シアワセの容相

あしたはこっちだ

日本語上達のための手軽なトレーニング

子ども向けの教材、いわゆる「学参」を編集する業界にいたときには、「これ1冊でOK!」とか、「ズバリ!」とか、「基礎の基礎」とか、とにかく勉強になにか秘法があってそれさえ習得すればどんどん点数が伸びるような錯覚を抱かせるような表現をずいぶんと使ったものだ。現実にはそういった奥義のようなものは、ない。万人に通用するコツのようなものもなくて、ある人にとっては非常に有効な方法が、別の人にとっては理解を大きく阻害するものであったりする。典型的には、計算を分類して、それぞれのパターンごとに解法を徹底的に反復練習する方法だろう。これがハマる人からすれば「世の中の算数はまちがっている。こうやって身につければ絶対確実なのに!」と見えるらしいが、多くの人にとってそれはかえって煩雑で、混乱してしまう。語呂合わせとか各種の暗記法も、それが実際に得点力アップにつながる人とそうでない人がいる。人間のアタマの構造は思いの外に多様で、たったひとつの正解の存在を許すようなものではない。

けれど、だからこそ、「決定版!」みたいな「勉強方法」が紹介されていると、できるだけチェックする。それは、なにも唯一の方法が知りたいわけではない。そうではなく、多様な生徒に応用するためのネタはできるだけ数多くある方がいいからだ。「これでダメなら次はこれ」みたいな選択肢は、多ければ多いほどいい。というわけで、こんな記事も興味深く読んだ。

toyokeizai.net

実は、似たようなことは既に私もやっている。1枚の写真を見せて、そこに写っている情報を文章にするという練習だ。これはけっこう難しい。たとえば、ヨットの写真を見せても「ヨットがあります」以上の情報を読み取れない生徒は多い。画像が伝える情報量は半端ないものがあって、ヨットの数、色、形、天気、風、港の様子などなど、書きはじめるといくらでも情報は出てくる。見たものを文字情報に変換するということは、練習がなければできないことだ。

だが、上記の記事では、そういった静止画の情報ではなく、「オセロ実況」として、動的な情報を言葉に変換すること、さらに重要なこととして文字情報から動的な情報を再現することに挑戦させている。静的な情報よりも動的な情報のほうが文字情報への変換は難しいと思うのだが、しかし、とっつきはそのほうがいいかもしれない。そして、文字情報からどこまで実際にあったことを再現できるかという試みは、非常に刺激的なものだろう。

ただ、こういった「文章を書かせる」「文章を解釈させる」という練習は、確かに本質的ではあるけれど、相当にハードルが高い。これは練習する側にとってもそれを指導する側にとってもそうだ。それよりは、もっとイージーな「読解力を高める」トレーニング方法がある。無料で公開してしまうのはちょっと惜しいのだけれど、ケチなことを言ったところではじまらない。なに、たいしたことではない。

それは、「リライト」と呼ばれる遊びだ。用意するのは1冊の本と原稿用紙。本は何でもいい。なにもなければ教科書でもいいが、できれば生徒が興味をもてるようなもののほうがいいだろう。ま、何でもいい。この本の適当なページを開き、適当な文を選ぶ。次に、その文に書かれてある内容を原稿用紙に書いていく。このゲームのルールは、簡単なものだ。

  • 元の文に書かれてある内容と、同じことが伝わるように書く。抜け落ちる情報があってもいけないし、勝手に付け加えてもいけない。
  • 元の文と、できるだけちがった文にする。ちがっていればちがっているほどポイントが高い。

たったこれだけのことだけれど、頭を使う。やってみると、かなりいろいろなワザが使えることがわかってくる。いくつかあげると、

  • 同義語への言い換え。たとえば「しかし」を「けれど」に書き換える。このあたりは初級コース。
  • 文節の移動。日本語の主語は、述語の前であれば比較的場所の自由度が高いので、動かすことができる。これも初級コース。
  • 文の分割、合体。長い文は分割できるし、短い複数の文は1つにまとめることができる。分割や合体は下手にやると意味が変わってしまうので、中級コースになる。
  • 直接話法と間接話法の変換。うまくやると、意味は変わらないのに文章の印象は大きく変わる。これも中級者向け。
  • 受動態と能動態の変換。日本語の場合あまり使える場所は多くないが、使えるところでは有効な方法。
  • 品詞の変更による文の組み換え。たとえば、「○○が多い」と形容詞で書かれてあるものを「多くの○○がある」と、名詞化する。文の構造が大きく変わるのでポイントが高いが、上級者向けになってくる。

細かいワザは、いくらでもある。なかにはエキスパートにしかできないようなアクロバットも出てくる。私はだいたい生徒と一対一でやって互いの結果を評価し合うのだけれど、ときには驚かされるようなウラ技を生徒が使うこともあって、なかなかに侮れない。ただし、原文の意味とズレてしまったところ、原文にあったはずなのに欠落してしまったところなどは、シビアに指摘していく。

この遊び、小学校の高学年ぐらいから高校生ぐらいまで、幅広く使うことができる。そして、文法なんかやるよりは、ずっと文章の構造の理解が進む。主語と述語の関係とか、形容詞と副詞のちがいとか、こういうトレーニングをすると感覚的につかめてくる。そして、整理された文法事項として暗記するのとは比べ物にならないほど、実用的な力になる。もちろん、読解力もあがる。わかりにくい文を、自分にわかりやすい形に引きつけて読むことができるようになるからだ。

この方法を国語の指導に使うようになったのは、自分自身がそうやって日本語力を身につけてきたことに気がついたからだ。若いころ学参業界の片隅で、編集屋として、手書きで原稿用紙を埋めていく仕事をしていた。まだまだ著作権尊重なんて概念が浸透していなかった時代、特に学参業界には「問題は使いまわすもの」という常識があった。古くから使いまわされてきた問題を、新しいフォーマットに合わせてリライトしていく。そんななんともやりきれない仕事を毎日やっていた。最低だと思っていたが、どんなことからでも人は学ぶことができる。そうやって粘土細工のように文章をこね回して型に当てはめる作業を続けたおかげで、私は日本語がどんなふうにできているのか知るようになった。これは実際、後になってとても役に立った。学参を離れて多様な人々の原稿を扱うようになってからのことだ。あがってくる原稿は、実に読みづらい。けれど、そんな悪文がどのようにできているのか、悪文はどのように読めばいいのか、私には理解できた。いつの間にか、私は悪文読みの技法に人並み外れて力を発揮していた。

だから、読解力のない生徒の根本治療をしなければいけないとなったとき、この方法を思い出した。そして、実際に使いはじめてもうけっこう長くなる。相性があるから使う生徒はかぎられているけれど、確かに効果はある。

リライトにしても、あるいは冒頭に引用した記事に書いてある方法にせよ、ひとつ共通していることがある。それは、このような学習方法は伝統的な講義形式にはそぐわないということだ。記事では授業でやっているところが紹介されているが、やはりベストなのは小グループでやることだろう。数名の小グループに指導者がリーダーとして入って引っぱっていけば、どちらの方法もうまく機能する。

そういうことがわかっているのに、学校というところは頑なに学級形式にこだわる。いや、昔に比べればグループ学習のスタイルは増えた。けれど、それは形だけのものでしかない。グループ学習を本格的にやりたかったら、教室のなかで机をひっつけて班をつくってみたいな発想から離れなければならない。そういうことも、教育学業界の方ではずいぶん昔から明らかになっているはずだ。

なのに学校は変わらない。なぜなのだろう? その疑問を解決したいと思ってるんだけど、いったんそういう世界からはずれてしまったしがない家庭教師には、そのツテもない。本丸は学校だというのに、こちらはあくまで日陰者の受験業界にしかいられない。なんとかしてこの断絶を乗り越えたいのだけれどなあ。