子どもはどこまでわかれば大人になれるのだろうか

How many roads must a man walk down before you call him a man.

ボブ・ディラン出世作、風に吹かれての歌い出しだ。いろいろ解釈はあるだろうが、人間は生物学的な存在だけでは人間ではなく、社会的に一人前と認められることが必要だ、というふうに読み取るのが普通なのだろう。「男」と呼ばれて初めて人は社会の一員となる。もちろんこの「男」はかつてはそのままに男性であった。だが、男性だけが社会をつくるのではない。だから、現代ではこれを「一人前の人間」つまり「おとな」と読むわけだ。言葉を変えれば、子どもは社会の構成者としての権利を制限される──もしもそうでなければ、だれも苦労して旅を重ね、一人前と呼ばれるように務める必要などない、という一般常識がこの歌の背景になければならない。では、いったい子どもはどれほどのことを積み重ねればおとなになれるのだろうか。

ボブ・ディランの歌では「その答えは風に吹かれている」。現代日本の法制度ではそれは学習指導要領に定められているのだろう。歌にもならないが、義務教育として等しく人々に与えられる教育(そしてほとんど全入に近くなっている高校の教育)の基準を定めた学習指導要領は、それを修めなければ一人前とは認められない学習の基準を定めている。本当にそうだろうか?

必ずしもそうではないというのは、小学校や中学校には、形式的な出席日数をはじめとする要件を除いて、卒業のための基準がないとうことからわかる。テストがすべて0点で成績表がオール1でも、小学校・中学校は卒業できる(というよりも、卒業させられる)。学校にはさまざまな役割が押し付けられているが、少なくとも初等・中等教育に関しては、一定の年齢層の託児所(あるいは収容所)としての役割が大きいことをこれは反映しているのだろう。日本の法体系においては(そして人権の考え方からいえばこれは現代のあらゆる法体系でそうあるべきなのだが)、成人としての権利は何らかの資格として付与されるものではない。後見制度など一定の権利を制限するルールはあっても、それは決して学業の成績をもって行われるものではない。

つまり、学習指導要領は、あくまで「これを教えます」という範囲を定めたものであって、「それを理解していなければなりません」という結果を求めるものではない。少なくとも小学校・中学校では理解度は要件ではない。これは「履修」が卒業要件になる高校でも実質同じで、何もわかっていなくても出席と提出物だけで成績とすることが可能だ。そして、提出物は単なる作業だけで認定基準を満たしてしまう。

では、理解度はどうでもいいのかというと、そうではあるまい。やはり、教える側は「わかってほしい」と願って教えているのだ。唯我独尊、「ついてこれるやつだけついてこい」式の古の大学教授ならともかくも、初等教育中等教育の教師が生徒の理解を目標に置かないわけがない。だが、ここで重要なことが抜け落ちている。「どこまでの理解」をゴールにするのかだ。これは、明確なようでいて、実はそれほど明確ではない。

 

たとえば、私たちは足し算を正確に理解しているだろうか? 「足し算わかります?」みたいなことを言われたら、ほとんどの人が「失礼な!」と思うだろう。実際、足し算の計算ができない人はめったにいない。そりゃあ得意な人も苦手な人もいるし、ちょっとこみいった数字になれば計算間違いだって普通にする。けれど、苦手だとかミスが多いってことで「わかっていない」ということにはならない。ほぼすべてのおとなは、足し算をわかっている。ただし、その理解のしかたは、実は人によって異なっている

それがいいとかわるいとかいうことではない。ある抽象的な概念に対する理解は個人ごとに異なるのが普通だし、なんならひとりの人間の中でも成長によって変化していくのが普通だ。たとえば、私は当然ながら義務教育を終えた時点で(あるいはそのはるか以前に)「足し算」を理解したつもりでいた。にもかかわらず、いま、生徒に教えている足し算の概念のかなりの部分は二十代に学習参考書編集の仕事を始めてから改めて身につけたものだし、さらにかなりの部分は最近になって家庭教師として子どもたちに算数を教えるなかで身につけたものだ。つまり、現在の私の足し算の理解を基準にして考えると、義務教育終了時点では私は半分も足し算について理解していなかった。そして、理解が変化したことを踏まえてこの先の変化を外挿すると、実は現在でもまだまだ足し算は完全に理解していないのではないかとさえおもえてくる。もちろん、自分以上に頭のいい人々、たとえば数学を専門に研究している人々を基準にしたら、私は足し算の概念のごく初歩の部分しか理解していないのだろうと想像できる。

しかし、だれも初等教育で数学者並みの足し算の理解をゴールに置いたりはしない。「どこまでの理解」をゴールにするのかが重要なのは、そういうことだ。どの程度わかれば、初等教育の理解として、あるいは中等教育の理解として妥当なのだろうか。そしてもちろんそれは、学習指導要領にかなりの程度記載されている。明記されていなくとも、しっかりと読み込めばおよそわかる程度には書いてある。それでも私が「それほど明確ではない」と思うのは、その学習指導要領の想定する理解の程度が、どの程度の達成度を想定しているのか、それが学問というものの本質上、明確になり得ないからだ。どういうことか?

たとえば中学校1年生の理科では、力学の基礎として「力」の概念を「力が働いたときには運動の様子が変化する、物体が変形する、物体が支えられる」として理解することになっている。これは古典力学の力の定義である「物体に加速度を生じさせるもの」に「フックの法則」と「力の釣り合い」の概念を統合したものだが、そういうことは中学1年生ではわからない。わからないから、この段階の理解は「力ってそういう感じ」という漠然としたものにとどまらざるを得ない。 漠然としたものである以上、生徒にはこの3つに限定されるという納得感は生じないはずだ。「そういう場合もあるけれど、他の場合もあるんじゃない?」程度に考えるのが思考力のある生徒であるはずで、教師はそれに対して、現行の指導計画の中では反論する余地がない(反論しようとすれば高校物理の範囲まで指導を拡張しなければならなくなる)。である以上、学習指導要領はこの学年の生徒に対しては正確な理解など求めていないのだと判断するのが妥当だということになる。

それは、中学3年生で再び力学が取り上げられるときになってより明らかになる。こちらでは、「力が働かないときは等速直線運動をする」と、反語的に「力が働けば運動の様子(速度)が変化する」を学習する。つまり、言葉を変えれば中1では力と速度変化の関係について大雑把な理解しか求めていないのだということがわかる。より正確な理解はここまで持ち越されている。しかしさらにいえば、ここでは加速度の概念は学ばないことになっているので、ニュートン力学としては極めて大雑把であり、さらに精緻化するのは高校の物理基礎ということになる(ここでは数学との関係で微分を使わずに処理するのが前提なので、やはり大雑把であることは否めない)。つまり、理解度は少しずつ高めていくことになっているのだが、その境界部分はかなりあいまいであり、また、大雑把である以上、「このように理解しておかねばならない」という厳密なモデルを設定できないようになっている。

だから、中学1年の段階で「自動車が一定速度で走るにはエンジンの力が必要だから力には一定速度に保つ働きがある」みたいな解釈をしていてもそれを「誤っている」と力の釣り合いの概念を持ち出して否定することはできないし(まあ摩擦力とか持ち出して誤魔化して説明はするんだけど)、物体の剛性に関する知識もないから「力が働けば物体が変形する」というフックの法則をばね以外の物体に拡張することも困難だ。このように、中学1年の力の理解は穴だらけであり、中学3年も同様に穴だらけだ。

ところが、理解度を測定するという名目で行われるテストでは、模範解答は厳密に決められている。「力が働いていることはどのようなことからわかるか」という問題で「バットで打たれたボール」の項目では「運動の様子が変化した」を答えねばマルはつかない。実際にはボールは変形しているし、近年の映像技術を使えばその変形の様子を観察することも容易だというのに「物体が変形した」を答えるとペケになる。物体を机の上に置いたときには物体は変形するのに(たとえば豆腐をまな板の上に置いた場合にこれは容易に観察できる)、そういう場合には「物体が支えられる」だけが正解になる。屁理屈を言い出したらいくらでも穴がつけるのが小学校・中学校(ときには高校)のテスト問題だ。もしもそういう穴を塞ごうとしたらたちまちより高次の概念を持ち出さねばならなくなり、学習すべき範囲を越えてしまう。

つまり、学習指導要領が「このあたりまで」と定めても、それを厳密に適用することは論理の組み立て上できないし、またすべきでもないということだ。大雑把な理解は個人によって異なっていることを許容するものでなければならない。だからその達成度を筆記テストのようなもので測定しようというのは原理的に無理だし、場合によっては弊害が大きい。

 

そして、ある段階での理解が完璧である必要もないのだ。理解は発達段階とともに徐々に変化する。変化することを見越して、学校では同じテーマを繰り返し、視点を少しずつ変えながら学習することになっている。何らかの完成があるのなら、そういったカリキュラム編成はおかしなものだ。そうやって少しずつ理解を深めながら、人は成長していく。その成長に終わりはない。少なくとも、どこかで区切ることのできる終わりはない。

だから、人はどこまでいっても未完成だ。完成した姿をおとなだというのなら、人はいつまでたってもおとなにはなれない。ディランが答えを風の中に投げかけてしまわねばならなかったように、どこまで旅をすれば人は一人前と呼ばれるのかわからない。それが人生というものだ。

ところが、現代の社会制度はそういった哲学的な解釈を許容しない。一人前とみなされるため、つまりは大学進学であるとか資格の取得であるとかのためには、テストで一定以上の点数をとらねばならない。そして、テストで点数をとるためには、「どこまで深く理解したか」ではなく、「どれだけ覚えたか」「どれだけ定められた手順を実行できるか」「どれだけ苦痛に耐えられるか」といったようなおよそ本質的ではないスキルが必要とされる。

そんなことは本当は誰も求めていないのだ。少なくとも社会的な合意のもとに作成されたと(ある程度までは)いえる学習指導要領はそんなことは求めていない。子どもたちの幸せを願って学習塾に子どもたちを送り出し、受験へと駆り立てる親たちも、そんなことは願っていない。ただ、なぜだか「それが必要だ」と錯覚している。それが錯覚だと指摘すると、現実を見ない夢物語だ、理想論だというふうに拒否される。なぜなら、自分たちもそういう錯覚のもとで育てられ、そういう錯覚を内面化して育ってきた世代だからだ。だから、自分たちの正直な感覚を、「現実はそうではない」と必死に打ち消して、そして子どもたちに誰も望まないプレッシャーを与えていく。

 

家庭教師をやっていると、それが見えてくる。子どもたちを幸せにしたいのならその成長に沿った理解を与えていくべきだし、その理解の程度には「これでよし」という満点もなければ「それではダメだ」という合格ラインもない。ひとりひとりは限りのない成長の途中であり、そしてその途中のどこかでおとなとしての行動を求められ、不安に苦しみながらなんとかそれをやりすごし、そして次代に希望を残して死んでいく。人間とはそういう存在だ。

よく考えたら、ディランの歌でさえ、「a man」は「before you call him a man」すなわち「男と呼ばれる前」に既に「男」と呼ばれている。人間は、一人前になる前に既に一人前だ。つまり、生まれ落ちたその瞬間からひとは一人の人間であり、半分の人間とか四分の一の人間とかではない。そして人間を人間足らしめているのはその不断の成長であって、成長の結果ではない。

 

というようなことを、いつまでたっても成長しないカネのないオッサンが力んでみても、説得力、皆無なんだよなあ。こういうの(↓)を読んでかなしくなって書いたけれど、あんまり関係もなさそうだし。

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