なぜビジョンを語らないのか - それができれば苦労はないのだが

太陽光発電のことを書いたひとつ前のエントリがやたらとアクセスが集中して、ちょっと困惑している。確かに太陽光発電に関連するある領域は私の専門と言ってもいいのかもしれない。けれど、底の浅い専門だし、その他にもっと自分にとって重要なことはたくさんある。その一部はこのブログでも書いてきたし、思い入れもある。そういうのがあんまり注目もされず、過去の記憶を掘り起こして書いた記事が広く読まれる。ま、世の中なんてそんなものなのかもしれないが、なんだかなあと思ってしまう。

太陽光発電に関しては、それでもまだまだ言い足りないことがある。まず、そもそもなぜ太陽光発電が国家政策になったのかとか、そのあたりの歴史的経緯は、ちょっと調べればわかることなのに、あんまり話題にのぼらない。現代の人々にはどうでもいいことなのだろう。私のようにちょっと長いこと生きていると、やっぱりそこは無視できないことになる。

まず、太陽光発電、というか光電池の歴史だ。これは高校の物理でも習う光電効果がそもそもの発端だから、100年以上前に原理が発見されている。これが改良を重ね、最初に実用として用いられたのは人工衛星の電源としてだった。それにはそれなりの理由がある。

端的にいって、光電池は出力が小さい。電源としては実に弱々しい。けれど、光さえあればいつでもどこでも長期にわたって電圧を発生させる。送電線の接続や電池の定期的な交換などが不要である。つまり、そういうことが困難な場所で最もその価値を発揮する。地球を離れた人工衛星は端的にそういう場所だ。そして、人工衛星で用いられて以後、光電池は主にそういった場所で細々と活用されるようになった(たとえば光電池を搭載した電卓は1970年代初めに日本メーカーが世界に先駆けて開発している)。1970年頃までは、未来のエネルギーといえば原子力であり、太陽光の利用は太陽熱温水器のような熱利用とすべきだという考え方が主流だった(この太陽熱温水器の話は、実はそれはそれで非常に面白い歴史になるのだけれど、私はそれに詳しくないので興味のある方は他をあたってほしい。ただ、この少し後にくる太陽熱ブームの顛末は、実は太陽光発電の政策にそこそこの影響を与えている)。

そういった流れが急速に変化したのは、オイルショックだった。それまで化石燃料への依存を強めることで経済を高度成長させてきた日本が、ここにきてピンチに陥った。代替エネルギーという言葉が生まれたのはこの時代である。化石燃料はあてにならない。未来のエネルギーとなることが既定路線の原子力でさえ、安全保障上の理由でいつなんどきウランが止まっても不思議はない。資源小国の日本で自給できるエネルギーは何かということで、地熱や風力、太陽光が注目されることになった。通産省は1980年にはNEDO(新エネルギー総合開発機構)を設立し、新エネルギーの研究に資金を投入しはじめた。

政府の動きとともに、人々の意識も急速に変化した。「公害」が怪獣映画のテーマにさえなり、環境問題への意識が高まった。それは現代文明への批判ともなり、あるいは「もう人類はダメだ」という終末観にもなった。世界的にいっても、ベトナム戦争終結によって目標を失ったヒッピームーブメントの流れのいくつかは、反文明的、厭世的な思想へと向かった。そんな中、アメリカでは太陽光電池で電気を自給して暮らすエコなヒッピーたちが現れた。彼らは自動車用のバッテリに電気を貯めてそれでもって当時ようやく市場に出始めたばかりのパーソナルな計算機を操るような人々だった。もちろん日中には自家菜園でトマトなんかをつくるわけだ。大企業が支配する産業社会に背を向けても文明的な生活ができることを実証しようとする。こういう人々を俗に「12ボルト貴族」と呼んだそうだ(というような話は、はるか以前にどっかで読んだのだが、出典が不明。なので、風説に過ぎないかもしれない。ただ、時代の雰囲気は伝えているように思う)。

日本政府はそんな優雅で非現実的な思想とは無縁だった。当初、太陽光利用で最も成算があると考えられたのは、太陽熱発電だった。太陽光を集めることで高温の反射炉をつくることは既に19世紀に実用化されており、幕末期の日本でも実用に供されていた。この高温を利用して蒸気タービンを動かそうという発想だ。実際、これは現代でも受け継がれている技術であり、立地条件によってはソーラーパネルよりも発電コストが低くなるそうだ。日本では香川県の塩田跡に実証実験施設がつくられ、実際に発電も行われた。ただしバブルにさしかかろうとする日本では、発電コストがまるで割に合わなかった。なにしろ日本の土地を売ったらアメリカ全土が買えてしまうといわれた高地価の時代だ。人件費も安くない中で、火力発電のコストと勝負することはできなかったらしい。

1980年代には、地熱発電、波力発電、潮力発電、風力発電、太陽熱発電などの華やかな写真が中学校や高校の教科書にまで載るようになったのと裏腹に、「新エネルギー」の活用はさっぱり進まなかった。増えていったのは原子力発電で、「省エネ」への取り組みである程度は抑えられたとはいえ、石油への依存は増えこそすれ減りはしなかった。しかし、通産省の働きかけが完全に無駄だったのかといえばそうではないだろう。政策の力だけではないにせよ、この時期、日本メーカーは光電池の開発で世界のトップを走っていた。1980年代初期にフランスに設置されたソーラーパネルが2012年頃に調べたところでは世界で最も古い現役稼働中のパネルだったのだが、それは日本製だった。日本製のパネルが世界標準だった時代は、けっこう長く続いたらしい。

そういった安定したパネルの供給を受け、それを送電線に接続する技術が開発されていった。ここで注意してほしいのは、もともと光電池は送電線や電池交換が不要というのが最大のメリットだったということだ。アメリカの12ボルト貴族も、企業に支配された送電線網からの独立、すなわちオフグリッドに力点があっての太陽光発電だったといえるだろう。1979年のスリーマイル島の事故以後に特に環境派の間で評判が悪化した原子力発電は、大規模送電網の存在が前提になる。それを否定していくと、究極は分散型エネルギーになる。そして、当時「新エネルギー」とされていた自然エネルギーのほとんどは、分散型に適している。なかでも太陽光発電は最も手軽にオフグリッドの電源になり得る。実際、1990年頃に太陽光発電に興味を持った私の頭の中にあったのも分散型、オフグリッドの給電システムだ。秋葉原まで出かけてパネルの値段を調べ、何年で元がとれるかと計算したのも懐かしい思い出だ。もちろんこの計算は、電力会社との契約を破棄することを前提としている。自分が年間に支払う電気料金の何年分でパネルが何枚買えるのか。試算以上に進まなくてよかったと思う。電気に関する知識の浅い私が試行錯誤でシステムを組んでいたら、たぶん何らかの事故にはつながっていただろうから。

そんなオフグリッド派の考えと、系統接続の発想はまったく相容れないものだった。私はどちらかといえば分散型エネルギー原理主義者で系統接続なんて邪道だぐらいに思っていた。系統接続はすなわち広大な面積にソーラーパネルを配置するメガソーラーを想定するものであり、それは環境破壊につながる。そうではなく、未利用のスペースである自宅の屋根で自分が使う電気を自給するオフグリッドシステムこそが未来のあるべき姿だと考えていた。実は、根本的には私は未だにそう思っている。ただ、「系統接続は邪道」みたいな原理主義者的言説は捨てた。そのぐらいには現実はわかっているつもりだ。

なぜなら、系統接続が一般家庭に認められるようになり、補助金が出るようになって、ようやく「屋根の上にソーラーパネル」の一般住宅が現実のものになったからだ。それまでは、理想としてはそれは存在した。けれど、コスト面と実用的な運用面から、それは不可能だった。自然エネルギーに必ず発生する不安定さが、オフグリッドでは回避できない。回避しようと思えば不必要に大きいシステムと、何よりもしっかりした蓄電池が必要になる。それはコストをとてつもなく押し上げるだろう。だから、理念としては独立電源の家はあり得ても、現実にはあり得なかった(金満家のヒッピーが遊び半分で住む家ならばあり得たとしても)。ところが、系統接続によって、そういった困難が外された。余れば売ればいいし、足らなければ買えばいい。フレキシブルな設計が可能になった。補助金の助けもあって、アーリーアダプターたちが試行を始めてくれた。

この時期に太陽光発電を始めてくれた人々は、かなり経済的には「損」をした。巨額の補助金は出たが、それ以上に多くの投資をしなければならなかったからだ。だが、彼らの積み上げたデータがなければ、後のFiTによる太陽光発電推進政策はあり得なかっただろう。そういう意味で、進んで捨て石となってくれた彼らの投資は貴重なものだった。ちなみに、なぜそういう人々が儲かりもしない太陽光発電を進んで選んだのかといえば、それは個別に理由がちがうが、多くは純粋な興味関心であったり、あるいは社会貢献への意欲であったりしたようだ。「未来の子どもたちのために太陽光を」というのは、純粋に信じられるテーゼでもあった。

事実、オイルショック後に通産省が新エネルギーに対して大きく舵を切ったことには、国民的な合意があった。世論は「省エネ」と「新エネルギー」であり、だからこそ国会でも予算が通った。確かに通産省は強力な原発推進機関でもあったのだが、まったく同じスタンス(すなわちエネルギー自給率の向上)から、新エネルギーに対しても熱心だった。そして、官僚と部分的に一体化している与党自民党もそうだった。だから、誤解してはいけないのは、系統接続からFiTの導入までの太陽光発電推進政策は、自民党のもとに経産省が練り上げたものだということである。そして、その背景には、いつまでも石油依存は続けられないという国民的な共通認識があったことは絶対に忘れてはならないことだ。

 

と、こんなふうに、国家政策の推移を個人的な思い出に絡めて振り返ってみて、2009年以降の太陽光発電推進政策に何が欠けていたのか、あるいは何が誤解を呼んだのかと考えてみると、いろいろと見えてくる気がする。まず、政府はこの政策についてたいして広報をしなかったように思う。正確な情報を提供するよりも、マスコミの報道に任せた。そして、マスコミは両極端の報道しかしなかった。

ひとつの極端は、理念的な「代替エネルギーが未来を救う」的なものだ。そしてこれは、制度スタートから数年を経ずして起こった福島原発事故によってさらに増幅された。原発はダメだ。だからソーラーパワーだ、という論調だ。

そしてもう一つの極端は、あまりにもベタな「太陽光発電は儲かる」というものだった。制度スタート時点では、実はそれはかなり危うかった。スタート時点の試算では「10年では元はとれない」だった。だが、運用が始まり、設置コストの下落が始まると「だいじょうぶじゃないか」という見通しができはじめた。政策実行の末端にあった地方自治体の外郭団体なんかも、さかんに「元がとれる」「儲かる」という情報を発信し始めた。最初はおずおずと、やがて大胆に。補助金はまだまだ潤沢だったし、マスコミも報道するネタに困らなかっただろう。

さて、それがどういう帰結につながったのか。「未来は太陽光だ」という理念に走りすぎた論説は、どのような太陽光利用が未来の社会に最適かという議論をすっ飛ばして、「太陽光ならすべて善」というイメージをつくりあげてしまった。そんな中で、巨大資本がメガソーラーに乗り出してくる。両手を上げて誰もが賛成してしまう空気ができてしまっていた。だが、メガソーラーや、それ以上に中途半端なプチメガソーラーがどのような未来社会にフィットするのか、そういうことはすべてすっ飛ばされることになった。

フグリッド原理主義者の私でも、決してメガソーラーや50kW程度の小規模太陽光発電所を全面否定するものではない。ただ、そこには屋根の上の未利用空間を有効活用する家庭用太陽光発電とは異質なものがある。そこをもっときっちり詰めるべきだったのだと、いまになって思う。

そして、「太陽光は儲かる」式の論説は、逆に「儲からなければ太陽光発電なんて意味がない」的な空気をつくりだしてしまった。FiTの買取価格が下がらなかったのにも、こういうイメージが作用した部分が小さくないように思う。つまり、「儲かるから」と人々が選択する太陽光発電があまり儲からなくなったら「水をかけた」というようにとられてしまうのだ。買取価格の適正な操作を不可能にしたのは、こういうイメージではなかったのかと思う。

 

結局のところ、政府は率先して、どんな未来社会をつくっていきたいのか、その中で太陽光発電はどのような位置を占めるのか、それを実現するためにはどのようなコストが必要で、それをどうやってまかなっていくつもりなのかを、もっと真摯に語るべきだったのだ。だが、それが不可能なことも、よくわかる。

なぜなら、この時代にあって、理想を語ることはほとんど詐欺を働くことと同然になるからだ。かつて社会主義が信じられていた時代、その理想を語ることはある意味、真実であったのだろう。だが、善意が裏切られ、現実が牙を剥くことが明らかになってしまった歴史を経たいま、大きなビジョンを誰が語るだろう。政策単位にブレイクダウンしていける堅実なビジョンなど、誰が展開できるだろう。

そして、何の根拠もない「アメリカを偉大に」とか、なんとかミックスとか、スローガンだけが空中を飛び交う。あーあ、何という時代に生まれてしまったことか。といいながら、まあ、けっこうそれを楽しんでるのも私なんだけどね。