持ちのギターは古いなりに思い出が詰まっているので、原形をなくすような改造はちょっと気が進まない。ならば、ぶっ壊しても心が痛まないジャンクギターでも買ってきて心行くまで改造してみようかと思った。もちろん行くのはハードオフだ。それが2年半ほど前のことだ。

で、ハードオフのジャンクコーナーに行ってみると、そこそこに改造のベースにできそうなギターが何本かある。値段帯は3千円から5千円ぐらいだ。このぐらいなら何も惜しくない。どれにしようかなとだいぶ悩んで、2本のうちどっちかだなと心に決めた。

どっちにするか、最終的に決める前に、店内を一巡りすることにした。たとえ3千円でも私にとっては小さな出費ではない。決心するためにいったん頭を冷やしたほうがいい。そしてしばらくたってさっきのジャンクコーナーに戻ってみると、店員がなにかやっている。「やばいな」と思った。ひょっとして売約済みの札でも貼ってるんじゃなかろうか。

ところが、店員が貼っていたのは値下げ札だった。しかも、さっきまで3千円のシールが貼ってあった上から2千円のシールに張り替えて、そしてタイムセールで半額だ。これでもう迷いはなくなった。どっちを買うかとか、そういう問題ではない。千円(プラス消費税)なら、間違いなく買いだ。どうせぶっ壊すギターだ。いいじゃないか。

こうやって、私の手元には千円のギターが手に入った。後で調べたら、イシバシ楽器のプライベートブランドのエントリーモデルで、2万円台の値段で売られていたものらしい。目立った傷もなく、状態はかなりいい。なんでこれがジャンクなの?

 

帰宅し、もともと張ってあった弦をチューニングして、その理由がわかった。弦が指板にベチャベチャ張り付いて、音がビビってる。ああ、それで放出したんだな。けれど、同時に驚いた。意外なほどにいい音がしたからだ。いい音というのもちょっと違う。自分好みの音だ。あれ? これはぶっ壊すには惜しいぞ。

そこでまず整備からしてみることにしたのだが、弦高がなっていない理由は簡単だった。ブリッジのサドルが低い。あとでわかったのだけれど、これはブリッジにピックアップを仕込んだときに使うサドルで、つまりはピックアップの厚さだけ(2ミリほど)低くなっている。だから弦が指板に当たってしまうほど低くなる。なんでそんな変な規格のブリッジがついていたのかは謎だけれど、なんだ、サドルを取り替えたらちゃんと音がなるんじゃないか。そして、その音はますます自分好みに聞こえる。

こうなったら予定変更だ。改造のベースにして潰すつもりだったけど、このギターを育てる。通販でピックアップを買ってエレアコに改造。そしてサドルとエンドピンをブラスに交換。これで音の好みがまたひとつ自分寄りに近づいた。生ギターのくせに、ジャキジャキと乾いた音がする。最高じゃない!

 

これが千円ギターの顛末だ。ちなみに、そこから1年半ほど、楽器屋のイベントでメインで弾かせてもらった。そのときの動画をひとつ載っけておこう。

 

www.youtube.com

 

なんでギターを再開しようと思ったかは、長くなるから書かないのだけれど、もっともっとギターは練習したい。その一方で、歌はあんまり歌いたくない。だから、ボーカルをずっと探してる。なかなか見つからないんだよなあ。こういうのは縁だから。

暴力は「絶対悪」なのか?

出オチのようなものだが、そもそも人間社会において「絶対」なんてものはありえない。なので、暴力あろうが何であろうが「絶対悪」みたいな表現は適切ではない。それでもこういう問いを立てたのは、「暴力にも〈時と場合と程度〉があって、一概に〈悪〉とは言えない」みたいな議論があるからだ。そういう話に関して「いや、それでも暴力はあかんでしょ」という立場をとると、「じゃあ暴力は〈絶対悪〉なのか」みたいな言いがかりをつけられる。いや、「絶対」みたいな概念が成り立つのはたとえば「絶対零度」みたいな物理現象だけでしょうと思うのだけれど。

そもそも物事を善悪で判断するというのが適切なのかどうか、私にはよくわからない。そのうえでなお、人間のひとつひとつの行動においては、「やったほうがいいこと」と「やらないほうがいいこと」の判断は存在する。前者を「善」、後者を「悪」とするのならもちろん善悪は存在するし、その場合、暴力は常に後者の側に位置する。常に悪の側に位置することを「絶対悪」と表現するのならそれはそういうことになってしまうのだけれど、「相対的に常に一定の側にあること」と「絶対的に一定の値を持つこと」との間には論理的には大きな隔たりがある。数学で例えるなら「ある値をとったときに常にその値よりも大きな値をとる数」は想定できるけれど、「無限大数」という数を特定できないのと同じだ。屁理屈かもしれないけれど、ここはけっこう重要。善悪は相対的にしか決まらないし、暴力は常に悪の側にある。ただし、絶対的な存在ではない。

 

なぜこんな単純なことが理解されないかというと、それはたしかに、「暴力を行使することによってより大きな被害を未然に防ぐこと」が起こり得るからだ。例えば未だに思い出すだけでも心が痛いのだけれど、小学生の頃、私はクラスメートを意味もなくプロレス技で転ばせて叱られたことがあった。もう何十年も前の学校でのことだから、たぶん平手打ちぐらい食らわされたのだと思う。それによって私は自分のやったことの重大性を悟って、以後、そういう「プロレスごっこ」みたいなことをやめるようになった。こういう経緯を見れば、確かに教師のやった暴力は、私の暴力を否定するためのものであり、さらなる暴力の拡大を止めるために正当化されるように見える。きょうだいの喧嘩を止めるために父親が一方を投げ飛ばすようなことも、同様にそれ以上の暴力の拡大を止めるために有効な措置であるのかもしれない。

あるいは、危険を防止するために暴力の行使が必要になる場合があるのかもしれない。たとえば自動車がやってくる道に飛び出そうとする子どもはひっぱたいてでも止めなければ命が失われる。暴力によるマイナスとそれによって得られるプラスを天秤にかければ、明らかにプラスが勝るだろう。軍事衝突において行使される武力は紛れもなく純粋な暴力だが、仮により強大な武力によって攻撃された場合、それを抑止するために用いられれば、多くの命を救うのかもしれない。

このように考えれば、暴力には「やらないほうがいいこと」よりも「やったほうがいいこと」に分類されるものがあるのではないかという気がしてくる。それが「時と場合と程度」という主張の論拠になるのだろう。しかし、それはちょっとちがうと、私は思う。

 

私たち人間はなぜ物事に善悪の判断をつけたがるのだろうか。まず、そこから考えを始めてみよう。おそらくそれは人間が社会的な生物であり、ある種の行動が社会集団を持続させる上で好ましく、また別種の行動が社会集団の持続に好ましくないとき、好ましい行動を推奨し、好ましくない行動を排除するためにそこにレッテルを貼ることが便利だからなのだろう。そして、権力者による統制が重視された時代にはそこに「報奨」と「刑罰」が結び付けられた。善行には褒美が与えられ、悪行は罰せられる。もちろん権力者がすべてを見通すわけがないことは明らかであったが、天はそれを見逃さない。因果応報、善悪の行いには必ず報いがあるというのは、少なくとも日本においては平安時代以降、多くの人の倫理観の基礎になってきたのではなかろうか。

しかし、大もとに戻ってみれば、人間は褒められるから(極楽に往生できるから)善行をするのでもなければ罰を受けるから(地獄に落ちるから)悪行を慎むのでもない。それは近代になり、理性主義が民主主義の基礎として受け入れられ、民主主義が(いろいろ問題はあるにせよ)社会の根本原理として受け入れられてくる中で徐々に浸透してきた常識だ。人間は己が属する社会の一員として、社会を維持するために善行を積むのだし、社会を崩壊させないために悪行を慎む。一人ひとりの小さな心がけが人間社会を成立させている。

そう考えたときに、善悪の判別をつけることの意味は、賞罰を判定することにはない。民主主義社会の構成員である現代人は、処罰されるから悪を避けるのではない。これは実際に近年の司法制度の変化の方向を見ても明らかだ。ついこの間も、生徒から、犯罪者の刑罰の目的が社会復帰に置かれているのはおかしいのではないかという質問があった。そのことについて議論を深めたのだけれど、結局のところ、現代社会は罰則を強化することで処罰に対する恐怖から犯罪を減らそうとするのではなく、社会への理解を深めて自発的に犯罪の再発を防ぐ方向に舵を切っているのだということを改めて確認することになった。もちろん「被害者感情への配慮」のような論点からの政策変更もあったりして、一枚岩ではない。けれど、大きな流れとしては処罰ではなく更生であり、それが結局は「悪」を減らすものと認識されているのだろう。

善悪の判定が賞罰に関わらないとなってくると、その目的は「健全な判断を下す際の参照項目」ということになる。つまり、過去の出来事で「これは善」という判断がついた事例があれば、似たような事例に直面したときにそれに倣って行動できる。「これは悪」と判断した事例も、「今回はそれを避けよう」と行動する契機になる。現代社会においての善悪は、このように未来志向のレッテルであるはずだ。なぜなら過去は変えられないが、未来は変えられるからだ。過去にすべきでなかったことをはっきりと認識していれば、次にそういうことをしないための手がかりになる。

さて、ここで暴力を「時と場合と程度」で「善」に分類するとするとどうなるだろう。たとえば、「躾のための体罰」と呼ばれるものがある。たとえをもう少し具体的にすれば、子どもが公共の場で癇癪を起こして暴れている。親はぴしゃっと叩いてそれをやめさせる。この場合、多くの人が被る被害と、軽く叩かれて痕跡も残さないような子どもの身体的被害を比較すれば、後者が遥かに軽い。明らかに子どもが社会的に不適合な行動をしていたというのであれば、心理的にも子どもの受ける傷は小さいだろう。であるならば、これは「時と場合と程度」からみて、「善」あるいは少なくとも「悪ではない」と判断されるべきなのだろうか。仮にそうだとすると、同じことが次に起こった場合、親はこの事例を参照項目として子どもを暴力によって抑止することになるだろう。なぜなら、「時と場合と程度」によれば、そうすることが正しいからだ。問題は、それでいいのだろうか、ということだ。

 

まず、暴力の影響は、ときに思いがけず大きいという事実がある。そして、暴力の多寡は、当事者の感覚でしかなく、この感覚というのは客観的な評価を受け付けない。まして暴力を加える側の感覚と受ける側の感覚は、大きく乖離する。少し子どもの頃の思い出話になるのだが、私の兄は思春期には相当に暴力的な男だった。なにせ高校生になる頃にはもう身長が180センチメートルを超えていてバスケットボール部からスカウトが来るほどだった。その体格から繰り出されるパンチは強烈で、1歳年下というだけでなく体格も並程度、体育ではいつも底辺の私にとっては恐怖でしかなかった。ちなみにこの兄は後に児童福祉関係の研究者になって社会学の方で大学教授にもなるのだが、とんだ紺屋の白袴だと、私は思っていた。ともかくも思春期には多くの子どもは荒れるわけだが、家庭内の不満のはけ口が弟になり、些細なことで私は窓際に追い詰められてはパンチを食らった(まあ、些細な原因はたいてい私がつくっていたわけではあって、私だって天使のような良い子でなかったのは間違いない)。だから私は一時期はなるべく兄と顔を合わせないようにしていて、やがて彼が山岳部に入って長期に家を空けるようになるとホッとしたものだった(そして外での活動がストレスの発散になったのか、そのうちに兄の暴力的な行動もおさまっていった)。この時期の暴力によって私は相当に精神的に追い詰められていたのだけれど、もちろんそんなことを言えば兄は余計に一発加えるだけだというのはわかっていたから、なるべく兄を避けることでどうにか乗り切った。さて、月日は流れ、いくらなんでももうボカンと殴られることもなくなったと感じるようになった頃、私は思い切って、「あの頃は毎日怖かった」と兄に話した。いかに自分が暴力に怯えていたのかと。ところが、驚いたことに兄の記憶には弟に対して物理的な暴力をふるったことがこれっぽちも残っていなかった。それどころか、弟をかわいがり、庇護し、助けてやった記憶ばかりが出てくる。私の方にはそういう記憶はほぼ残っていない。最終的に兄が「それはわるかったな」と言ってくれたのでこの件は和解ということになったのだけれど、正直、あまり納得しているように見えなかった。児童福祉の専門家で、いろんな現場を渡り歩いてきた人間でさえ、これだ。およそ人間の記憶なんてのは非対称的だ。そして、その非対称的な記憶がさまざまな影響を人生に与える。だからこそ、暴力は過小評価してはならない。一方が「かわいがってやった」と思っているとき、もう一方は朝起きるのも気が重いようなストレスを受けている。そのぐらいのことはザラにある。まして、「躾だ」みたいに子どもにストレスを与えることで一方向に矯正しようと意図的に介入している場合、その暴力がどれほどの歪みを子どもに与えているかを正確に推し量ることはできない。そういう意味で、暴力による介入は非常に危険である。

「時と場合と程度」は、実際には正確に判別できない。さらにいえば、そのときには最良の手段として暴力を行使したとしても、振り返ってみてもっと別の行動をより善いものとして使えなかったか考える余地は常にある。あるいは、「同じケースだ」と判断しても、実はすこし状況がちがうことはむしろ普通だろう。時代の変化は激しいから、数年で社会の反応も変わるかもしれない。そういうときに、参照項目として「このような時と場合と程度では暴力が善」みたいなデータセットを用意しておくことが果たして正しいのだろうか。

むしろ、やむを得ず暴力を用いた場合でも、それを善とせず、「暴力を使わない方法があったのではないか」と模索を続けるほうが適切なのではなかろうか。暴力の使用は、常に善から遠い場所に置くほうがいい。

これは何も、すべてのケースにおいて暴力の使用を糾弾すべきだということではない。上記のように、善悪の判別は、現代においては直接に賞罰と結びつけるべきではない。したがって、暴力が悪手であると判断しても、それでもって暴力の行使者がただちに処罰されるべきだというのではない。そうではなく、参照項目として「あれは正しかった」とするのをやめようというわけだ。ここのところが切り分けられていないと、「こっちは〈時と場合と程度〉を考慮しているのに、それで犯罪者扱いかよ」みたいな反応が生まれる。そうではなく、仮に「時と場合と程度」の考慮の上でそれを適切だとした場合でも、やはり暴力は善ではないということを確立すべきだろう。そのうえで、その瞬間にはより適切な方法が他に見いだせなかったために暴力を行使したというのであれば、それはそれでやむを得ないということになるだろう。

これはいわゆる「必要悪」という概念とは異なる。「必要悪」は、文字通り「必要」であるわけだ。もしも暴力をここに分類したら、「悪だけれども必要だ。だから実行すべきだ」ということになる。そうではなく、暴力は徹底して避けることをまず第一にすることだ。そのうえで、時間的、物理的な制約の中で他に選択肢を見いだせないときには、実行せざるを得ないかもしれない。それは「必要」ではない。能力の限界といったほうがいい。不可避と必要は、全く異なる概念だ。

 

結局のところ、これは姿勢の問題なのだ。「やむを得ない暴力なら許すのか」という話になったとき、「許す・許さない」の問題は除外する。それは処罰の問題であって、現代では「目には目を」式の処罰は既に後景に押しやられている。感情的にはまだ否定はされていないし、特に被害者からは処罰があって当然となるのが無理もない話ではあるが、原則としては「悪」は「将来そこから遠ざかるべきもの」として分別されたレッテルだ。だから「やむを得ず〈時と場合と程度〉によって実行された暴力」であっても、きちんと「悪」として扱うことがまず重要だ。そのうえで、それを断罪するのではなく、「じゃあ、次はどうすればいいのだろうか」と一歩を踏み出すことだ。

実際、時と場合と程度によらずあらゆる暴力を悪と定めることによって、教育現場からは物理的な暴力が激減した。完全になくなったとまで言えないのは残念だが、私が子どもの頃に躊躇なく生徒を殴っていた教師たちの同類は既にいなくなった。いや、それでも物理的な形を伴わない暴力、言葉の暴力や心理的な圧迫は以前にも増してそこにある。それはそのとおりだ。これらのなかには、物理的な暴力を排除する過程でその代替として出てきたものもある。しかし、だからといって同じではない。そして、次はこれらの物理的な形を伴わない暴力を悪として、それを使わずに社会生活を成り立たせる方法を考えるべきだ。その先にまた人を圧迫する何かが生まれたら、それを悪としてそこから遠ざかる方法を考える。「悪」は常に相対的なものだ。人間はそんなふうにして進歩していくのだと思うし、現にそんなふうにして社会をより生きやすいものにしてきたのだと思う。

暴力の極端な形である戦争だってそうだ。戦争が人道上の悪であることはもうはっきりしている。そこから目をそらしてはダメだろう。そして、「時と場合と程度」によって武力の行使が行われるのが現実であるとしても、「だからこういう時と場合にはこの程度までの武力の行使はOKだ」みたいな正当性を認めてはいけない。基本的には全部「悪」であるという認識から一歩も動かしてはいけない。ただしそれは「絶対悪」みたいなものではない。絶対的な善悪の位置を決めると、どこかで「この程度の戦争は正しい」という判断がついてしまう。そうなると、そのレベル以下の戦争はもう止められなくなる。それでは平和は訪れない。そうではなく、「悪」は、相対的に、「そっちからできるだけ遠ざかるべきだ」という標識だ。だから例えば侵略に対する防衛で武力を行使するようなことがあっても、「これはできるだけ避けなければならない状況だし、そのためには知恵を使って打開する必要がある」という認識は捨ててはならない。まして、いまだ侵略もされず、防衛のための武力も行使していない段階なら、「そうならないためにはどうすべきか」ということに知恵を絞り、全力でそうなる事態を避けるための行動をしなければならないはずだ。「そうなったときにどうするか」よりも、「それを避けるためにどうするか」の方に資源を割かねばならないのがものの道理ではないだろうか。そもそも平和は1つの国だけで成立するものではない以上、外交なしの内向きの議論だけで平和が達成されるわけはない。

だから、憲法の平和原則は、外交による平和努力義務を政権に課すものだと思う。戦力の不保持だって、本来はそういう外交の際の説得力を増す材料に使うためのものだろう。それが歴史的なさまざまな事情から現に戦力を持ってしまっているとしても、戦力をもたないこと、戦争を一切なくすことを「善」の側において、そこを標識としてそちらに向かうのでなければ、いつか「時と場合と程度によってはこのぐらいの戦争はやらねばならない」的な言説に立ち向かえなくなるだろう。「正しい暴力」を定めてはならない。

暴力は、常に人間社会のあるべき姿から一歩悪の側にある。それを意識することでしか暴力は減らせないし、暴力を減らさないことには幸せな人間社会は実現できない。なぜなら、暴力がどれほどまともな社会生活を阻むものかは、暴力を受けた者がよく知っているからだ。そして、私のように、たとえ子どもの頃のほんの一時期だけでも暴力行為を行っていた人間も、その自分の行為に長年苦しむからだ。いま、あのときの少年が私の目の前に現れて私の暴力行為を非難したら、私はどう償っていいかもわからないだろう。なぜなら彼がどれほど暴力に苦しんだか、同様に暴力に苦しんだ経験を通じて私にはわかるからだ。

そんな苦しみは、どこかで終わりにしなければならない。それが可能ではなくとも、少なくともそれを目指すことはできるはずだ。そうありたいと願う。そういう社会であってほしいと願う。

ある編集者の思い出

前回、前々回とこのブログでリチャード・ブローティガンの「風に吹きはらわれてしまわないように」の出版告知の記事を書いている。

www.chikumashobo.co.jp

『風に吹きはらわれてしまわないように』リチャード・ブローティガン | 筑摩書房

この小説と私のかかわりはおよそ40年前に遡る。そのときに担当してくれた当時晶文社の編集者が秋吉信夫さんだ*1。秋吉さんにはその後も長くお世話になり、独立されてからも、ご結婚を経て姓を改められてからもなにかと気にかけてくださった。十数年前までは年賀状のご挨拶ぐらいは続けていたのだけれど、私が年賀状をやめてしまったこともあり*2、その後、ご消息を知ることもなくなった。今回の出版にあたって何かと思い出すことも多かった。姓を改められてからもお世話になっているので、ふだんはそちらのお名前が出てくるのだけれど、あの時代の記憶の中では「秋吉さん」だ。そんな思い出を記しておきたい。風に吹きはらわれてしまわないように。

 

とはいえ、実は、私は秋吉さんのことを何も知らない。それが私にとっての秋吉さんだった。年齢不詳の謎の人。どんなふうにして編集者になったのかを一度話してくれたこともあったけれど、なんだか謎すぎて私にはどうもうまく受け止められなかった。だからもう何も覚えていない。小柄な体をツイードのジャケットに包み、その下からはいつも黒いタートルネックがのぞいていた(もちろん夏にはそうでなかったと思うのだけど、私にはジャケットの下からのぞく黒いタートルネック以外の姿が浮かばない)。後年、スティーブ・ジョブズの写真を見たときに、「あ、秋吉さんだ」と思ったものだ。もっとも、黒のタートルネック以外で共通するところといえば眼鏡ぐらいだった。それでも、着飾るという意味ではおしゃれではないのに品の良さを感じさせるという意味ではとてもおしゃれな人だと思った。そういうところが連想につながったのかもしれない。

どこの大学を出たかとかどこの育ちだとか家族がどうだとか、そういう話はほとんどしなかった。これは、秋吉さん自身もしなかったし、私にも尋ねられなかったということでもある。もちろん、いわゆる世間話のようなものもお互いに積極的にはやらない。なので、話題は私が訳したばかりのブローティガンの話や、それに関連する文学の話にならざるを得なかった。

ただ、かなしいかな、私にはろくろく文学の話なんかできなかった。小学生の頃からの本好きで、中学生の頃には友人と競うように小説を読み漁り、高校、大学とそれなりに本を読んできたつもりの私だったけれど、世間標準でいえば「読書家」というにはあまりにも読書量が少なかった。大海に出て己の小ささを知る喩えのとおりだ。翻訳にあたってはブローティガンの作品は全部読んでやろうと思ってがんばったのだけれど、図書館で借りることができなかった何冊かはついに未読のままだった。あえて書店で買ってまで読もうとしない程度の浅いファンだったともいえる。なので、ブローティガンのエピソードを秋吉さんが語るのを私が「すごいなあ」という顔で聞くばかりだった。

仕事ぶりに関しては、「ていねいな人だな」という印象に尽きる。ただ、私が出会った編集者はほとんどがていねいな仕事をしていた。そういう職種なのだろう。あまりていねいな人間ではない私が編集者としてやがて行き詰まるようになったのは、ある意味、当然かもしれない。なので、仕事の打ち合わせのことで思い出すことがないわけではないが(「ここ、抜けてませんか?」みたいな指摘とか)、まあ特に記すようなことでもないだろう。そういうところに関しては、どの編集者にも共通するからだ。仕事に関して他の人と特に際立っていたところといえば、字がきれいだったことぐらいだろうか。きれいというのともちがう、独特の読みやすい書体だった。

パーソナルな情報端末のない時代だったから、連絡はいつも電話だった。私はこのブローティガンの著書、晶文社版の題名では「ハンバーガー殺人事件」の翻訳から2年ほどして会社を辞めているのだけれど、それまでは自宅に電話もなかった。だから、いつも連絡は会社の電話にくれていた。社長ひとり、従業員は私ひとりの小さな編集プロダクションだったから、たいていは私が電話をとった。なので、気兼ねすることもなかったのだけれど、何度かは事務所に戻ると社長から「晶文社の秋吉さんって人から電話あったぞ」みたいに言われることもあった。ちなみに、受ける方は特に遠慮はしなかったけれど、こちらからかけるときには外の公衆電話からコインを入れてかけていたような気がする。

ハンバーガー殺人事件」が書店に並んだ頃、秋吉さんから「出版記念に打ち上げに行きましょう」とお誘いがあった。世間知らずの私だったけれど、世の中に「出版記念パーティー」みたいなものがあることは聞いていた。けれど、そういうものではなく、ささやかな打ち上げだ。秋吉さんは、ファミレスより少しだけ上等なところで飯を食わせてくれた。特にお酒を飲めとも言われなかったし、秋吉さんも積極的に飲もうともしなかった。乾杯のビールぐらいは飲んだように記憶している。体育会系の山岳部というところの出身で、そしてビール愛好家の社長のもとで数年働いていた私は、何かというと酒は飲むものだ、みたいな文化の中にいた。ただ、私自身は、別に酒が好きでもない。飲めと言われれば飲むけれど、ひとりで酒を飲むことは基本的にありえない。飲みたいと思ったことがない人だから、特に酒を勧めない秋吉さんはある意味、新鮮だった。

「あなたは小説が書けるかもしれない」

そう言われたのは、このときの食事が終わってコーヒーを頂いているときだったように思う。はっきり覚えているわけではないので別の機会だったかもしれないのだけれど、その口調と言葉は鮮明に記憶にある。私はもともと(多くの本好きがそうであるように)「こんな本が自分にもつくれたら嬉しいな」という思いがあり、それが無理だと思ったから翻訳者を志し、そしてそれが当面できないからと編集プロダクションでアルバイトをしていた若者だった。だから、そんなふうに言ってもらえてとても嬉しかった。けれど同時に、自分には書けないこともわかっていた。少なくとも「いまは」。なので、いつか書きたい、いつか書けるようになったらいいと、そんな気持ちを曖昧な表現でボソボソと返事したような気がする。

この言葉は、その後も、同じようなことを1回か2回、言われたように思う。ちなみに、そういう言葉があったからでもないのだけれど、何度か小説を書こうとしたことはある。その経験からいえば、やっぱり私は小説が書ける人ではないようだ。勢いをつけて書き始めても、途中で失速してしまう。子ども向けの「おはなし」ぐらいの長さならどうにかなるけれど、それを越えるとうまくいかない。絵描きさんになぞらえていうなら、デッサンの基礎がないのだと思ったりもする。編集者をやってきた端くれとしていい文章と悪い文章の判別ぐらいはつくし、どこをどう直せばいいのかもだいたいわかる。けれど、それを自分でやろうとすると失敗する。これはもう、職人として鍛錬している筋肉がちがうのだろう。

ともかくも、秋吉さんはいつも、「あなた」という二人称を使った。ふつう、二人称を使わないような「どう思いますか」みたいな問いかけでも、「あなたはどう思いますか」みたいに、「あなた」を入れてくることが多かった。これはちょっとカッコいいなと感じた。だから、私もその後は二人称に「あなた」を使うようになった。秋吉さんほど自然には出てこないけれど、いまでも生徒に対して「あなたはこういうところが優れている」みたいに使うことがある。

会社を辞めてフリーランスになってからは、翻訳の仕事のほか、ときどき校正の仕事をまわしてもらっていた。会社勤務時代の仕事が学習参考書(問題集)の編集だったからフリーになってからもその関係の仕事が多かったのだけれど、私はそれが嫌いだった。嫌いだけれど、「食うためにはしかたない」とか「オレが引き受けなければもっといい加減な連中がもっとひどいものをつくるに決まってるんだから」とか、いろいろと理由をつけては頼まれる仕事は断らなかった*3。そのなかで、秋吉さんの出してくれる仕事は面白くて、学参の仕事を友人に孫請けに回してでも、秋吉さんの仕事を優先することにしていた。

もちろん私は翻訳者になりたい人だったから、なんとか翻訳の仕事ももらいたいと思っていた。会社をやめる少し前に秋吉さんが写真関係のインタビュー集の翻訳をまわしてくれていたから、それが終わったあと、ロック関係のインタビュー集の企画を持ち込んだことがある。その見本原稿を見た秋吉さんは、

「でも、これって写真家の口調と同じじゃないですか」

と、口元に笑みを浮かべながら言った。私は自分が器用な書き手でないことをそのときに知った。ただ、この企画がポシャったのは、私が下手くそだからではない。そもそも著作権の関係とかで、企画そのものに無理があったのだと、秋吉さんは教えてくれた。その際だったと思う。

「翻訳者って、専門をもってるんですよね」

というようなことを、秋吉さんは教えてくれた。これはどういう言い方をされたのだか、さっぱり覚えていない。そういうニュアンスのことを言われたということでしか残っていないのだけれど、これはたしかにそうだと、だんだん私にもわかるようになっていた。「なんでもいいからヨコのものをタテに直しますよ」という翻訳者なんて世の中にはいない。外国語で書かれたものを日本に紹介したいという動機があって、その動機の先に翻訳という手段がある。それがふつうだ。学者なんてのは、だいたいがそうだ。だからそういう動機もなく、ただ「翻訳という作業が好きだから」で翻訳者になろうというのが間違っている。それはそうだろう*4。けれど、私には専門と呼べるものはない。なにかないかなと考えたら、一応、学生時代には航空工学科というところにいたことに思い至った。そこを中退した劣等生だけれど、もしかしたらこれかもしれないと思って宇宙開発に対する批判の原稿を書いて秋吉さんに読んでもらった。ややあって、困惑したような顔で原稿を返してもらった。やはり私には本を書けるほどの専門性はないことがよくわかった。

専門性のない人間は雑多な半端仕事をするしかない。ただ、それが私にはずいぶんと楽しかった。秋吉さんがまわしてくれる仕事はさまざまなバラエティに富んでいて、飽きることがなかった。その中でも特に規模的に大きかったのは、ある私小説作家の全集の校正だった。これについて書き出すと長いし、また、書き残しておくべきこととも思わないので端折るのだけれど、一作家の生涯の作品を追い続けた2年ほどの歳月は私にとって貴重なものだった。最終巻だけは私の個人的な都合で関与できなかったのだけれど、そういった作業を通じて、私は専門性はないくせに、平気な顔で専門家の意見にコメントを入れるような図々しさを身につけた。これは後の人生において私の大きな武器になった。

インターネット以前の時代だったから、校正紙の受け渡しには出版社まで出向くのが常だった。後に地方に移転して仕事をするようになってからは宅急便を使うのがふつうになったけれど、都心部にそう遠くない文京区にいたそのころは、電話一本ですぐにとんでいった。なにしろ不安定な収入のフリーランスだったから、現金は一円でも惜しい。なので、160円だかの電車代をケチって1時間以上の道のりを歩いて御茶ノ水秋葉原の間にある晶文社まで行った。古い社屋は狭くて、顔を出すと秋吉さんは近くの喫茶店に招いてくれた。「ここのコーヒーはちょっといけるんですよ」みたいに言ってくれたが、私はコーヒーの味があまりわからない人だった。それでもたしかに、華やかな香りがしたのは覚えている。

その狭い社屋の二階に通されたこともある。会議室のような場所だったが、壁面いっぱいが書棚になっていた。

「いま整理中なんですけど、好きなのがあったら持ってってもいいですよ」

出版社だから、過去に出した本は基本的にいつでも参照できるように書架においてある。ただ、重版のたびに見本本が加わるなどの関係で、重複が多くなる。それを一気に整理しようということらしかった。私から見たら宝の山だ。けれど、遠慮が先にたって、3冊ほどだけ、「これ、いいですか?」ともらうことにした。音楽関係の本ばかりで、1冊はブルース・ポロック「ロックンロールが最高」だった。図書館で読んで気に入った本で、何度も借り直していた。なので、もらえたのがとても嬉しかった。ちなみにこの本、息子が高校生のとき、その先輩が遊びに来て借りていった。何ヶ月かして返却時に非常に気に入った様子だったので、「じゃ、あげるよ」と、改めて彼にもらってもらった。いい本は、こんなふうにしてどんどんと受け継がれていってほしい。少なくとも、私はそんなふうにして本に出会ってきたのだから。

 

思い出はまだまだあるのだけれど、振り返ってみて、やっぱり絶対量としてはそう多くないなとも思う。あくまで仕事の上での関係だったし、少なくともその時代には個人的なかかわりはほぼなかった。けれど、私にとっては初めての担当編集者であり、なにかと目をかけてくれた人でもあって、またあこがれの人でもあった。なので、エピソードと呼べるほどのものがほとんどないにも関わらず、なにかにつけて思い出す。いまの私は40年前の若者ではない。それでも、思い出の中の秋吉さんの前では、私は相変わらず頼りない若造で、そして秋吉さんはそれを導いてくれる人だ。

今回、ブローティガンの「風に吹きはらわれてしまわないように」が出版されて、いくつか読者の感想も目にした。インターネットの時代だ、書名で検索すると、それなりに「買った」とか「読んだ」みたいなポストを目にすることもできる。その中に、「昔のほうがよかった」という、ちょっと身も蓋もない感想も見つけた。せっかく苦労して、筑摩書房の担当の人とああでもないこうでもないとがんばった成果がこれだ。けれど、私はちょっと嬉しかった。いまの自分を評価されるのも嬉しいが、過去の自分を褒められるのはもっと嬉しい。そして、秋吉さんの少しだけ笑みを口元に含んだ顔を思い出す。

「ああいうのが好きな人もいるんだよなあ」

それを的確に見出してくれたから、私はいま、ここにいる。

*1:既にこのブログの過去記事で「Oさん」として登場している。

*2:やめたきっかけは東北の大震災だった。あの震災があった次の正月を前にして、私はどうしても「おめでとう」を言う気になれなかった。私の身近にはあの大災害で亡くなった人はいなかったけれど、それでも多くの人が喪に服するその時期に年賀でもなかろうという気がしていた。そんな中、「生存確認の意味だけでも年賀状ってだいじだよね」みたいな話も聞き、それはそうだよねとも思ったのだけれど、「生きてることを知らせることに意味はあるのだろうか」「だいたいが生きてることそのものに意味はあるのだろうか」みたいに悩みはじめて、収拾がつかなくなった。最終的に、仕事関係の年賀状以外はやめてしまい、数年のうちには仕事関係の年賀状もやめてしまった。あの震災が私に与えた影響は、案外と大きい。

*3:なんのかんのいって、それなりに好きだったのかもしれない、といまになれば思わなくもない。

*4:余談になるが、後に看護学の本を翻訳したときに仕事をくれたプロダクションの人が、「この仕事は安いけど、これひとつやったらあとは食うに困らないから」みたいなことを言ってた。それは単価が低いことへの言い訳であったのだけれど、実際、そこで「看護学の専門家です」と称してあちこちに売り込みをかけていくというのが一般的なやり方だったのだろうと、いまにして思う。

『風に吹きはらわれてしまわないように』

ひさしぶりの翻訳書が明日書店に並ぶ。

www.chikumashobo.co.jp

1週間ほど前には見本も届いたし、昨日あたりから書店への配本もはじまっているようだ。奥付の発行日は12月10日だし、「12日発売」という情報がどの程度の意味を持つのかよくわからない。紙の本は即時性がポイントではないので、まあぼんやりと「このあたりで読者の手に届く」という理解でいいのだろう。

今回の出版に関しては、既に前回記事でも告知している。

mazmot.hatenablog.com

そのなかで、私とこの本の関わりについても書いた。だから、そこは繰り返さないでおこう。ただ、いよいよ発売となって、およそ40年前、同じように自分の本が書店に並ぶにあたって感じたことを思い出す。そんなことから書き始めてみる。

当時の私は、大学の中退者であり、家出人であり、非正規雇用の身の上だった。世間に対して気兼ねすることばかりの多い日陰者で、おまけに恋人と別れたばかりだった。世の不幸を一身に背負っているような気持ちになることもあったけれど、それは全部自分で選んだことであったし、私の事情がどうであれ、世間は無関心で、外見上は気楽なフリーター(という言葉はまだ一般化まではしていなかった)に過ぎなかった。引け目はただただ自分の中にだけあった。

なぜ、エンジニアになる道を捨てて学校をやめたのか、なぜ理解のある両親の元を離れたのか、なぜ800円の時給で得体のしれないアルバイトをしているのか、なぜ将来を約束した恋人を傷つけたのか。どういうわけだか私は、そんな答えがすべて、この1冊の本の出版にあるような気がしていた。初めて自分の名前が本の背に載ることに、嬉しいとか、晴れがましいとか、そういう気持ちにはなかなかなれなかった。ただ、少し救われた気にはなった。どうにかこうにか、これで世間に言い訳が立つんじゃないかと、そういう気持ちがしていた。

なので、確か5冊の著者献本に加えて、20冊だかの著者買取をしたと思う。印税からの天引きなので懐はいたまない。その20冊を、あちこちに配った。まったく関係のないようなところにも置いてきた。自分が自分である証明だと思うから、初対面の人にでも手渡した。25冊はすぐに手もとからなくなった。

けれど、それは私に何一つもたらさなかった。感想を言ってくれた友人もいたけれど、そこまでだった。世間は、私の個人的な悩みに無関心であるのと同じくらい、私の仕事にも無関心だった。あたりまえのことだ。

価値観は時代とともに変化する。それは21世紀のいま、この10年を見ていても感じるが、私の若い頃も価値観は急速に変化していた。だから小学生の頃に親から与えられた価値観と、二十代のその頃を生きる私のなかで形作られていく価値観はやっぱりずいぶんとちがっていた。自分の根っこにある価値観では、ひとは成長し、「何者かになる」べきものであった。それは「立身出世」的な価値観と言ってもいいし「故郷に錦を飾る」的な発想といってもいい。あるいは、こんな歌の世界だろうか。

www.youtube.com

その一方で、私自身がたどりついていた価値観は、そこから遠いところにあった。おそらく80年代には珍しくもないことなのだろうが、「まずは自分がおもしろいと思うことをやるべきだ」というのがその根幹であったように思う。未来がどうだとか、そんな先のことは知らない。ただ、直観が「これだ」と示すものに向かっていけばいい。私はそれを信じるようになっていた。

根っこにある価値観と、自分を動かしている価値観は矛盾する。そういった価値観の相克のなかで私は迷っていたのだろう。そして、自分が「これだ」と感じた翻訳が形になったことで、両者を同時に満たせたような気がしたのかもしれない。けれど、だからどうだというのだ。1冊の本が世に出ても、それは森の木の葉が1枚落ちたことと何ら変わりはない。私の日常になにか変化が起こるかといえば、まったくそんなことはなかった。ま、そうだよねと、私は肩をすくめて時給800円のアルバイトを続けるばかりだった。

 

今回の出版にあたって、出版社から「献本先のリストを送ってください。著者買取は8掛けでOKです」みたいな連絡があった。2年前に出た訳書でもその前の訳書でも、同じようなことはあった。けれど、そのときは監訳者がいた。なので、監訳者と出版社のやり取りを私は傍観するだけだった。なるほど、やっぱり大学の教員ともなればいろんな人脈があるもんだなあと、ずらりと並んだそのリストを見ては感心していたものだ。さて私はといえば、だれひとり思いつかない。1件だけは外せない献本先があるけれど、それは手紙をつけたいから自分から送る。結局、「すみません、友だち少ないもんで…」と、勘弁してもらうしかなかった。

友だちと呼べる人がいないわけではない。ただ、あんまり関係なさそうな人に贈ってもなあと思うようになった。若い頃のように「私の仕事を見て! 私を見て!」と思えなくなったと言ってもいいかもしれない。一緒に薪を調達するストーブ仲間とか、いきなり小説を渡されても困るだけだろう。音楽仲間は本なんか読まないかもしれない。近所の人にはいまでも十分に怪しい人認定されてるのに、これ以上怪しくなってどうするんだ。まして仕事で教えてる生徒たちなんか、教師のことなど知りたくもないだろう。

それでも、本当は知らせたい人もいる。もう連絡をとることもできなくなった人に、こういう機会だからと、「元気にやってるよ」と知らせる意味でも、新刊案内ぐらいはしておきたい。実際、ここ数年は、そういう案内を口実にそっとBCCに古いアドレスを忍ばせてメールの送信ボタンを押すことを心の支えにしてきたところがある。出版(publish)とは公(public)な行いであって、プライベートで会えなくなった人でもそういう機会になら連絡をとってもいいよねと、自分自身に言い訳をすることができるから。

そうやって、今回も「新刊お知らせメール」を用意していたのだけれど、結局、送らないことにした。世間は、自分が思っているほど、自分に興味をもたない。いや、私が知らせたいあの人は、少しぐらい何かを感じてくれるかもしれない。けれど、それでどうになる。なにもなりはしないではないか。私の思いはどこまでいっても私のものでしかなくて、たとえそれが誰かにつながるものだとしても、それはそのままの形では伝わらない。場合によっては悲しませたり怒らせたりするかもしれない。大切にする思いがあるのなら、それはそのまま自分の中にとどめておくべきではないかと、思いなおした。

 

人間は、はかないものだ。ましてその内面に神経の電気作用で生じた幻に過ぎない感情など、あっという間に消えてしまう。砂嵐の中にぼんやりと浮かび上がった砂塵がつくる幻影のように、気がついたときにはもう吹きはらわれてしまう。それが人生というものなのだから、それはそれでいいのだろう。

それでも、のこしておきたい記憶がある。のこしておきたい気持ちがある。だから、風に吹きはらわれてしまわないように、詮のないことを書き続けるのかもしれない。それが巡り巡って誰かのもとに流れ着き、そして誰かの人生の一部になることだって、あるかもしれない。少なくとも、リチャード・ブローティガンの残した言葉は、そんなふうにして私の人生の一部になったのだと思っている。

老人の繰り言について

世の中を引退した年寄りなんて暇なものだろうと思うのだけれど、老母に言わせればとんでもないということになる。年寄りは忙しい。そういわれて改めて老母の日常を観察すると、それはたしかにそうだ。たとえば先週訪れたときには「寒くなってきたから衣替えに冬物を出した」と言っていたのだけれど、昨日は冬物のジャケットを手にとって、「もう少し置いておくか」と呟いていた。置いておくも何もつい数日前に出してきたばかりじゃないかと指摘すると、「え? いま何月?」と驚いた。どうやら季節は春だと思いこんでいたようだ。このときにはそれで済んだわけだけど、もしも「これはもう片付けてしまおう」となって、翌日に「寒いから出さないと」みたいになってたら、毎日、衣類の入れ替えだけで時間がなくなってしまうことになる。

買い物に出るときもそうで、まず財布の中を改めるところからスタートする。クレジットカードとか、必要なものはいつでも財布に入っているはずじゃないかとこっちは思うのだけれど、「いや、うっかり出したかもしれない。最近、自分のやったことも覚えてないことがあるから」と、たしかに事実認識としてはあっている理由を述べられるとやめておけともいえない。そして内容チェックの済んだ財布をポケットに入れ、部屋を出がけにカバンの中を探して「あれ? 財布もってない」と立ち止まる。いや、さっきポケットに入れたと指摘すると、ポケットを探し、そして「こんなところに入れといたらあかんね」と、カバンに入れ直す。そして、カバンの中を見ながら「ティッシュ持っていかないと」と言って、ポケットティッシュを取りに行く。戻ってくると「よし。お財布もある」と、ポケットを探って、「あれ? カバンかな」と、カバンを確認する。そして次に帽子を選び、帽子をかぶって、また財布を確認する。その頃には財布の中身が気になって、「ちょっと待ってね」と、財布の中にクレジットカードが入っているのを確認する。そして、「診察券は今日はいらないね」と、財布からいつも行ってる病院の診察券を取り出して、引き出しにしまい、「念のために現金も入れといたほうがいいかな」と紙幣をたたみ、そして、準備が整ったところで「えっと、携帯は?」と…

こんなことをやっていると、時間がいくらあっても足りなくなる。傍から見ていると単純にそれは無駄な動きを繰り返しているからに過ぎない。財布の確認をするのはいいけれど、1回やったら十分なところを3回も4回もやるから忙しい。ただ、やってる本人からすれば前にやったことを忘れている以上はやらねばならないことなのだし、やらねばならないことをやることに何の無駄もない。だから、「もうそんなんはええからさっさとしようや」みたいに言われたら、「何を焦ってるんや、慎重さが足りない」と思うだけだ。行動するには段取りが重要で、その段取りをすっ飛ばすのは無謀でしかない。ただ、記憶がもたないから段取りに時間がかかるだけ。

もっとも、買い物は週に1、2回、私が訪問したときしか行かない。じゃあ、それ以外の時間は暇なのかといえば、そうでもない。たとえば、先日、午後に顔を出したら、「テレビがつかない」と悩んでいた。何のことはない、チューナー部分の電源が抜けていただけだった。大型テレビが壊れて以来、運用の関係でポータブルタイプのテレビを使っているのだけれど、チューナー部分と無線でつながるモニタ部分が完全に独立している。だから「テレビ」と思ってるモニタ部分だけをいくらいじっても、改善しないわけだ。「朝からずっと格闘していた」というのだから、ずいぶん忙しかったにちがいない。

だが、そんなトラブルはめったに起こるものではないし、また、たいていのことには「それがダメならこっちで間に合わせましょう」と機転を利かせるのが好きな人なので、こういうことが原因で忙しくなるケースは稀だろう。じゃあやっぱり暇なのかといえば、そうではない。

老母は、私が訪問すると、よく昔の話をする。それも、同じ思い出を何度も繰り返す。いわゆる「老人の繰り言」というやつだ。そのテーマはだいたいそのときによって決まっている。小学生のときに入院していた頃の思い出であったり、新潟の田舎町の中学に転校生として迎えられたときのことであることもある。結婚して新しい親戚と付き合いはじめた頃のこともよく話すし、自宅に工場をつくって仕事をはじめた頃の思い出も尽きない。中年以降にはずいぶんと世界各地に旅行も行っているのだけれど、そのあたりの思い出話はほとんど聞かない。もったいない話だ。お金をかけていろんなことを体験してもそれは記憶に残らず、お金のなかった若い時代の苦労のほうがいい思い出になっているのだから、人生は皮肉。

ともかくも、そういった様々な思い出がランダムに出てくるのではなく、おそらく数日の周期で特定のテーマが決まっている。たとえば昨日は高校生のころに住んでいた家と駅のあいだの光景がテーマだった。

「駅からガードをくぐって小川みたいなのがあって、郵便局があったね。そのこっち側かな、いつも自転車がたくさんとめたあって、中で人がなんかやってた。あれ、なにやってるんやろと思ってたけど」

だいたいこれが主旋律だ。これに副旋律が入ってくるのだが、これに関してはかなり事実関係が怪しい。

「あそこって、いま私が行ってるジムやんね。ということは、あの頃からあのジムはあったんやな」

「いや、いま行ってるとこはビルの1階やろ。あのビルができたんはもっとずっと最近や」

「ビルちゃうやん。平屋の建物で」

「だからお母さんが高校生のころは平屋の建物があったんやろ。そこに人が集まってたのは、そうなんかもしれん」

「そうなんかなあ。あれがジムやと思ったんやけど」

ちなみに、「ジム」というのは先月から通いはじめたデイサービスのことだ。一般的なデイサービスは本人の性格上合わないと思ったので、リハビリ的な機能訓練中心のサービスを選んだ。運動をやる場所だからジムと呼んでいるのだけれど、まあ、あながち間違いでもない。ただし、それが70年以上も前からあったというのは完全に事実誤認だ。

「いっつもその自転車がたくさんとめてあるとこの前を通って、駅に行った。心斎橋のとこに写真をならいに行ってたから」

「いや、高校生のころに写真の趣味はない。写真屋はそれこそ、あのビルの建ってるとこのこっち側にあったけどね。写真教室に行きはじめたのは私が大学生になってから」

「そうなの? あんた、ようおぼえてるね。俳句教室やったかなあ」

「俳句は写真のあと。写真の先生が写俳がどうたらとか」

「ああ、そうやった。あの先生にはお世話になったわ。じゃあ、何を習いに行ってたんやろ」

老母は若い頃からいろいろ習い事をしていた。私が知っているだけでもフラワーデザイン、洋裁、料理など、実にいろいろ雑多に習っていた。その中でも中年になってはじめた写真は、最も長く続いて、それなりにいい作品もできるぐらいには打ち込んでいた。本人が高校生の頃ならお茶かお華ぐらいじゃないんだろうか。

「ジムのところから大通り渡って上がったとこが私の家やったね」

「そう。結婚してここに来るまで住んでた」

「あんたおぼえてる?」

「小学校1年までおじいちゃんとおばあちゃんが住んでたからね」

「こないだ、あんたの車で連れてってもらったね。おじいちゃんが建てた小屋が残ってて懐かしかったわ」

「いや、行ってない。だいたいがあそこ、家の前にあった池も埋めて、いまは住宅地になってる。おじいちゃんらが引っ越したあと、すぐにあのあたり潰してボーリング場ができて、それも数年で潰れて、そのあとは住宅地になった」

「でも、こないだいっしょに行ったやろ」

「行ってない」

「うそ」

実際のところ、これはその前に私も驚いたのだけれど、数日前の日記に「昔の家を見に車で行った」と記載がある。ただし、その日は私は来ていないので、完全に偽の記憶。

「(日記を見せながら)これのことやろ。けど、この日は私はこっちに来てない」

「そうやね。だったらイチローに連れてってもらったんやろか」

「兄貴もこの日は来ていない」

「じゃあ、夢でも見たんやろか」

おそらくそうなのだ。夢で見たことがきっかけになって、それから数日間、このテーマが繰り返されている。上記の会話は、まるでそのまま録音したものが再生されるように、この日、何十回も繰り返された。

同じ話が何度も繰り返されるだけなのだから、聞いている方は無意味に感じる。けれど、注意して聞いていると、すべてのバージョンが必ずしも同じではないことがわかる。我慢して聞いていると、徐々に内容が変化していくことがわかる。

おそらくこのテーマが浮上したきっかけは、先月からその駅近くのデイサービスに通い始めたことだ。デイサービスは送迎付きだから、はじめ、老母はどこに向かっているのかわからなかったようだ。だんだんと場所がはっきりしてきて、それが娘時代に住んだ家の近くだったことがわかってきた。その場所の風景は、当時とすっかり変わっている。だから余計にピンとこなかったのだろう。けれど、むかしの思い出と現在の風景を重ね合わせて場所を確認する作業を繰り返し行うなかで、頭の中にはっきりしたイメージが形成されていく。その段階で夢を見て、そしてその夢をもとに思い出が頭の中を占領していく。

「年寄りのことを〈同じ話ばかり繰り返すようになって、おばあちゃんもボケた〉みたいに言う人がいるやろ。それで年寄りは怒るわけやけど、なんで怒るか、ようやくわかったわ」

老母はそんなふうに言う。

「あれは、同じ話を繰り返してるんと違うねん。そういうふうに話しながら、むかしを思い出してるんやわ」

客観的には同じ話を繰り返している事実に相違はないのだけれど、実際に高齢者の頭のなかで起こっていることは、過去の記憶と現実との間にある微妙なズレのすり合わせなのだと、老母は主張する。少なくとも老母の言葉を私はそういうふうに受け取った。駅から「ジム」までの短い道のりは、確かに自分が若い頃に歩いた駅までの道と同じだ。鉄道の下をくぐるガードレールは、その頃からひとつも変わっていない。けれど、それ以外のすべては変わってしまっている。郵便局もなくなり、小川はコンクリートで打ち固めた排水路になった。「ジム」がいまある場所はどんなふうだったのだろう。そんな記憶の底にある風景を探し求め、そしてそれをいまの光景に重ね合わせる。その作業を延々と繰り返す。そしてその作業中には、ほかの記憶も紛れ込んでいく。いったい自分は駅まで何の用事で行ったのだろう。大阪の方に出る用事がそれほどあったわけはない。いや、そういえば心斎橋で教室に通っていた。あれは何だっただろう。写真かもしれない。そんなふうに記憶がつながっていく。

ゆっくりと、そうやって現実世界が確実なものになっていく。その作業には時間がかかるし、また、その作業が何の役に立つのだと言われても返答に困るだろう。けれど、高齢者はそうやって時間をかけて現実を取り戻していく。その世界の中に自分自身を再構成していく。その営みは、高齢者にとって無意味なことではない。

「むかし、看護学の本を翻訳したとき、〈高齢者の発達課題〉っていうのがあって、高齢期ってのは〈人生を回顧して受け入れることが課題〉って書いてあった。つまり、年寄りは思い出すことが仕事、っていうことやねん。そうやって自分の仕事を一生懸命やってるときに、それを〈ボケた〉とか言われたら、そら、腹立つかもしれんな」

「そやろ。年寄りは、一生懸命思い出してるねん。同じことを言うてるんやなしに、そういうことを言うことでむかしを思い出してるねん。あんたも年寄りを〈ボケた〉とかバカにしたらあかんで」

「そやな。そやけど、さっき何食べたかも思い出せんようなんは、やっぱりボケてるんやと思うで」

「そこは、それやん」

「年寄りの頭はまだらやな。最近のことは思い出せん。これははっきりと頭の機能の衰えや。けど、むかしのことは思い出せる。というか、いまから75年前の駅のあたりのことをはっきり思い出せる人はもうあんまり残ってないんやから、そういう意味ではお母さんは貴重な記憶の保持者やで。それを思い出すことにかけては、それはボケとか関係ないわな。そこは若い人間には真似のでけん芸当や」

「そうやろ。でけんへんこともようさんある。けど、私の役目もあるということや」

 

ちなみに、「老年期は人生を回顧する時期である。大きな世の中や人類の秩序や意味の伝承と、自分自身の人生を回顧して受け入れることが発達課題である」というのは、エリクソンの説であるらしいのだけれど*1、これは高校の教科書(たしかひとつ前の指導要領まであった現代社会の教科書だったと思う)にも掲載されている。「発達」というと幼児や少年期、せいぜいが青年期までのことだと思うのがふつうだけれど、エリクソンはそれを人間が死ぬまで続くものとして捉えなおした。まあ、このあたりは私もよくわかっていないので受け売りでしかない。

実際、もう20年ぐらい前、仕事で看護学の本を翻訳したときにこの概念にぶち当たって「はあ?」と思ったのを覚えている。ただ、それは、私の記憶だ。今回この記事を書くにあたって当該の訳書を引っ張り出してみたけれど、どこをどんなふうに「はあ?」と思ったのかはもうわからない。確かに上記のエリクソンの発達課題は表組みの中に記載されているけれど、そこまで悩むようなものでもなさそうだ。けれど記憶では、このあたりでだいぶ混乱したことになっている。

そういうことを、私自身がやっぱり思い出している。この仕事は東京の怪しげなエージェントからもらったもので、実務翻訳を請け負う事務所を開いてまだ2年目だったから不利な条件にも関わらず飛びついたんだよなあとか思い出す。なにせ分量の多い仕事だったから途中で飽きてきて、最後の方はけっこう辛かったとか、内容以上に、そんな周辺のことばかり思い出される。いくつかトラブルもあったような気もするが、あのおかげで食えてたのも事実だし、ありがたい案件だった。

こんなふうに、私たちは過去のことを思い出し、その事実を確認するだけでなく、そこに新たな意味を付け加えていく。振り返ってみたらあの仕事がなかったらいまこの家にも住んでいないわけだし、その後の案件を受けるときにもクライアントの信用が得られたかどうかわからない。現在にさまざまにつながってきている。老母との会話でエリクソンを思い出すこともなかっただろう。現在を生きることで、過去の事実に対してどんどんと意味が追加されていく。その作業を行う過程で、意図せず、事実の誤認や身勝手な解釈、美化や矮小化が紛れ込む。だから思い出というのは決して事実そのものではない。けれど、事実関係だけが重要なのかといえば、当人にとってはそうではない。自分の過去が現在の自分にどうつながっているのかを確認し、現在位置を定め、自分自身を確立する。それが思い出すという作業だ。

 

事実関係がひとつでも、だからこそ、そこに複数のストーリーが生まれる。たとえば、私が翻訳の仕事で初めてお金をもらった翻訳書がある。なぜ23歳の大学中退者が名の通った小説家の著書を翻訳できたのか、それはそれなりに興味深い話でもあるので、断片的にあちこち書いてきた(たとえばここ)。それが、どれもちょっとずつ違う。もちろんそれはそれぞれの原稿がどういう文脈に置かれるのかによって着目点が変わるからではあるのだけれど、私自身の主観からいえば、そうやって少しずつ異なる視点にずらしながら同じ過去を見ることで、次第に自分の中での位置づけが変わってきているのは感じている。

渦中にあった23歳の私は、正直、事態をどう捉えていいのかわからなかった。詩人としても知られたリチャード・ブローティガンという小説家の作品なのだけれど、私は自分自身の修行としてその生前最後の小説を翻訳していた。だから、その原稿はあくまで私的なものであり、どこに行きつくあてもないものだった。ただ、その秋、ブローティガンの訃報が新聞に載った。その段階で私が感じたのはただただかなしみだった。それはそうだろう。翻訳という作業はある意味イタコ芸であって、気持ちの上では作者になりきって日本語の文を書く。その作者が死んだのだ。ショックでないほうがおかしい。数日そのショック状態があり、そしてようやく気がついて、自分の原稿を出版社に送った。すぐに返事が来て、話が動きはじめた。

私はプロの翻訳家になりたかった人だ。だから修行として小説の翻訳もやっていたのだし、その最初の試みがたまたま運命によって仕事になるというのだから、これはほぼありえないほどの僥倖だ。だが、それをラッキーと喜ぶことは到底できなかった。人の死にかかわることだ。しかも、なぜ私が翻訳家を目指していたのかとか、なぜ修行として1冊の小説を訳そうとしたのかとか、そういったことを遡っていくと、いくらでも「笑ってる場合じゃないだろ」という事情に突き当たる。そういうことを書き始めたら1冊の本になる*2。私はなんとも冴えない顔をしながら、この出版に至る時期を過ごしていた。

この小説は、「ハンバーガー殺人事件」という邦題で出版された。刷り上がった本を手にすると、複雑な気持ちの上に、やはり無理もない喜びが重なった。けれど、「プロの翻訳家」なんて、1冊の本を訳したからなれるものではない。編集者の人が目をかけてくれたこともあって時間をあけながらも次の本、その次の本と翻訳の仕事をまわしてもらうことにはなったけれど、ブローティガンの小説がそこに何らかの実績として重みを加えてくれたようには思えない。徐々に、私はその小説から目を背けるようになった。それは過去の栄光に過ぎない。そんなものにいつまでもすがっていてもしかたないだろうと、自分を鼓舞するしかなかった。

それでも、私はこの小説が好きだった。なので、いくたびかの引っ越しでもずっと手もとから離さなかったし、ときどきは読み返していた。友だちに貸したまま行方不明になってしまったこともあったけれど、別方面からまた新たに贈ってもらうようなこともあった。好きな小説だから手もとにあるという意識が強くなっていき、自分自身と結びつけることは、ほとんどなくなっていった。たしかにあの小説がなければ、自分は別の人生を歩んでいたかもしれない。けれど、だからどうしたというのだ。そんな感覚が徐々に若さが失われていく私の中にあった。別の人生を選べるものならそのほうがどれほどマシかと思うような日々を過ごしていたせいかもしれない。

やがて、家庭をもつようになり、自分の選んだ人生が正しいかどうかまではわからないにしても、ささやかな幸せを手に入れた結果につながったことだから否定はできないよな、みたいなことを感じる時代になった。それまでの仕事にひとつ整理をつけて、改めて翻訳で食っていこうと決めたのもその時期だ。自分との関係で考えることがほとんどなくなっていたブローティガンの小説は、「業務実績」として再び自分の経歴に書き込まれるようになった。その頃からのような気がする。ときどき、夢のなかで「あの単語はちゃんと訳したのだろうか」という疑念が湧き上がる。冷や汗をかいて目覚め、そして「ハンバーガー殺人事件」を開く。いつのまにか原書は失われていた。だから確実にはいえないのだけれど、「ああ、そんなに変な翻訳はしていないな」と安心する。そういうことが何度か起こるようになった。インターネット以後、標準的な翻訳の質は飛躍的に上がった。その流れに取り残されないように仕事を続けるなかで、徐々に私は若い頃の自分の英語の能力がいかに低かったかを思い知るようになった。だからこそ、若い頃に何を見落としていたのか、ひどく気になるようになったのだろう。「ハンバーガー殺人事件」は悪夢になった。

やがて翻訳の仕事が徐々に減り、日常の業務は十数年前からはじめた家庭教師としての仕事が主体になっていった。機械翻訳からAIの時代に進むにつれて、実務翻訳の仕事はどんどん減っていった。それでも書籍を1冊訳すような仕事は完全に失われたわけではなく、とぎれとぎれにやってくるそんな仕事も私にとっては重要なものであり続けた。「ハンバーガー殺人事件」を悪夢に見ることもだんだんとなくなってきていた。そしてそんななか、思いもかけないメールが届いた。リチャード・ブローティガンの作品を一気に文庫化する企画が進んでいる。ついては「ハンバーガー殺人事件」をそこに含める許可をもらえないかという話だった。

なぜ、この作品、原題So the Wind Won't Blow It All Awayを新たに翻訳することを私が望んだのか、いまさら説明の必要もないだろう。それは自分自身の過去に再び向き合うことであった。何度も繰り返し、繰り返し、同じひとつの事実、ひとりの詩人が自殺を遂げ、それがひとりの若者の人生のスタートとなった、40年もむかしに起こったその事件を、私は頭のなかで反芻してきた。起こったことは起こったことだ。過去は一切の変更を拒む。時間が前へ進んでも、過去にあったことは何一つ影響を受けない。それでも私は同じひとつの事件に、常にその時その時の自分の状況を投影し、新たな意味を与えてきた。そうすることで、いまの自分自身と過去の自分との折り合いをつけようとしてきた。それが人間のすることだ。だから、人は何度でも過去を振り返る。同じことの繰り返しに過ぎないとわかっていても、やっぱりそれを繰り返す。その必要があるのだし、それをやらなければ前に進めない。

そうして私は、今度は本格的に腰を据えて、過去の自分と向き合った。そこにはさまざまな発見があり、学びがあった。その詳細はここには書かないでおこう。別の場所、別の機会があると思うからだ。ただ、それを通して、私は過去の自分を以前よりは客観的に見ることができるようになった気がすることは、報告しておこう。そこにいるのは自分自身ではあるが、自分とは全く違う個性を備えた若者だ。小生意気で、知ったような口をきくけれど、一方で確かに才気を感じさせる不思議な男だ。そういう自分に出会えたこと、その機会をつくってくれた筑摩書房には、感謝するしかない。

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ということで、このブログ記事は、新刊の告知だ。種明かしをすると、そういうことだ。「ハンバーガー殺人事件」は、「風に吹きはらわれてしまわないように」と改題した。それはかつての自分を否定するものではない。そうではなく、若い頃の自分に対して敬意を払いながらも、「いまの私はこうだよ」と微笑みかけるものでもあるのかもしれない。

 

そして、この小説は、やはり過去を振り返る話でもある。少し抜粋すると、

あの日のことは何度も何度も心の中の再生ボタンを押してきた。映画の編集でもするように。ぼくはプロデューサーであり、監督であり、編集者であり、脚本家であり、出演者であり、音楽もやる。そのほかも、すべてがぼくの映画なのだから。
心のなかには巨大な映画スタジオがある。一九四八年二月十七日以来、ずっとぼくはこのスタジオでこの映画の制作を続けている。ひとつの映画に三十一年間取りくみ続けてきた。ちょっとした記録だろう。そして永遠に完成はないのだろう。

これは、主人公が少年時代に引き起こした人身事故についてのことだ。事件そのものは非常に単純で、事実関係には一点の曇りもない。けれど、主人公は、繰り返し繰り返し、そこに意味を探す。そうすることでしか、彼は前に進めない。けれど、

あのころ、カレンダーを見るたびに、じいさんのことを思った。時間の国で迷子に
なった老人だ。けれど、そのうちにそんなことも気にかからなくなった。遠からず自
分も同じような迷子になってしまうのだとも知らないままに。

と、そういう繰り返しは「時間の国での迷子」につながるだけだということもわかっている。それでもそこを離れることはできない。なぜなら人間は、そもそも本質的に「迷子」である存在なのかもしれないからだ。明確な「こっちが正しい」標識なんて、人生にはない。それでも人間はそこに何らかの方向性を見出そう、意味を見つけようとするのだ。そのためには、繰り返し、繰り返し、記憶の中に沈んでいって、過去と現在を対比させるしかない。

 

老人の繰り言には、そういう意味があるのかもしれない。それとも、そこまでの意味もないのかもしれない。ただ、さっきまで考えていたことを忘れて、また同じことを考えているだけなのかもしれない。けれど、そうすることが無意味だと、誰に言えるだろうか。老人の人生はその人固有のものであり、そこにどんな意味を見つけようが、それはその人のものなのだから。

*1:上記の引用はネットで拾った孫引きなので正確ではないと思う。良い子は原典に当たりましょう

*2:事実、ずいぶん前にそういう本も書いている

短期記憶をなくすということ

ここのところ連続して90歳を迎えた老母の話を書いている。

mazmot.hatenablog.com

 

mazmot.hatenablog.com

 

ほかにネタはないのかと言われそうだが、ネタはある。ただ、タイミングを見計らっているうちにどんどん逃げていく感じで、記事にあげていない。それでもひとつは遠からず書くはず。

ともかくも、今回もその老母のことだ。相変わらず私は数日おきに顔を出して、買い物その他の日常のサポートをしている。だから、高齢者を抱えた世間の人々が経験している介護の苦労のようなものとは、いまのところ無縁だ。基本的な日常生活は、自立している。私の介助は必要としていない。この先、日常の動作が自立できなくなったら、そこからはかなりたいへんだろうと予想できる。だから、できるだけ自立を失わせないようにと、そこは心がけている。

それでも徐々に失われていくものはある。小さなことではある。たとえば、この夏には長年続けてきたヨーグルトづくりがついにできなくなった。本人の感覚としては「できなくなった」ではないのだけれど、やっても失敗するし、実際にやらなくなったのだから、「できなくなったこと」のひとつといっていいのだろう。買い物に出ると「ヨーグルトの種菌を買わなきゃ」と言う。「いや、買い置きが家にあるから」と言うと納得するのだが、その買い置きの菌を使ってヨーグルトをつくるのかといえばそれはやらない。それがもう数ヶ月続いている。たぶん1990年代の「カスピ海ヨーグルト」ブームの頃から続けている習慣、もっというなら1970年頃にヨーグルトメーカーを買ったときから断続的に続けてきた習慣が、ついに終わりを迎えた。

それでもヨーグルトは買えば済む。家庭菜園の世話は、すっかりできなくなった。これは意外だった。田舎に住んでいたころ、高齢の婆さん方の畑に対する情熱にはいつも感心させられたし、いろんな知恵を授かることも多かった。身に染み付いた農作業の感覚はどれだけボケようと失われないのだろうと思っていた。けれど、これが見事に失われた。どういうことか。

短期記憶が失われるということは、日付の感覚がなくなるということだ。認知症の検査で「いまは何年の何月何日ですか」と聞くのがあるが、老母はだいぶ前からこれに答えられなくなっている。いや、ちゃんと対策はあって、そういうときには必ずiPhoneを見る。けれど、自分の中ではもういまが何月なのか、春なのか秋なのかということがさっぱりわからなくなっている。なので、つい先日も、「そろそろ夏野菜の苗を植える時期かな」みたいなことを言っていた。「いま11月」と言うと「えっ、これから寒くなっていくの?」と驚く。こういう感覚で、野菜の世話がうまくできるはずはないだろう。季節外れに野菜くずから伸びてきた西瓜のつるを大事に育てていたのはついこの夏のことだ。もっとも、これは今年の異常気象のもとでどういうわけだかうまく育って10月の末に美味しい実をつけたのだけれど、同様に伸びていたカボチャのつるは実をつけないままに枯れた。去年はトマトが「さあこれから」という時期に抜かれていたし、今年の夏野菜が早くに終わったのも(猛暑のせいだとは思うが)早くに見切りをつけてしまったせいなのかもしれない。日付がわからなくなり、季節感が失われると、いまどういう世話をすれば野菜が喜ぶのかがわからなくなる。

老母の認知症で、失われているのは短期記憶だけだ。短期記憶が失われても長年の蓄積で獲得してきた知識は失われていないし、目の前のタスクに対する判断能力も処理能力も失われていない。だったらなんとかなるだろうともいえる。実際、なんとかなっている部分は大きい。食事の支度は冷蔵庫をあけて適当なものをつくれるし、床が汚れていたら掃除機をかけることもできる。ただ、技能と判断力だけで解決がつかないこともある。

たとえば洗顔や歯磨きだ。どちらも長年やってきたことだから、何不自由なくできる。ただし、やったことを忘れる。なので、ときには二度、三度と同じことを繰り返す。まあ、歯なんて何度磨いたってかまわないだろう。たとえば入浴だ。短期記憶が失われても、完全になくなるわけではないから、「昨日、風呂に入った」というぼんやりした記憶は残る。ただし、時間の見当識が失われているため、その「昨日」が、カレンダー上で1日前なのか2日前なのか、あるいは1週間前なのか10日前なのか、それが不明になる。なので、何日も風呂に入らずシャワーも浴びないという日が続くことになる。

このことに気づいたのはつい最近で、それは何の気なしにテーブルの上に置かれていたガスの伝票を見ていたときだった。老母がどれだけの光熱費を使っているのか、私はほとんど気にとめたこともなかった。なにせ全てクレジットカードの引き落としだし、口座には現金が十分すぎるほどある。エネルギー効率のわるい広い家なので一人暮らしにしては余分にかかるけれど、まあそれは私の知ったこっちゃない。なのでこのときも、特にチェックするつもりもなくぼんやり見ていたのだけれど、そこではたと気がついた。ガスの使用量が、同じ一人暮らしである私の使用量の半分しかない。私はどちらかといえばケチって使っているし、月のうちに何回かは老母の家に泊まっているわけだから、その分は使用量は減っている。それなのに老母の方の使用量が半分しかないのは、明らかにこれは風呂・シャワーを使っていないのだとわかる。

毎回、私は来るたびに「風呂は入っているか」と確認はしていた。そのたびに「昨日は入った」と返事が来るから安心していたわけだが、短期記憶がなくなった老母にとっては、以前のことはすべて「昨日」であり、必ずしも「カレンダー上の前日」ではないのだ。だからおそらく、月に数回しか風呂・シャワーを使わなくとも、「昨日入ったから大丈夫」となるのだろう。

洗顔・歯磨きを何度も繰り返すのと、風呂・シャワーに入らなくなるのと、現象としては真逆に見えるが、結局は同じことだ。どちらも短期記憶が失われることによるものであり、洗顔や歯磨きは繰り返す負担が小さいから「わからないのならやっとけばいい」になるし、風呂・シャワーは負担が大きいから「わからないならやめとこう」となるだけのことだ。同様に、薬はいつも処方された量の半分くらいしか飲まないのだけれど(毎回の通院で残薬調整をお願いしている)、それも「わからないなら控えておいたほうが安全だ」という判断から来ている。このように、短期記憶がないという現象に対するその場その場の判断は適切に実行しているので、なんとか日常の自立を保っているともいえる。10日も風呂に入らないのは「なんとかなっている」のうちなのか? だいぶとギリギリのところまできているとはいえるだろう。

 

問題なのは、そういった日常のタスクではない。それ以外のことだ。それはたとえば見舞いであったり葬式であったりという非日常のことである。このことは以前にも書いた。非日常のことは社会との関わりでもあるし、ある程度の社会との関係性を保つことは高齢者といえど重要だと思うので、そこを遮断すべきではない。親戚の若い人たちがたまに子連れで老母を訪問してくれるのだけれど、それはいい刺激になるので本当にありがたい。思えば両親は彼らが子どもの頃に夏休みに長期に滞在させてあちこち連れ歩いていた。そんなことが思い出となって訪ねてきてくれるのだから、人の世話が巡り巡って自分のところに返ってくるのだということでもあるのだろう。そういった人と人との関わりは、長寿をささえるものでもある。

ただ、こういった非日常には、その対処に必ず記憶を必要とする。一般にというわけではない。老母にとっては、「事後にすべきこと」が重要なのだ。

「写真を送ってやらんといかんのやけど」
「いや、もうLINEでデータ送ってるから」
「そうか。もうそれでええんやね」

この一連のやりとりを何十回繰り返すことか。老母は若い頃、写真を趣味にしていた。なにせ、専用の暗室をもっていたほどの入れ込みようだったのだ。その時代、なにかイベントがあったら写真を選定し、トリミングし、プリントし、配列を工夫してアルバムをつくって関係者に贈るのが彼女の楽しみだった。そこまでするだけの体力がなくなってからでも、ベストショットを大きめの判にプリントして郵送するのは当然のことだと考えていた。世の中からDPEショップが姿を消していくと、性能のいいプリンタを買った。物理の形にして保存するのが常識の時代を生きてきて、その後は老境に入った。

だから、いまだに写真はプリントして郵送するものだし、その際に「ここをカットしてこのぐらい角度を直して」みたいなことを考えるのはあたりまえだ。だから、「ちょっとお願いがあるんやけど、この写真、こんな感じでプリントして送って」と言ってくる。いや、いまはそういう時代じゃないし、デジタルだから大量に撮れるし、だったらそのままデータを送っときゃ済むんだし、実際にもう送ったのだからということを説明しなければ納得しない。

そんな説明ぐらい、どうということはない。けれど、それを「写真を送ってやらんといかんのやけど」からはじまる依頼に対して1日に10回も20回もやらねばならなくなると、ちょっと「どうにかしてくれよ」という感覚が生じてくる。禁句だとわかっていても「さっき言うたやないの」と文句を返したくなる。そして、そのうんざりした顔が老母の感情を傷つけることになる。なんでこっちがうんざりしているかなんて覚えていないのだから、ただ「お願いしたことに嫌な顔をされた」という事実だけがそこに発生する。そして、そういうネガティブな記憶だけは不思議と消えない。

 

高齢者と付き合っていく上で、バテないためにはできるだけ多様な支援のオプションを用意しておくことが重要だ。だからこの春には「要支援」の認定もとったし、この夏には具体的に動かす相談もして、10月の頭からデイサービスの利用もはじめた。これに関してもいろいろと老母の思い込みと現実のズレみたいなことがあって、事細かに書いてもそれはそれで話にはなるのだけれど、とりあえず1点だけ書いておく。それはデイサービスに通いだしてすぐ、「あそこの支払い、あんたが出してくれてるんやろ。それは私が払わなあかん」みたいなことを言うようになったことだ。それもほぼ3分おきぐらいに。

もちろんそういう事実はなくて、利用料金は老母の口座から引き落としの契約になっている。その書類に記入・押印してサインしたのは老母自身だ。説明を受けて書類を渡されたら、そのぐらいのことはできる。そういった判断力、対処能力に何ら衰えはない。ただし、その事実を覚えていられない。即時に忘れる。

けれど、「何らかのサービスを受けたら対価を支払わねばならない」という長年の間に身に着けてきた生活技術は失われていない。そしてデイサービスは現金払いではない。よって、デイサービスに行くたびに、「支払いはどうなってたっけ」という疑問が湧く。そして、私に尋ねる。その返事に納得する。そしてすぐに忘れる。ただし、「支払いはしなければならない」という感覚は残る。よって、またすぐに尋ねる。これを永遠に繰り返す。

メモをすればいいのだ。実際、それは本人もわかっているからメモを取る。同じことを書いたメモがどんどん蓄積していく。蓄積するメモは、もはやメモの用をなさない。さらに、私がいないあいだには、「支払いどうなってる?」「立替えてもらってる分を払うこと」みたいなメモが蓄積している。それをすべて廃棄しないことには、いくら正しい状況を書いたメモがあっても意味がない。

あんまりにも面倒になったので、引き落としの契約時に受け取った控えを渡して「これに書いてあるから」と言ったこともある。すると書類を仔細に読み始め、
「へえ、あそこって会社の名前は屋号とちがうんやねえ」
みたいなやたらと細かいことに感心する。そして、
「それはそうと、支払いはどうなってる?」
「その先に書いてある」
しばらく読み進めて、
「この口座って」
「お母さんの銀行口座。そこから引き落とすことを書いた書類や」
「これ、私の字? 下手くそやね」
「自分の字くらいわかるやろ。私の字はもっとこんなふうや」
「そやね。私の字やね。下手くそになったなあ、って、もともとか。ところで、支払いはどうなってるの?」
「その支払いを引き落としするのに、そのサインがしてある」
「ああ、そういうこと。ふうん、いろいろ細かい説明もこっちに書いたあるわ。なるほどね。ところで支払いは?」

と、こんな調子だ。それでもようやくに理解できて、その書類を定位置にしまって、じゃあお茶でもいれようかとその支度をはじめて数分後、
「ところで気になってるんやけど、金曜日に行ってるところの支払い…」
と、新たな波状攻撃が始まる。正直、やってられない。

 

福祉関係の人の話を聞くと、「何を聞かれても、何回目でも、気にせずに〈そうですね〉と答えておいたらいいんですよ」みたいに言う。それはそうだろう。プロだ。

高齢者は、基本的にほぼすべての社会的責任から免除されている。もちろん法律を守ることとか契約に従うこととか、そういうレベルで責任を免れるものではないけれど、たいていのことは周囲が代行してくれることになっている。高齢者が最も気にかけるべきは自分自身の日常であり、「生きのびること」である。それが怪しくなっている要介護・要支援の人々はなおさらだ。それ以上のことはたいていは家族をはじめとする周囲の支援者が段取りしてくれるのだし、それが不可能な場合は福祉が手を差し伸べてくれる(はずだ。そうあってほしい)。だから、責任を負う必要のない高齢者には、当たり障りのない「そうですね」程度の無難な返答を返しておけばそれで足りる。ひどい言い方かもしれないが、どうせ3分たてば忘れるのだ。それよりは、その瞬間に幸せであるほうがよっぽど重要だ。「そうですね」という肯定の言葉には、それだけの力があるだろう。

一般論としてはそうだ。けれど、息子として老母に対峙するときに、それは通用しない。期待されていることが全く違う。外部のプロであれば、「あの人はなんかようわからん返事をするけど、とにかくちゃんと仕事はしてくれるし、いろいろ助かる。ありがたいわ」という印象になるだろうけれど、息子に対しては「人が尋ねたことにはちゃんと返事しなさい」と、教育的指導が入るだろう。いくら老境に差し掛かろうが、親は親だ。子どもには過度な期待をかけるし、期待通りに動かなければ「私の育て方が悪かった」ぐらいの惨めな気持ちになるだろう。

息子としては、親の疑問に対しては真摯に納得のいく答えを返さねばならない。それぐらいはわけはない。ただし、それが何回も同じ繰り返しになると、耐えられなくなる。悪気はないのはわかっている。それだけに、「どうにかしてくれよ」という気持ちになってくる。

 

老母を見ていて、人間は短期記憶なんかなくったって生きていけるものだなと思うようになった。自分の記憶がもたないような人生を、以前私は想像もできなかった。けれど、たとえ5分前のことを覚えていられなくなっても、自分自身がしっかりと状況に対応できるだけの判断力と行動力を備えていれば、生活はできる。自分のめんどうを見ることぐらいはできる。

その一方で、社会と関わるときには、短期記憶は重要だ。だから短期記憶が怪しくなったら仕事はできなくなる。それはもうしかたないとして、短期記憶がないと他人との関わりに支障をきたすようになる。なかなかたいへんだ。

たとえば、かつて田舎でかかわった高齢の婆さんのことを思い出す。そういえば、畑で「あんた、よかったらウチで使ってない備中あげるで」みたいに言われたことがあった。もらえるものはなんでももらいたいからと後で取りに行くと、「あんた、何しに来た」みたいな顔をされた。その頃の私に認知症の知識はなかったから「話の辻褄が合わんなあ」と思いながらも、特にほしいわけでもなかったから「いや、いいんですよ」みたいに帰ったのだけれど、あとでその家の人が「なんかうちの婆さんが変なこと言いましたか」みたいなことを言っていたな。

あるいは、私が東京から引っ越して2年ぐらいたった頃だったか、以前住んでいたアパートの前を通ったときのこととかも思い出す。まあ、懐かしいからちょっと回り道をして通ったのだけど、たまたま管理人の婆さんが表に出ていた。挨拶すると「まあ、珍しい」と話が盛り上がり、「急ぐのかい」「いえ」「じゃあ、お茶でも飲んで行きなさい」みたいな感じでアパートの裏の婆さんの家に通された。「あんた、今夜はどこに泊まるんだい」「まだ決めてないんですよ」「じゃあ、うちに泊まればいい」なんて話があって、なんとなくそのまま泊めてもらうことになった。それが晩飯もごちそうになって、テレビを見てる最中に「で、あんた、今夜はどうするんだい」と尋ねられて、ぎょっとした。いや、泊めてもらえるという話だったんじゃないのか? まあいまから安宿でも探すかと思っていると、「あんた、もう遅いから泊まっていけばいい」と、いま思いついたように言う。それで結局泊めてもらったわけだけど、あれも結局は短期記憶がなくなっていた状態だったんだなと、いまにして思う。

ただ、あの婆さんが豪快だったのは(他人を一人暮らしの自分の家に泊めるところもそうだけど)、忘れてしまっていても別に何も困らない鷹揚さがあったことだろう。そして常に相手が何を必要としているかを感じ取り、自分ができることを提案した。そのことを改めて考えてみると、短期記憶がないことがそこまで支障をきたすものでもないような気もしてくる。自分自身の芯がしっかりしていれば、短期記憶なんて、なくったって人と関われる。自分自身の言動が一貫していれば、記憶によって一貫性を保つ必要なんかないのかもしれない。

いまでも私は、あの夜、婆さんに聞いた話を覚えている。第二次世界大戦直後の復興期の東京を婆さんは文字通りもろ肌脱ぎになって土方仕事をやって支えた。この腕で舟いっぱいのコンクリを撹拌したんだと見せてくれた。そんな婆さんの思い出話は、私の宝物でもある。

短期記憶をなくした高齢者でも、そうやって人に宝物を与えることができる。それは高齢化が進んでいくこの国にあって、ひとつの希望ではないだろうか。うんざりする気持ちのなかにあっても。