「やるべきこと」はわかってるんだって - 多くの英語教育論は的外れ

理念は耳にタコ

どちらかといえば発達障害気味だった私は子どもの頃、よく叱られた。特に宿題では、しょっちゅう担任教師に説教をされた。小学校高学年以降の宿題提出率はほぼゼロだったから(小学校4年生までは宿題そのものがなかったように思うのだが、そんな訳はないので、たぶんあっても気がつかなかっただけなのだろう)、そりゃあ、担任にとっては問題児だっただろう。ただ、当時は子どもの人数が爆発的に増えていた時期で、1クラスの人数も45人が標準だった。だから担任教師もひとりの問題児にかけられる手間は限られていて、おかげさまで私はうつにもならず、不登校にもならなかった。人生、何が幸いするかわからないものだ。

その説教の多くは、なぜ宿題が重要なのか、それをやらないとどういう悪い結果になるか、宿題をやる意義はどういうことなのか、などなどをこんこんと説明するものだった。正しいことだろう。もしも私が同じ立場だったら、やっぱり同じことをやってしまうかもしれない。けれど、聞いている方にとっては、それはほとんど無意味だった。なぜなら、そんなことは言われなくても十分にわかっているからだ(後になって私は宿題の必要性に関して疑義を唱えるようになるのだが、子どもの頃は純粋に宿題の必要性を信じていた)。宿題はやったほうがいいにきまっている。けれど、できない。いくら大切だ、義務だとわかっていても、でいないものはできない。わかっていることを百回、千回繰り返されたってそのレベルでは十分すぎるぐらいにわかっているのだ。だから無駄。無意味。

そういう子どもはいるのだと、いま、教える立場になってみればわかる。宿題の遂行を阻むものは百人百様だろう。私の場合は、そもそも机の前に座っていられなかった。同じ作業を繰り返すことも苦手だった。がんばってノートをひろげてすわったとしても、書き取りとか、数文字書いただけで、空想が始まる。あらぬことをぼんやり考えてしまい、手が止まる。そのうちに、寝転んで宿題のことは忘れてしまう。これでは宿題なんてできるわけはない。

もしもそういう生徒に出会ったら、宿題の意義を説いてもダメだ。もちろん「なんのためにやるのか」は、出発点として重要だ。そこがわかっていない状態では、仮に宿題を形の上だけ実行しても、実は効果が薄い。作業は常に目的を明確にして行わねばならない。だが、そこが理解できない生徒なんてほとんどいない。ものの30秒も説明すればわかってもらえる。問題はそこからだ。わかっていても宿題をしない生徒には、それぞれなりの理由がある。実行を阻む事情がある。

たとえば、忙しくて宿題をやる時間がない生徒がいる。クラブ活動で肉体的に疲労困憊して、宿題どころではない生徒もいる。宿題の実行手順そのものを誤解している生徒もいる。私のように発達障害的に特定の作業を苦手とする生徒もいる。そういう生徒に対しては、それぞれの実行を阻んでいる要因に対して何らかの働きかけをしなければ効果は上がらない。「やらねばならないからやるんだ」という精神論では、何ひとつ解決しない(ま、いまの私だったらあっさりと「あ、じゃあ宿題はやめとこう」というのだけれど)。

なんで学習指導要領を読まないの? 

英語教育をめぐる議論に関しても、実は同じような苛立ちを私は覚えている。英語教育を批判する(あるいは肯定する)人々は、英語教育の現状に対して、「もっとこうあるべきだ」という意識で議論をする。「英語教育かくあるべき」というのは、それはそれで重要な議論だ。そして、そういう議論は、まずは英語教育の方針を決めているポリシー、具体的には学習指導要領の改訂に向けて行われるべきだ。なぜなら、「何のために、何を、どのように」という指針は、日本の初等教育中等教育においては基本的に文部科学省がさだめる学習指導要領に規定されていて、その範囲を大きく逸脱できないことになっている。だから、「英語教育はこうした方がいい」というアイデアがあるのなら、なにはさておいても「学習指導要領をこう変えよう」という提案をすべきだということになる。

ところが奇妙なことに、英語教育に関する議論で、学習指導要領を参照したものはほとんど見ない。そうではなく、彼らが参照するのは、「学校ではこんなふうになっている」「大学生の語学スキルがこうなっている」「日本人の英語力はこの程度だ」「こんな英語は使えない」と、理念のレベルではなく、現実のレベルにとどまっている。

もちろん、現実は理念が誤っているから問題になっているのかもしれない。だから、現実を出発点とするのはそれだけでは誤りとは言えない。しかし、もしもそうなら、「であるから、学習指導要領のここを変更したほうがいいだろう」と指摘するものになるはずだ。けれど、そのような議論は見ない。おそらく、教育関係者以外、学習指導要領の原文なんて見たこともないのだろう。なに、検索すれば一瞬で出てくる。数十年前からの変更履歴もごく簡単に知ることができる。けれど、だれもそこに興味を持とうとしない。

理念を語っても現実が変わらないときに  

では、学習指導要領はどうなっているのか。以下に引用してもいいのだけれど、以前、他の教科で同じことをやったらえらい冗長な記事になってしまった。同じ轍を踏みたくないので、適宜、文科省のサイトに行って確認してほしい。そして、じっくり読んでもらったらわかるのだけれど、実は政策としては、かなりまともなことが書いてある。実際、ふつうに読んだら、半分くらいの英語教育批判は、この段階で「ごめんなさい」と逃げ帰らなければいけないはずだ。特別に文法重視をうたっているわけでもないし、会話を軽視しているわけでもない。その一方で理論的な積み上げは無視していないし、実用的なスキルへの接続もよく考えられている。学習指導要領を読む限り、根本的なところで日本の英語教育に大きな問題はないように見える。

もちろん、私は個人的に、「学習指導要領バンザイ!」を叫ぶつもりなどない。礼賛するようなものでもないし、なんだかなあと思うところも多い。「もっとこうした方がいいんじゃない?」という意見も、少なからずある。けれど、もしもこれが理念通り実行されるなら、まあそれはそれで上等かなとも思う。ローマに通じる道は一筋ではないし、最終的に子どもたちの成長に役立つのであれば、あんまりいろいろツッコまなくてもいいのかなとも思っている。

その一方で、じゃあ本当に英語教育は問題ないのかといえば、実は問題だらけだ。私はいっつも批判するし、なんならその批判は生徒の前でも堂々と言う。「そんなやり方じゃダメだ」と思うし、実際、学校がやってくれないことを家庭教師として実行することで成果をあげている。

つまり、私がはるか昔に宿題ができなかったのと同様、理念でどうこう言っても始まらないのだ。多くの批判者が言うようなことは、みんなわかっている。政策立案者も、そこはきちんと政策に盛り込んでいる。ところが実際に子どもたちはその恩恵を受けていない。だから批判は、、「こうすべき」であってはならないのだ。なぜ「すべき」とされていることが実行できていないのか、そこを探し出して批判しなければならない。

 

たとえば、発音の問題がある。学習指導要領では、音声としての英語をことさらに重視している。当然だ。音声としての英語の基本は発音練習だ。聞き取る能力は、まず正しい発音ができてこそ、短期間で身についていく。指導要領上も、発音練習には相応の時間を割くように設定されている。ところが、実際に生徒を教えると、学校で正しく発音指導されている成果が出ている生徒は、3分の1にも満たない(これでもここ数年、比率はずいぶんあがってきているように思うのだが)。半分くらいの生徒は、平気でカタカナ読みをする。そういう生徒の教科書には、カタカナで読みがなが振ってあったりもする。そういうことを推奨する教師がいるというのも、生徒から直接聞いている。

では、なぜそういった政策の方向とはまったく乖離した指導が現場で堂々と行われているのだろうか。そういったことを分析し、批判してこそ、はじめて英語教育に対する議論は実りあるものとなる。けれど、そういった議論は地味で目立たないせいか、あまり行われない。そして、派手に目立つ「英語教育はダメだ、もっとこんなふうにしろ!」的な話題ばかりがコメントを集めたりする。

正常な教育を阻む「入試」の存在

まあ、とことんなところでいえば、そういった奇妙な理念と現実の乖離は、科挙のような入試システムによってできている。本当はこの記事、そこのところを詳しく書きたかったのだけれど、もういい加減長くなったし、他にしなければならないこともたくさんあるし、またの機会にしよう。大学入試改革でTOEICが一抜けたをやらかして、いろんなことが明らかになったように思う。大学教育は、どうやって入学するかが問題ではなく、入学後に何をどのように学ぶかが問題なのだ。だから根本では入試なんてどうでもいいのに、それが経済と密接に結びついてしまったがために、そこに厳格さを要求するのが常識化してしまっている。そのあたりを解きほぐす作業を、機会があればやってみたいなあと思う。ま、とりあえずは稼がなきゃ。