シアワセの容相

あしたはこっちだ

足し算でさえ、奥は深い

ひとつ前のエントリが、久々にホッテントリ入りした。こんなマイナーなブログ書いていると、それだけで舞い上がってしまう。

mazmot.hatenablog.com

 

だが、この記事、思い入れも時間もないままに書きなぐったものだから、改めて振り返ってみると、いろいろと伝えきれなかったところが多い。伝えたかったポイントは、結局3つだろう。

  • たかが足し算なのに、実際にはひとりひとり、やってることがちがう。これは非常に興味深い。
  • 標準的な手法を理解させることそのものは難しくはない。それを理解させる意味も十分にある。
  • しかし、その標準的手法を子どもに押し付けることをあたかも正義であるかのようにドリル等の手法を用いる現状の学校のあり方はいかがなものか。

と、箇条書きにまとめてもいい。けれど、それはあの文章では伝わらなかったよなあ、と思う。

 

まず、私が家庭教師として過去何十人にも(100人をこえているかもしれない)飽きもせず算数の基礎を確認してきたのは、第一にそれが数学にとって重要だからではあるのだが、個人的には何よりもその反応が楽しみだったからだ。実際、ひとりひとり異なった説明を聞くのは毎回驚きだ。そして、そういった発想がどこから出てくるのかとか、あるいはどんなふうに学校の授業が受容されているのかとか、いろいろと思いを巡らすのは純粋に楽しい。そして、そういったバリエーションの存在は、何の問題でもないと思う。そういった多様性こそが、未来への希望であるとさえ思う。

それでも標準的な手法を教えるのは、それがそこから上への積み上げにとって重要だからだ。だが、それぞれがそれぞれなりの方法で身につけている足し算に、別な意味付けをあたえることはさほど困難ではない。実際、この説明が理解できなかった生徒はいない。だから、「ソロバンがあれば…」みたいなコメントを頂いたりしていたが、それはちょっと見当外れだ。なにもそんな道具を用いなくとも、ふつうに説明すればちゃんと理解してくれる。

そして、それで十分だ。なのに、なぜ、話の発端となったドリルのようなものが存在するのか、私にはちょっと理解できないのだ。仮に、「さくらんぼ計算」の概念が理解できているかどうか、教師が確かめる必要があるのなら、それをちゃんと口頭で生徒に確認すればいい。それを「テスト」でもって確認しようというのは、かえってひどい手間と非効率ではないか。

だいたいが、もしもドリルみたいなことで反復練習してしまったら、それは理解してなくてもその「型」に当てはめた行為ができてしまう。しかし、果たして「型」がきちんとできていることが、理解の度合いをあらわしているのだろうか。むしろそれは、理解の欠如をあらわしているようにさえ、私には見えてしまう。算数・数学の教育って、それでいいんだろうか? 私の問題意識は、むしろここにある。さくらんぼ計算がいいとか悪いとか、あるいはその理解が生徒によってまちまちだとか、そんなことは問題ではない。

 

こういうことを伝えようと思ったら、もうちょっと気合を入れて書かないといけないんだろうな。所要15分で書いたこんな補足記事だと、なおのこと誤解を大きくするだけなんだろうか。足し算ひとつでさえ、いくらでも奥が深いのに、表面だけなぞって理解した気になっているのはいい気なものだ。まして、教育を覆うこの状況ときたら…