シアワセの容相

あしたはこっちだ

規格外を認めない学校システム

家庭教師をやっていると、けっこうな確率で学習障害発達障害など、ハンディを抱えた生徒に遭遇する。理由はかんたんで、そういうハンディを抱えた子どもは、サポートを必要とする。必要なサポートが得られなければ、高額な負担をしてでも家庭教師を雇わなければならなくなる、というわけだ。それが一概にいいことなのかどうかはわからない。まあ、いろいろやってみることそのものは、わるいことではないのだろう。

ただ、どういうわけだか、私はまだ典型的な学習障害、典型的な発達障害の生徒を受け持ったことがない。家庭教師の仲間内の話では、かなり壮絶な事例を聞く。別段誇張があるとは思わないし、自分ならうまく対処できる自信もない。まあ、ここまでラッキーだったのだろう。私の運の良さは親譲りだ。

だから、発達障害についてのこんな話題に、何か具体的な事例で反応するわけにはいかない。

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この記事、まずは「発達障害」という枠組みがもつ二面性について整理している。この部分、よく整理されてはいるが、特に目新しい視点でもない。発達障害という枠組みは、こまっている当事者を保護する役割を果たすと同時に、社会的に疎外することにもつながる。「障害者だから守らなければならない」と虐待から保護すると同時に、「発達障害というラベル」によって、社会から一方的に非を押しつけられることにもなる。障害の概念には、必ずこういう二面性がつきまとう。

このような現状に対して、この記事の著者は「発達障害」の概念に環境の要素を盛り込もうと提案する。ここのところがこの記事の肝。それは、端的にこの部分に現れていると思う。

たとえば、学校固有の「こうでなければならない・ああでなければならない」を基準点として「こまり」がつくりあげられ、それが「発達障害」流行により精神科受診につなげられ、診断がなされることによって診断数が急増したところの――従来の「学校都合の発達障害」にあたるものは、

診断名: 〈発達-環境〉調整障害スペクトラム・環境帰責型(学校タイプ)

に置き換える。

すなわち、何らかの障害が発生していることを認めた上で、その発生メカニズムまで診断名に組み込むことで、こまっている当事者が一方的に責められることを防ぐことができるのではないか、ということだと、私は理解した。単純に命名だけのことではあるようだが、どのように名付けるかということは、その後の人間の行動に反映される。小さくとも重要なステップというべきだろう。

 

さて、上述のように私は発達障害の生徒に出会ったことはないのだけれど、いわゆる「スペクトラム」な生徒はけっこういる。というよりも、100%定型の人なんてふつうはいないわけで、たいていはどっかがズレている。そのズレが困難にまで至って、ようやく「障害」という枠組みに組み入れられる。だから、一応どうにかして対処できている彼らは、定義上の学習障害発達障害ではない。

それでも、たとえばある生徒、宿題の提出ができずに学校で叱責ばかりされている生徒を見ていると、「別に放っといてくれればいいじゃないの」と思ったりもする。その生徒にとって学校生活を困難なところまで追い詰めているものではないが、それがなければもっと多くのことを学べるだろうと思う。頭のいい生徒だから、たぶん、反復練習なんてしなくてもだいたいの理解はできている。完璧まではいかないだろうが、完璧を求めてどうするよとも思う。それよりも、もっと新しい知識にどんどんと触れさせたほうが知性は伸びていくだろう。

あるいは、忘れ物が多いことを毎日のように注意され、常に黒板に名前を書かれている生徒。忘れ物をしてこまるのは本人なのだから、ある程度は自己責任、放っておけばいいだろうと思うのだけれど、その上にトドメを刺すようにさらし者にする。それは状況をより悪化させるだけだと、傍目には思うが、学校というところはそうではないらしい。

そうでなくとも、教師は生徒を自分の枠にはめようとする。たとえば代数のエックスの書き方なんて、実際には区別がつけばそれでいい。けれど、自分が信じている「正しい方法」でなければ激怒する数学教師にはしょっちゅう出会う。自分の授業を聞いていたかどうかだけを確認するための問題を出す国語教師、英語教師にもときどき遭遇する。既に時代遅れになった問題を、自分の好みだけで出題する社会科教師、理科教師も珍しくない。

そして思い出すのは、まだ駆け出しの頃にしばらく教えた中学2年生だ。彼女は実に、四則演算からして怪しかった。もちろん足し算、引き算の概念はある。掛け算、割り算が何かも理解している。ただ、繰り下がり、繰り上がりの操作が複雑になるとギブアップしてしまう。まして中学校の方程式だとか関数だとか、そういったものには手もつけられない。私の出会った生徒の中では最も学習障害に近い生徒だった。

それでも私が彼女を学習障害ではないと判断しているのは、 そういった試験問題に出そうな問題を解く能力はたしかに著しく低いものの、理性的な判断力や理解力は一般の生徒と何ら変わらないのを観察したからだった。ではなぜそれほどまでに問題が解けないのかと言えば、これは単純にその方法を学んでこなかったからでしかないようだった。あまりに長く学んでこなかったので、いまさらどうすればいいのかわからない、というのが彼女の置かれた状況だった。

私は最初、なぜそういうことが起こったのか、理解に苦しんだ。なぜなら、彼女はずっと学校に行ってきたのであり、どこかで躓いたとしても、それをとりかえす時間は十分にあったはずだ。教師だってどうにかしようと思うだろう。ていねいにひとつひとつ教えていけば、それなりにわかっていくはずだ。なぜそれをしないのだろうと。

その謎が解けたのは、ある日、彼女が学校の宿題をしているのを見たときだった。私が行ったとき、「宿題が間に合わないからやってもいいですか」と、彼女は学校の宿題をこなしていた。「しかたないね」と私はそれを傍観しはじめたのだが、すぐに「おいおい」と思った。なぜなら、彼女は解答集の答えを一生懸命書き写していたからだ。

「どうしても間に合わないときは仕方ないですけど、それって本当は意味がないんですよ」と、私はちょっとお説教をした。解答を書き写すことには、時間潰し以上の意味はない。ただ、どうしても提出物のかたちを整えなければいけない場合にはそうでもしなければやっていられないし、ある程度は学校でも黙認していたりもする。生徒の方でもそれはわかっている、はずだ。

けれど、このときの彼女の答えは私を驚かせるのに十分なことだった。「でも、先生がそうしろって言ったんです」。え?「学校の先生が、答えを書き写してきなさいって言いました。それでちゃんとマルがもらえます」

私は面食らって、そして、根掘り葉掘り問いただした。その結果、わかったことは、彼女は小学校のある段階からずっと、学校の教師から「学習障害」として、特別枠に入れられてきたらしい。これはカギカッコ付きの「学習障害」だ。どういうことかといえば、学習障害を克服するための特別プログラムなどは用意しない。ただ、学習障害なのだから、通常の学習は無理だ。ではどうするかというと、形だけ、通常の学習に参加しているようにする。そのためには、他の子どもと同じようにプリントをこなし、他の子どもと同じように提出物を揃えればよろしい。ただし、他の子どもと同じように考えることができないのだから、答えの丸写しを特例として認める。答えを丸写しして見かけ上は他の子どもと同じ学習進度を保っていれば、それで成績をつけましょう。そういう扱いを受けてきたのだ。

そうであれば、理解できる。いったん理解に遅れを取ってしまえば二度と浮かばれなくなるわけだ。学校の教師にとって、「勉強させる」というのは、「学習内容を理解させる」ということではなく、「みんなと同じことを同じ時間にやっている」ということでしかない。わからないことをいくらやってもわかるはずはないのだから、彼女にとって勉強とはみんなと同じことをする儀式に過ぎなくなる。何年学校にいたって点数がとれるようになるわけはない。

 

結局私は、9ヶ月ほど教えて、他の講師に交代した。それはもう単純に事務上の都合でしかなかったのだけれど、その9ヶ月で彼女の学習理解をいくらかでも改善できたと言い切る自信はない。それでも、彼女は立派な知性をもった人だった。なぜなら、その後のことが気になって出した年賀状に、こんな返事をくれたからだ。

先生はいつも、わからなかったらひとつ戻って考えなさいと言います。けれど、私は戻るのではなく、前を向いて進んでいきたいと思っています。

 

これだけしっかりと、批判的に考え、きちんと自分の意見を表明できる人なのだ。その長所を伸ばしていけば、学習指導要領に記載された目的を彼女の中に達成していくことは容易なはずだ。けれど、学校の教師は不毛な写経を彼女に強制する。なぜなら、規格を外れた生徒に対処する術を学校はもたいないからだ。

生徒の直面する困難は、部分的には内在的なものであるかもしれないが、多くは外部との相互作用の中で発生する。そして特に、堅くて融通の効かない学校システムは、そういった困難を引き起こし、増悪させる要因となる。それを意識させてくれるだけで、「診断名: 〈発達-環境〉調整障害スペクトラム・環境帰責型(学校タイプ)」みたいな書き方は歓迎すべきなんじゃないかと思う。