シアワセの容相

あしたはこっちだ

なんでノートをとるのかわからない - 美風なんだろうけど

白状すると私はノートを1冊使い切ったことがない。いわゆる大学ノート、学習用のノートのことだ。その小型版の手帳でさえ使い切ったことがない。途中からそれははっきりとわかったので、大学の山岳部にいたときには必要な枚数だけ白紙を小さく切ってホチキスで中綴じにして、使い切れるだけの手帳をつくってリュックの雨蓋に入れていた。GPSのない時代、山行記録はとらないわけにいかないから。

記録のための小さなノートはともかくとして、問題は「勉強」のためのノートだ。小学校のときにはきらびやかな表紙の各教科専用のノートが市販されているのをどこかで数冊買い与えられたと思う。ただし、そのうちの1冊も使い切らない(どころか使い始めもしない)ので、追加で買うことはなかった。中学校になると学校で本格的に「ノートの使い方」みたいなのを教えられる。張り切って何冊かの大学ノートを買ってもらったのだが、結局、数枚のページを汚しただけでそれらは大学卒業の頃まで残ることになった。早々にノートをとるのを断念したからだ。

なぜノートをとらなかったのだろう。いくつかの理由が複合していると思う。まず、何を書けばいいかわからなかった。これはいまでも、多くの生徒が訴えることであり、まあ、普遍的な問題なのだろう。ただ、多くの生徒は教師の板書を丸写しすることでこの問題に対処する。あるいは、上手にノートをとる友だちのやり方を見本にして、解決していく。けれど、私はこの「わからない」に加えて、字が汚く書くのが遅いという問題を抱えていた。そのくせ、完璧なものをつくらなければ気がすまない発達障害的な性格も災いしたのだろう。汚い字で、それでもなんとかノートをとり始めると、それ以上のスピードで授業が進んでいく。ノートなんかとっていたのでは授業を聞き逃してしまう。

やむなくノートを断念して授業を聞き始めると、思いがけないことに気がついた。教師の説明していることはすべて教科書に書いてある。自分が汚い字でいっしょうけんめい書かなくても、もうそこには活字できれいに印刷されたものが与えられている。私は、ノートをとる代わりに教師の話に対応する教科書の箇所を確認するようになった。

もちろん、教師は教科書に書いていないこともたまにはしゃべる。それは教科書の不備だろうと、教科書の余白にメモをする。けれど、ほとんどの場合、そのメモは不要だということにあとから気がついた。というのは、たしかにその箇所には書いていないのだが、別の場所に書いてあったり、別の本(たとえば資料集)に書いてあったりする。既に印刷物として手に入るものがあるのに、自分の読みづらい字でそれを書く必要を私はまったく感じなかった。だから、ノートはとらないものと決めた。高校に入ったときも大学に入ったときも、「さすがにこれからはそういうわけにはいかないだろう」と身構えたが、結局同じことだった。メモすべき目新しいことなんか教師は喋らないし、仮にそういうことを喋る教師がいても、それは教科書の隅の余白に1行でまとめれば十分な程度でしかなかった。それもそうだろう。指導要領に定められたことを説明するだけでもたぶん時間いっぱいなのに、それに加えて入試対策みたいなことで時間を潰しているのだから、それ以上のことなんか喋る時間があるわけはない。まあ、大学になるとさすがにそればかりでもないが、印刷物の配布が膨大だったので、たいていはそっちで間に合った。出席していないとそういうプリント類はもらえないから、割とまじめに講義には出席していたと思う(そして半分は寝ていたような…)。

 

ノートをとらなかったことが良かったのか悪かったのか、私には未だに判断ができない。一流とはとてもいえないにせよともかくも大学に進学できたことを思えば、「ノートなんてとらなくても(ついでに宿題なんてしなくても)勉強に問題はない」と言えるかもしれない。あるいは、もっと強気に「ノートをとらなかったから(そして宿題なんかしなかったから)こんな私でも大学に進学できた」と強弁することも可能かもしれない。反対に、「もしもまじめにノートをとっていたら(そして宿題をやっていたら)、一流大学に入れたんじゃないの」と疑うこともできる。1回こっきりの人生に、「たら、れば」は無意味だ。

ただ、とりあえずノートなしでどうにか生き延びてきた人間として、正直なところ、人々がなんでノートをとるのか、未だにわからない。なぜなら、ほとんどのひとはノートを見返さない。特に私が家庭教師として教えている中学生や高校生は、次から次へと降ってくる課題をこなすのに忙しくて、ノートなどのんびりと読み返している時間はほとんどない。だからといって、彼らに「ノートなんかとるな」とアドバイスすることはできない。なぜなら多くの教科で、「ノート提出」が義務づけられ、それが成績に影響するからだ。生徒の不利益になることは決してしてはならない。だから、自分自身には根拠がないのに、「きちんとノートをとらないと」みたいなアドバイスをする。もっとも、そんなアドバイスをしなくてもほとんどの生徒はきちんとノートをとっている。いまの生徒たちはほんとにまじめだ。哀しくなるぐらい。

 

ノートに関してこんなことを思うのは私ぐらいなのかと思っていたら、ひょんなところから似たような感想が出てきた。ヘレン・ケラーの「わたしの生涯」を読んでいたら、

けれども私はこの点(掌に「指話」法で講義を伝えてもらうこと)では、筆記をするのに懸命になっている他の学生に比べて、非常に不利であったとは考えません。耳で聞くことと、それをめちゃくちゃな速さで筆記する機械的活動とに全心が奪われているならば、いま論じられている問題や、その説明の方法などについて、多くの注意を払うことは不可能であろうと思います。私の手は、講義中聞くことに忙しいので、筆記することはできませんでした。

という部分に行き当たった。ノートをとらなかった私は、教師の話に没入できた。教師の話を理解し、教科書で確認し、疑問を解消し、教師を批判することが思う存分にできた。もちろん、それは講義の上手な教師の場合だ。退屈な教師の場合は、何も考えることがないため、空想にふけるか、居眠りに落ち込むかのどちらかだった。それでも、そういった頭の余裕が、いまの私をつくっているように思う。

それでもなお、私はきれいなノートをとる人を、心の底ではうらやましいなと思っている。あれはたしかに美しい風習なのだろう。だが、美しい風習は、美しさだけで保たれるものではない。もしもそれが無意味なこと、有害なことだとわかる日が来るのなら、それは捨て去られなければならないのだろう。

まあ、ノートの効用についての実証的研究なんて無理だろうから、この美風がなくなることはないんだろうなあ。少なくとも、この教育制度が変わらない限りは。