日本語は難しい

形容動詞は嫌い

数日前、こういう記事を書いた。

mazmot.hatenablog.com

そのなかで、かつて社会学の領域でpovertyの訳語として使われていた「貧乏」が「貧困」に置き換わった理由を言葉の劣化によるものではないかと推測した。「貧乏」が古くから日常的に使われてきたから劣化したのではないかと考えたわけだが、ひょっとしたらこれは外していたかもしれない、と思った。古くから使われてきたことによって起こったのは、劣化ではなく、別の変化であったのかもしれない。

というのは、「貧乏」は名詞だが、「貧乏な」という形容動詞の語幹でもある。その一方で、「貧困」はあくまで名詞であって、形容動詞の一部を構成しない。ちなみに形容動詞というのは学校文法の中での厄介物のひとつで、個人的には「形容動詞なんて存在しない、これは名詞と助詞の組み合わせに過ぎない」という説に賛同したいのだが、同じ学校文法内にある副詞の性質との整合性がいいので、否定しきれないでいる。形容動詞を見分ける最もかんたんな方法は、副詞が修飾するかどうかをチェックするもの。たとえば、「とても」をつけてみる。「とても貧乏な」は可能でも、「とても貧困な」は、違和感がある。そういうことだ。

どの程度違和感があるのかといえば、たとえばGoogle検索で「晴天」という検索語は49,300,000件ヒットするが、「とても晴天な」はわずか 267件しかヒットしない。これが「爽快」だと67,700,000件のヒットに対して「とても爽快な」は17,600と、約50倍の頻度でケタ違いの用例がヒットする。「晴天」は形容動詞の一部を構成していないことがこれで確認できる。では、「貧乏」と「貧困」はどうかというと、「貧乏」20,600,000件に対して「とても貧乏な」は5,590件とほぼ「爽快」と同じ発生頻度。つまり、「貧乏」は明らかに形容動詞の一部を構成している。その一方で「貧困」21,400,000 に対して「とても貧困な」は655件。発生頻度で約9倍の差が発生している。つまり、「貧困」は、「晴天」ほどではないにせよ、形容動詞の構成要素としては認められていないことがわかる。

これは、言葉の劣化とは関係がない。たとえば「風俗」という言葉は法律用語のおかげですっかり劣化してしまっているが、「とても風俗な」は検索数はほぼゼロに近いひと桁で、誤差の範囲に収まる。つまり、ある言葉が形容動詞の一部を構成すると人々が認めるかどうかはあくまでその言葉の意味内容によるものであって、劣化の程度とは独立したものらしい。

再び、「貧困」か「貧乏」か?

さて、「貧乏」が名詞としてだけではなく形容動詞の語幹として認識されることで、学者にとってはどのような不都合が生じるのか。それは、英語に戻して考えてみればわかる。先の記事で書いたように、povertyには、ほぼ「物質的な不足が生じている状態」という意味しかない。ところがその形容詞型のpoorには、同じWebsterによれば、

Full Definition of poor

  1. a : lacking material possessions
    b : of, relating to, or characterized by poverty
  2. a : less than adequate : meager
    b : small in worth
  3. : exciting pity <you poor thing>
  4. a : inferior in quality or value
    b : humble, unpretentious
    c : mean, petty
    (5以下は省略)

と、 3番、4番に「憐みを催させる」とか「劣っている」などの価値判断を含んだ意味合いが紛れ込んでくる。そしてこれは「貧乏」においても同じことで、「貧乏だ」という形容動詞にはやはり価値判断がはいってくる。これがおそらく、名詞としての「貧乏」に還流して、漢字に含まれる意味を超えて、「財産や収入が少なく,生活が苦しい・こと(さま)。」(大辞林)と、「苦しい」という主観的な意味を加えてしまう。そこで、実際の漢字構成としてはこちらにこそ「困っている」意味が入っている「貧困」が、形容動詞的な使われ方をされないが故に、客観的なpovertyの訳語として採用されるようになったのではないだろうか。

いや、実際のところ、経緯はわからない。前にも書いたように、「貧」は多くの場合「困」を引き寄せる。だから「セットでひとつ」と考えて「貧困という熟語を採用したのもわからなくもない。けれど、やはり学問の世界では客観的に測定可能な量と測定不可能な現象は分けて考えたほうがいい。

そういう意味では、文字づらが客観的な「貧乏」が主観的な意味を強くもち、文字づらに主観的な「困」を含んだ「貧困」が客観的な指標として使用されているのは本当にどうかと思う。どうかとは思うが、やっぱり主観的には「貧困」ではなくて「貧乏」を使いたい。

長すぎる話は嫌われるのだけれど

特に、自分自身のことをしゃべるときには、「貧困者」と名乗るよりは「貧乏人」と名乗りたい。どっちが正しい表現かといえば、おそらく現在の用法では私は「貧困」に相当するが「貧乏」ではない。年収が余裕で貧困線以下なのは疑いのない事実だからだし、だからといって経済的に困っているかというとさほどには困っていないからだ。

けれど、私は自分のことを「貧困者」とはよばない。その一方で、「金持ちとビンボー」なら、ビンボーの感覚のほうがよくわかる。だから自分のことを貧乏人とよんでも差し支えないと思っている。

とまあ、このあたりのことを3行ぐらいで書いて本文にはいろうと思って書き始めたこの記事なのだが、前置きだけで長くなりすぎた。ちょっと経済のことでも書こうかと思ったのだけれど、いっこうにそこに入れる気配がない。だから、本文はまたの機会にゆずることにしよう。今日はここまで。