シアワセの容相

あしたはこっちだ

なぜ比率の理解度が低いのか - 人間の成長の階梯と論理の要請の間で失われるもの

「%」がわからない?

日本の大学生がパーセントを理解できていないというようなブログ記事を見かけた。

toyokeizai.net日本の大学生が「%」を理解できなくなった理由 | ブックス・レビュー | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

大学生が百分率を理解していないのかどうか、特に実証的な研究というわけではないようだ。あくまでこの記事の著者の体感らしいのだけれど、少しだけ、ひょっとしたら関連するかもしれないという自分自身の観察がある。その観察もまた同様に実証的なものではないけれど、可能であれば実証的な裏付けがほしい、言い換えれば必ず実証的に正しいと証明できるはずだと思っている。そのぐらい、ほぼ例外なく普遍的に(少なくとも私の生業の半分である家庭教師の生徒になる子どもたちの間ではほぼ例外なく)見られるものである。私は大学生は教えていないから、これは小学生から高校生までの生徒を観察しての結論だ。その結論が上記の大学生の観察を支持するのか、あるいはそれを否定するものかは、どちらも実証的なものでないから言えない。ただ、関連はあるのかもしれない。

ごく短く要約すると、その観察は「小学生には比率の概念は理解できない。比率の概念が理解できるようになるのは中学2年生以後であり、高校2年生以後にはごく容易に比率の概念は理解できるようになる」というものだ。どういうことか。

比率がわかってなくても入試問題は解ける

まず、百分率を含めた比率の概念は、現行学習指導要領では小学校5年生に配当されている。中学受験をするような小学生だと学習塾では3年生、4年生あたりから教えるところもあるようだ。そして、中学受験には相当に高度に比率の概念を使った問題も出る。そして、中受をするような生徒は、そういった複雑な問題を実にエレガントに解いていく。それは、感動するほどだ。

だが、そうやって高度な問題を解く小学生だが、かなりの確率で中学の方程式問題や関数問題で躓く。難易度からいえばそれほど高度な問題でもないのだが、中学入試問題とはパターンがちがうからだろう。とはいいながら、比率の概念が体感的にわかっていれば、その間のギャップを越えるのはそんなにむずかしくないはずだ。というよりも、ギャップなんかないはずなのだ。ところがけっこう躓く。

そこで、彼らは本当にわかっているのだろうかという疑問が生まれる。確認のため、小学生に質問する。比率の概念がつかめていたらこの程度のことはわかるだろうというような質問をしてみる。すると、あれほど難しい問題に正解する能力をもっている生徒が、答えに逡巡する。あれ? わかってないんじゃないの?

そう、わかっていないのだ。彼らがやっているのは、たとえば「くもわ」の公式を覚え(これは学校で教える「てんとう虫」と呼ばれる図で、「らべるもの」「とにするもの」「りあい」を3分割された領域に当てはめて計算式を導くもの:類似のものに速さ問題の「みはじ」もある)、どれが「く」「も」「わ」に当てはまるのかの判別をするポイントを覚え、そうやって判別した数値を公式にあてはめる作業をやっているだけなのだ。そういう作業をすれば確かに正解は出る。しかし、それで比率を理解したことになるだろうか? 「なる」というのが学習産業界の言い分だが、実用的にはそうではない。そうやって身につけた比率の技能は、実生活では役に立たない。

実生活に役に立たなくてもいいではないかという議論も可能だろう。いや、実際、学問なんてそういうものだ。だが、比率の概念は、実生活で使える程度のレベルで体感的に掴んでいなければ、学問でも役に立たないものだ。それはたとえば「1万円って多いの少ないの?」という感覚だ。日常生活で1万円が大金なのかはした金なのか、それは「場合による」。財布から生活のために出す金額としては1万円はかなりまとまった金額だが、もしも1年間の収入の中で考えるならかなり小さな金額になる。ものの大小を考えるときには、文脈、つまり「何に比べての量なのか」ということを常に前提に置かなければならない。こういう感覚は、たとえば歩留まりの感覚であったり誤差の感覚であったりをつくっていく。あるいは相関関係や分散の捉え方の基礎にもなる。量を理解するときに、常に比較でもって考えるのは、工学にとどまらない多くの科学の基礎になる。だから、大小関係を比率でもって捉えるのは感覚的にできていなければならない。それは、数値操作とは無関係に身に着けておくべきものだ。

そして、小学生にはそれができない。教えてもできない。体感的につかめない。教え込んだら計算はできるが、計算の意味が体感的にわからない。ところが、同じ説明を高校生にやったら、ほんの数分で理解できる。見事なほどのコントラストだ。

そういう観察をある教育学者に話したら、「そりゃあたりまえやろ。高校生になるまでにどれだけ勉強したと思ってる?」と答えが返ってきた。小学校以降の学校での学習によって身についたのだと、ふつうならそう思うだろう。それがちがうことは、家庭教師商売をやっていればわかる。なぜなら、比率の概念の復習は、中学校以上の学校ではほとんどやってくれない。学習塾でも、中学生に対して「くもわ」式の数値操作は教えるが、そんなものでは比率の概念はわからない。典型的な実例がある(サンプル数は1でしかないが)。私が比率の概念を教えたある高校生だ。彼は中学時代からあらゆる勉強をドロップアウトした定時制高校生だった。高校でも勉強なんかするわけもなく、卒業単位が足りなくなって高卒認定試験を受けるから教えてくれと言ってきた生徒だ。小学校以降の積み上げがあるわけはない。その彼が、比率の概念を一瞬で理解できた。小学生ならいくら頭のいい生徒であっても絶対に理解できない概念が、何の苦もなくわかったのだ。

そこまではっきりした事例でなくても、中学2年生でいくら言っても比率がわからなかったのに中3で同じことを復習したら一発でわかった、とかいった事例は事欠かない。正確にいつ転機がくるのかわからないが、どうやら人間の頭の構造は、ある一定の段階に達したら突然、比率の概念がつかめるように発達するようだ。自分自身を振り返っても、ちょうど中学3年生の夏、「打率」の概念がわかって急に野球中継がおもしろくなったのを覚えている。いや、それまでも「3割バッターはだいたい3回に1回ぐらいヒットを打つんやで」みたいなことは聞いていたと思う。けれど、それが試合進行にどう影響するかみたいなことは想像できなかった。「このバッター、ヒット打つん?」というのが重要であり、それが比率とか確率とかいう概念と結びつくことはなかった。根拠にもならない思い出話に過ぎないが、現在の自分自身が子どもたちと向き合う実感と照らし合わせても、やっぱり小学生に比率は理解できないのだと思う。テクニックとして比率問題は解けても、その意味はわかっちゃいないのだと。

発達段階とカリキュラムの組み立てと

実際、人間には成長の過程で、ある段階に達しなければ身につけられない能力が存在する。これは幼児教育ではむかしから知られたことであり、なんなら中学校の保健体育の教科書にさえ記載されている。空間の認識とか順序とか同一性の認識、対立の概念など、人間は年齢とともに順を追って理解できるようになっていくようだ。

同様の発達段階が、幼児期だけではなく、その後の学齢期になっても存在する。カリキュラムはそういった発達段階の進行に合わせて組まれることになっている。たとえば理科教育においては小学校低学年ではそもそも科学的な思考は発達段階から言って無理ということでかつては組みこまれていた理科を「生活科」に改め、「自然現象に親しむ」程度でとどめておく。中学年では自然現象の中に驚きを発見し、疑問をもつことまで踏み込むが、それを実証的に調べるところまでは発達段階が追いつかない。高学年になってようやく実験や観察の具体的なところまで進むが、その計画ができるのはさらに中学、高校と進まねば無理だということになる。そして数量的な解析は高校でなければできない。発達段階を追いかけるとそうならざるを得ず、したがって理科では同じテーマが繰り返し登場することになる。電気や磁石は小学校の中学年にも高学年にも配当されているし、中学校にも高校にも配当されている。同じ現象に対して、取り組むスタンスがまったく異なっている。

 

ただし、それではすべてが発達段階を意識して組み立てられているかと言うと、どうやらそうではない。それは、中学生に小学算数を(復習として)教えてみるとよくわかる。小学算数の特に四則演算と数の拡張は、しっかりと緻密な論理的組み上げでできている(だからわざわざ中学生に振り返らせる必要がある)。十進法の概念がわからなければ足し算の繰り上がりがわからず、繰り上がりの計算ができなければ繰り下がりが理解できず、足し算がわかっていなければ掛け算に進めず、掛け算がしっかりできていなければ割り算がわからない。割り算の概念ができていなければ分数に進めないし、分数と小数は並行して進めないと本質的な理解にたどりつけない。小学校の算数は、なによりも数学の論理構造をたどるように組み立てられている。

つまり、カリキュラムの組み立て方には二種類の考え方があることがわかる。ひとつは子どもの発達段階に合わせて「いま、この年齢ならこういう概念を身につけることができるはずだ」と、その発達を促すように組み立てるものである。そしてもう一つは、論理構造をもとに、「まず最初はこれがわかっていなければ次がわからないし、それがわかったら次はこれがわかるはずだ」と順序立てていくものだ。そして、この二種類の考え方は、必ずしも整合性のよいものではない。ときには対立する。順序としてはこのあたりで理解しておいてほしいことが、発達段階からいえば到底無理だというようなことが起こり得る。そして、特に算数では、発達段階の要請は論理構造の要請に打ち負かされてしまう。結果として、その学年に配当されているのに著しく理解が低い領域が発生する。それが典型的に起こっているのが、小学5年生の「比率」なのだ。

再考すべきはカリキュラム

中学校では比率的な概念を用いた学習が多くなる。理科の濃度や密度などはその典型だ。社会科でも人口密度や生産高の比較など、比率の概念が重要になる。そこに向けて、小学校の算数で比率について掴んでもらいたいという論理構造上の要請がある。小学5年に比率が配当されているのはそういう理由なのだと思う。

しかしながら、私の観察では(あくまで実証的な裏付けがないことは繰り返しておく)、小学生に比率の概念は掴めない。これは発達段階として、まだ物理的にそういう段階ではないからだ。よく英才教育的な発想として「どんなものでも早くから仕込めばそれだけ上達も早い」という思い込みがあるようだが、これはまったく事実ではない。年齢に応じて可能な能力の範囲は、それぞれの年齢に応じて平均的な身長や体重が決まっているのと同様、平均的な脳の発達にもとづいて決まっている。だから、どれほど早くにスタートしようと、ある発達段階の人には、それより上の発達段階で初めて可能になるような能力は身に着けられない。そして、比率の概念は、どうやら14歳頃を境に身につくようになっている。

しかし、数学の論理内での要請、あるいは他の教科からの要請がある。そういった論理的な組み立てからいえば、比率は小学校5年生で教えたい。その矛盾を解決するために生み出されたのが「てんとう虫図」であり、「くもわ」の呪文だ。そして、要領のよい教師であれば、どれが「く」でどれが「わ」、どれが「も」であるかを判別するコツをうまく生徒に伝えることができる。そういった努力の結果として、見かけ上は比率の問題が解けるようになり、見かけ上は小学5年生に比率の問題が理解できたことになる。そして、それを誰も疑わないから、相変わらず比率は5年生の配当から動かない。

 

けれど、決められた方式に決められたことをあてはめる能力でもって、数の大小を比較の中で把握する能力が代用できるのだろうか? それが代用できると主張することで、実は後者の能力の発達段階に合わせた成長が阻害されていないだろうか。そして、それがさらに成長し、大学生、社会人となったときのコンピテンスに影響することはないのだろうか。

これらはすべて憶測の領域だ。だが、憶測は実証的な研究の出発点になり得るのではないだろうか。そして、そのなかから何らかの実証的な知見が得られたら、あの「くもわ」に苦しむ小学生たちが、いくらか救われることになるのではないだろうか。

 

みたいなことを、こんな雑記ブログの片隅でボヤいてても仕方ないんだけどなあ。やれやれ。