なぜいま9月新学期を語るべきではないのか - 意見は変わるのが当たり前

思いもかけず「9月入学」の議論が行われるようになって、マズいなと思っている。本質からズレまくっているからだ。それに関してはもう1週間も前に書いた。

mazmot.hatenablog.com

「9月」は手段であって目的ではない。そして、手段としても既に遅きに失している。4月1日頃の時点では、「先が見えないと、安全な再開方法について十分な準備ができず現場が逐次消耗する。それよりは思い切った先に再開日を設定してそれに向けて準備すべきだ。結果的に秋から再スタートがいいだろう」と思えた。しかし、既に1ヶ月以上が失われている。それだけではなく、「安全な学校再開」という本来の目的を見失った議論で、こういった時期にもっとも避けるべき混乱が発生している。この方向で議論を続けても、「十分な準備」をするのに必要な時間を確保するどころか、むしろその時間がどんどん失われるだけだ。だから、この話はすっぱりと打ち切るべきだ。

そういう意味で、この朝日新聞の記事は本質をついている。これに何かを付け加えることはない。

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私は「学校は変わるべき」と思っている。現状ではとても子どもたちの「教育を受ける権利」が保障されていないという問題意識をもっている。けれど、そういう問題意識を共有しない人々が主流の中で教育制度改革を訴えても、議論はアサッテの方向に行くだけだ。まずは問題意識をしっかりと人々に共有することが先であり、それがない状態で「この機会に問題解決を」と思っても無理だということに、いまさらながら気がついた。自分の愚かさを反省するしかない。

ただ、自分が問題を投げかけたことは後悔はしていない。もちろん「9月」は、有名教育評論家の思いつきが発端であり、私や、どこかの高校生が言ったことは議論の呼び水にはならなかった。それでも、多くの人が「ここまで引っ張ったらいっそ9月」と思ったから、議論がここまで盛り上がったわけだ。そして、こんな片隅のブログからでも、その議論に加われたことはよかったと思う。

そして、そういう議論の結果として、私は「やはり9月に仕切り直しというのは良くない」と意見を変えた。変節ではない。議論を通じて人は意見を変えるものだ。そうでなければ、議論の意味はない。これに関しては、以前に詳しく書いた。

mazmot.hatenablog.com

自分が誤ることを怖れて声を上げないことは、民主的な社会、科学的な態度を基調においた社会においてはもっともよくない。だから、私が「もう9月入学の議論はやめようよ」と言っても、やっぱり議論は続いていくだろう。だが、そこに加わる人々の意見もまた、変わるのだ。議論に加わる双方がそれぞれ意見を変えることによって、より次元の高い解決策が見つかる。それが議論の目的だ。

にしても、私はこの議論から抜けようと思う。だって、「欧米の主流に合わせよう」とか、あんまりにもレベルが低くて、アホらしいもの。それよりは、どうやって感染拡大下での教育が可能になるのか、そして、そのなかで私が問題だと思う子どもたちが学校で精神的に虐待されている問題はどのように推移するのか、そしてそれに対して自分に何ができるのかに、自分の意識を移していこうと思う。

 

それより何より、問題は息子を起こすことだ。学校休業のおかげですっかり生活リズムが狂ってしまっている。さ、朝飯の支度をして…