カナリアは死ななくていい ─ もしくは、よりよい未来をつくるために

大義のためにはLED

「LEDって、みんな平気なの?」

突然そう尋ねられたのは、車がトンネルの中を走っているときだった。

「LEDの光って、刺激が強すぎない? 気持ちが攻撃的になってしまう」

確かにLEDの光は人工的だ。けれど、私はそこまでは思わない。光の波長が極端に偏ったLED光は、確かに自然な光線ではない。白っぽいのはもちろん、無理に温かみを出そうとした電球色のやつとかでも、つくられた光の感覚は消えない。けれど、だからといって、その刺激が気持ちを攻撃的にするとまではいえない。もしも私がそう思っていたら、省エネ推進、地球温暖化対策のためにつくられた部署で1年間勤務することなどできなかったはずだ。LEDの光は多少不快かもしれないが、それはメリットとのトレードオフだと考えてきた。

そんなことを答えると、

「やっぱり私みたいな人間には生きにくい世界ね」

みたいな言葉が返ってきた。人工的な光が、どうにも耐えられない。自分の部屋なら自分の好きにできるとしても、コンビニやスーパー、公共機関や道路なんかの照明がどんどんLEDに置き換わっていく。不快だからといって、経済性、あるいは地球環境問題といった大義には勝てない。やめてくれとまではいえない。それだけの力も権威も合理性もない。

そうなると、「LEDはつらいな」と思いながら耐えるしかない。押し黙るしかない。

未来は変わる、と思う

大多数の人が感じないことを感じる能力は、「優れた感受性」と持ち上げて表現することもできるかもしれない。しかし、実際には規格に合わない不便な感性でしかない。少なくとも、それを生きている人にとってはそうだ。規格外の不良品。社会的に見れば少数者であり、多くの場合、弱者になる。少数者イコール弱者ではないが、少数者が弱者になる場合が多いのは、社会的な基準が多数者に合わせてつくられるからだ。多数の人が不都合を感じないLEDの照明は、その優れたエネルギー効率から時代の寵児となる。私のような多数派の人間は、そこに何の問題も感じない。

社会の方向性は、「最大多数の最大幸福」で決まる。仮にそうだとしたら、多数の幸福のためには少数者の不便はがまんしてもらうべきなのだろうか。民主主義の教科書はそうは教えない。少数者も社会の一員である以上、その権利は守りましょうと書いてあるはず。しかし、実は少数者を尊重することにはそれ以上の意味がある。積極的に少数者が果たす役割があるからこそ、その存在は尊重されねばならない。

どういうことか。たとえば、上記のLEDだ。もしも彼女のような過敏な人、LEDの極度に波長の偏った光に疲労を覚える人がいなければ、このままのLED電球が普及していくだろう。もちろん、製品としての改良はどんどん進んでいく。エネルギー変換効率は上がるだろうし、寿命も伸びていくかもしれない。けれど、波長の問題は、おそらくたいして進歩しない。ところが、「それでは具合がわるい」という人がいて、その発言が社会的に影響力をもつとしたらどうだろう。おそらく、偏った波長の分布をなんとかして訂正する方向、どうにかして自然光に近づける方向に改良が進む。そして、それは実のところ、多数派にとってもそんなにわるいことではない。メリットとデメリットを天秤にかけたらやっぱりLEDかなと思っている私のような人間でさえ、実はLEDの無機質な光線は「ちょっとなあ」と思っている。「やめてくれ」とまでは思わないけれど、「もうちょっと自然光に近くてもいいのにな」と思っている。もしもそういう方向に改良が進めば嬉しいだろう。意識はしていないが、実際にそうなれば喜ぶだろう。2つの製品がそれほどの価格差もなく出ていたら、たぶん、刺激の少い光を選ぶはず。

カナリアの末路 

少数者の存在が社会にとって有益なのは、それが小さな問題を増幅させて見せてくれるからだ。社会的弱者は、よく炭鉱のカナリアに喩えられる。かつて炭鉱では、鉱夫たちはカナリアを連れて行ったといわれる。身体が小さく代謝率の高いカナリアは、一酸化炭素中毒に対する耐性が低い。もしもカナリアが死んだら、それは体力のある人間にとっても危険信号だ。すぐに逃げなければならない。脆弱な社会的弱者が苦しみだしたら、それはまだ苦痛を感じない多くの人々にとっても問題が発生しているというサインだ。だからこそ、社会的弱者には存在意義がある、と。

この話をしたら、

「結局、私は死んでしまうんだ。死ぬことが私の役目って、あんまりじゃないの」

と、嘆きの声が返ってきた。そう、このカナリアの喩えはあんまりだ。そうではない。少数派の感受性は、危機のときだけはたらくのではない。惨事から逃れる警報としてだけでなく、人間の進むべき未来の方向を示す上でも、大きな示唆を与える。だからこそ、少数派の存在は尊重されなければならない。

少数派は、多数派と同じ個人として、同じだけ尊重されるのではない。基本的人権としては、同じになる。けれど、もしも社会を進歩させたいのであれば、その声は多数派以上に尊重されるべきだ。可能な限り、小さな声は大きくとりあげられねばならない。もしも、明日が今日よりもいい日であることを願うのであるならば。