なぜ27万円のAtomマシンが問題なのか

渋谷区が小中学生向けに導入を決めたタブレットのコストが1人あたり27万円に上ることが話題になっている。これが高いのか安いのか、それは考えかたによるだろう。だが、問題はそこではない。

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ざっくり言ってしまえば、区が要求した仕様に準拠して考えるなら、27万円は別に高くもないと思う。教育にお金をかけてくれるのはけっこうなことだし、コンピュータの教育現場への導入はそれでなくても遅れているのだから、どんどんやってくれたらいい。

ただ、その導入に当たって、いったいタブレットスマートフォンを含む電子計算機器を生徒にパーソナルなものとして準備することで、教育はなにを達成したいのか、そこまで立ち戻って考えてみると、「やっぱりこれはおかしい、そんなにお金をかけても得られる効果なんてゼロに等しいだろう」としか思えない。そこまでの議論をしなければ、これが本当に高いのか安いのか、その判定はできないはずだ。

 

この仕様を見て気づくのは、教育現場はタブレットを通信端末としてしか捉えていないというミもフタもない事実だ。これは、タブレットがどのように運用されるのかを想像してみればすぐにわかる。たとえばそれは、教室で資料集のような副教材の代用として使われるだろう。その場合、通信環境が不安定では困るのでLTEがあるのは有効だ。その一方で、描画性能が劣っていれば資料の表示に手間取ってスムーズな学習ができない。幸いに、Atomのようなモバイル端末を想定したCPUはそのあたりはきっちり対応できる。その一方でAtomには強力な演算機能はないが、資料の表示のような用途であればそれは必要ない。

あるいは、教室内にとどまらないオンライン学習だ。それもまた、通信機能が重要であるのでLTEは重宝する。オンライン学習においてはサーバー側の整備が何より必要となるので、その契約も必要になる。また、教室外での使用を考えれば、セキュリティやサポートにあらかじめコストをかけておく必要もあるだろう。

このように、現状の学校のシステムの中にコンピュータを組み込むことだけを考えるなら、渋谷区の出した要求仕様はなるほどとなるし、それに対する積算もこんなものなのかもしれない。けれど、それは本当に教育に資するものなのだろうか。

 

コンピュータは、人間の可能性を大きく広げるものだと私は思う。それは子どもたちにとっても同じことだ。マシンパワーは人間の力を助けるものでなければならない。それを私はいままでの人生で痛感してきた。現代人であればほとんどがそうだと思う。なぜなら、コンピュータ以前の世代の人々は、どんどん一線から退きつつある。そんな時代だからだ。

昔話をしよう。40年近く前、私が初めてワープロ専用機を買ったとき、それまで手書きで文字を書き進めることに苦痛を覚えていた私の能力が開放された。だから私は、そこから半年で1冊の英語の本を日本語に翻訳するチャレンジを自分に課し、そのゴールに到達することができた。もしもワープロの裏側で動いていた電子計算機の助けがなければ、私は後に翻訳者として稼ぐことができなかったはずだ。

そのころ私が勤めていた編集プロダクションの社長は大正生まれのベテラン編集者だった。校正で朱を入れながらよく、「目の前で版下をつくれたらどれほどラクだろうね」と言っていたものだ。当時、ゲラに赤を入れたら、そこから修正があがってくるまで、2週間ぐらいは平気で待たされたものだ。そこから十数年、MacDTPを操作しながら、私は社長の夢が自分の手の先で実現しているのを実感しないわけにいかなかった。ゲラはデータになり、データは自分自身で修正が可能だった。

子どもの頃、私は自転車を漕ぎながら、頭の中に次から次へと流れてくるメロディに恍惚としていたものだ。やがてギターを弾けるようになっても、それは再現できなかった。ところがある日、バンド仲間がYAMAHAのキーボードを買った。シーケンサーがオマケのようについている。音符の読めない私でも、ステップ譜を工夫すればすぐにそれは扱えた。ほんの数時間格闘するだけで、それまで頭の中から出ることがなかった音楽がキーボードから流れ出した。後にMacユーザーになったときにフリーソフトDTMができることに気がついた私は、もちろんそれに飛びつかないわけがなかった。

これらはすべて、インターネットへの常時接続が常識になる以前の話である。ワープロシーケンサーのような専用機の時代はもちろんインターネット普及以前の話だし、DTP黎明期でもメールはあっても通信速度は遅く、データをWeb越しにやり取りするなんてありえなかった。だから、現代では「情報通信技術」としてひと括りにされているICTだが、私はまずなによりも、その演算処理能力の凄さを実感するのだ。たしかにその後のWebは時代を変えた。通信による情報のやり取りこそがコンピューティングの本質であると、部分的には言い切ってかまわない。それでも、人間を解き放ってきたのはその演算能力であり、それを活用するためのプログラミングであって、それを個人レベルで使えるようにしてくれたことこそ、人類の発展であると思う。

これは、なにも昔話に限らない。たとえば超小型電算装置であるスマホでは、むかし職人技であったフォトショップのレタッチが一瞬でできる。(そういうレタッチがいいことかどうかはさておき)、それを使って若い人たちが自由自在に自己表現している姿は、正直、羨ましいなと思う。高校生の息子は中学の頃から3Dモデリングを独学で習得し、学校で造形の作品のノミを入れる前に必ず3Dモデルをつくっている。かつてはプロフェッショナルにだけ許されたそういう手法を支えるだけの処理能力が、ごく安価で手に入るようになっている。

 

コンピュータは、そんなふうに次々と限界を突破し、地平を切り開いていくものであったほしい。それは最先端の人々にだけ当てはまるのではなく、すべてのユーザーに当てはまる。かつてアラン・ケイが夢見たように、広く普及するコンピュータは、あらゆる場面で人を助ける。ごく小さなことでも、それは実感できる。

たとえば、電卓レベルの演算処理能力でさえ、大きなちがいをもたらすことができる。中学校で学習する平方根の概念は、概念としてはそれほど難しいことではないのだが、体感的になかなかつかみにくい。2の平方根が1.41421456...となることなんかは、特に「なんでそうなるの?」という疑問を生じさせる。そして、それはなかなか説明しにくい。ところが、電卓を持ち出して1.5の2乗が2を超えること、1.4の2乗が2に満たないことを示し、次に1.45の2乗、1.43の2乗、1.42の2乗、1.41の2乗と次々に計算してみせれば、2の平方根が1.41と1.42の間にあることを簡単に納得できる。そして、それを繰り返していけば、「どこまでも続く小数」としての無理数を体感的につかませることができる。

そして、関数とグラフの関係をつかませるには、関数を描画させるソフトを与えるのがいちばんだ。数式を入れればそれに相応するグラフが表示されるソフトで遊ばせれば、どんな教材よりも関数に対する理解が深まる。いまではWebサービスでいいのがあるから、そういうのを与えればいい。

作文を書くことが苦手な生徒には、実際に作文をテキスト化してスクリーンに表示し、段落の組み換えや表現の変更がどんな効果をもたらすのかを目の前で示してやるのが効果的だ。そういった推敲のしかたを身につければ、ごく短時間で生徒の文章作成能力はあがっていく。

こういった用途には、端末の処理能力はたいしていらない。けれど、子どもたちはそこからどんどん踏み出していける。踏み出してこその進歩だ。そして、そのときには、CPUのパワー不足は大きな足かせになるだろう。

 

ただし、もしも現状の学校に現状のスタイルのまま電子計算機端末を持ち込むのであれば、残念ながらそんな心配は不要になる。なぜなら、生徒が自分の限界を打ち破るためにコンピューティングパワーを活用するような局面は、そこにありえないからだ。というよりも、そんなことをされたら教師は困る。教師を困らせるようなことは当然ながら禁止される。教師が困らないような活用法といえば、それは決まりきった教材を表示し、そこに教師が期待する解答を入力していく通信端末としての用途でしかない。そして、そこにはたいして処理能力は要求されない。むしろ、そこのコストを下げてでも、セキュリティや堅牢性、トラブルシューティングにリソースを割いたほうがいいということになる。

なぜ、そんな愚かなことをするのだろうと、私は悲しくなる。多くのオンライン教材は、たしかに優れたところもある(私も実際に生徒に勧めたりもする)。けれど、基本的にあれは従来型の印刷物の教材の枠組みを出るものではない。教える側の教えたい情報が提示され、生徒はそれを丸呑みにする。そういうことが「勉強」であると思い込まされた人々が学校社会を形作っている。

それで、未来が開けるだろうか? そういった上意下達型の教育はもう何十年も前に時代遅れになっているのではないだろうか。だが、そういった教育を最も効率良く行えるように袋小路に進化してしまった学校システムは、それを変えることができない。教室型で講義するスタイルで、生徒の創造性を解き放つことなど出来はしない。したがって、Atomで十分だ。

だから、27万円が問題だというなら、まず、学校を変えようよ。指導要領変えなくったって(というか、むしろ現行指導要領の内容をベストに実現するために)、学校のシステムを変えることはできる。現実にそういう試みも、点状にではあるけれども存在する。ここを打ち破らなければ、明日はないよ。