シアワセの容相

あしたはこっちだ

伝統はつくっても迷信はつくらんでくれという話

私は案外と迷信深い。神社にお賽銭を投げ込んで家内安全を願ったりするし、プラセボプラセボと唱えながら鍼治療を受けたりもする。感覚的に腑に落ちるものは、特に根拠がなくても否定はしない。水に百回ありがとうと唱えて味が変わるとは思わないが、ありがとうという言葉をくりかえすのはそれこそありがたみがあるので、やってもいいかなとは思う(面倒だからやらないが)。鰯の頭だってなんだって、面白いと思えばやるだろう。

ただ、他人から行動を強制されるのは嫌だ。特に迷信を強要されるような儀式的なことは苦手にしている。式典で歌うたわなくても頭下げなくてもそれで何かが変わるわけじゃないだろう、ぐらいの屁理屈はこねる。家庭教師の仕事で生徒にドリルをやらせるのを毛嫌いしているのも、あれの迷信じみたところが嫌なのだ。それやって点数があがるってエビデンスないだろうと、こういうときばっかりは科学を持ち出して自分の行動を正当化する。勝手なものだ。

恵方巻きという名で売られている巻き寿司が嫌いなのも、それが「恵方を向いて無言で食べたら福を呼ぶ」という迷信とセットで売られているからだ。迷信深い私だから、別に根拠がなくてもピンとくればやるかもしれない。ただ、それがどうにもピンとこない。むしろ、寿司を買ったら漏れなくついてくる押し付けがましさを感じる。だから、逆に意地でもあんなもの買うかとなる。ま、単なる天邪鬼。

丸かぶり寿司にかぎらない、伝統的な習俗には、だいたい迷信がセットでついてくる。たとえば無病息災を祈念するお屠蘇や七草粥は、ほとんどが迷信だろう。5月の節句に菖蒲を飾ったからといって男子が健康になるわけはないし、冬至にカボチャを食べたからといって長生きするわけもない。ただ、こういった迷信には、その迷信ができた当時の合理的な何かがある。たとえばお屠蘇は効能はともかくも薬草酒であって当時の医学水準では何らかの健康効果が期待できるものであったのだろうし、七草粥も冬場の野菜不足を補う知恵であるという説明もされる。かつての品種ならカボチャは冬至頃には食い切らないと腐るだけだっただろう。現代では根拠のないことであっても、かつては何らかの根拠はあった。その根拠が失われても、別段それが有害でなければ受け継いだっていい。そういうのを伝統というのだろう。

そして、伝統は適当につくられたものであってもかまわない。たとえばバレンタインデーにチョコレートを贈るという伝統は明らかに菓子屋の商売上の策略としてはじまっているのだけれど、別にそれはそれで2月の風物詩としてあってもかまわないと思う。10月2日が豆腐の日だといってもそれは単なる語呂合わせだが、その豆腐の日に湯豆腐を食ってもかまわないだろう。5月の連休に田植えをするのは兼業農家が急速に広まった50年ほど前に仕事の都合ではじまったことに過ぎないのだけれど、地域によってはもうそれが伝統の域にまで達している。伝統なんて、ほんの数年あればできあがるものだし、その由来がどうのこうのと詮索するのは大人気ない。

ただ、その新たにつくられる伝統に、どう考えても時代にそぐわない迷信を混ぜ込むのはどうなのだろうか。私が他の伝統行事にくっついてくる迷信に対してはそれほど拒否感がないのに節分の太巻きに対しては強い拒否感を感じるのは、結局ここなんだろうと思う。

この「伝統」、急速に広まったのは半世紀ほど前、海苔屋の販促活動であったことが明らかになっている。大阪の地域的な風習だとされているが、実際当時大阪に住んでいた私の感覚としても、それが(少なくとも河内の農村地域で)習慣としてあったようには思わない。そういう意味からすれば、近代になって創作された習慣であるといえるだろう。それはそれでかまわないのだが、それが創作された時代には既に「恵方」であるとか、「招福」であるとかは根拠を失っていたのではないか。創作時点で根拠のないことを、失われた昔の根拠があるかのように装ったのではないか。擬古的にそういった迷信をこじつけて、新規創作に対して権威づけをしたようにも見える。それって、ズルいじゃない。

バレンタインデーのチョコレートは、創作かもしれないが、そこに縁起物としての迷信は付け加えられていない。土用の鰻にしても、栄養だとか味だとかはいわれても、そこに縁起物的な迷信はこじつけられていない。「恵方巻」は、名前からして縁起物だ。そして、その縁起は、実は空虚なものでしかない。迷信が成立するだけのバックグランドが何もない。これが、他にはない違和感を引き起こす原因なんじゃなかろうか。

ま、無理に食わなきゃいけないものでもないしな。節分にはカレーライスでも食うわ、罰当たりな私は。