タテマエはホンネを隠すための飾りではない、という話

どっちがホンネ?

子どもたちの教育はなんのため、と尋ねられれば、まずは「健全な発達と成長を促し、おとなになってからの充実した人生に備えるため」と答えるべきだろう。子どもは、周囲からどんどん新たな情報を吸収し、それを自分のなかで体系づけながら、自分自身の世界をつくっていく。そうやってつくられたアイデンティティが、その後の人生を支えていく。そういった自然な成長の過程をサポートする活動を教育という。多くの人に異論はないはずだ。

ただし、実際に教育現場で行われていることは、そうではない。子どもたちの内部にニーズがあろうがなかろうが出来合いのカリキュラムに設定されたことをあの手この手を使ってインストールすること、そして、その結果とされている知識や技能を点数化して競わせることが教育の実際になっている。さらにわるいことに、カリキュラムに設定された知識や技能の本当の意味は大半無視されて、その成果を測定するために開発されたはずの学力テストで得点をとる技能の訓練ばかり強調するという本末転倒なスタイルが幅をきかせている(なぜ学力テストが奇妙な結果に結びつくのかは、以前に書いた)。

こういうことをいうと、「いや、そりゃあこの世は競争社会。どうやって人の上に出るかが重要で、健全な成長とか、そんなのはタテマエだから」というようなホンネ論をいう人が必ず現れる。美しいタテマエは、単に表面を装うだけのもの。そうだろうか?

家庭教師みたいな商売をやっていると、まったく逆なホンネとタテマエに遭遇する。家庭教師への依頼は、その多くが成績への不安から発生している。テストの点数が下がった、というのが典型的なもので、さらには、「まったく勉強している姿を見ない。これでは下がるにちがいない」とか、「もっと上を目指してほしいのにちっとも勉強をしない」とか、ともかくも、「勉強をさせてほしい」という依頼であることがほとんどだ。成長も発達もクソもない。ともかくも勉強だ、暗記だ、ドリルだ、というのが生徒家庭のホンネだ。そうだろうか?

緊急の場合(たとえば中学3年生で受験が目前に迫っているとき)は別だが、そうでもなければ、私はまずは生徒とじっくり話す。そのうえで、長期的な解決策を考える。その多くは、たとえば毎日の音読であったり、日記をつけることであったり、作文であったり読書であったりする。発声練習からメニューを組んだ生徒さえいた。そういう課題を生徒のご両親に説明すると、最初は疑いの目でみられる。「え? ドリルはないんですか?」みたいな感じだ。そこで、課題の意図を説明する。たとえば、「現状、読解力が弱いためにどの教科のテストでも点数がとれていません。問題文の内容がしっかり理解できていないのです。これを解決するためには読解力を身につけてもらわねばならず、そのためには遠回りでも読書がもっとも効果的です」といったぐあいに、ていねいに説明する。すると、ほとんどの場合、こちらの意図を理解してくれる。それどころか、「この子の本当の成長を考えてくれる!」みたいに、感激してもらえる場合まである。多くの親は、本当は目先の点数の上下ではなく、子どもの人間的な成長を願っているのだということが会話の中から伝わってくる。

つまり、私が家庭教師として出会う人々のほとんどが、「テストの点数をあげなければいけない」と口では言っているのに、実はそれとはまったく対立することを願っている。「勉強しろ!」と子どもを脅迫する親は、実は子どもたちに机にかじりついてドリルばかり解くようなことばかりしてほしいと思っているわけではない。ただ、そこで子どもを叱咤激励するのが自分の役割だと思い込まされている。言葉をかえれば、「勉強しろ!」はタテマエであって、ホンネは「健全な発達と成長」である、といえるだろう。

弁証法クラウド

通常、子どもの発達のニーズに合わせた適切なインプットと学習ドリルの類とは、競合する。時間的にも子どものエネルギー的にも、互いのリソースを奪い合う。 子どもの心身の発達のためには、たとえば気候のいい時期には森でも歩かせればいい。天気が悪ければ読書という楽しみもある。日曜大工や料理といったおとなの世界に挑戦するのも、素晴らしい刺激になる。ぼんやりと空想にふけるのも、「非認知的コンピテンス」と呼ばれるものの発達には重要だ。そしてこういった活動をしていると、たとえば計算ドリル、漢字の書き取り、受験対策問題集なんかをやっている時間がなくなる。少なくとも、受験産業界が「最低でもこのくらいやっとかないと後悔しますよ」と脅迫する程度の分量をやるだけの時間は確保できない。つまり、子どもの教育には2種類があって、どちらかを選択しなければならない。そしてもちろん、さまざまな活動が子どもに重要なことは否定するわけにいかないから、仕方なくそちらをタテマエとして、ホンネの活動であるドリルや書き取りに力を注ぐ、というのが多くの家庭の選択であるように思う。

矛盾する2つの選択があるとき、一方を標榜して実際は他方を実行する。これをタテマエとホンネという。日本人はむかしから、このタテマエとホンネをうまく使い分けてきたそうだ。だが、それでは問題は解決しない。それを若い頃の私に教えてくれたのは宮本重吾という人物だった。参議院選挙の時期になると彼のことを思い出すのだが、まあそういう話をはじめると長くなるのでやめておこう。ともかく彼は、なにかというと「キミ、そういう対立で考えてはいかんのや。正反合、正反合と、つねにもうひとつ上のレベルで考えていかんといかん」と言っていたものだ。

この「正反合」は、もちろんヘーゲル弁証法であるわけだが、有機農業者にして天性の宣伝マンである宮本さんの正反合は、どうもヘーゲルっぽくなかった。私はむしろ、後年になって、ビジネス関係のセミナーで聞いた手法であるTOC(制約条件の理論)の「クラウド式の問題解決法」そのものだと思う。詳しくはゴールドラット博士の本でも読んでもらったほうがいいのだろうが、この手法、対立する要素が見えたときこそが技術革新のチャンスだ、という捉え方をする。両方を満足させる解がない場合には、実は答えは空の上、雲の中のまったく別なレベルに存在する。それを見い出せば、2つの問題は同時に解決するだけでなく、さらに大きな構図が明らかになる、というようなものだったように思う。まあウロ覚えだ。

それを弁証法と呼ぼうがクラウドと呼ぼうが、ともかくも、2つの対立要素を同時に満たす方法を見つけることでしか、現実の矛盾は解消できない。対立要素の一方を採用し、もう一方を捨て去るのならまだしも、捨て去ったはずの要素をタテマエとして飾り立てるのは何ら矛盾の解決にならない。むしろ矛盾を深刻化させる。「勉強」に関しては、その矛盾のシワ寄せは一方的に子どもたちに押し付けられる。それが現状ではなかろうか。

対立を越えて

矛盾が発生しているときには、現実を正確に理解することが重要だ。現実には、教育には、冒頭に書いた「子どもたちの健全な発達と成長を支えること」のほかに、これとまったく無関係な要請が担わされている。それは、子どもたちを選別することだ。その選別が実際にどのように機能しているのかは、ブルデューとかを読んだらそれなりに面白いのだが、形式上は能力による選別ということになっている。そしてその能力は学力テストで測定される。

ここで重要なことは、学力テストの結果は決して、教育の成果を表現していないということだ。そうではなく、学力テストの結果は、それに対してどれだけ「対策」を施したかどうかによって強い影響を受ける。矛盾の本質はここにある。つまりは子どもたちの本来のニーズとはまったく無関係な「対策」に時間を割かねばならなくなって、リソースの競合が発生する。そして、選別の勝負がシビアになればなるほど、リソースはそちらに割かねばならなくなり、他方は無視される。これが、タテマエとホンネ状態を生み出している。

しかし、これらは本当に競合するものなのだろうか。私は、自分自身の思想としては、子どもたちを選別することには反対だ。しかし、現実がそこにあるとき、それを無視すべきだろうか? それは、ホンネを無視してタテマエの美しい世界で遊ぶことにしかならない。多くの子どもたちの苦しみを救うことはできない。何よりも、まずは商売にならない。だれもそんな家庭教師など雇ってくれないはずだ。

そうではなく、どちらの要素も、同じ平面上で捉えるべきだ。価値観を捨てて、教育には子どもたちを発達・成長させる要請と、子どもたちを選別する要請があるのだということを虚心に眺める。そしてこの現実を当事者である子どもたちの目線から見れば、どちらも劣らず重要なのだということがわかる。そして、リソースは互いに競合する。そこに矛盾が生じている。

この矛盾を解決するためには、「時間配分をどうするか」みたいなレベルにとどまっていてはダメだ。そうではなく、解決のためのレベルを変えなければならない。そのためには、そもそも矛盾はなぜ発生したのかと考えねばならない。すると、すぐに見えてくるのは、テスト問題がつくられるに至った経緯と、それが現在のように訓練でもって解かれるようになった経緯だ。テスト問題は、もともとはテスト対象の子どもが正しい知識や思考能力を発達・成長の過程で身につけたかどうかを判定できるようにつくられたものだ。しかし、実際には発達・成長はすっとばしても、すべて正解や解法を暗記してしまえば点数をとることができるようになっている。そこで、裏技として受験勉強という方法が発生し、それが一定の効果をあげることから、いつの間にかあたかもそれが正しい唯一の学習方法であるかのように誤解されるようになった。しかし、それならなにも受験勉強などしなくったって、発達・成長のなかで正しい知識や思考能力を身につけさせれば、同様の点数がとれるはずだということに気がつく。ただし、それはやってみれば空理空論だということがわかる。勉強をしない生徒は点数がとれない。だが、もっとよく見てみよう。本当にそうなのか?

ここで、生徒たちを観察していると、ある事実に気がつく。生徒は自分の日常体験の上に「勉強」の点数を積み重ねている。日常的な体験のなかでしっかりと思考する習慣ができている生徒に対しては、それに応じたごく短時間のトレーニングをするだけで点数が伸びる。一方、ふだんから自分の生活に関して考える必要も習慣もない生徒は、膨大なトレーニングをしても少ししか点数は伸びない。最終的な収量は、前者のほうが圧倒的に高い。

ということは、実は本来の意味での生徒の発達・成長とテスト対策は、ひとつレベルを上げれば何ら対立的ではないということがわかる。まずは生徒に多くのことに興味関心をもたせ、そして実行させる。キッチンに放り込むのもそのひとつだし、部活動も過重にならない程度なら役に立つ。読書もある意味では身体的な経験になり得る。登下校の道程、友人との会話、家庭内での身のこなし、すべてが重要な体験になる。そして、それらについてつねに考えさせる。そのためのツールとして、日記や作文は有効だ。家庭教師との対話でさえ、考えを深めていく緒にはなる。そういった刺激を与え、素地をつくりあげる。その上で、受験産業の常套句からいえば雀の涙程度の学習指導とトレーニングをする。もしも指導者がしっかりとポイントを外さなければ、それだけで必要なだけの点数は確保できるだろう。

つまり、どっちをとるかとか、どの程度の配分で組み合わせるかとか、対立的に見ていたのでは矛盾は決して解決しない。そうではなく、一方を行うことで他方にどのような影響が出て、それによって双方をどのように変化させることが可能になるのかという統合的なレベルで戦略を考えなければならない。最終的な受験勉強の分量は大幅に減らすが、その下地を「対策」とはまったく別個の学習活動でつくっておく。そうすれば、外見上は理想を追いかけているように見えて、実は地に足のついた「得点力アップ」を実現することができる。

そして、最後のホンネ

というようなことをここ何年もやってきて、それなりに実績もあげてきたとは思う。けれど、とことんで言ってしまえば、ここまで書いてきたこと、単なるタテマエなんだよなあ。ホンネは、勉強なんてやめてしまえ! なんだよな。勉強とかテストとか、心の底から大嫌いだ。それを世の中から少しでも減らせると思えるから、こんな家庭教師をやっている。なんともミもフタもない話になってしまったなあ。