学校はどうすればいいのだろう - 現在進行中の不具合

春休みを含めれば既に2ヶ月、そしてこの先の1ヶ月の合計3ヶ月にわたる学校休業は、既に大きな被害をもたらしている。直接の原因は天災である。新型コロナウィルスの流行がなければこういった事態にはなっていないわけで、そういう意味では誰の責任でもない。しかしながら、教育を受ける権利が最高法規に明記されている以上、さらにはそれ以前に子どもたちを健全に育てねば社会が崩壊することが明らかである以上、いつまでも放置するのは社会として無責任であると言えるだろう。そして、制度上、責任は行政府にある。政府には、これを打開する責任がある。

これが、今回のような感染拡大でなければ、事態がおさまるのを待って再開という手段が妥当な選択肢に数えられるだろう。たとえば地震や洪水による被害であれば、復興を待って学校教育を再開というのは従来もとられてきた政策である。その際に失われた時間は、長期休暇の短縮等で埋め合わせることができる。

しかし、今回に関しては、同じように考えるわけにはいかない。ここのところがよく誤解されているように思う。5月の末だろうが9月だろうが、そこで感染拡大が収束している保証はひとつもない。希望的観測としては「梅雨時になれば…」とか「暑くなれば…」「いくらなんでも秋には…」というのもあり得るし、実際、私だって一日も早くいい兆候が出て元に戻って欲しいとも思う。しかし、いろいろと今回の騒動の本質が明らかになるにつれて、「元通り」はしょせん無理なんだなということがわかってきた。待ってもムダになる可能性が高い。なかなかはっきりしたことを言わない政府でさえ、「新しい生活様式」と言い出した。元通りにならないことをこれほど明確に表現したことは、これまでなかったのではないか。もしも戻る気があるなら、「新しい」なんて言わなかったはずだ。ここから先、かなりの長期にわたって生活様式を変えなければならないことがよく表現されている。

元通りに戻すわけにいかないこと、そして、感染拡大がどう推移するか読めないことを併せて考えれば、子どもたちの教育に関しても、「新しい教育様式」を考えないわけにいかない局面だということが自動的にわかるはずだ。なぜなら、従来の学級制をベースにした学校運営では、感染リスクを誘発する密集が避けられないからだ。もちろん物理的に教室を広くして拡声器などを使用して密集を避ける方法もないことはないが、もっと単純に、子どもたちの集団単位を小さくすることのほうが有効ではないかと思う。そして、そういった変化を準備するには時間がかかる。

現在、学校はてんてこ舞いだろう。小出しに延長される休業に対処するため、さまざまな仕事が発生している。そういう消耗戦を続けても、「新しい教育」は見えてこない。そうではなく、いったん完全にオフにして、その代わり、きっちり準備して「新しい教育」をスタートするほうがいいのではないかと考えた。だから私は以前このブログで「9月」を主張した。このあたりのことは、ここまでくどいぐらいに書いてきた。(そろそろこの話題から離れたいのだけれど、どうも世間の議論がアサッテの方向から動かないので、そうもいかない。やれやれ)

 

特に、現在の議論からすっぽりと抜けているのは、「じゃあ、対策しないでこのまま放っておけばどうなるのか」という視点だ。現在どんな不具合が生じているのかを直視することだ。そこに焦点を当てれば、「どうも感染が収まらないからまた1ヶ月休業を延長します」みたいな対応を続けることはもう無理だということがわかるはずだ。これが他の災害なら、そういう様子見だってあり得るのだし、教育改革なんて時間と手間のかかる議論はもっと落ち着いたときにやってくれという話も説得力をもつ。けれど、現状はマズい。そしてこれを続けることはもっともっとマズい。先の見通しがたたないことは、破滅的にマズい。子どもたち自身やその家庭では、かなりのひとがそれに気づいているはずだ。

 

学習面に関してマズいのは、子どもたちの教育がバラバラに行き当りばったりで行われていることだ。もちろん、緊急時にはそういう現場の臨機応変な対応こそが必要とされるし、そういった対応の中からしか未来は生まれない。だから個別で頑張っておられる教員の方々には頭が下がるし、その努力はきっと報われるものと思う。しかし、さまざまな学校の生徒を横断的に指導する立場の家庭教師から見れば、このような対応が生徒一人ひとりの単位で学習への取り組みに大きな差を発生させることにつながっているのが見える。そして、そこで失われるものは、現行の枠組みを維持したいのであれば、とてつもなく大きい。(私自身の個人的な信条からいえば、学習進度がてんでんばらばらになることには何の問題もなく、むしろ、その方が世界が豊かになるとさえ思う。皆が同じカリキュラムを同じように学ぶことが前提である現在の教育制度はむしろ子どもたちを不幸にしていると思う。だが、緊急事態下にそこまで話を広げるべきではないので、ここは現行の枠組みを尊重する形で話を進める)。

子どもたちの学習が遅れることに対して、ある学校では「宿題」で対処し、ある学校ではさらに「オンライン教材」を加えて対応する。その出し方の工夫も千差万別だ。そういった差も大きいが、それ以上に大きいのは子どもたちの側、家庭の側の受けとめ方だ。同じ課題が出ても取り組み方の程度の差は、通常時に比べてはるかに大きい。というのも、学校は表向き休業であり、休業中の自宅学習は成績に反映しないというタテマエになっているところが多い。それを額面通りに受け取ってサボるのも、それはそれであり得る対応だろう。その一方で、「この休みの間にこそ差をつけろ」とハッパをかけられて取り組む生徒もいる。そういった意識の差は通常時でもあるのだけれど、ふだんであれば学校教師はあの手この手を使って子どもたちの取り組みの強度を揃える。いわゆる「やる気」を上げるための各種の手口はあざといほどで、私なんかは「そこまでせんでも」といつも思うのだけれど、そういうふうにすることで(特に中学・高校では)生徒たちの「学力」(つまりはテストの得点能力)がある程度足並みをそろえた水準で保たれている面も否定できない。そういうフォローがない状態で、コロナ休み明けに蓋を開けたら、とんでもない格差が発生していることに気づくはずだ。

そして、こういった臨時の学習形態は、教材に依存することになる。それが本当に正しいことかどうか、私は疑いをもっている。というのは、授業もなしにいきなり問題集の問題に取り組ませるのは、海図もなしに航海に送り出すのと同じようなものだからだ。ただ、皮肉なことに、一部の優秀な生徒に関しては、むしろ余分な授業なんかなしにひたすらドリルに取り組む学習のほうが得点能力をあげている。特に高校生ではそれが顕著だ。その一方で、一部の生徒にとっては教材を開いても何をしていいのかさえ見当がつかない事態を発生させている。結果として、学校が同じ対応をしている生徒であっても、そこに大きな学力差が生まれていくことになる。

さらに、学習産業の対応も一様ではない。教室型の塾や予備校は特に都市部では休業要請を受けて閉鎖されている。それらの塾や予備校でも、オンラインに移行できるところはオンラインで商売をしているが、やはりそれは利用者のリテラシーによって結果の差を拡大する。家庭教師は一部営業を続けているが、自粛下の需要は特に増えている様子もない。このようなところからも格差はひろがっていくだろう。

 

学習面の個人差は、大きな視点に立てば問題ないともいえる。あるいは、数年かけて修復していくこともできる。より大きな問題は、子どもたちが蒙っている精神的な被害だ。これは、子どもの年齢によって性質が多少異なっているように見受けられる。

小学生の場合、被害は遊びを通じた人間関係の成熟が阻害されることだ。そしてこれにはかなり個人差が大きい。近所に仲のいい友だちがいて、どちらの家庭でも外遊びに対して強い抵抗がない場合には、影響が小さい。一方で、学校が休業することで仲のいい友だちに会えなくなって孤立する子ども、家庭から外出を強くいましめられて友だち関係が切れてしまう子どもも生まれている。集団の中での自己形成が重要な年齢において友だちの果たす役割は大きく、長期にわたることによってその被害は加速度的に大きくなっていくだろう。

中学生に関しては、友だち関係の重要性もあるが、思春期の重要な時期に不安をひとりで抱え込まねばならないことの影響が大きいようだ。親子関係が変化しはじめる時期でもあり、特に両親が在宅勤務になった場合など、思わぬ影響が出ることにもなるだろう。学校はそういった場合の逃げ場としての役割ももっていたのだけれど、逃げ場をなくした子どもが追い詰められるケースもこれから増えてくるのではないだろうか。

高校生になると、なによりも将来に対する不安が高まってくる。学校は、「ふつうに学校に行っていればどうにかなる」という、ある意味根拠のない自信を与えてくれる安全装置の役割ももっている。その学校が休業することで、それでなくともこの年齢に生まれがちな将来への不安を覆い隠すことができなくなる。漠然とした不安は、長く続くとひとを蝕むだろう。

そしていずれの年齢においても、いつ再開されるのかわからない、いつになったらこの状況から抜けられるかわからないという不安が常に日常につきまとうことになる。その影響は個人差が大きいが、センシティブな子どもにとっては負担が大きすぎるのではなかろうか。

 

そして、無視できないのが、子どもたちを育てる家庭の負担だ。多くの家庭は、子どもたちが学校にいって昼間は留守にすることを前提にその生活を組み立てている。小学校低学年の子どもに対しては生活ケアをしなければならないので、学校がない場合、そのめんどうをみるおとなの在宅を必要とする。私自身の経験では、在宅仕事中に6〜7歳の子どもが周囲をウロウロするのは、仕事の能率を大きく下げる。学年があがるとそのあたりの負担は急速に減るが、怪我やけんかなどのトラブル対応が多くなる。もちろん、交通安全などの面での不安も高まる。高学年になると、学校からの要請によっては勉強の管理をしなければならなくなる場合もある。中学生との間で精神的なコンフリクトが発生しやすいことは先にも述べた。高校生ぐらいになると、子どもが在宅することによる親の精神的な負担はほとんどなくなる。せいぜい、バカでかい生き物が家庭内のスペースを専有することによるストレスぐらいでおさまる場合もあるだろう。

精神的なダメージを倍加させるのが、やはりここでも「先が見えない」ことだ。特に、休業期間中の子どもはたいていは生活リズムが狂いがちで、学校の勉強もなかなか進まないため、親の方は「こんなことではこの子はダメになるのではないか」といういわれのない不安を感じるようになる。よその子どもと比べて、「この時期に差がついてしまうのではないか」と焦ることにもなる。前の方で書いたように学校の対応も子どもの側の受け取り方も多様で「これがふつう」というものがないため、「ふつう」に慣れた多くの親は「だいじょうぶだろうか」と思わずにいられない。

そういった精神的なダメージほどではないが、もちろん、子どもが家にいることによる家事負担、経済的負担は小さくない。子どもといっしょにいられる時間をポジティブな方向にもっていける場合もあって決して困ったことばかりではないのだけれど、やはり学校の存在は大きいと思い知らされるのが、今回の休業なのだ。

 

こういった不具合が現実に被害として発生している。そして、重要なことは、そういった被害が既に発生してしまっただけでなく、今後さらに続き、そして徐々に修復が困難なほどに拡大していくことだ。1ヶ月耐えることと2ヶ月耐えることでは、ダメージの大きさが単純に2倍というわけにはいかない。先行きの不透明さがあたえるダメージは、それをさらにさらに悪化させるだろう。

だからこそ、「新しい生活様式」を確立するのと同じくらい、感染拡大下でも可能な「新しい教育様式」を打ち立てなければならないのだ。それが確立できれば、たとえ感染拡大状況の中でも、学校は再開できる。そういった教育改革を行うためには時間がかかるが、最低限の時間はかけてでも、それをつくり出す意義は大きい。そして、そのために必要な時間は中途半端な対応策はすっぱりとあきらめてつくりだし、そのかわり、仕切り直しのスタート時期を明確にする。それが被害の拡大を最小限に留める最善の方法だと思う。

 

考えてみれば、子どもたちが全面的に教育機会を奪われる状況、そしてそこから新たな教育方法が打ち立てられて再開していった状況は、初めてではない。去年、八十八歳で幸福な人生を終えた私の父親の子ども時代がそうだった。現在の中学生に相当する年齢のころ、父は戦時体制のためほとんど教育らしい教育を受けられなかった。そして戦後、教育改革の中で、ほとんど何も知らないまま、新しい制度によってつくり出された高校へと進学し、そこでほとんど何も学ばないままに卒業させられた。旧制から新制への移行にはそれなりの配慮が設定されていたはずなのに、現実には戦時下の教育機会の損失はついに埋め合わせられなかったのだ。

そういった失敗を繰り返してはならない。戦時下にはすべての世代が被害を蒙ったのだからと、非常事態のせいにしてはならない。同様に、感染が拡大しているのだからと、公正な教育機会が失われるのを座視していてはいけないのだと思う。

もちろん、私個人の思いとしての「学校なんて行かなくったって…」というのはあるのだけれど、それを言い出したら、混乱に拍車をかけるだけになるのだし…。とにもかくにも、コロナ、はやくおさまってほしい…