いま、学習産業に携わる意味 - 時代は変わる

家庭教師の端くれとして再び学習産業にかかわるようになってもうちょっとで丸7年になる。「再び」というのは若い頃に出版業界の片隅の「学参」とよばれる分野で仕事をするようになり、20年ばかりその周辺で仕事をしてきた過去があるからだ。そういった「子ども騙し」の仕事と縁を切ってようやくせいせいしたと思ったのもつかの間、結局はそこに戻ってきた。だが、立ち位置はかなりちがう。

学習参考書・問題集のたぐいを編集する仕事は、ひたすら地味であり、ときには何週間もだれにも会わずに原稿用紙(やがてはパソコン)とにらめっこをするような業態だった。製品のユーザーである子どもたちと接することは(ごくまれに問い合わせ対応をするぐらいのこと以外では)基本的にない。ところが家庭教師という仕事は、毎日何人かの生徒と一対一で向き合う。こちらにその気さえあれば、子どもたちがどんな問題を抱え、どんなふうにしんどい思いをしているのかが手にとるようにわかる。そして、それを解決するために、いろんな手段があることに気づく。だから、隣接する業界ではあるものの、まったくやることがちがう。たいしてカネにならない仕事だけれど、まあいいかと落ち着いて、ここ数年を過ごしている。ほかに収入の途がないわけでもないしね。

そういう業界の人間として言うのは憚れるのだけれど、学習産業なんてロクなものではない。およそこの世からなくなればいい仕事だと思っている。じゃあなんで率先してやめないのかといえば、いや、私がやめてしまえば永遠にこの業界、このままだと思うからだ。学習産業みたいな害悪を世の中からなくすためには、まずそのなかで頑張らなければならない。それっておかしなことだろうか? 私はそうは思わない。

世の中に何らかのサービスが存在するのは、人がカネを払ってでも誰かに処理してほしい問題が社会に存在するからだ。その問題が存在し続ける限り、その商売はなくならない。けれど、じゃあそのサービスは何のためにあるかといえば、問題を解決するためにある。だから、すべてのサービスは、自分自身の存立基盤を突き崩すことを目的として存在することになるはずだ。私はこのことを、もうひとつの収入の道である英文翻訳をやっているときに強く実感した。巨大な演算処理能力をもったデバイスが日常的に利用可能になっていく世の中で、翻訳者は技術者と協力することによって、自動翻訳を可能にしていくことができる。その先に、最終的には翻訳者なんて不要な世界が生まれるはずだ。それに対して拒否反応を示す業界人が多いなかで、私はそれこそが翻訳業界の目指すべき方向性だと感じた。そして、「なんだ、すべての商売がそういうことじゃないの」と、腑に落ちた。自分自身の仕事に対するニーズの向こうには、解決されていない問題がある。最終的にそれを解決することが仕事をする人間には求められているのだし、そこを理解していてこそ仕事は楽しいものだと、そんなふうに思うようになったわけだ。

 

だから、クソみたいな学習産業にも、それが必要とされている事情がある。そして、その事情を考えはじめると、やはり歴史を遡らねばならなくなる。いったいどうしてこんなアホみたいなことがのさばるようになったんだ?

家庭教師や私塾の歴史は古い。以下、文献とかにあたらずに書いているので話半分以下に聞いてもらえればいいのだけれど、家庭教師のようなものは古代にもあったし、近代日本においても戦前から存在した。現在の名門大学のなかにはもともと大学の予備校的な存在だった学校もある。学問のために費用をかけることは奇妙なことでもなんでもない。ただし、それは社会の中ではごく一部の人々の間だけで行われることであり、ある意味、どうぞ勝手にやってくれ的な世界であり、おかしなことでもなんでもなかった。

それが急速に変化したのは、日本でエネルギー革命が起こった1960年頃を境にしてのことだ。この時期の経済の大変革についてはアウトラインを描くだけでたぶん何日もかかるのであえて触れないが、それまでは中卒での就職(や家業への就業)が一般的だったのが、突然のように高校進学率が伸びはじめた。10年で高校進学があたりまえの世界ができあがり、その次の10年で大学進学があたりまえの世界がやってきた。そういう膨張期には、受け入れ側の定員がたりないから、入学をめぐる競争が激化する。学習産業が産業と呼べるほどの規模に一気に成長したのは、この時代である。

私の記憶では、1970年代初期には学習塾といえば基本的には個人塾だった。よくあるパターンとしては、学生運動で「挫折」した全共闘の闘士崩れみたいなのがうらぶれて自宅の二階ではじめるようなもの、とまで言ったら言い過ぎだろうか。それが1970年代後半から80年代にかけて一気に統合が進む。学習塾は教室化し、大規模なところは1970年代に一足先に成長を遂げていた予備校と区別がつかないほどに膨れ上がった。一方の家庭教師は、人材派遣業に対する規制をかいくぐるために擬似的な「会員制度」をとって、1970年代に拡大していき、大小の業者が林立することになった。こちらに関しては個人でもはじめられる手軽さもあり、また、講師の主要な供給先である大学が学生のアルバイトとして紹介することもあって、正確な実態といえるものさえ、なかったのではないだろうか。

こういった学習産業に対して、当初、学校は強い拒否感を示した。それは、学習産業が「テスト対策」をその事業の本質としていたことから避けられないことだった。

このブログで何度も書いているのだけれど、本来、学力試験とか、学力考査とか、テストとかよばれているものは、教育の成果を測定するために行われる。そして、(いまではすっかり無視されるようになったことではあるのだけれど)学習指導要領に定められた学校教育の本質は、論理的な思考力やコミュニケーション能力を高めることであって、「問題に正解すること」ではない。そういったコンピテンシーを高めた結果として、学力試験を実施すれば、その得られた能力に応じた得点が測定できるはずだ、というのがテストの意味であった。

ところが、そういったテストは、実はそんな回りくどいことをしなくったって、対策をすれば高得点をゲットできる。たとえば、本質を理解し、思考を積み重ねることによって正解に至ることができる図形証明問題なんか、正解を丸覚えしてしまったほうが短期間でずっと効率的に点数を稼ぐことができる。それはわかっていても、かつて学校ではそれはチートであって、そんなことをして点数を稼ぐやつはダメだぐらいの建前を掲げていた。そりゃそうだろう。コンピテンシーを身につけてほしいのに、どうでもいい正解の暗記みたいなことをされたんじゃ、テストをつくる方も萎えてしまう。もちろん、そんな教師ばかりでなかったことも事実なのだけれど、少なくとも建前上はそうだった。

たとえば、私は1970年代後半に地域でトップと目されるある進学高校に在籍したのだけれど、その時代にはそういった正統派教師と「いや、それでも進学のためには反復練習を」といった現実派教師の対立みたいなものがあった。そして、学校は建前として正統派であったため、ドリル系の宿題とか進学のための補習とか授業時間を使っての入試過去問の問題演習とか、現在の進学校であたりまえに行われているようなことはほぼなかった。学校は学問の基礎を生徒に教える場であり、大学受験の予備校ではない。建前としてそれは一貫していたし、多数派の教師は実際に受験対策を一切やらなかった。(実際には建前はどうであれ、多くの生徒がいろいろな方法で受験対策に勤しんでいた。そういうことに一切気づかない鈍感な生徒であった私は素直に何の対策もせず、大学受験は相当悲惨な結果となった。だがまあ、そのあたりは別の話だ。)

 

テストで生徒に高得点をとらせることが教育の目的ではない。そう掲げる学校は、当然ながら学習塾を異端視した。しかし、それは1980年代半ばを過ぎて急展開する。「そんなことを言っても対策しなけりゃ生徒は合格しないじゃないか。合格してこそ生徒は幸福になるのだし、学校の評価も上がるじゃないか」という現実派が勝利をおさめるようになったのだ。その理由は知らない。単なる推測なのだが、1960年代後半の「受験地獄」とよばれた時代をくぐり抜けた人々が教師になって、現場に影響力をもつようになっていったからではないだろうか。学習塾をはじめとしたツールを活用して「対策」を積み重ねることで勝ち組になった人々だ(当時は教職は安定したラクな職場として非常に人気があった)。「受験は対策で乗り切るもの」という価値観をもっていても不思議ではない。

そして、「校内暴力」とよばれる学校現場の荒廃(として大々的にマスコミに報じられた現象)が、そういった学校改革の後押しをした。学校が機能していないと報じられるなか、学習塾仕込みの猛勉強をやらせて治安を回復し、進学の実績を上げる教師たちに世間は高い評価を与えるようになった。そして、学習塾や予備校の「ノウハウ」が学校教育に取り入れられるようになった。このようにして、1990年代頃には、学習産業と学校との敵対関係は終了してしまった。予備校が全盛期を迎えたのもこの時代だ。駅前が予備校の教室だらけという風景は、全国に広がった。そして、2000年代から2010年代にかけて、学校の予備校化が完成した。いまでは、中学校や高校の教師でまともな講義をする人のほうが少ないのではなかろうか。ほとんどの教師は学問のおもしろいところなんかぜんぶすっ飛ばして「ここ、試験に出るから重要!」みたいなことばかり叫んでいるような気がする。もちろんこれは実際に見たわけではなく、家庭教師で教えている生徒たちを通して見える風景でしかない。いくらかのバイアスはかかっているだろう。けれど、生徒たちがもらってくるプリント類や彼らの報告を聞く限り、もう学校はすっかりむかしとはちがうと思わざるを得なくなっている。

 

だからといって私は、「むかしはよかった」的な話をしようというのではない。そうではなく、学校を補完する立場にある学習産業としては、学校がむかしと同じでない以上、自分たちもむかしと同じであってはならないと思うのだ。ところが、見渡してみると、むかし以上に荒廃した風景が広がっている。だから学習産業はクソだというのだし、そして、この業界を変えることができればムチャクチャおもしろいだろうと、そんなふうに思うのだ。

学校が学問を捨てたのなら、学習産業がそれを拾えばいい。私はそう思っている。そして、そう思ったら、いくらでもやることが見えてくる。目の前に無限のブルーオーシャンが広がっている。実にワクワクする。

とはいいながら、結局は私ではない誰かがそこの成果をさらっていくんだろうとは思う。それでもいい。大きな変化を見届けるのにいちばん見晴らしのいい場所を確保すること、それだけでも残りの人生をかけてみるだけの価値があるのではないかと思っている。