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錯覚資産を息子に与えた話 - ブルデューを想いながら

「勘違いさせる力」を「錯覚資産」と位置づけるブログ記事(というよりも書籍の一部らしい)が話題になっているようだ。たしかに、錯覚を起こさせることでそれを経済的な力(具体的には例えばお金)に替えることができるのならそれは資産として扱うこともできるのだろう。なんだか抵抗はあるが、ま、そういう見方も可能かもしれない。

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いろいろと思うところもあるのだが、それはさておき、資産であれば当然、その継承が問題になる。というのは、やっかいなことに、資産を継承することによって階級が固定化されてきた歴史を人間はもっているからだ。

たとえば農地が生産手段として重要な資産であった時代、すべての農民が平等に毎年同じだけの農地を与えられるのであれば、階級差は(それらの農民の間では)発生しない。貧富の差はあっても、それは偶発的なものであって、固定的なものではない。ところがこの農地が資産として継承されるようになると、貧富の差は固定化していき、やがて階級となる。とまあ、左派の学問は教えてくれるわけだ。そして、資産は、農地のような直接的な生産手段から、金銭や証券のような間接的な「資本」へとうつっていく。さらには、そういったモノをはなれ、無形の「文化資本」として継承されるようになる。こうなると、外見上は平等に見えるところに階級ができてしまうので相当にやっかいだ。同じ学校に行き、同じように就職活動をしているのに、なぜか年収に差がついてしまう。親の七光でも何でもないのに、金持ちの息子にはその階級にふさわしいキャリアが用意される。これが「文化資本」による貧富の差の固定化の巧妙なからくりだ。そのあたりをていねいに解き明かしていったブルデューの著作の一端に若い頃に触れたことは幸いなことだったと思う。

ただし、人間とは奇妙なものだ。階級の存在を問題だとらえる立場、すべての人々が出自にかかわらず平等であるべきだとする立場にあったとしても、やはり自分がその階級社会の中に存在することは否定できない。そして、階級社会にあっては、人は自分が階級のなかで得た資産を次代に引き継ごうとする。それはもう本能的なものであり、そこを否定しようとしてもはじまらない。否定するのではなく、そういうものであることを前提に、「それならばじゃあ、そこで発生する不公正をどう是正するのか」というところに頭を使うのが、正しいあり方なのかもしれない。

 

「錯覚資産」は、おそらくその性質上、「文化資本」の一種なのだろう。そして、資産である以上、これは継承可能であるはずだ。たとえば私自身、おそらく、このような資産を継承してきている。いままでそういうふうに考えたことはなかったが、以前から、「運の良さ」だけは自覚している。そして、私の父親はとてつもなく「運の良い」人だし、私の息子も呆れるほど「運が良い」。この運の良さが他者に対して実力以上の何かを錯覚させることによってもたらされているのだとしたら、なんとなくいろんな辻褄が合うような気がする。私は意識しないままにもそういった資産を継承し、そして次世代へと継承させているのかもしれない。

自分がどんなふうにそれを親から継承したのかは、よくわからない。ただ、息子の運の良さがどんなふうに形成されてきたのかは、だいたいわかる。そして、そこに自分がどんな役割を果たしたのかも、よく知っている。だから、そんなことを少し書いてみよう。

 

あらかじめ誤解のないように書いておくと、息子はまだ高校1年生であり、有形無形にかかわらず、世間的な意味で何らかの資産をもっているわけではない。ただ、「舞台の上でのパフォーマンス」では相当に高い評価を受けていて、これは「創造芸術」を校名に組み込んだ表現活動を重視する高校にあっては既に一定の価値をもつものといえるだろう。そこに至るまでの道すじが、実にうまく錯覚を利用してきたなあと思うのだ。以下はそういう話。

 

彼が最大限に利用してきたのが、「小さい頃からやってきた」「長いことやっている」という実績の重みだ。これはほんの小さなことを誇大に見せることである。具体的にいうと、まずそれは落語だった。

息子が小さい頃、私は主に車のなかで彼を黙らせるために、運転中に落語をかけることが多かった。もちろん音楽もそれなりにかけてはいたのだけれど、やはり子どもというのは人の話し声に注意を奪われるものだ。そういう実利的な親の行動から「自分は落語ができる」という奇妙な錯覚を、どうやら息子は得た。だから、最初の錯覚は自分自身によるものであったのかもしれない。その錯覚のもと、息子は保育園の片隅で、「落語ごっこ」みたいなのをやっていたらしい。そして小学校に入ると、その延長で学校のイベントで落語を披露した。しょせん小学1年生のやることだ。たいした芸ではない。それでも、「人前で落語を披露した」という実績は残った。

そして、その話を伝え聞いたクラスメートのお母さんから連絡がくる。福祉施設につとめる彼女は、落語の実力なんか知らないから、「落語ができるんならお年寄りに聞かせてあげてよ」と、思ったのだろう。このあたりも多少の錯覚が入っている。まあ、小さな子どもは何をやっても可愛いから、別に落語はどうでもよかったのかもしれない。そんな縁から息子は年に何度か、福祉施設の慰問やローカルのイベントで落語を披露するようになった。そして、けっこうウケた。

なぜウケたのかといえば、それは「こんな小さいのによく頑張っている」と観客が思ってくれたからだ。決して芸の力ではない。ただ、息子が「うまく立ち回ったな」と思うのは、そんなふうに「かわいい」で通っているあいだに徐々にでも実力をつけていったことだ。ただ「かわいい」だけで過ごしていったのでは、いつか壁にぶち当たる。それを予見していたかのように、少しずつ、少しずつ、技術を身につけていった。

ここで、初めて私は小さな働きかけをした。ネットを検索して、子どもが出場できる落語のイベントを探したのだ。そして、恒例で行われているこども落語全国大会というものを見つけ、出場を促した。それがきっと財産になると思ったからだ。

息子が錯覚資産を活用しはじめたのはこのあたりからだ。プロフィールに「6歳の頃から人前で落語を演じています」と書きこむ。「福祉施設への慰問を毎年何回もこなしています」といえば、それだけでずいぶんと実績があるように人は思いこむ。それかあらぬか、彼は大賞こそ逃したものの、予選を軽々と通過して優秀賞をもらった。

これをさらなる資産に変えたのは、彼の母親だ。妻はテレビ局に電話をかけて、出演させてくれと直談判した。彼の長い活動歴(その実態は単に「小さい子どもが頑張っている」でしかなかったのだが)と大会での入賞は、説得力十分だったのだろう。マイナーな番組ではあるが、彼はこうして全国放送にも登場した。

彼が不登校にもかかわらず、「創造芸術」を看板に掲げる高校に合格できたのは、そういったオーラを身にまとって面接に臨んだからではないかと思う。もちろん、面接では大会での入賞やテレビ出演の話をことさらに取りあげることはしなかった。そういうものは、願書の隅に書いてあれば十分なのだ。むしろ、そういう実績にあえて触れないことが、なおいっそうの「勘違い」を誘発したのではないかと思う。

高校に合格が決まって、私は二度目の働きかけをした。実は高校受験の1年前ほどから、息子は何を思い立ったのかギターの練習をはじめていた。その腕前が少し上達してきたのを感じた私は、高校への入学直前の隙間にできた空き時間を利用して、息子に「飛び入りライブ」に参加するよう促したのだった。

「飛び入り」をやっている店はそれほど多くはないが、ライブハウスの客寄せイベントのひとつで、ワンドリンクで10分とか3曲とか、客に順番に演奏させる。中学生だから保護者付きでいかねばならないのだけれど、舞台芸術を重視する学校に進むのなら、こういうところで少しでも場数を踏ませておいたほうがいいと思った。わずか2回ばかりに過ぎないが(それに加えて彼が楽器屋で見つけてきたイベントにも1回出場したが、それを合わせっても3回でしかないが)、これは確かに彼の「錯覚資産」になった。

というのも、もう笑うしかないのだけれど、入学して2ヶ月あまりの初舞台で、息子は「入学以前からライブハウスで活動していた○○くんです!」と、内情を知っている私から見ればまるで不釣り合いな誇大広告的紹介とともに登場したからだ。だが、そのステージは最高だった。まさに、「錯覚資産」が実力以上のものを彼に与えてくれたのだ。

そして彼は、「舞台には小さい頃から立ってきました(いや、座ってきました)」と、落語時代の経歴まで引き合いに出して、巧妙なMCをやる。そういった子どもの頃の舞台は福祉施設のロビーに運び込まれた会議用テーブルの上に敷かれた座布団に過ぎなかったりするのだけれど、聞いている方はそんなふうには思わない。小さな頃からスポットライトを浴びてきたのかなと思う。そういう錯覚が、彼のステージをきらびやかに彩っていく。こうして彼は、小さな学校の中、その舞台パフォーマンスで着実な地位を築いていっている。

 

まだまだ高校生でしかないし、そういう学校に通っているからといって、別に息子は芸能人を目指しているわけではない。これからどんな方向に伸びていくのかさっぱりわからないけれど、上記のようなこれまでの経緯をたどるだけで、彼が「錯覚資産」を有効に活用しているのがわかるだろう。そして、たぶん私は、2度の働きかけ、落語大会への出場を勧めたこととライブハウスの飛び入りイベントへの参加を勧めたことで、彼の「錯覚資産」を著しく増加させた。これを「資産の継承」といったら、ブルデューは失笑するだろうか?

ともかくも、この先、どんな道に進もうと、息子は過去に経験した小さな出来事をさり気なく織り交ぜていくことで、周囲の人にある種の錯覚を引き起こしながら生きていくだろう。人々の錯覚は、実力以上の成果を彼に与える。それは彼の「運の良さ」として解釈されるようになるかもしれない。

しかし、それを視点を変えて見るならば、「彼には自信がある」と表現することも可能なのではないだろうか。過去に経験した一つ一つの小さなことを大切にすることが、自信につながる。そして、自信があるからこそ、周囲の人は敏感になる。自信は、周囲からの信頼を引き寄せる。その信頼が、実力以上の成果を招き寄せる。そういうことなのかもしれない。

だとしたら、「錯覚資産」の最大のソースは、自信であるのかもしれない。そして自信の原点にあるのは、ごく幼少期から核になっている根拠のない自信だ。根拠のある自信は根拠を失ったときに崩壊するが、根拠のない自信は何があっても突き崩されない。そういった自信を形成することは、子どもに生涯を通じて有効な資産を与えることになるのだろう。そしてそれは、私のように有形のモノとしての資産や、お上品な「文化資本」を持ち合わせない庶民にとって、もっとも確実で安上がりな資産継承の戦略であるのかもしれない。

 

ま、それが証明されるのは、この先数十年、息子が幸せな人生を送ってくれたときなんだろうな。数十年後のある夕方、彼がホッと一息をついて「ああ、幸せだなあ」と思ってくれたら、私が正しかったことになるだろう。そのとき私はこの世にもういないのかもしれないけれど。