倫理が論理に影響するとき - あるいは、学問は血塗られているという話

倫理と論理は、漢字の書き取り問題でよく一緒に出される。私は高校生になって倫理の授業が始まる瞬間まで、この2つを混同していた。最近の優秀な生徒はちゃんと区別している。ともかくも、ethicsとlogicsは基本的に別なもの。ただ、現実世界においてはこの2つは互いに影響する。たとえば、医療倫理とよばれるものがそれ。

www.med.or.jp

www.c-mei.jp

この4原則を補足する「医療専門職の義務の基礎となる二つの原則」というものもあって、それは「誠実」と「忠誠」。誠実の方の説明を読むと、

誠実の原則とは、「真実を告げる、うそを言わない、あるいは他者をだまさない義務」というものである。人に対して正直であることは、医療現場における信頼関係を構築する上で、特に重要です。なぜなら、患者との信頼関係なしに、治療効果やケアの効果を期待することは不可能であるからです。

倫理原則 | 日本看護協会

 ということが書いてある。なるほど。

なんでこんなことを思い出したかというと、こちらの記事を読んで「そういえば、プラセボって使えるよなあ」って思ったから。

blue-broccoli.hatenablog.com

偽薬効果と呼ばれるものはけっこう侮れないもので、場合によってはクスリそのものの薬効を上回る。あ、これは「プラセボのほうが効く」という意味じゃなくて、例えば治験のデータを分析したらプラセボ効果で数値が回復したと見られるデータと、コントロール後(つまりプラセボ効果を除いたあとに)数値が回復したデータと比べて、後者のほうが見劣りがするケースがある、というもの。この場合でももちろん有意な効果はみられたという結論にはなる。つまり、寄与率がどうみてもプラセボ効果のほうが大きいだろう、っていうようなものは、実際にある。まあそれでも効かないクスリよりはマシだけど(たまに効果が確認されなくて承認を取り消されるクスリがあったりするのは事実だから)。

余談が長くなったが、ともかくも、上記の記事の本題は「ホメオパシーのレメディ」なんだが、私が引っかかったのはプラセボのこと。

以前看護師として病院で働いていた時も、患者にこのプラセボを使う事が時々あった。

睡眠薬や痛み止めなどを使っても、不定愁訴を訴え続け(精神的な事からきているであろう)、これ以上薬をあげられない時に

「この薬は、すごく強力でよく眠れます。効果が強すぎるので、いつもは出せません」

などと協調して伝えると

翌朝「あの薬すごく効いたわ。また、あの薬出してくれないかしら?」とただの小麦粉が絶大な効果になっていた。

(※プラセボは、よっぽどの事がない限りしないので安心してください) 

「よっぽどの事がない限りしない」と言われても、これは医療倫理的にアウト。 なにせ、医療関係者には「真実を告げる、うそを言わない、あるいは他者をだまさない義務」がある。プラセボを偽って投与するのは明らかにこの原則に反している。(ただ、興味深いことに、プラセボ効果はそれが偽薬だと患者が知っていても発生するという研究があるらしい。何年か前にどっかで読んだ記憶がある。それを探しているのだけれど、まだ発見できないでいる。ブックマーク、しとけばよかった。なんにせよ、もしそうなら、話は簡単で、「これ、プラセボです」って言って砂糖玉を投与すればいいだけの話)。

医療の論理が「患者の健康を良好な状態に変えること」であるのなら、プラセボを使うことに躊躇してはならない。名医は聴診器を当てるだけで病気を治してしまう。意味のない形だけの行為であっても化学的には薬効のない白い粉であっても、それが治療に役立つのであればいくらでも使えばいい。ただし、ここに倫理が割り込む。倫理的には、説明責任を果たせない行為を医療関係者がしてはならない。だから、いくらそれが医療論理的に合理的であっても、患者を騙す行為はしてはならない。これが現代の常識。

だが、常識は時代とともに変わる。たとえば、治験。新薬の効果を確認するためには治験と称する人体実験をしなければならないのだが、これについては非常に厳しい倫理基準が設けられている。製薬会社はたいへんだ。CROとかいう専門の企業も存在する。現代のクスリは、そういった倫理基準と整合性を持たせてつくられている。

ところが、古いクスリはそうではない。どんな倫理基準で実施されたかも不明な治験データが元になっているものもある。だからといって、承認を取り消されることは普通はない。古くから使っていて、承認後の使用データも蓄積しているので、承認時の少々の怪しさは、なかったことにされる。医薬品の承認制度以前から使われているクスリには、もともと治験データさえない。実際に使っていて効いてるんだから文句をつける必要はない、ということらしい。少なくとも論理の上からは、そうなる。

同じようなことは、医学以外の人間が関わってくる実験でもいえる。たとえば、私が栄養学に対して一気に信頼をなくすきっかけになったのは河上肇の「貧乏物語」を読んだときだ。ここには絶対的貧困の基準を算出する根拠として一日の所要熱量を上げてあるのだが、その算出例としてあげてある人体実験がすさまじい。

しからば人間のからだを維持するにちょうど必要な熱の分量はこれをいかにして算出するかというに、これについてはいろいろの学者の種々なる研究があるが、試みにその一例を述ぶれば、監獄囚徒に毎日一定の労働をさせ、そうしてそれに一定の食物を与えて、その成績を見て行くのである。最初充分に食物を与えずにおくと、囚徒らは疲労を感じて眠ねぶたがる。何か注文があるかと聞くと、ひもじいからもっと食べさしてほしいと言う。そうして体量を秤はかって行くとだんだんに減ずるのである。そこで次には食物の分量をずっとふやしてみる。そうすると体重はふえだす。何か注文があるかと聞くと、今度はもう少しうまい物を食べさせてほしいというようにぜいたくを言いだす。食物に対する欲求が分量から品質に変わって来る。英国のダンロップ博士がスコットランドの囚徒について試験したのはこの方法によったものであるが、この時の成績(一九〇〇年パリーに開催されたる第十三回万国医学大会において報告)によると、二個月間毎日三千五百カロリーの熱量を有する食物を与えておいた時には、普通の体重を有する囚徒のうち約八割二分の者は次第にその体重を減じて来たが、三千七百カロリーの熱量を有する食物を与えてみると、約七割六分の者は次第にその体重を増加するかまたは維持することができたという。すなわちこの時の試験によると、三千五百カロリーの熱量を有するだけの食物では少し不足だという事になるのだけれども、しかし試験に供せられた囚徒は日々石切りを仕事としている者で、相当激しい労働に従事していたわけなので、現にダンロップ博士自身も普通の人で軽易な仕事をしておる者には三千百カロリーの食物で充分だろうと言っているのである。

河上肇 貧乏物語

もしも同じ実験を現代で再現しようとしたら、倫理上、大問題を引き起こすだろう。このような例は、実際いくらでもある。たとえば、こちらの記事で紹介されていた高齢者対象の実験:

blog.tinect.jp

この元論文は、ブコメid:AKIMOTOさんの指摘によって

www.ncbi.nlm.nih.gov

らしいと判明した。そして、id:t-tanakat-tanaka さんが

「コントロールが重要」という主張には異論は全くないのだが,この実験の話は事実だろうか? あまりにできすぎているし悲惨だ。

と書いておられるように、倫理上、非常に問題がある実験。しかし、この論文が1976年に発表されているという事実を勘案すると、「ああ、そんなもんかもなあ」と思う。倫理基準が、いまとむかしではちがう。いまなら、こんな実験は相当に困難だろう。

 

さて、何が言いたいのかといえば、倫理基準が時代によってちがうとはいえ、私たちはいま、現在に生きている。ということは、いまの倫理基準で自分たちのことを考えなければならない。現代の倫理基準で過去の行為を批判するのはお門違いだが、同時に、現代は過去の上に成り立ってるのだということを忘れるのもまた愚かだ。特に、学問は、ほぼすべて、過去の巨人の肩の上に乗っている。過去の研究がなければ、現在の研究はない。そして、その過去の研究が現代の倫理に照らしておかしいものであれば、その研究を行ったことそのものに対してではなく、その結果に対しては当然批判的でなければならないのではないだろうか。

というところで、残念ながら時間が尽きた。買い物にいかなきゃ。掃除機もかけなきゃ。家事労働は待ってはくれない。こっから先、まだまだ書くべきことがあるんだけれどなあ。家事労働まで労働時間に入れるんなら、月100時間残業なんて、軽く超えてるかも。まあ、それは別の話だし。