「宿題論」を書く前に - ある生存者バイアス

子どものころから宿題ができない。いまだに宿題となると、とたんに進まなくなる。実は、数年前から書こうとして書けていない文がある。自分にとっての宿題なのだけれど、これがなかなか仕上がらない。忘れたわけではない。デスクトップの目につくところにずっとファイルを置いてある。やらなきゃなあと、いつも思う。けれど、進まない。ファイルを開いて、ここまで書いたところを読み直して、続きを考える。ときには文をすこし手直ししたり、一行、あるいは一段落と、書き進めることもある。ほとんどの場合は、そこまでだ。開いただけで閉じてしまうことも少なくない。

どんなテーマについて書いているのかといえば、それは「宿題」だ。宿題は、私の仇敵だ。子どものころにそれで嫌な思いをして、それでもそれを黙殺することでどうにかやり過ごし、学校から離れてようやく宿題のない世界で生きてきたというのに、気がついたら家庭教師として今度は宿題を出す側に回っている。黄金則は「自分がされて嫌なことは他人に対してするな」だから、私は宿題を出したくない。けれど、宿題を出すことは業務規程の中に組み込まれている。ぜひともそれに抵抗して、宿題から自由になりたい。抵抗するためには理論武装が必要になる。そのために、「宿題論」を書かねばならない。書ける。だって現在行われている宿題は、あまりに非論理的で、あまりに非科学的なのだ。そこを突くことはできる。勝ち目はある。

けれど、書きはじめると、これが進まない。宿題は私にとって嫌な存在だ。嫌な存在に向き合うのは楽しくない。だから、たとえそれを打ち砕くためとはいえ、そのことにかかずらわるのは気が進まない。無意識にも避けたくなって、結局は宿題として積み上がる。情けない話だ。

 

だから、宿題批判はそっちの方でいつかまとまる予定として、今日は自分の思い出に絡んだ話でも書こうかと思う。中学3年で習う因数分解だ。

因数分解は、現行の学習指導要領では中学3年に配当されている。これは多項式の展開とセットになっていて、まずは「展開公式」を覚えるところからスタートすることになっている。私はこの展開公式について、生徒に「これは、無理に覚えなくても、総当り式でひとつひとつ項をかけ合わせていったほうがまちがいが少ない。公式を暗記して点数を取ろうなんて考えないほうがいい。ただ、じゃあなんで教科書に公式として載ってるのかってことだ。実はこれ、このあとに逆向きの計算をするときに必要になる。だから、公式は展開で使うんじゃなくて、次の因数分解で使うために覚えるわけだ」みたいな説明をすることにしている。つまり、なんだかんだ言って公式を覚えるように生徒に勧めている。そして、それにもとづいて、因数分解の問題をパターン別に反復練習させる。パターン別にやることが肝心で、それによって、公式の暗記だけでは解けないタイプの因数分解もできるようになる。このあたりの方法は、学校や塾でやることとほとんど変わらない。ある意味、ごくごくオーソドックスなものだといえるだろう。

たとえば、

  f:id:mazmot:20210523223018p:plain

というような式を因数分解しろというような問題があったとする。もちろんこの問題は、

  f:id:mazmot:20210523222829p:plain

と、2項ずつ括りだして、

  f:id:mazmot:20210523223305p:plain

因数分解するわけだ。中学数学の教科書記載の範囲内では最も技巧的な因数分解だと思う。実際、学校で一度は習うとはいえ、何の対策もせずにこれが解ける生徒はあまり多くない。そこで、反復練習を実施する。類題を次々に解かせる反復を、2セットぐらい実施すると、だいたい解けるようになる。

多くの教師にはそれがわかっているから、こういった問題の反復は宿題に出したくなるだろう。私は自分のポリシーとして宿題には出さずに授業中に反復させるけれど、ふつうだったら宿題に出す。だから、もしも宿題をサボる生徒がこういうタイプの問題に遭遇したら、点数はとれない。基本的に教師はそんなふうに考えている。宿題にするかどうかはさておき、私もそういう観点から反復練習をする。それを否定するつもりは毛頭ない。

けれど、数十年前を思い出してみて、自分がそういう反復をやったかといわれると、確信をもって答えられる。否だ。なぜなら、私は小学1年生のときに宿題プリントをやろうとしてうまくできなかった一件以来、ずっと「宿題ができない子」だった。小学校低学年のうちはまだたまにはがんばって宿題を(ごくごく中途半端に)やったこともあったけれど、高学年以降、中学高校大学を通じておよそ宿題を一切やらなかった。当時の中学校の数学では、いまとちがってあまり問題演習みたいなことはしっかりやらなかったから、授業中に反復したこともないだろう。学習塾とかも行かなかったし、宿題もしない生徒が自主的に問題集を開くわけもないので、あらゆる教科に関して、問題集の反復練習はやったことがなかった。これはまちがいがない。

では、この因数分解の問題は解けなかったのかといえば、中3の実力テストだったかなんだったかで、解けずに悔しい思いをした記憶が残っているから、やっぱり解けなかったのだと思う。いまでもペケのついた答案用紙が目に浮かぶような気がするから、よっぽど悔しかったのだと思う。じゃあ、その悔しさをバネに反復練習をしたのかといえば、そんなことはない。コツコツと机に向かって勉強するのが最も苦手だった私は、「ちくしょうめ、次は負けるもんか」と思うだけで、何もしなかった。

では、次に同じような系統の問題が出たときに解けなかったのか? いや、「負けるもんか」の負けん気だけで、本番試験では正解を叩き出した。そのときの思考回路はこうだ。「どうせ、()×()の形に因数分解できるにきまってる。aとxがかかっているから一方のカッコの文字はaで、もう一方がxにちがいない。一方、6という数があるから、これは2×3だろう。ということは、a+3とx+2じゃないだろうか。やってみよう。えっと、符号がちがうな。符号を変えてみよう。えっと、係数が合わない。じゃあ、3と2を入れ替えたらどうだろう。あ、うまくいった。よし、これでOK」という具合だ。負けん気でアドレナリンが出まくりだから、このぐらいのことを考えて正解を書くまで、ものの1分もかからなかったはずだ。

一時が万事、そんな具合で、反復練習の効果が最も高い放物線問題も、そんな対策はひとつもなしのまま、当て推量と概算と検算の繰り返しで正解に達してしまった。他の教科も似たようなものだ。だから、中学校の教師たちから全力で「お前はあの学校を受けるな。通らないんだから志望校を変えろ」と止められていた進学校に、奇跡の合格を果たしてしまった。

 

私は、こんなアホな方法を自慢するつもりはない。まして、生徒には絶対に勧めない。ただ、あのころの自分の感覚はよく覚えている。受験勉強をしろと、教師からも親からもいわれる。一つ上の兄がいるから、受験勉強には問題集を用意して、それを繰り返し解けばいいんだということもわかっている。けれど、自分にとって、もっと大事なことがある。そのころの私にとって、最も重要なことは、小説を読むことだった。読書家の友人に影響され、それに負けてはいけないと、毎日毎日文庫本を抱え込んでいた。特に太宰治は繰り返し読んだ。いくらまだまだ昭和の頃だったといえ、戦争前に書かれた小説を中学生が1回読んだくらいでは何も理解できない。だから、何度も何度も繰り返し読んだ。腹に落ちるまで読まなければ、安心ができなかった。そういう駆り立てられるような気持ちでいるときに、勉強なんてできるわけがない。受験勉強と読書と、自分にとって重要なのがどちらなのか、自分自身の感覚としては火をみるよりも明らかだった。だから、受験勉強は何一つしなかった。できなかった。

そして、最終的に役に立ったのは、そうやって得た「読む力」だった。その後社会に出るまで一切の宿題を拒否し続けた私がそれでもなんとか生きのびてこれたのは、「日本語で書いてあるものなら、基本的に何でも理解できるはずだ。なぜなら自分は日本語が読めるのだから」という自信のおかげだ。「物理学の教科書だろうが数学の教科書だろうが、それが正しい日本語で書かれている限り、理解できないはずはないだろう」という過剰な自信があるから、どうにかやってこれた(もちろんそれが通用しない本当に高度な学問の前では、あっさりと敗退を続けたのだけれど、それはそれで生きていく上で特に不都合にはならなかった)。その後は、これに英語が加わった。「英語で書かれていることは基本的に理解できるはずだし、それを日本語で表現することも不都合なくできるはずだ」という思い込みだけで専門書や論文の翻訳をやってきた。これもまあ自信過剰なうちではあるのだけれど、あながちインチキばかりでないことは、クライアントたちに聞いてもらえればわかるはずだ。

 

結局のところ、私のような家庭教師が、「この単元で点を取るためにはこういう訓練がベストだ」と経験上で力説し、そして(私のような宿題アレルギーでなければ)「じゃあ、生徒のためにこれだけの宿題を出してやろう」と設計し、課題を出すことは、たいして意味がないのだ。教師の知識・経験から、おそらくその言葉にウソはない。彼がいうとおりに宿題を実施すれば、たぶんまちがいなく点数は上がるだろう。だが、それが生徒本人にとって本当に正しいかどうかは別問題だ。

私は、反復練習をさけることで、確かに本番入試の問題を解くときに、余分な時間を空費したかもしれない。いくつかのミスもしたと思う。合格は(後で聞いたところでは)ぎりぎりのボーダーラインだった。勉強してればもっとラクに合格できたのかもしれない。けれど、その犠牲を払うことで、私は反復練習に費やさねばならない多くの時間を手中にした。その時間を使って自分の本能がこっちだと示すことに集中することができた。それが私という人間をつくりあげ、ここまで生きのびさせてくれた。

だから、宿題を出す側の論理がいかに正しくても、それは絶対ではない。なぜなら生徒の人生は生徒自身のものでしかなく、それがどのように展開するのか、教師には絶対に読めないからだ。だからこそ、教師は宿題を出す上で慎重でなければならない。それが生徒に与える影響をしっかりとモニタし、常に最適になるように調整してやらなければならない。それができないのなら、宿題なんて出さないほうがよっぽどマシだ。なぜそうなのか、詳しくは、書きかけの「宿題論」で書くつもりだ。そのつもりだ。つもりなんだけど、書けるかなあ。なにせ、宿題ほど苦手なものはないので…

自尊心がなければやってらんない、という話 - The Greatest Love of All

家庭教師やってると、失敗ばかりでときにはイヤになる。生徒とのセッションは基本的には楽しい時間だ。けれど、それが結果としてどうなのかというと、たとえば「やっぱりここ、まちがえるかよ」とか、「なんでテストの点数が伸びないんだよ」とか、客観的にみて失敗に分類されるようなことばかり起こる。生徒とはあらかじめしっかりと話し合って目標とかマイルストーンとかを決めてある。それにもとづいてこっちはこっちでいろいろと作戦を立て、ストーリーを描いている。そのストーリーどおりに進むことのほうが少ない。だいたいは、「あー、あ。やっちまったよ」みたいな後悔の連続になる。

それでもおもしろいもので、生徒は成長していく。人間ってのは、どんな障害があってもそれをはねのけて育っていく力があるんだと感心する。まるで舗石を突き破って筍が伸びてくるように、力強く伸びてくる。そういうのを見てると、「下手な家庭教師なんて要らないよなあ」とも思う。世に「親はなくとも子は育つ」というけれど、庇護したり、導いたりする外部の力がなくても、人間は自力で成長する。むしろ、そういった外部からの介入を跳ね除けるように育つ。周囲からの働きかけは、むしろ邪魔になるようにさえ感じられる。

明らかに周囲からの干渉が成長を阻害する場合のひとつは、その干渉が生徒の自尊心を傷つけるものであるときだろう。なぜなら、自尊心こそが成長の原動力だからだ。いまもっている生徒にも、その親が「この子はプライドばかりがやたら高くて」とこぼす中学生がいるが、私はその生徒を高く評価している。なぜなら、プライドが高い人は(それが虚栄心による外見的なものでない限りは)、たいてい、そのプライドに見合っただけのことをやってのけるからだ。もちろんそのためには条件を整えてやらなければならない。それはこっちの仕事だ。プライドだけでどうにかなるものではないが、プライドのない人は、いくら条件を整えておいてもなかなかそこに食いついてこない。プライドは、正常な自尊心があることの表現だ。私はそれを何よりも尊ぶ。

だから私は家庭教師として、その自尊心を傷つけるような言動は意識して避けるようにしている。冒頭に書いたように失敗もあって、相手の性格を読み間違え、自尊心に訴えたつもりでそれを挫くような話し方をしてしまったことも、つい1年ほど前にはあった。客観的指標の失敗よりも、こういう失敗のほうがダメージが大きい。結局その生徒からはクビを切られたのだけれど、いまだに寝覚めがわるい。生徒の自尊心は決して傷つけてはならない。

しかし、子どもたちには、家庭教師なんかよりも遥かに影響力の大きい存在がいる。日常的に生活をともにする家族だ。特に親の影響は大きい。そして、親が常に自尊心を傷つけるような言動をとっていれば、生徒には逃げ場がなくなる。自尊心を失った生徒は、天与の成長力を失っていくだろう。自尊心は世界に対する信頼と裏表の関係にある。自尊心を失えば、世界に対する信頼が失われる。それは世界に対する扉を閉ざすことになる。これはどう考えても好ましいことではない。

「お前はバカだ」「努力が足りない」「なんでわからないの」「人並みのこともできない」みたいな「叱り」言葉を発する親は多い。ときには家庭教師の面前で子どもに向かってそんなことを言う親もいる。家庭教師の前では言わなくても、指導中、生徒がポロッと「頭が悪いって親に言われるから」みたいにこぼすこともある。ときには、なにがなんでも子どもを否定にかかる親だっている。たとえば、この匿名日記の記事で描かれたケースなんかはそうだ。

anond.hatelabo.jp

彼が言うには、勉強をしなくなったのは親がバカにしてくるから、とのことだった。

勉強するとバカにされるの? と聞くとそうではなく、自分が何かしら知識を言うと、子供のくせにとか、どうせテレビやネットで見ただけだろうとか、知っていること自体を非難されるのだという。

他にも自分が正しいことを言っても聞いてもらえない、頭ごなしに否定されるなどといった不満があるという。

そういった積み重ねで、だったらもう自分はバカでいい、勉強なんかしないと思うようになったということらしかった。

「勉強しろ」と子どもにいいながら、その成果が出てくると、それを否定するようなことを言う。そりゃ、勉強なんかしたくなくなるだろう。家庭教師がいくら作戦を立て、ビジョンを示し、ストーリーを描いても、これでは前に進むはずがない。ある意味、手のつけようのないケースだ。

子どもの自尊心はズタズタになっている。そこに手当することが必要だ。自尊心を取り戻せるような介入をしなければならない。だが、もしもそうやって成果が出ても、またその成果は親によって否定されてしまうだろう。生徒だけ見ていても、問題は解決しない。

親に対して、「生徒を否定するのをやめてください」と直接言うべきだろうか。「そんなことをしていたらダメです」と強く言うべきだろうか。それは言えない。もちろん、直接的な雇い主である親に対してそういうことを言ったら立場がなくなる(つまりクビを切られる)という事情はある。けれど、それが理由ではない。ここで親に対して考え方を改めるように言うのは、事態を決して改善しないからだ。

なぜ親が、子どもを否定するのだろうか。その心理を考えてみよう。子どもが何か言ったときに、それに対して否定的な発言をしてしまうのは、親の側に余裕がないからだ。外見上余裕があるように見えても、実は心理的にかなり圧迫されている。というのは、他者に対して攻撃的になる人の多くは、不安を抱えていることが明らかになっているからだ。親は、明らかに自分の子どもに対してさえ攻撃的になっている。これは不安の裏返しだ。

不安はさらに複雑なかたちをとっている。というのは、子どもは他者であると同時に、親にとっては自分の延長でもあるからだ。根拠もなく自分と同一視するのが、一般的な親の心理だ。だから不安である親は、その不安から逃げようとして、自ら努力するのではなく、子どもに努力を求めることになる。その上でなお不安であるから、ほとんど自傷行為に近い心理で子どもにきつくあたることになる。これが、一方で「勉強しろ」と要求し、そのために家庭教師までつけながら、他方で「そんなことはだれでも知ってる」みたいにその成果を否定にかかる親の心理なのだ。

つまり、こういった親に欠けているのは、世界に対する信頼感なのだ。そして、世界に対する信頼は、自尊心の裏返しだ。結局、親に自尊心が欠落していることが、根本原因である。そんな親に対して、「そんなふうに子どもを否定してはダメですよ」みたいに「原因はお前だ!」的な対決をしたらどうだろう。ただでさえ自尊心が失われているところに、さらに致命的なダメージを与えてしまう。これは問題を解決しないどころか、さらに深いところに突き落としてしまうだろう。

だから、こういうケースでは、子どもに向かっても、親に向かっても、表裏なく、褒めることを中心に状況を改善していくしかない。親は、(それがいいことかどうかはさておいて)心理的に子どもと自分を同一視している。子どもを褒めることは、親の自尊心を回復することにつながる。親の自尊心が回復しないことには、子どもの自尊心は回復しない。

だから、子どもを褒めることは、子ども自身の自尊心を回復する上で、二重の効果がある。ただ、褒めるためには、褒めるに値するだけの成果をあげなくちゃいけないんだよな。で、またそれが、この状況だとえらい難しくて。やれやれ、たいへんだ…

 

youtu.be

非政治的存在がない世界におけるノンポリ

「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」と論じたのは紀貫之だが、そんなこといわれたって、誰もが歌人であるわけはない。私だって三十一文字のうたはつくらない。平安の雅な世は知らず、現代では、歌人のほうが希少種だ。だがもちろん、貫之の意図はそうではない。蛙の声に歌を感じる貫之は、人々が日常発する言葉の中に「歌」を見る。ポップソングや演歌やラップも歌であるのは当然として、もっと幅広く、声として外に出てくる人の心の端を歌というのだろう。日常に思わず口をついて出る心の叫びこそが歌だ。なんならTweetだってブコメだって歌である。そういう意味では、たしかに歌をよまないひとはいない。

人間は政治的な存在である、というときの「政治的」の意味も、似たようなものだ。たとえば私が「キムチはどうも苦手だ」と言ったとして、そこにはひとかけらも政治的な意図はない。うまいと思ったことがないとは言わないし、それどころか「たしかにこのキムチは絶品だ」と感じたことも何度かはあるのだけれど、やっぱり振り返ってみて、キムチはどうも苦手だ。自分の食生活の中にうまくなじんでこない。アトピー的な体質で刺激物に弱いということもあるのかもしれない。非定型発達気味でにおいに過敏であるせいかもしれない。進んで食べたくはないし、できれば食卓にはないほうが嬉しい。ほぼ純粋に、味とにおいに関する好みの表明だ。けれど、これはほとんどの場合、政治的な発言となる。なぜなら、キムチは朝鮮半島の文化であり、その地は日本が長らく不法に占拠していたものであり、そしてその関係で日本には根深い民族差別が存在するからだ。だから、「キムチが嫌い」発言は、民族差別を容認するもの、あるいは、そういった民族差別に対する意識が欠落しているものであるという政治性をおびてしまう。

そこで私はよっぽど必要に迫られない限りは「キムチが苦手」みたいなことは言わないようにしている。だが、それもまた、政治的な行動であるわけだ。政治的な意図と無関係な自分の嗜好を発言することによって政治的な誤解を受けることを避けたいという動機は、そういう誤解を受けることによって自分が政治的に不利な立場になることを避けたいからに違いない。それを政治的と言わずしてどうなのよ、ということだ。

以前にも書いたのだけれど、多様性なんか知ったこっちゃない空気が支配していた1970年代、政治的立場は右と左とノンポリに分類されていた。ノンポリは当節あまり耳にしない言葉だが、non-polotical の略語で、「非政治的」なひとということだ。つまり、右だの左だのかしましく言う人に対して「自分はそういうのに興味ないから」という立場を「ノンポリ」と(少なくともそれを自称として使う人は)表明していた。もちろんそこにはいろんな微妙なニュアンスがあり、「自分は心情的にはあなたの言うことには同調するけれど、一緒にゲバ棒を振るのはイヤだ」というような場合も「ノンポリです」みたいに言ったのだと思う。あるいは、「あいつはシンパだと思ってたけどノンポリだったわ」みたいに侮蔑的に言われたのだと思う(まあ、私はゲバ棒振ってた世代ではないので、このあたりは想像だけど)。

そして、この「ノンポリ」が、決して非政治的でないことは、古今和歌集仮名序を持ち出すまでもなく、当時から指摘されていた。「ノンポリプチブルであり、人民の敵である」みたいなアジビラがそこらに舞っていたような気もする(あくまで個人の印象です)。政治対立があるときにその対立から中立であると表明することは、多くの場合、力のある側を利することになる。だから、「ノンポリ」であることは、結局は権力者側につくという政治的選択である、と、激しく批判されたわけだ。

しかし、当のノンポリ枠であった自分自身の感覚から言うならば、ノンポリは、本当に政治に対して関心がないひとであった。なんでもかんでも「闘争だぁ」みたいに言うのはちがうんじゃないのと、違和感を覚えているひとであった。そりゃ、理屈で「ペナントレースで上位チームの引き分けは1勝の価値があるというのはわかるんやろ」みたいに詰められると、「まあ、そりゃそうやろな」と納得しないわけではない(あ、実際にはそういうことじゃないからね)。自分がノンポリとして生きることが結局は保守政権を生きながらえさせることになるんだと言われて「そりゃそうだなあ」と思っても、だからといって政治的な関心が高まるわけじゃない。選挙に行って対立候補に一票入れるぐらいでお茶を濁しても、「これってきっと、政治的なひとからは批判されるんだよなあ」と思いながら、「ほかにどうせいっちゅうねん、知らんもんは知らんがな」と思うしかない。だって、本当に関心がないのだ。そういう意味で、「ノンポリ」の本人の感覚は、嘘偽りなく、非政治的である。

本人の感覚が非政治的であることは、実際にそのひとの存在が非政治的であることを意味しない。社会生活から逃れられない人間という種にとって、すべての個人は政治的な文脈の中に存在する。だから非政治的な動機で始まった個人の行動は、多くの場合、政治的な意味合いを持つことになる。次のエピソードはきっちり取材したわけではないので寓話と思ってほしいのだが、1970年代末だか80年代初頭だかに、生徒にダンスを教えたいと思った体育教師がいた。サタデーナイトフィーバー以来のダンスをフィーチャーした映画がヒットし、フラッシュダンスのブレイクへとつながっていく時代だった。ディスコにルーツのあるそういったダンスを生徒にやらせてみたら、授業に対する態度が一変した。これはおもしろいと、彼女は思った。ジャズダンスや後にストリートダンスと呼ばれるようなダンスを自分の授業の中にとりいれることにした。そのためにわざわざアメリカにまで勉強にいった。生徒がのってくると、自分もわくわくする。こんな楽しいことはないと思った。ところが、これに対して教育委員会からストップがかかった。授業でダンスを教えることはまかりならんという。なぜですかと反論すると、学校が乱れるからだという。時代は「学級崩壊」とマスコミが騒ぐようになっていく頃だ。いや逆ですよ、それまでやる気のなかった生徒がダンスをとりいれたら生き生き輝き始めたんですよと反論しても、教育委員会聞く耳を持たない。最終的に彼女は教師をやめなければならなかった。数十年がたってダンスが教育課程に正式に採用されているこの時代に高校の校長としていまも現役の彼女のそこからの再出発の物語は、彼女の個人的な感覚としては「ダンスが好きで、それを続けたくて頑張ってきた」という完全に非政治的なものであった。しかし、外側から見ればそれは政治的な闘争であり、実際に、教育行政を変えてきた。個人の感覚が非政治的でありながら、その存在が政治的である事例として、典型的なものだと思う。

トップアスリートが、政治的な争いに巻きこまないでほしい、あたたかく見守ってほしいと訴えるとき、その心情に嘘はないと思う。競技者がその競技に没頭し、なんら政治的な関心がないとしても、なんの不思議もない。むしろそうあるべきかもしれない。道を極めるひとは、そういうものだ。けれど、それで当人が政治的な文脈から逃れられるわけではない。沈黙を貫いても、あるいは「自分は政治とは関係ないのだ」と主張しても、それは政治的な文脈のなかで解釈され、意味をもつ。この世の中はそういうことになっている。

そのことはもう、歴代の社会学者が明らかにしてきたことで、私は何ら異議を唱えるつもりはない(もしも「本質的に非政治的な存在はない」という命題に納得できないひとがいたら、社会学の教科書を読んでもらえればいいと思う。ごく最初の方に書いてあるはずだから)。ただ、そこで、「じゃあすべてのひとは意識的に政治的であらねばならないのだろうか」となると、それはそれでまた少しちがうんじゃないかと思う。

たとえば、ある政治的な関心の低い人が、それでも特定の政治的立場の人に与したくないと思ったとする。そして、自分の心情を発言することがその人々を利することになると客観的に理解できたとして、はたしてその人は、それでもって自分の発言を抑制すべきだろうか。あるいは、自分の心情を偽って、自分の感じていることとは異なることを発言すべきなのだろうか。もちろん、そうしてならないということはない。とくに、政治的関心は低くとも周囲の空気に敏感な人であれば、そんな気遣いもするだろう。けれど、そうすべきなのだろうか。あらゆるひとは空気を読んで行動しなければならないのだろうか。

自分の行動が意図せぬ結果につながることを指摘されると、私達は戸惑う。混乱し、ときには絶望する。たとえば、「うまそうにハンバーガー食べてるけど、それが熱帯雨林を破壊してることはどう考えるのよ」みたいにいわれたりしたら、怒るか、シュンとなるか、悲しむか、嘲笑するか、ひとによって状況によってそれぞれだろうが、私達はなんらかの感情を突き動かされる。だれだって、そんなことを知らされたくはない。あなたのスマホは劣悪な労働環境のもとでつくられているんだよといわれて気持ちがいいひとはいない。現実は辛辣だ。それでもひとは生きていかねばならない。動物を傷つけたくないからとヴィーガンになるひとばかりではない。人間の存在が地球にとって脅威だからと反出生主義にはしるひとばかりではない。そして、「それを知ったところで自分にはどうしようもないではないか」とひらきなおるひとを、私達は責められない。だれもが大なり小なりそういった無神経さをもたなければ生きていけないのがこの現実世界なのだし、それでもそれを肯定するものだけが自然選択の結果生き残って現人類をつくっているのだから。

だから、「あなたの非政治的な行動が政治的な帰結を生むのですよ」と、氷の刃のような事実を突きつけられても、「うっせいわ! だからどうやっちゅうねん」と突っぱねることは許されていいと思う。そしてそうやって傷つくひとに対して同情し、それを守ろうとすることもあっていいと思う。ノンポリの心情としては、「なんでもかんでも政治的な文脈に持ち込むなよ!」と怒りの声を上げるのも、たとえ現実は好むと好まざると政治的であることがわかっていてさえ、頷けることであったりもする。

結局は、自分がどこまで耐えられるかなのだろうなと思う。たとえば、家庭教師である私の仕事は、原理的には非政治的だ。微分の結果が政治的立場によって異なっていたら、私の仕事は成り立たない。けれど、カリキュラムのきめられ方は相当に政治的であるし、学校教育の現場の様子は政治でなければ解決できない問題を多数抱えている。百分率は小学生にではなく高校生に教えたいし、鶴亀算や植木算は歴史的エピソードとして社会科で扱いたい。英語は世界標準的な方法で進めたいし、日本史は世界史的な視点から見渡したい。そういうのは個人的な「こっちが好き」でしかないのだけれど、実際にそれを実現したければその動きは政治的にならざるを得ない。それを嫌うなら、小さく隠れてやるしかないし、それもまたひとつの方法だ。どんなバランスでどれだけやるのかは、自分の器量がどれだけなのかに依存している。

私は政治は嫌いだ。このブログの最初っから、「政治なんて大嫌いだ」というカテゴリーをつくってきているぐらいだ。できるなら逃げ回りたい。けれど、自分の存在が政治的にならざるを得ないのは意識している。だから、ごまかしたり、ウソをついたり、ときには大胆になったりと、いろんな策略を弄して、なんとか潰されないように生きている。適者生存なんて嘘っぱちで、生き残るのは結局、卑怯でずるい奴らだ。生きるためには、それもまた一興。

中学生用の英語教材自作の話 - 一例報告

英語教育の理想と現実

家庭教師として中学生に英語を教えるのは、けっこう悩ましい。というのも、理想と現実の間の距離があまりにも離れすぎているからだ。

究極の理想としては、言葉はその言葉が使われている場所で生まれ育った人々が覚えるように覚えていくべきだ。人間が言葉をどんなふうに覚えていくかは、それはそれで専門家がいろいろ研究していることであって、シロウトの私がどうこういうことではない。ただ、まちがいがないのは、まず音として聞いている期間が最初にあり、その音と概念を結びつけながらオウム返しで真似をする期間があってから、ようやく音をコミュニケーションの手段として使えるようになる順序だ。やがて音は文字と結びつき、そのなかで規則を発見し、整理していく。こういった過程が頭脳の発達と並行しながら進行する。

外国語を学ぶ場合、まず、言葉を覚える過程と脳の発達の過程が同時進行するわけではないという点が既に大きなちがいとなっている。母語で一通りの発達がある程度までできあがった段階で、母語とは別のものとして学びはじめる(だからさまざまな「学習法」みたいなのが流布する)。そうではあっても、私の経験上、やはり言葉は音から入るのがベストなようだ。初学者は音として把握する練習をメインとし、文字は補助的に使うべきだと思う。そうやってある程度、モノマネ的に使えるようになってから、文法的な理解に進んだほうが話がはやい。だから、非現実的な意味での理想としてではなく、実現可能な理想としては、英語を教えるならまず実際に英語の音を実際のイメージとセットで反復してもらうことから始めたい。英会話教室のような方法だ。手許にいろいろなものや画像を用意して、「これは何?」「だれの?」「どこにある?」「何色?」みたいなことを問答したり、あるいは買い物のロールプレイをしたりして、実際に英語を使う場面を大量に経験させる。入門用の動画教材(セサミストリート的なやつ)も使えるだろう。そうやって英語に慣れてから、補助的にそれが文字とどう対応するのかを少しずつ練習させる(フォニックス的なやつだ)。そして、ある程度、「英語ってこんなもんなんだな」と自信がついてきたところで、集中的に文法的な説明にはいる。基礎的な文法が把握できたら、今度は長い文章を何度も音読させる。音読は、音と文字を結びつけて学習できるので、原始的だけれど侮れない方法だ。可能であれば、この段階で英語音声の動画も大量に見せたい。たとえば英語圏の映画やアニメだ。楽しめるものがいい。動画視聴や音読がある程度までいったら、もう声は出さなくていいから、長文を大量に読ませる。辞書を積極的に使うのはこのあたりからだ。そんなふうに進めれば、英語力は急速に上がる。そうやって英語の実力がついた上で、最終的に英語の検定(英検とかGTECとかTOEICとか)や入学試験(高校受験や大学受験)のための対策をすれば、おもしろいように点数は上がるだろう。これが実現可能なレベルでの理想だ。

だが、実際にはそんな理想通りに英語の指導ができたためしはない。理由はいくつもある。そのひとつひとつをあげたらきりがない。というのは、家庭教師は生徒一人ひとりの状況にあわせるのが仕事であって、生徒一人ひとりの特殊な事情のもとで、できない事情も多岐にわたるからだ。ただ、概ね共通して言えることはいくつかある。

まずひとつは、そもそも家庭教師は英語だけ教えるのではない、ということだ。しかも、多くの生徒が週1回だ。複数回の生徒はだいたいが受験対応だから、のんきに英語の基礎教育なんかやってる場合じゃない。上記の英語の特訓は、英語を中心に週2回か3回やらなければ実行できない。そういうケースは、ほぼありえない。

もうひとつの理由は、学校英語を無視して進めるわけにいかないということだ。これは上記の理由とある部分は重なる。自分が全面的に英語教育を担うわけにいかないから、かなりの程度は学校での英語指導をアテにしなければならなくなる。そして、学校英語は家庭教師の都合なんかにはかかわりなく、学習指導要領の組み立てどおりに進行する。それをアテにする以上、こちらもそこをあまりはなれられなくなる。

ちなみに、学習指導要領の英語カリキュラムは、理念的には上記の「実現可能な理想」と考え方は大きく異なっていない。小学校に英語が導入されたが、そこでは文法的なことを詰めるのではなく、「英語に親しむ」ことが主な目標となる(指導要領改訂で少しは様子が変化するが、基本的姿勢は変わらない)。そうやって「英語ってこんなもん」という感覚がわかってから、中学校で文法を学ぶという手順だ。ただ、絶対量がちがうことと、なによりもテストの設計の関係で、実際にはかなり理念からかけ離れる。生徒は「何を暗記したらいいんですか」という発想で英語に取り組んでくるし、学校教師もそういう発想を歓迎するから、中学英語は、実質的には文法的なステップを一つ一つ踏みながらしか進んではいけないことになっている。そして、そのステップは非常に漸次的だ。だから、習うまでは過去形はテキストに用いてはならない。未来形や不定詞や完了形も、習っていないあいだは読んでも書いてもいけない。各段階で厳格に使える用法が規定されてしまう。これは、「文法は一気にやってしまって、あとは音とテキストの物量で攻める」という理想からかけ離れたものになる。

学校英語を無視できないもうひとつの理由は、それが生徒の成績に直結しているからだ。もしも学校のカリキュラムを全部無視していいのなら、それとはまったく別な方法で英語を教えても、中学生だったら高校受験の英語のテストで高得点をとるぐらいのところまでもっていくのは(生徒の適性や好みによっても一概にはいえないにしろ)だいたいは可能だ。英検だったら2級ぐらいまで上げることもできるだろう。だが、その場合、途中の学校の英語の点数は保証できない。多くの場合、高得点は望めない。なぜなら、学校英語の定期テスト対策は(多くの人がそういうもんだと思っているから気づかないのだけれど)、かなり特殊なのだ。だから、定期テストの点数は、学校英語にあわせて、その単元の文法事項を集中的に反復しないと上がらない。別の方法をとったほうが最終的な得点能力が上がると思っても、途中で通知表の成績が下がれば生徒本人の自信も低下するし、内申書も不利になる。だから、学校英語の進め方にある程度あわせないわけにはいかない。

ユニバーサルな教材が使えないわけ

学校英語にあわせようとすると、とたんに教材の問題が出てくる。いや、完全に学校英語の通りに進めるのなら、教材は無数に市販されている。けれど、こちらは、学校の英語を利用しながらも、できれば理想に少しでも近づけた英語教育をしたいと思っている。そのほうが生徒の利益になるからだ。つまり、学校での英語と相補的な形で英語を教えたい。そのためには、学校英語と矛盾しないように「音から入る英語」「大量に長文を読むトレーニング」を実施したい。けれど、それをやろうと思ったら、たちまち手にはいる教材がそれほど多くないことに気づく。そして、「語学は量」という本質を考えたら、分量は絶対的に不足することになる。

一般に、英語の初学者向きの教材は、近年、かつてなく入手しやすくなっている。インターネットのおかげだ(なかでも音声教材に関しては、YouTubeの恩恵は大きい)。英語を外国語として学ぶのは、日本人だけじゃない。世界中の多くの非英語圏の人々が外国語として学ぶ。そればかりでなく、英語圏であるはずのアメリカやイギリスの国内でも、母語を英語としない人々は少なからずいて、そういう人々は第二言語として子どものうちに英語を習得する。だから、子ども向けの英語の教材は、音声、テキスト、あるいはそれらを複合させたマルチメディアと、多種多様に存在する。もちろん有料素材もあるし著作権にセンシティブなものもあるが、多くのものは教育上の配慮から無料であったりオープンであったりする。だから、ライセンスを気にせずに英語教育に使うことは、かなりの範囲で無理なく行える。

ただ、それらの豊富なユニバーサルな教材は、日本の学校英語との整合性が非常に悪い。学校英語を無視して独自に教えるのなら、いくらでも使える。だが、学校英語をアテにして、その進度にあわせて使おうとすると、とたんに使えなくなる。

英語だと想像しにくいかもしれないので、小さな子どもがどうやって日本語に親しんでいくのかを思い起こしてもらうのがいいだろう。子どもは、まず、音声として親の言葉を聞き、真似るところからはじめる。親は、確かに子どもに対してむずかしい言葉は使わないようにする。けれど、よくよく観察してみると、親や保育士、幼児教育の教師は、文法的にはかなり高度な表現も意識せずに使っていることがわかる。倒置法とか体言止めなんかも、ふつうに使う(だからそういう技法が詩の表現で出てきても小学生は違和感なく読むことができる)。日本語的な表現でいえば、副詞の呼応的用法なんかは、相手が幼児だろうとふつうに使う。「絶対〜ダメ」とか「きっと〜はず」なんてやつだ。もしも外国人が日本語を学ぶとしたら、こういった高度な表現は少し段階が進んでから勉強するだろう。けれど、子どもはそういうのも混ぜこぜで学んでいく。文法的な段階なんか無関係に学ぶ。そしてテキストとして与えられる絵本、あるいはマンガなんかの文章は、決して文法的に理解しやすいものではない。むしろ、文法的に整理しようとしたらひどく難解なものが、「音が美しいから」「響きがいいから」「リズムが楽しいから」みたいな理由でどんどん盛り込まれている。実際、そうでなければ子どもたちは読む気を失うだろう。言葉を学ぶとはそういうものだ。

だから、英語教育を「ネイティブ・スピーカーと同じように」と思って外国の絵本を使ってやろうとすると、発想を入れ替えない限りたいへんなことになる。絵本であっても難しい単語はどんどん出てくるし、現在完了形どころか未来完了形や過去完了形、仮定法、分詞構文、原型不定詞など、文法的には高度なことがおかまいなく出てくる。そういったものをごちゃ混ぜに、ただし、概念的には子どもにも理解しやすいように噛み砕いてどんどん与えることで、子どもたちは言語を獲得していく。

外国語、あるいは第二言語として英語を学ぶための教材の場合、多少はそのあたりに配慮はある。ネイティブ・スピーカーを想定した絵本や幼児向けの動画なんかに比べれば、明らかに高度な表現は抑制的につくられている。ただし、ユニバーサルな教材は、日本の中学生用の教材ほど厳格ではない。現在形を主に学習することがターゲットだなと思われる単元でも必要なときには補助的に過去形や未来形を使う。だってそうしなければ不自然になることが多いからだ。仮定法とか完了形も、よくよく聞けば紛れ込んでいたりする。なぜなら、言葉は、さまざまな場面で使用されるからだ。実用的な場面を、動画とかテキストとかに落として教材にすることが必要になる。ユニバーサルな教材は、そういった実用性を重視している。文法的な枠組みからはみ出さないことに気を使い過ぎるほど気を使う日本の教材とはちがい、多少の逸脱はあっても、「それはまた別の機会に学ぶので、とりあえずそういうもんだと思って聞き流して」みたいな感じで許容する。だから順序からいったら現在形しか知らないはずの段階の教材でも過去形や未来形が出てくるし、単数形・複数形を学習する前からどちらもふつうに出てくる。言葉の中のどこに注目するかが問題であって、「習ってないから使ってはいけません」という規制はない。

これが、インターネットで豊富に利用可能な英語教材を、私が英語を教えるときにそのまま利用できないと感じる大きな理由なのだ。もちろん、学校英語を完全に無視して進めていいのなら、いくらでも利用できる。実際、ごく稀にはそういうふうにして英語をスタートする生徒もいて、その時点ではおもしろいぐらいに英語が上達していく。けれど、上述の事情でどこまでも学校英語を無視するわけにもいかず、どこかの段階で学校英語にあわせなければならなくなる。そうなると、やっぱり既習事項と未習事項は気にしないわけにいかなくなる。なぜなら、下手に学校で習ってないことを進めすぎるとテストで想定されていない解答を書いたり、あるいは学校で要求される反復に支障が出たりするからだ。理想と現実は同時進行で進められない。理想と現実を折り合わせなければならず、そのときに、理想的な形で利用可能な教材は、利用できなくなる。

日本の教材が使えないわけ

ならば、「ふつうの教材」、つまり、書店で売っている学習参考書・問題集や、日本人が日本人の中学生向けにインターネットで提供している英語教材を使えばいいではないか、となるかもしれない。けれど、これらを使って効果的な英語教育をしようとしても、すぐに限界にぶち当たる。

もともと日本の教科書は、上記のように、ステップ・バイ・ステップを厳格に守っている。中学1年生の冒頭のレッスンこそは文法的な縛りにとらわれずに慣用的な挨拶や定型句を学ぶのだけれど、すぐに一般動詞の使いかた、be動詞の使いかた、というふうに進んでいく。最初は単数形からなので、その間に複数の表現は禁じ手になる。一人称、二人称しか学んでいないあいだは、絶対に三人称表現は使えない。そうなると、自由な表現はできない。それでも教科書には、英語が使われている場面が描かれる。そういう場面に未来形を使わないとか不定詞は使えないとかいった限定を加えると、どんどん人工的な、ありえない文が並びかねない。しかし、場面をごく短いものに限るなら、あまり不自然でもなくそういった細工ができる。日本の英語の教科書はそういう仕組みでできている。苦しいなかでよく工夫しているなと感心する。

だが、それをもとにした教材は、その限定的な例文をもとにいくつかのバリエーションを飽きるほど繰り返して覚えさせるようにつくられている。それはそれでひとつの方法ではあるのだけれど、言葉が実際に用いられるような形とはどんどんかけ離れていく。現実に用いられる言葉はもっと多様であり、ぐちゃぐちゃにみえて、そのなかにパターンが現れてくる。文法はそれを蒸留したものであり、文法を学ぶことは重要だが、現実はエッセンスだけでできているわけではない。両方を知らなければならない。学校英語は文法的な要素の習得にばかり目が向いている(もうちょっと正確にいうなら昔に比べたらここは大きく改善しているし、理念的にも決して文法中心主義ではないのだけれど、テスト設計の関係で現実は文法に過度に傾斜している)。家庭教師として英語を教えるなら、そこで抜け落ちるもっと豊かな英語を教えたい。英語の実力を養い、最終的な「得点力」をアップする上でも、それは欠かせない。けれど、日本の学校教育に沿った教材ではそれに対応できない。

現実には、多くの中学生が、教科書の例文に準拠した問題集の反復教材で英語を覚える。けれど、それだけで英語の多様で豊かな実際が学べるだろうか。そういった学習法で身につけた英語で、たとえば英語圏の幼児向けの絵本を読もうと思っても、たちまち行き詰まるはずだ。これは実際に、まだ私が駆け出しのころに試行錯誤をするなかで見出した事実だ。絵本も読めない英語で、小説が読めるだろうか。雑誌記事が読めるだろうか。まして論文が読めるだろうか。もちろん、そのためにはさらに高校、大学で英語教育を積むわけだ。高校三年生なら幼児向けの絵本も理解できるし、簡単な小説も読めるようになる。大学生になれば論文も読めるようになる。けれど、そういう順序は正しいのだろうか。

理想論を語るのではない(それは冒頭の方で既に語った)。現実のカリキュラムがそうなっているとき(そしてそうなっている理由は、それなりに十分理解できる)、そこにもう少しだけ、実際に使われている英語、文法にではなく、もっと日常にフォーカスした英語、楽しさや美しさに着目した英語、豊かな英語に近づけた教育はできないのだろうか。それは可能だ。だが、書店に売っている参考書や問題集ではそれに対応できない。あまりにも文法的なステップ・バイ・ステップにフォーカスしすぎているからだ。

どんな教材が必要なのか

理想を現実にすり合わせるには、微妙なごまかしを意識した教材が必要になる。基本的に、学校の例文中心主義はある程度受け入れる。そしてこの部分は、ふつうの市販教材で対応できる。家庭教師が用意しなければならないのは、そこからこぼれ落ちる、もっと多様な英語を収録した教材だ。具体的には、さまざまな音声教材とテキスト教材だ。問題はその内容だ。

まず、学校の進度にあわせた文法要素が中心にこなければならない。その上で、中心部分ではない部分では、単語や文法要素は、既習にとらわれない。ではあっても、あまりに学校英語からはなれたものは扱わない。このあたりが「微妙なごまかし」になるわけだ。たとえば、「すばやく」という表現にはquickly、promptly、swiftlyなどがあり、また類似表現にat once、soon、right away、immediatelyなどがある。実際にはもっともっと豊富にある。だからユニバーサルな英語教材ではそれらがどんどんとっかえひっかえ出現する。ニュアンスがちがう場合に最適のものが選ばれるのはもちろんだが、それだけではない。英語は繰り返しを嫌う傾向があるので、同じ表現を使っても差し支えないような場面でも言い換えはどんどん行われる。文脈も影響する。けれど、日本の生徒に教える場で実用的に使おうと思ったら、そこを制限する。中学生用の教材だったら、このうちのいくつかは使わない。できれば副詞を避けてat onceを優先するだろうし、副詞で使いたければquicklyから優先するかなと思う。immediatelyは高校1年生かな、みたいに思う。同様に、文の構造も、節は中学1年生にはなるべく避ける。完全に除外すると不自然になるからそこまではしないけれど、避けられるところは避ける。重文構造はなるべく単文に分解する。たとえば中学2年生なら、関係代名詞はなるべく避ける。やはり少しぐらいは許容しないと不自然になるけれど、解説が必要になるほどの頻出は避ける。仮定法もできる限り避ける。

つまり、なるべく英語の豊かさ、多様性を失わないようにしながらも、学校英語を基本に教えられてきた生徒が迷ってしまわないように、相当な抑制を加えるわけだ。そのためには言い換えを工夫し、なるべく平易な表現を選び、意味を推測しやすいように文脈を配置し、単語を選ぶことになる。

ある程度、それに近い工夫をしているのは、 意外にも実は英検、実用英語技能検定だったりする。英検は、かつて「あんなものとっても学校の成績は上がらない」と批判されたものだが、民間試験活用の流れのなかで注目され、さらにまた批判されたりと、毀誉褒貶が激しい。ただ、その出題の傾向は良くもわるくも一貫しており、なるべく「実際に使われている英語」を意識しながらも、学習カリキュラムにもしっかり目を配り、各レベルに相応以上の文法知識や単語を避けるようにしてきている(だから英検対策の単語集とかも出されるほどだ)。英検の出題とユニバーサルな教材を比べると、学校英語の教材までいかないが、かなり既習事項からはみ出さないような工夫がされていることがわかる。単語も、学校の進度とぴったり合わないのは当然としても、「どう考えても中学生が知ってる必要はないだろう」というレベルのものはほとんど出てこない。出てきても注釈付きで負担をかけないようにしている。

だから、英検の過去問題は、学校英語プラスアルファの英語指導をしたいときにはいい教材になる。1年分の過去問題はつねに英検公式のWebサイトで公表されているので、生徒にそれを使わせるのは著作権法上も問題はない。とはいえ、1年分をこえると非公表になるし、それを無理に使えば著作権の問題が発生する。したがって、すぐに量が不足するようになる。

いま私はオンライン専任になっているのだけれど、そうなる以前は生徒が使っている教科書とは別の教科書会社の教科書を副読本的に使っていた。教科書は数百円で買えるし、ある意味、その学年の進度にぴったり合っているのだから、テキストの量を確保するにはいい手段だ。ただ、オンラインになるとそれは使えない。生徒に購入してもらえばまだ著作権上の問題は発生しないのだけれど、家庭教師側の手許にしかないものを生徒と共有したら、著作権侵害になる。このあたり、Webで学習用としてフリーで公開されているデータに比べれば使いにくい。

テキスト教材をつくってみた

ならば自分でつくるか、となって、ようやく本題になる。やれやれ、前置きが長くなった。数日前に思い立ったので、その報告だ。今回は、要件として、

  • 中学2年生(現状は1学期)が読むテキスト
    ・ よって過去形・未来形は既習、不定詞、動名詞、完了形は未習
    ・ 未習範囲を含んでもよいが、主要部分は既習の知識で概ね理解できるようにする
  • 長さは200 words程度までの読み切り記事で、記事数は10以上、必要に応じていくらでも追加可能なものとする
  • テキストの末尾に簡単な問題をつけるが、これは達成感を与えるためのもので、重要なものではない。
  • 興味をもって読める内容

とにかく量を読ませたいとなると、1回読み切り形式で、毎日新しいのが読めるようにするほうがいい。読んでもらえばそれでいいので設問は本来不要なのだけれど、かなしいことに中学生はテスト形式に慣れすぎていて、問題がついていないと教材と思ってくれなかったりする。また、問題が解いてあれば一応、こちらも「あ、ちゃんと読んだんだな」と確認できるので、入れることにする。もっとも重要なのが、読んで面白いこと。面白くなければ続くはずがない。

となると、オリジナルの作文は不可だ。まずなにより、中学生が面白いと思えるような読み物をいくつも書くだけの才能はない。その才能があれば、家庭教師なんかやってないはずだ。次に、オリジナルで英文を書いて、きちんとした英語になるとは思えない。もちろん、後述するように機械翻訳を使えばそれなりに誤りのない英文を書くことはできる。けれど、英語として自然かどうかは、思いのほかに書かれてある内容に依存する。よくいわれることだが、英語的な発想と日本語的な発想は異なるのだ。一応私は、家庭教師になる以前に(あるいは家庭教師になってからも兼業で)、英語翻訳者の実務経験が長い。だから、文法的にソツのない英語を書くことは可能なのだけれど、それを中学生の教材にしていいかと言われたら、残念ながら首を横に振るしかない。

そこで、いろいろ考えて、最終的にこういう方法で作成した。

  • 大元の素材は、外国の小学生向けの読み物からとることにした。具体的には、子ども向けに英語に翻訳されたイソップ寓話集のサイトからテキストをコピーした。
  • 次にこのテキストを、DeepLを用いて日本語に変換した。
  • 日本語のテキストを再度DeepLに入力し、日本語の文を調整して、英語が平易になるように書き換えた。
  • DeepL上で、英語表現を簡易なものに変更した。
  • できあがった英語テキストを、元のテキストと比較して推敲した。
  • 最終的にLibreOffice上で体裁を整え、設問を追加した。

大きな流れとしては、実際に英語圏で子ども向けの読み物として用いられているものを日本の中学生の学習段階に適合するように書き直す、というものである。なぜそうするのかといえば、ネタを書き下ろす力がないから、というのに尽きる。もちろん、実際に英語圏で読まれているものを学習の対象にするのは、英語教育の趣旨からいってもふさわしい。教育用にいろいろなサイトが存在するが、そのなかでイソップ寓話集を選んだのは、ひとつにはこれほど古い物語に著作権上の問題はさすがに存在しないだろうと思ったからだ。もちろん、英語のサイトには英語への翻訳者がいるわけで、その翻訳著作権はあるだろう。ただ、ひとつには教育目的での使用にはオープンにしていることと、それから、全面的に英語を書き直すことになるので、いずれからいっても問題はないと判断した。テキストは、基本的にはInternet Archiveで公開されているオープンなテキストと同じものであるようだ。あと、単純に私がイソップ寓話を好きだという理由もある。幼児期に絵本で読んだ記憶がいまだに鮮明で、「おもしろいなあ」と思う。きっと中学生も面白いと思ってくれるんじゃないかと思う。ここまで古いと、かえって時代遅れとか、関係ないだろうし。

このテキストをそのまま使用しなかったのは、なんといっても文法的にも出てくる単語のレベル的にも、中学2年生には難しすぎるからだ。格調高いといってもいい。小学生レベルのイソップ寓話であるのに、おそらく高校生ぐらいじゃないときちんと読解できない。このあたりが日本の英語教育どうなのよというところでもあるのだけれど、そこは妥協することにしているのだから、文句は言わないことにする。そして、粛々と書き換える。

書き換えるためにDeepLという翻訳エンジンを利用するのは、ひとつには手作業でやってたら私自身のコストがかかってしかたないということでもあるのだが、それだけDeepLの精度が高いということでもある。以前話題になってからときどき使っているのだが、入力する文をある程度機械が読み取りやすいように調整してやりさえすれば、下手な人間が訳すよりはずっと「自然な」翻訳が得られる。英語→日本語の翻訳ではたとえば「です、ます」と「だ、である」が混ざったりしてがっかりするが、そういう目立つアラはかえって手作業でなおせるから、問題にはならない。そして、日本語→英語の翻訳は、日本語を単文を中心にしたシンプルなものに整えれば、ほぼ信頼できる結果を出してくれる。

私は日本人だから、英文を書き換えるよりも、日本文を書き換えるほうがずっと能力が高い。上述のように翻訳の実務経験があるから英文を直接書き換えることもできるのだけれど、仕上がりのクォリティを考えたら、それはやらないほうがいい。いったん日本語に変換してから、日本語の方でどんどん単純化していく。

そして、これを再度DeepLにかけるわけだ。このときに、DeepLでは、英語→日本語には実装されていない機能が利用可能になる。訳語にマウスオーバーすると、別候補が表示されるのだ。別候補を選ぶことによって、それにもとづいて訳文が書き換えられる。これは使える。DeepLで翻訳された英文を読みながら、「ああ、ここは中学2年生にはしんどいなあ」と思えるところが出てきたら、まず日本語の方を調整できないかどうかをみる。文の構造的な問題はだいたいこれで解決する。表現や単語が難しい場合は、マウスオーバーで別候補にする。そうやって英文テキストを仕上げていく。

できあがったテキストを元のオリジナルと比較するのは、原文の意図を表現レベルで損なっていないかどうかをチェックするためだ。「味わい」が失われていないかどうかのチェックといってもいい。オリジナルのネタを日本文からもってくるのではなく英文からもってくるのには、こういう利点もある。日本人には納得できるが英語的ではないような論理構造みたいなのはやっぱりあるわけで、それは原文と比較することでチェックすることが可能になる。

 

と、まあ、機械翻訳のDeepLにおんぶに抱っこのような世話になってテキストを用意した。だいたい英検4級レベルと3級レベルの中間ぐらいのテキストが、思った以上にうまく作れた。このテキストを自分で書きおろせるかと言われたら、ちょっと無理だなあと思う。ツールがあればこそで、ほんと、いい時代になったもんだと思う。せっかくいい時代になったんだから、学校英語ももうちょっと…。いや、その話はやめとこう。

ブコメが怖い

ブログを書いている以上、少しでも多くの人に読んでもらいたいのは当然のことだ。読んでほしくなければ非公開設定だってある。そして、はてなブログの場合、ブックマークがつくと露出が高まる。より多くの人に読んでもらえる。だからブックマークがつくのは大歓迎だ。そして、ブックマークのコメント、いわゆるブコメも、参考になる意見が多いので、嬉しい。ときには筋違いのコメントや批判もまじってくるけれど、それらもほとんどの場合は自分の論旨の甘さや考えの浅さに気づかされてくれたり、あるいは異なる立場や思想からの見え方がわかったりするので、ありがたい。実際、私も「はてなブックマーク」(はてブ)ユーザーで、自分なりのブコメをつけている。そういう立場からいっても、ブコメは歓迎こそすれ、避けたいものでは絶対にないはずだ。

ただ、一昨日の夜、一つ前の記事を書いたときには、「ああ、しばらくブコメは見たくないな」と思った。ほぼまちがいなくブコメがつくと思ったし、ちょっとそれが「怖い」と思った。

中学受験のことは、以前にも記事にしている。この話題には、多くの人が反応するのはわかっていた。だから単純にアクセスがほしいだけなら、中学受験について書けばいい。それも極論であれば極論であるほど、燃えやすい。以前にそれがわかっていたけれど、以後、中学受験をメインテーマにした記事は書かなかった。というのも、私はそこまで深く中学受験にかかわっているわけではないからだ。家庭教師として中学受験生の指導に当たることもあるが、過去には年に1人いればいいほうだった。自分が小学生の指導が好きではないのでできる限り避けてきたということもあるが、運もあったのだと思う。同じ会社のなかではけっこう小学生を複数もっている講師も多いので、たまたまだったのだろう。それが、コロナの少し前からオンライン専任講師になったことが関係しているのか、一気に中学受験生がふえた。中学受験ではない小学生もいるにはいたけれど、5人とか6人とか、小学生を教えることになった。そこでいろいろ悩んだことを吐き出したいと思った。とはいえ、中学受験専門の学習塾の講師にくらべたら比較にならないほど生徒は少ない。家庭教師以前には学習参考書の編集者としてこの受験産業界のキャリアは長いから、それなりの知見はある。とはいえ、中学受験にはさまざまなステークホルダーがいる。その最大のものは、受験生であり、受験生を抱えた家庭だ。自分はそういう立場でかかわったことはない。だから記事が一面的になるのは書く前からわかる。そういう記事が批判されやすいのもわかる。なので、「ああ、もう中学受験のことは書かなくていいかなあ」と思っていた・

それでも書くのは、その時々のタイミングで、「ああ、やっぱりひとつ、ガツンと言うたらんとあかんのやないか」という思いが沸き立ってしまうからだ。それは自分の生徒や生徒家庭とのやり取りが引き金になるときもあるし、ネットの記事や、あるいはそれについたコメント群をながめていてのこともある。何かがきっかけになって日頃溜め込んでいることが噴き出す。けれど、書きながら、「ああ、またいろんな人がいろんなこと言うんだろうなあ」と思う。本来は勉強になるそれらの言葉が、自分の気持をさらにかき乱すのは前もって予想がつく。もうやめようかなとも思う。それを押し止めるのは、「せっかくここまで書いたのにもったいない」という意地汚さでしかない。そして、「ブコメが怖い」となる。アホなことと思いながら、「まあ、読まなきゃいいだけじゃない」と思う。そんなわけはない、どうせ読むのだとわかっていても、そう自分を言いくるめて「公開する」というボタンをクリックする。それが2日ほど前のことだ。

 

まんじゅう怖いではないが、ブコメが怖い。自分のキャパをこえる量のコメントが押し寄せてくるのは、正直いって怖い。この程度の量で、しかもほとんどが穏やかな意見程度のコメントで怖いなんて言ってたら炎上を経験した人には申し訳ない。それでも怖い。

いや、いつもいつも、ブコメが怖いわけじゃない。初めてはてブの存在を知ったのは十数年前、ほかの場で書いたものに500ぐらいのブクマがついたときだった。そのときは「ブックマークのコメントってムチャおもしろい」と、わくわくしたものだ。いまでもそういう気持ちになれるときはある。けれど、中学受験関係の記事につくブコメは、そういうふうに楽しめない。自分がそこに抱いているネガティブな気持ちがどうしても反映されてしまうからかもしれない。恐怖は自分自身の投影であるとか、誰か言ってなかったか。

恐怖や不安といった感情は、けれど、歴史を振り返ったときに時代を動かしてきた重要な動力源であったと思う。いま、そういうことを調べはじめている。ブログの記事にできるほどまとまるかどうかはわからないけれど、下書きをはじめている。ただ、それもまた、「ブコメが怖い」系統の記事になるんだろうなと思う。多面的な事象を一面から切り取って記事を書くときには、こういう感覚におそわれる。ちがう立場からはちがうものが見えていることがしっかりと予想できるからだ。そんなブログならやめちまえと思わないこともないが、このブログはどうもそういう性格のものであるらしい。

 

もっとのどかなことを書きたいなと思うこともある。たとえば野菜の話とか。葱がうまいとか大根がうまいとか、およそ人畜無害で炎上などしようがないものを書きたいなとも思う。そして、実際に書きはじめている。ブコメが怖い症候群が出たときには、そちらに逃げようかなと思う。ポチポチと、日々のよしなしごとを綴っていきたいと思っている。

ひとりの食卓から|まつもと|note

とかいいながら、やっぱりまた、「ブコメが怖い」記事をこっちに書くんだろうな。今度ははてなスターが怖い…

中学受験は、やっぱりおかしい - 基礎教育が目指すものと評価基準の乖離

「成長」というとらえどころのないもの

教育が目指すものは、なにはさておき、人間の成長である。人間の成長を支える介入を教育とよぶ、と定義しても差し支えないほどだ。原理的に、これに異を唱える人は多くないだろう。多数の人が教育を人間の権利とし、それを提供することが社会の義務だと考えるのも、それが人間を成長させるからだ。人間は成長する権利をもつのだし、成長を支えるのは社会である。生物はその基本特性として成長するのだし、社会的生物である人類はそれを構成する個人のそれぞれの成長によって成り立っている、ともいえるだろう。

ここに、教育を評価する根本的な困難が存在する。というのは、人間の精神的な成長は、容易に測定できない。さらに、介入が効果を上げたかどうかの測定は、それ以上にむずかしい。というのは、およそ人間は、教育なんか受けなくったって、それなりには成長するからだ。だから、仮に精神的な成長が観測されたからといって、それが一義的に教育の成果であるとはいえない。教育は成長を促進したかもしれないが、成長を阻害したのかもしれない。ひどい教育にもかかわらず、その他の要因によって成長がみられたということだってあり得るわけだ。教育の効果を正確に判別しようとすれば介入の有無によってどの程度のアウトカムのちがいがみられたのかを検証しなければならないが、それは倫理的に無理だ。実験のために正当な権利である教育を一部生徒に対して止めることなどできない。だいたいが、成長は個人差が大きいので、数例のことで検証はできない。大規模調査をしようとすれば、施される教育が均質であることを先に検証しなければならないが、教師の当たりハズレが大きいことは常識であって、そこから発生する影響をコントロールすることは相当な困難だろう。したがって、教育は、「だいたいこんなもんだろう」という思い込みと、「むかしっからやってきたことだから」という保守主義と、あとはマジナイみたいなものの混淆によって支えられているといってもいい。

人間は、教育以外の要因でも成長する

実際のところ、多くの人が見落としがちなのは、人間にはその人自身の力で成長する能力があるということだ。もちろん、社会的生物である人間は単独では成長できず、つねに他者とのかかわりのなかで成長するのだけれど、それが制度としての教育である必要はない。むかしは「テレビばっかり見てるとアホになる」、少し前なら「ゲームばっかりしてると…」、さらに最近では「スマホばっかり…」と言われるのだけれど、実際に起こったことは、それらのメディアを通じてさえ、人は成長できるのだということだ。それがベストかどうかとか、他のものと比較してどうだということではない。人はあらゆる外部刺激をベースに自律的に成長する力をもっている。教育は、それを補助するだけである。

家庭教師をやっていて、「あ、ここはいくら訓練してもいまはダメだな」と思うときがある。そういうときは、その局面は一旦退却して、他のことに力点を移す。そうしておいて1年とか2年たって、改めて同じ課題に取り組むと、驚くほどにうまく理解が進むことがある。放置していたあいだ、「教育」としての介入はおこなわれていない。それでも、生徒は日常生活をとおして、あるいは他の教科の学習をとおして、しっかりと成長する。だから、成長の結果として、過去にはわからなかったことがわかるようになる。そういうことが、しばしば観測される。放っておいても時間の働きで人間は成長するのだなあと、感じる。ときには、その成長は人為的に外部から働きかけるものよりもずっと強く本質的なのだなあとも思う。

だからこそ、カリキュラムに発達段階を考慮することが重要になる。以前にこのブログでも指摘したのだけれど、たとえば比率の概念は小学生には理解しにくいのだけれど、中学2年生以降になると飛躍的に理解する素地が高まる。これなんかは典型的に年齢による発達段階が学習項目の理解に影響する例だと思う。なぜ小学校の算数で中学校的な代数を扱わないのかとか、小学校の国語で文法をやらないのかとか、理科の量的な把握は主に高校になってから扱うこととか、小学校の歴史は人物本位なのに同じ時代を扱う中学校ではそうではないこととか、なるほど、学習指導要領は(上記の比率のようにどうしても無理のある部分はあるにせよ)、よくできていると思わせてくれる。年齢相応の理解というものが、カリキュラムの作成には欠かせない。それは、教育とは無関係に年齢に応じて人間が成長するという事実をベースにしてはじめて、納得できることだろう。

成長=知識・技能の獲得?

これに対して、「いや、教育の力はそんなもんじゃない」という異論もある。つまり、発達段階は教育的介入によってどんどん進めることができる、というものだ。5年生で比率の概念がしっかりつかめないのは教え方がわるいからであって、きっちり教えれば5年生どころか、4年生でも3年生でも比率は理解できる。国語の文法も、中学にはいってから習うのはもったいないことで、小学生にでも教え込めばちゃんとわかる。理科計算が小学生にできないのは教えていないからだけで、筋道立てて教えたら密度でも濃度でも、あるいは力学的な計算でも熱量の計算でも、ちゃんとできるようになる。そういう主張がある。直接的な主張として聞くことはめったにないけれど、「ああ、そう考えているんだな」と思わざるを得ない現象がある。それも、相当に広範囲な社会事象として観測される。中学受験のことだ。

受験業界の端くれにいる者として、中学受験の常識とされているものはだいたいわかる。5年生からでは遅い、最低でも4年生からスタートさせるべきだし、3年生や2年生から、なんなら小学校入学から準備をスタートさせたってけっして早すぎることはない、というのが受験産業の言い分だ。その根拠は、中学受験で主に出題される小学校5年生、6年生の学習範囲の問題を、実際に5年生、6年生で学校で習ってから練習したのでは、絶対的な時間が足りなくなる、ということだ。合格に必要な高得点を取れるだけの精度を上げるには反復練習が必要であり、そのためには時間がかかる。その時間を確保するためには、3年生、4年生のうちから5年生、6年生の学習内容を先取りして覚えさせ、学校で学ぶよりはるか前から練習させなければならない、という発想だ。そして、多くの学習塾では、そいういった考え方にもとづいてカリキュラムが組まれている。そして実際に、「得点力」をアップさせている。そういう意味で、彼らの言葉に矛盾はない。そして、多くの親もそれを信じる。信じる人がいるから、受験の風習は成り立っている。信じる人が多ければ多いほど、その行いの実利は保証され、信じることは明確な価値をもつ。ある意味、宗教と同じ構造がそこにある。

ともかくも、こういった「年齢が低くても、教え込めば高度なことができるようになる。むしろ、年齢がひくいときから始めたほうが上達がはやい」という発想は、たとえばピアノやバイオリンといった楽器演奏やバレエやフィギュアスケートといった運動に関する幼児英才教育の発想と同じものであるだろう。しかし、学問と技芸は、似たようなところはあるけれど、やはり根本的に異なるものだ。学問で扱うさまざまな概念は、物理的な脳の成長が伴わなければ意味を成さない。これは古くはルソーが「エーミール」で観察したことでもある。

にもかかわらず、学習塾をはじめとする受験産業は、「先取り学習」で成果をあげている。つまり、中学受験時点での「得点力」を、遅れてスタートした生徒よりも高いものにしている。そういうふうになる要因はいくつかあるのだけれど、もっとも根底にある教育観がちがうことが最大のものであるように思われる。すなわち、冒頭で述べた「教育が目指すものは人間の成長である」という教育観ではなく、「教育が目指すものは、どれだけの知識を獲得し、どれだけの技能を身につけたかである」とする教育観だ。あるいは、「人間の成長とはすなわちどれだけの知識を獲得し、どれだけの技能を身につけたかを意味する」という観念といってもいいだろう。そうすれば二者に矛盾はなくなる。受験産業の人間であっても「人間の成長」の重要性を等閑視する人は多くあるまい。ただ、そこでそれが知識や技能に置き換えられると信じ込んでいるケースが多いのではないだろうか。

そういった誤解を生み出しているのは、学力テストだ。なぜなら、学力テストが測定するのは知識と技能だからだ。測定基準が知識と技能であれば、それを向上させることが目的であると短絡的に結びつけてしまうのも無理はない。そして、知識と技能の伝達は、特別に人間としての成長がなくても実行することができる。早くに始めて練習量をふやすことは、まさにそういう発想から直接に生まれてくる。

考えさせることと技能を教えることと

受験数学の「特殊算」の入門編として、植木算というものがある。これはたとえば、

道にそって、6mおきに木が10本うえてあります。道のはしからはしまで何mありますか。

というようなものだ。このような問題が教育現場に導入されたのはずいぶんと古い。その経緯は知らないが、たしかにこのような問題は、正しく扱えば人間の成長を促すツールとなるだろう。もしもそういうことを念頭に置いて私がこの問題を使うとしたらどんなふうにするか。生徒は小学校5年生ぐらいだろうか。まず、なにもヒントを与えずに問題を出す。たいていの場合、生徒は

    6×10=60

と計算して、「60mです」と答えるだろう。そこで、図を描いて、もう一度考えさせる。それでも「60m」と答える生徒がいるはずなので、実際に図の上で数えさせる。そうすると、54mだということがはっきりする。ここで、生徒が「掛け算は信用できない」と思ったとしたら、それはひとつの進歩だ。次に類題を出す。4mおきに12本とか、数字や設定を変えるわけだ。生徒は用心深くなっているから、図を描いて数え、正解するだろう。それを受けて、さらに類題を出す。ただし、今度は3.7mおきに100本、みたいに、ちょっと図に描いて数えるのが現実的ではない数字にする。ここで生徒は考えはじめる。ときにはギブアップするから、そういう場合にはもう1回、数えて答えが出るタイプの類題に変えてみる。長考を続ける生徒には、様子を観察しながら、考えさせる。行き詰まった場合には、やはり難易度を下げた問題から再出発させる。そのうちに、やはり掛け算を使わなければ計算がたいへんすぎることに気がつくだろう。けれど、最初に掛け算をやったらうまくいかなかった。ここから「掛け算を使うんだけれど、なにか罠がある」と気づいたら一歩前進だ。それでもまだ、「掛け算の前に1をひくという下処理をすればいいんだ」と気づくまでには、かなりの距離がある。その距離をうまくサポートしながら渡らせるのが教師の役割ということになる。できるだけ口出しは控えることだ。ヒントよりも、諦める気持ちをさらに奮い立たせるような介入が望ましい。そして最終的に計算によって正解が出る道筋ができたときには、うまくいけば、複数の演算を組み合わせた関数的な考え方にまでたどり着くことができるだろう。数学的な思考力が少しだけ鍛えられる。これは成長といっていい。

しかし、実際にはここまでのていねいな指導はできない。なぜなら、上記のことをやろうと思ったら、1時間から2時間、場合によっては2日分の指導をしなければならないからだ。一方、技能として植木算を5年生に教えるのはかんたんだ。スタートは同じでも、そのあと、手品の種明かしをするように、「ここは間隔の数だけ掛け算することになります。だから、本数から1をひいて掛け算すれば答えが出ますね」とまとめればいい。10分もかからないだろう。そして、生徒は、2時間かけたときと同じぐらい正確に、あるいはもっとよく、この計算技能を身につける。残りの時間を反復練習に費やせば、長時間試行錯誤をさせた場合よりもテストの点数は遥かに上がるだろう。

つまり、中学受験に出題されるような特殊算がわるいのではない。そういったものを活用して、子どもたちの成長を促すことは、適切な時期と方法で行えば十分に可能だ。けれど、最終的な関門として待ち構えている入学試験は、点取りゲームだ。点数が1点でも高いものが勝ちになるルールだ。そういうものが結果を判定するとき、やるべきことはどれだけ成長したかではなく、どれだけ技能を身につけたかだ。あるいは知識があるかだ。成長という個人的な営みは、もともと外部からの評価になじまない。そういうものを追求するよりは、もっと客観的な評価が可能なものを求めるほうが正しい。功利的な意味では、明らかに正しい。そしてそれを、受験制度は利用している。

受験制度は社会的損失

このブログでも、過去に中学受験を批判してきた。ただ、その批判は受験生の親に対して向けられたものでも、まして受験生当人に対して向けられたものでもない。何らかの選択によって何らかの利益が得られることが明らかなとき、その選択をするのは、個人として何ら責められるものではない。仮に受験によって中高一貫校に入り、それによって将来の生涯賃金が増えると判断するときに、受験のための投資と生涯賃金の増加分を比較して受験すべきだと判断するのなら、それはそれで正しいだろう。その他のメリットを考えた場合も同じだ。そのために支払う犠牲と得られる利得が釣り合うものであれば、その選択をすることは何ら不当なことではない。

また、入学試験を実施する中高一貫校に対しても、試験を行うことそのものについては同様に批判するものでもない。公教育のなかで学校の多様性は重要だと思うし、その中で特色を出す学校がその学校にふさわしい生徒を選抜するのは何らおかしなことではない。ただし、その選抜方法として、古色蒼然とした問題、半世紀以上も前から伝統的に用いられてきた問題を使い続けるのは、いったいどうなのかと以前の記事で批判した。それは子どもたちに対して有害であるだけでなく、本来の目的である「自分のところに来てほしい生徒を集める」上でも学校にとって役立っていないのではないかと思うからである。不文律のもと、受験産業との馴れ合いで成立している受験文化は、あまりにも珍奇で時代遅れだと思う。

最終的に、批判は受験制度を許容している社会全体に向けられるものだ。なぜなら、本来の教育の目的である「人間の成長」を「特定の知識・技能の習得」に置き換えることは、最終的には社会の成員の能力を低下させ、社会の活力を削ぐことになると思うからだ。誤解されやすいがわかりやすい表現を用いれば、「国力の低下」といってもいい。

いろいろと実践上の問題、あるいは考え方の問題はあるにせよ、公教育の指針である学習指導要領は、活力のある未来に向けて、かなりの程度、広く合意された教育カリキュラムを示している。そこでは、もちろん知識・技能も習得すべきものとしてあげられているが、もっとも重視されているのは「考える力」であり、「コミュニケーション能力」であり、さらには「情報を活用する力」である。こういった人間の基本的なコンピテンシーは、「教える教育」からは十分に育たない。内発的な成長を促すような「育てる教育」が必要である。そして学習指導要領も、(解釈次第では)それを推奨している。しかし、競争的なテストをめざした「勉強」では、前者が圧倒的に勝ってしまう。故に、受験制度を当然のものとして受け入れることは、学習指導要領にある教育目標を建前だけのものにしてしまい、実質を失わせることになる。

だから、政策として、あるいは社会的な合意として、中学受験、すくなくとも現在おこなわれているような中学受験は徐々に排除されるようになるのが望ましいと思う。さらにいうならば、なぜ中受がこれほどもてはやされるかといえば、それは大学受験が後ろにひかえているからであるし、さらに大学を就職予備校的に扱う一部の風潮があるからでもある。そういった諸々のことを考え合わせれば、結局行きつくのは入試全廃論ということになる。

学問を学びたければ自由に学べるようになるのが理想だ。もしもキャパシティの問題があるのなら、くじ引きでかまわない。優秀な人が学問を学ぶべきだという考えは、本当に合理的なのだろうか。優秀でない人が学んで底上げすることも、優秀な人が突き抜けていくことと同じくらい重要ではないのだろうか。教育について考え始めると、いくらでも疑問が出てくる。こういうことに悩み続けることができるのは、私の受けた教育が良かったからなのか、わるかったからなのか…

 

__________________________

 

追記1:上記、「知識・技能の獲得」と「成長」を対比させて書いているが、知識・技能のトレーニングによって人間が成長する可能性を否定しているのではない。受験をくぐり抜けてきた多くの人は、実際に、そういう修行を通じて成長したのだと思う。ただし、それはたとえば貧困の中から貴重な学びを得ることができる人がいることと似たようなものだと思う。貧困が得難い経験となるからといって、貧困こそがあるべき姿であるなどといえるわけがなかろう。人間は、あらゆる経験をつうじて成長する。だから、これは成長を促すべき介入者側の立場から見た対比である。介入者としては、知識・技能の獲得に傾斜することは、明らかに成長を手助けすることと矛盾する。

 

追記2:この記事は、今日、ブックマークコメントした2つの記事、

topisyu.hatenablog.com

なぜ「中学受験は親の受験」と言われるのか - 斗比主閲子の姑日記

及び

davitrice.hatenadiary.jp

サンデル教授の「大学入試くじ引き論」 - 道徳的動物日記

にインスパイアされて書いたものである。

教師が「叱る」ことは原理的に可能なのだろうか?

家庭教師をやっていて、生徒を叱ったことがない。これはなにも私の性格がどうとかいうことじゃなく、原理的に家庭教師は生徒を叱る立場にないからだ。もっとも、生徒の方で勝手に「叱られた」と受け取る場合があるので、これはなんとかしなければいけないといつも反省する。たとえば、中学生の数学で、カッコを外すときにいつも正負の符号をまちがえる生徒がいるとする。そういうまちがいを「うっかりミス」みたいな雑な括りで処理していては絶対にそのようなミスはなくならない。失敗には必ず原因があり、原因を潰さないことには同じ失敗は必ず再発する。そして原因分析には、失敗をした当事者の感覚の分析は欠かせない。だから、「なぜここでまちがえたと思いますか?」と、生徒に理由を聞く。この聞き方をちょっとでもまちがえると、生徒は「叱られてる」と思って「スミマセン」としか答えなくなる。そういう返答がかえってきたら聞き方が悪いので、大いに反省するしかない。

家庭教師が生徒を叱れないのは、「叱る」という動詞には、必ず権力構造が内包されているからだ。たとえば、

しか・る【𠮟る/×呵る】
[動ラ五(四)]目下の者の言動のよくない点などを指摘して、強くとがめる。「その本分を忘れた学生を―・る」

出典:デジタル大辞泉小学館

となっている。目下・目上というのはすなわち権力構造の中での下位者・上位者ということである。すなわち、「叱る」ためには権力構造がなければならないし、「叱る」のは権力上位者の特権であるともいえるだろう。

通念上は、教師は生徒に対して「目上」である。つまり、権力を行使する上位者である。それを盾に、「生徒が怠けたらビシビシ叱らんとあきませんよ」みたいに言うベテラン家庭教師に出会ったこともある。「先生の方から叱ってください」みたいに言ってくる生徒の親もいる。けれど、冷静に考えたら、少なくとも家庭教師にそんな権力はない。

なぜなら、家庭教師なんて、「生徒の成績を上げる」業務を対価をとって委託されている存在に過ぎないからだ。サービスを売っているといってもいい。このような契約は、契約者同士が対等の関係であってはじめて成立する。八百屋が大根を売るのと本質的に変わらない商行為だ。八百屋が大根を売るときに、八百屋と買い物客の間に権力関係は存在しない。大根が高いと思えば客は買わなければいいだけの話だし、客が法外な要求をすると思ったら八百屋は売らなければいいだけのことだ。八百屋が売らないのは権力的なのではない。あるいは、契約関係において最大の権利行使は、契約の破棄である。その限度内で、八百屋は権利を行使できるともいえるだろう。そう思えば、家庭教師が生徒に対して行使できる最大の権利は「そんなことをするのなら自分は教えない」と契約を破棄することでしかないだろう。そしてそれに関しては、「こんな教師なら金を払ってまで来てほしくない」と契約を破棄する権利を生徒の側も持っている。つまり、権利としては対等であって、どちらが上位・下位という権力構造のなかにはない。

実際のところ、権力は、家庭教師という業務の遂行にとって特に必要がないものだ。権力でもって従順に生徒を自分の意図通りに操作できたとして、それでもって生徒の成績が上がるかと言われれば、否と返すよりない。生徒の成績は生徒が成長することによってしか上がらないし、生徒の成長は、生徒の行動をコントロールすることで促進できるものではない。野菜を育てるのと同じで、ひたすら水を撒き、雑草を取り除いて待つぐらいのことしかできない。「芽を出せ」と命令して発芽する種子はなく、「成長しろ」と命令して伸びる枝はない。「大きく太れ」と命令しても果実は肥大しない。けれど、だからといって農家にやるべき仕事がないわけではない。同様に、生徒の行動にいちいち指図しなくとも、家庭教師にはやらねばならない作業がいくらでもある。それをやっていれば「生徒の成績を上げてほしい」という業務上の付託はたいていの場合はどうにかなる。だから、契約関係の上では本来発生しようのない権力を、幻の上に求める必要などない。

そして、権力のない家庭教師には、生徒を叱る能力はない。目上の者でもないのに、目上にだけ許された「叱る」行為はできない。だから私は生徒を叱らない。「目上・目下」という関係性がなくとも知識や技能は伝達できる。「三歩下がって師の影を踏まず」なんてのは、およそ世迷い言であると言い切ってかまわないと思う。

 

学校教師はそうではない、と思ってきた。なぜなら学校教育法に、

第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

とあるからだ。「懲戒」は、通常、一定の権力構造のもとに行われる。

ちょう‐かい【懲戒】 
[名](スル)
1 不正または不当な行為に対して制裁を加えるなどして、こらしめること。

2 特別の監督関係または身分関係における紀律の維持のために、一定の義務違反に対して制裁を科すること。特に、公務員の懲戒処分。

出典:デジタル大辞泉小学館

したがって、学校教員には「教育上の必要」を前提として、一定範囲内での権力が法律によって付与されているものだと考えることができる。だから、教員が生徒を叱るときには、叱るという行為そのものに対してではなく、「それが教育上必要あるのかよ」ということに対して批判されねばならないと思っていた。たとえば以前に書いた

mazmot.hatenablog.com

なぜ「忘れ物を叱る」のが無意味なのかという記事でも、わざわざ「教師が叱ることが場合によっては認められるとした上で、なお、少なくとも忘れ物に関しては効果はほとんどない」と書いている。これは、上記の法律上の規定を念頭に置いたものだ。効果がないのに叱ることは、常にアウトカムについて説明を求められる家庭教師的な常識からいえば、「教育上必要」ととてもいえないと感じていたわけだ。

 

ただ、それ以降、どうもこの「叱る」という概念について、引っ掛かりを覚えていた。というのは上記記事に続けて書いた記事でも触れたのだが、ブックマークのコメントで、「あ、この人は"叱る"という言葉と"叱責"という言葉を別概念を表すものとして使ってんだな」と思われるものがあったからだ。そのときに連想したのは、馬の走り方だ。私のようなシロウトは、馬が走ってるのを見ても「あ、走ってるな」としか思わないのだけれど、見る人が見ればそれはギャロップであったりトロットであったりペースであったりと、まったく別な概念で表現されるものであるのだそうだ。ということは、一部の人にとっては「叱る」と「叱責」は完全に区別されるものであり、それにはそれなりの事情があるのだろう、と考えたからだ。知らないことを放っておくのはどうも気持ちが悪い。そこで、「叱る」ことに関して、教育学でどのように扱われているのか、ちょっと調べてみようと思った。

メタ分析とかやるようなことでもないしやる能力もないし、30件ほど文献を集めてざっと読んだ印象だけではあるのだが、「叱る」行為に関する評価は実に幅広い。大別するならば、「叱ることが教育上効果がある/必要だ」とする立場と、「叱ることは有害だ」とする立場に分かれるだろう。その両極の間で、さまざまな温度差もある。意外だったのは、前者の立場の方が多いことだった。後者の立場は、おもに障害者教育などに関して見られることが多かった。なので、後者の立場でもたとえば発達障害に関しては叱ることは害が大きいと考えていても、その他の場合には許容している可能性を除くことができない。一般的にすべての場合に関して叱ることをネガティブに捉えている論は、ほとんど見かけなかった。実際のところ、これには驚いた。

そして、気になっていた「叱る」と「叱責」の使い分けだが、これをほぼ同義の交換可能な概念として使っていた例の大半は、「叱ることは有害だ」の論調のものであった。私の感覚としては動詞としての「叱る」の名詞形が「叱責」になるのだが、たしかにそういう使い方をしている事例は何件もあった。ただ、その大半が否定派の方であり、肯定派の方は1件か2件しかなかったようである。とはいえ、じゃあ「叱る」と「叱責」を明確に別概念として定義していた文献があったかといえば、そうではなかった。肯定派の多くの文献では、「叱責」という単語を使わず「叱る」の名詞形は「叱り」と記述されていることが多かった。

興味深いのは、肯定派の「叱る」概念が、多くの場合、「褒める」との対立として捉えられていたことである。否定派には、そういった概念の立て方は見られなかった。これは、肯定派においては「叱る」のは生徒に対する教育的介入の手段であると考えられているからのようである。したがって、論旨も「効果的な叱り方」みたいなものになり、効果を高めるために「叱り」と「褒め」を併用することが勧められる、みたいな論が多かったわけだ。

そういった論の中身を見てみると、感情的であったり、禁止的であるような「叱り」は効果が低く、論理的であったり例示的であるようなものが効果的であると書いてあったりする。このあたりで、「なるほど」という気持ちと「そうなのか?」という気持ちが同時に起こった。というのも、確かに感情的な言葉は伝わりにくい。その一方で論理的な説得は効果的である。しかし、上記の「叱る」という言葉の定義には、「強くとがめる」とある。「強く」というのは感情的なことではないのだろうか。論理的に説得する場合、そこに「強く」というのはどう馴染むのだろうか。どうも実感が湧きにくい。たとえば、英語で「叱る」の概念に相当すると言われるscoldという単語は、

Definition of scold
transitive verb

: to censure usually severely or angrily : REBUKE
intransitive verb

1 : to find fault noisily or angrily
2 obsolete : to quarrel noisily

Scold | Definition of Scold by Merriam-Webster

とあって、やはり強い感情や怒りの感情を伴うのが通常のようである。もちろん英単語と日本語の単語は一対一で明確に対応するものではないのだけれど、「叱る」に関してはこの英語の定義のほうが、なんとなく日本語の「叱る」をよく説明しているような気がする。声を荒げたり怒気を含むことが、「叱る」には含まれるように思えてしかたない。もしもそうではない、そういった感情を含めるのは効果的ではない、というのであれば、それは単に「指摘」や「説明」であって「叱る」のではないんじゃないか、みたいな気分になってくる。

まあ、このあたりは感覚のちがいであり、「叱る」を別な概念として使うのであればそれはそれでかまわない。だとしても、やはりそこには権力関係が存在することが前提であり、そしてその権力関係は学校教育法11条に由来すると考えるのが正当なのだろうと思う。

 

さて、そんなふうに、まるで異世界でも見るような気持ちで「叱る」関連の文献を眺めていたのだけれど、最後の方で目に止まったものがあった。

ci.nii.ac.jp

学校教育法が禁止する「体罰」とは何か 前田聡

この論文は特に「叱る」ことをテーマにしたものではなく、体罰との関係で教師が生徒を叱る場面が出てくるために検索にヒットしたものなのだけれど、学校教育法11条と懲戒権のことなど、改めていろいろ勉強になる内容でもあった。著者は法学の人らしい。私が「おや?」と思ったのはここだ。筆者は1963年初版の『教育法』(兼子仁)に触れて、

ここでは,何が体罰か,という点については行政解釈を踏襲しつつも,人権尊重の観念と「非権力的教育観」という 2 つの理念によって体罰禁止の趣旨が説明されていることが注目される。

と述べている。「え? 非権力的教育観って?」と、思って脚注に目を移すと、

兼子は,旧教育基本法 2 条,同 7 条をふまえて「今日の教育は,被教育者の自発性を尊重しながら社会生活自体のもつ教育機能を活用して行われる社会的作用とされている」という「社会的教育観」としたうえで,かかる教育観を現行法がとっているのならば,「教育主体の優越性は著しく減退し,もはや教育は法的には権力作用ではなく,非権力的な社会作用となったものと解される」と述べる。

とある。よくわからないのでさらに調べてみると、どうやら法学の方では行政が行う活動を「権力的」と「非権力的」に分類しているらしい。権力的活動とは強制力を伴うもので、たとえば法律や条例などの法の制定、裁判所の執行命令などが該当するらしい。一方の非権力的活動は、強制力を伴わない行政サービスのようなものが当てはまるらしい。

私は公教育というものを学校教育法にもとづく強制力(具体的には11条の懲戒権)をもったものと考えていたのだが、どうやらこの1960年代の法律書、そして現在の法学の方の常識では、教育は典型的に「非権力的行政活動」に属するらしい。たとえば「教育行政機関と学校の関係」(伊津野朋弘)には戦後教育に関して、

教育行政は、権力的手段をもって目的達成を意図する行政作用を多く含む一般行政から独立し て、独自の非権力的行政を実現すべく構想され、それは教育委員会制度の創設となった。そして そこ での教育行政は、「保育行政・助長行政」であり、「その手段においては、権力の行使というものではなく、むしろ精神的または物質的な奉仕」でなければならないとされた。かくて教育は行政上の不当な支配を否定し、自律性を実現すべきものとされるにいたった。そこに戦後教育行政の一つの基本をとらえなければならず、したがって戦前の学校管理概念とは自ら異る実質をもった機能が、行政機関と学校との間にはつくりださなければならないのである。

とある。つまり、教育は本質的に非権力的であるというのである。

非権力的であっても、公的機関は権力性を帯びる。これはちょっと前にも書いたことだ。たとえばおよそ非権力的に行われるはずの行政サービスである水道事業においてさえ、恣意的な意思決定は住民の健康を脅かすだろう(だから意思決定と執行は別組織が行うべきだというのが先の記事の主張だった)。ただ、非権力的な相互作用において、基本になるのは契約関係であり、契約関係において一方が他方に対して行うことができる究極の権利は契約の破棄である。そこに力関係の優劣があれば弱いほうが被害を一方的に被るにせよ、非権力的な行政サービスでは、最も強い強制力は当該サービスの停止であり、それを上回るものではありえないはずだ。

このようにして改めて学校教育法11条を見てみると、教員が生徒に対して加えることができる「懲戒」の最も強力なものは、「教育を行わない」ことであるにちがいない。そして、実際に、学校教育法35条には出席停止処分の規定がある。出席停止は相当に厳重な処分であることがこの条文に定められた手続きからもわかるし、その上でなお、「出席停止の期間における学習に対する支援その他の教育上必要な措置を講ずる」と教育サービスを完全に停止してはならないことまで定めている。こうしてみると、11条の「懲戒」は、実際には文字づらから受ける印象とは裏腹に、決して強力なものではありえないのではないかと思われる。

 

ところが現実には、この懲戒権を根拠に、学校ではさまざまな生徒への権力行使が行われる。懲戒権が定める「懲戒」が具体的に禁止されている「体罰」以外の処罰を任意に含むものであれば、その権利でもって生徒のあらゆる学校生活を教員は縛ることができる。なぜなら、「教育上必要がある」と認めれば、それだけで教員は懲戒を加えることができるからだ。しかし、もしも教育行政が法学が教えるように非権力作用であるのなら、学校教育法が定める「懲戒」の意味が変わってくる。それは究極には(厳正な手続きを踏んだ上での)出席停止処分であり、そこに至る前の警告である。それ以外の権力構造を背景にした教師の恫喝、脅迫、強制などは、すべてあってはならないことになるのではないか。

そして、権力構造がないとき、すなわち、「目上・目下」の関係が存在しないとき、語義的に「叱る」ことは不可能になる。教育は、権力による行為のコントロールとしては存在できなくなる。そうではなく、学ぶ者が成長していく過程をサポートすることが教育であるという、本来のあり方としてしか存在できなくなる。そして気づく。なあんだ、学校教師だって家庭教師と同じじゃないか。教師だからといって自動的に立場が上だなんてことはあり得ない。物事の道理を伝え、わかってもらうのに、そんな社会関係は必要ない。人間と人間は本質的には対等であり、対等であると腹を括ったところからしか見えないものがある。相手が見えなくて、どうやって教えることができるよと思う。

 

結局のところ、「正しい叱り方」とか「効果的に叱る方法」とか、そんなものをいくら読んでも私の心に響かないのは、それらがすべて、「教師が上で、子どもは下」という関係性を前提にしているからなのだ。そういう関係性がおかしいと思えるのは私が一介の雇われ家庭教師に過ぎないからなのだけれど、よくよく考えてみたら、学校教師だって大差はない。そりゃ、学校教育法11条に懲戒権はあるのかもしれないけど、現実を見ようよ。教師だって一人の人間として長所もあれば欠点もある。教師に任ぜられた途端にそういった欠点が消えるわけじゃない。ダメダメなところがあったって、役割を果たせればそれでプロだ。役割を果たすときに、ありもしない優越性は必要ない。そういう割り切りができない限り、学校は正常化しないと思うよ。

 

(追記)                          

学校教育法11条の「懲戒」について「じゃあ、どういうものが懲戒に当たるの?」という具体的な規定を知らなかったのだけれど、文部科学省体罰禁止に付属する文書で例示していた。それによると、

(2)認められる懲戒(通常、懲戒権の範囲内と判断されると考えられる行為)(ただし肉体的苦痛を伴わないものに限る。)
 ※ 学校教育法施行規則に定める退学・停学・訓告以外で認められると考えられるものの例 
 ・ 放課後等に教室に残留させる。
 ・ 授業中、教室内に起立させる。
 ・ 学習課題や清掃活動を課す。
 ・ 学校当番を多く割り当てる。
 ・ 立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。
 ・ 練習に遅刻した生徒を試合に出さずに見学させる。

となっていて、概ね、一定の自由を制限する処罰を「退学・停学・訓告以外」にも可能としている。このなかに「叱って」という文言が入っているから、文部科学省としては「叱る」ことが可能としているのだということがわかる。

ただ、近年の精神的な暴力は肉体的な暴力に劣らず深刻な被害を及ぼすという考え方に立てば、「肉体的苦痛」の代わりに「精神的苦痛」でもって処罰を加えるのはどうなのよ、ということにもなる。まあこれは、別の話になるんだろうな。