蚊帳を吊っている

子どもの頃、夏になると蚊帳を吊っていた。どこの家でもそうだったのかまでは知らない。田舎の方ではヤブ蚊が多いから、蚊帳は普通だったのではないかと思う。ただし、それほど長い間ではなかったようにも思う。そのうちに蚊は蚊取り線香で追い払うようになった。キンチョーのコマーシャルも一役買っていたのかもしれないが、蚊取り線香に殺虫剤が配合されるようになって除虫性能があがったことが関係しているのかもしれない。そのうちにエアコンが普及し、家の気密性もあがっていく中で、蚊帳は遠い記憶のものになった。

だから、妻と結婚したときに彼女が蚊帳をもってきたのには驚いた。なんでも奈良で誂えたこだわりの品だという。実際、結婚してすぐに引っ越したアパートは古びていたので、この蚊帳は重宝した。中に入るとその狭い空間がなんとなく落ち着く。やがて子どもが生まれ、3人で寝るには手狭になったのでやや大きめの蚊帳を新しく買った。古い蚊帳は、そっちのほうが品物がよかったこともあり、友人に譲った。そのころには、家族構成が変わることとかは考えていなかった。

やがて私たちは引っ越し、いくらかの曲折を経て最終的に新築の家に引っ越した。この家では、網戸さえきっちり立てておけば虫ははいってこない。だから長いこと、蚊帳は納戸の奥から出てくる機会がなかった。

 

去年から、父親の体調不良で実家に行くことが多い。半年ほど前からは、週のうち2回は泊まる。3〜4日、週の半分を実家で過ごすことになった。寒いうちはよかったが、だんだん暖かくなって蚊に悩まされるようになった。実家もかつての懐かしい家ではない。その後に新しくしているから決して古い築ではないのだけれど、母親が開放的なのが好きなので、蚊は好きなだけはいってくる。これは困ったなあと思って、蚊帳を思い出した。

吊ってみると、実に懐かしい。むかし3人で寝た空間に、私ひとりだ。そんなふうに、時代はどんどん移っていく。いろんなことが変わっても、この小さな空間の落ち着きだけは変わらないなあと思う。