「文化の格差」という捉え方をやめよう - ちがっているのがあたりまえ

地方都市は住みやすい

若い頃、田舎まわりをしていた。それについて書き始めたら長編小説並みの自分語りになるのでやらないが(いつか書き残しておきたいとは思うけど)、沖縄を除いてほとんどの都道府県に足を踏み入れた。風来坊を泊めてくれる奇特な農家の厄介になって、いろんな田舎を見ることができた。もちろん、日本の隅々まで見たというつもりはない。田舎は実に多様で、山ひとつ越えれば風土も暮らし向きもちがう。人間だから、隣同士の人でも考え方がちがう。数十箇所の個別の事例だけからは、容易に全体像は見えてこない。そういう意味では、私は農村部の暮らしやそこでの生活感覚について、たいして知っているわけではない。

一方で、近畿地方北部の地方都市とその周囲の農村については、少なくとも都会を離れたことがない人たちよりは知っている。あわせて十年あまりの歳月をそこで過ごしたからだ。人口10万人レベル以上の地方都市に住んでみると(これも場所によって一律ではないとは思うが)、その便利さに驚く。なにしろ、必要なものがほとんどワンストップで揃っているからだ。たしかにいま、地方ではクルマが必須となっている。けれど、コアな部分は徒歩でぐるっとひと回りできる範囲に揃っている。東京だったら神保町で打ち合わせをしたあと渋谷で買い物をして、都庁に寄ってから池袋に呑みに帰ったら、その移動だけでずいぶんと時間がつぶれてしまう。地方都市だと喫茶店は駅前だし、買い物をするのは駅前の商店街(もっとも最近は郊外のショッピングセンターに移ってちょっと不便にはなったが)、役所はたいてい駅から歩いて10分以内だし、飲み屋も駅と役所の周辺が多い。都会のようにあちこち移動しなくても、だいたいの用事が身の回りで片付く。そんな場所に事務所を構えたら、必要なものはすべて近所で手に入るから、仕事が捗ること。

もちろん、提供されるサービスの量は小さいし、質も必ずしも高くない。たとえば裁判所は支部でしかないし、国の出先機関が少ないのでたとえば産業局への書類申請は中核都市まで出向かなければならなかったりする。いまでこそマニアックな品物はWeb経由で発注できるようになったが、私が地方都市にいた頃にはちょっと変わった品物は大阪や東京に出張した折に仕入れてくるしかなかった。ライブハウスや市民会館に大物がやってくることもふつうはなかった。図書館の蔵書は少なく、見るからに市役所から左遷されてきた職員のレベルも最低だった。美術館に常設されているのは、全国的にはほぼ無名の地元芸術家の作品でしかなかった。

しかし、それをもって「文化程度が低い」と断じる気には、私はなれない。なぜなら、その私にとって故郷ともいうべき地方都市にいたときのほうが、それ以前に住んでいた大阪、東京、京都といった大都市に住んでいたときよりも、あるいはその後に移ってきて現在住んでいる神戸市の近郊での暮らしよりも、生活はずっと優雅だったからだ。暮らしが優雅なことを文化的と表現するなら、あの頃が私の人生の中で最も文化的だった。

なぜなら、それは質と量の不足を補う利便性があったからだ。図書館ひとつとっても市立図書館のレベルは情けないものだったが、大学(これもいわゆるFランなのだろうが)の図書館はそれなりにしっかりしていて、そしてそれが市民利用を認めていることも広くアピールされていた。車社会だから、隣の自治体の図書館に足を伸ばすことも気軽にできた。やってくるアーティストの格は低かったかもしれないが、その分だけ低価格で気軽に覗きに行けた。地元に定着している田舎暮らし系のアーティストたちは都会にもっていけば吹けば飛ぶようなレベルなのかもしれないが、十人前後の集まりで目の前で演奏してもらう機会、作品の解説をお茶なんか飲みながら作者自身がしてくれるような機会は、それなり以上のインパクトがあった。田舎の資料館には、全国的な著名人の資料が収蔵されていて驚かされた。田舎の強みはそこに流れる時間の蓄積であり、長い歴史の中ではどんな草深い田舎でも一人や二人の偉人を生み出しているものだ。数は多くなくとも、一点突破式に歴史の複雑さを学ぶことができる。そして、そういった公共施設の多くは無料だ。こんなふうに、田舎は案外と、かんたんに文化的な生活ができてしまう。

多様性こそ文化の源

都会の多様性は、人口の多さによって担保されている。たくさんの人がいれば、それだけいろんな人がいるという理屈だ。数がいれば、その中に優秀な人が含まれる確率も上がる。枠からはみ出る人、変人や奇人、おもしろい人、魅力的な人が含まれる確率も上がる。いろんな人がいるから、都会は輝く。

しかし、都会というシステムが多様性を産み出すものかといえば、むしろそうではないだろう。都会が人を惹きつけるのはそこに仕事があるからだが、都会で行われる仕事は基本的に規格化、統一化されていて、業務内容の多様性にもかかわらず、生活に与える影響は似たりよったりになる。結果として、都会は多様性に富むのだけれど、人口の割には変異の幅は小さくなる。

一方の田舎は、人口が少ない分、どうしても極端な変異は見つけにくくなる。超一流の人は、田舎よりも都会に見つかる確率が高い。しかしその一方で、田舎は多様な生き方を許容する。そういうとちょっと都会人の常識とはちがって聞こえるのかもしれないが、かつて画一的な農作業を基準に統制されていた農村経済はとうに崩壊し、個別の状況や工夫で生き延びることができる人が田舎の主力になっている。資産を食いつぶしている人、役所や農協のような安定した職場を見つけた人といった保守的な生存戦略をとっている人々から、起業(第二起業)で起死回生を図る人や新しいライフスタイルを試みる人のようにアグレッシブな生存戦略を選ぶ人まで、およそ都会のような「会社に勤めてりゃなんとかなる」が通用しない世界では、それぞれがそれぞれの事情に応じて生き方を探るしかない。結果として、地方都市や農村には、都会とは別なかたちでの多様性が生まれる。

そして、世界が狭い分だけ、その多様な人々が互いにかかわり合う場面が多くなる。若いころ、東京の都心部に住んでいて「山の中でだれにも会わずに暮らしたい」と思ったりしたものだが、現実には世捨て人の生活は、都会でこそ可能になる。生きていくためには必ずだれかとかかわるわけで、そのかかわりを無名性の中で実行できる都会とは異なり、田舎では多くの場合そこに特定個人が紐付いてくる。結果として、やたらといろんなところにつながりが生まれていく。好きでもないところに引っ張り出されたりもするが、それが新たな発見につながることもある。身の回りには、思いもかけず多様な世界が広がっていく。そういった地方都市やその周辺部での暮らしは、私にとって十分に文化的だった。それは、いろんな人に出会えたことが大きいのだと思う。人間の多様性こそが、文化を支えている。

「文化と教育の格差」論

文化というものを意識しない多くの人にとっても、やっぱりそういった地方での暮らしは十分に文化的なのだと思う。草深い田舎に住んで俳句の投稿を欠かさない高齢者、伝統の織物や染め物を受け継ぎ、ときにはローカルな講座で講師をつとめる農村の婦人部の人々など、文化という視点から見て評価に価する人々はいくらでもいる。田舎の文化程度が都市に比べて低いなどというのは、寝言でしかない。

それでは、最近はてブで賑やかなこういう一連の議論の中での「文化と教育の格差」は、どう受け止めればいいのだろうか?

gendai.ismedia.jp

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ここで問題になっているのは、一義的には教育の格差である。そして、教育の格差の要因としての文化の格差が問題になっている。それが存在しない、などと真正面から否定してしまうことはできない。なぜなら、上記記事の2名の著者、そしてそこにコメントを付している多くのブクマカたちの議論を見れば、何らかの格差が存在することはほぼ否定できない事実だからだ。議論は、それが存在するかどうかについてではなく、どちらかといえばその表現や受け止め方が妥当かどうかというところを巡って行われている。あるいは、それがどう作用しているのか、どう変わっていくべきなのかという次元に向かっている。

では、ここで問題になっている格差とは何だろうか? それは、最終的には経済格差の話である。つまり、現代社会では階層化された学校システムの上位に進んだ者ほど経済的に上位に到達する。学校システムの中での順位差は教育によって発生し、教育を支えるのは文化である。経済格差が厳として観測される以上、そのもとをたどれば文化格差が存在しないはずはない。当然だろう。そして、水野氏のブログの結論:

阿部幸大氏は東大を経て現在はアメリカで学究に励まれているようであるが、「文化と教養の格差」克服のために、ぜひとも将来は釧路に戻られ、地域の若者に薫陶を授けていただきたいと思う。

は、つまり学校システムの上位に上り詰めた人に対して地方に戻ることを奨めているわけだが、結局のところこれは経済社会の中での上位者に地方に戻れと言っているわけで、それはつまり経済の還流をせよと提案していると捉えていいのだろう。それはそれでまちがっていないとは思う。

原理主義者の違和感

そういう話の流れをわかった上で、それでもなお、私は「文化と教育の格差」という捉え方に違和感を覚える。「文化」だけでなく「教育」に関してもそうだ。なぜなら、教育とは人間の成長そのものであり、個別の人間に即してみれば、それぞれの成長が異なっているのは当り前であり、また、その成長の様式もちがう。そこに格差のような集団的な分析をあてはめるのは穏当ではない。穏当ではないが、そういう考え方は成立する。それは、その成長に一定の方向の順位づけをあてはめる場合であり、そして、現に現在の経済社会ではそういった順位づけが行われている。むしろ、学校システムの中のそういった順位競争を順当に上り詰めていくことこそが教育であるというような錯覚さえ与えてしまう。そういう枠組みに立ったときには、そういった一方向への進行を促進するものと阻害するものという観点から、格差という捉え方が可能になる。それに密接に関連する要因として文化があるのなら、そこをひとつにひっくるめて「文化と教育の格差」という括り方が可能になる。そういう括り方をしてしまえば、それは確かに存在するし、それはどうにかしなければならない問題というふうになる。

だから、ここで私は2つに分裂してしまう。現状のそういった教育システム、あるいはそれを前提として成り立っている経済システムが実際に存在しているということから出発すれば、これらの記事にあるような議論に参加できる。しかし、その一方で、「教育なんてそんなもんじゃない」「文化ってそういうもんじゃない」という立場からいえば、こういう議論はトンチンカンなものにしか見えない。東大行くことがエライんじゃなくて、その人がその人生を豊かにできるだけの知恵をつけることが重要なんだ。それが教育の意味だ。文化は競争のためにあるのではなく、人間の暮らしそのものが文化なんだ。そういった原理主義に立てば、寝言は寝て言えという気分にもなる。

そして、私自身が地方都市やその周辺で体験したことを照らし合わせ、さらに自分自身が受けた教育が階層社会の中で上位に進むことには何の役にも立たなかったにもかかわらず自分の人生を豊かにしてくれたことを思うにつけ、やっぱり大都市と地方の「文化と教育の格差」なんて、幻に過ぎないのだと改めて思う。確かにちがいは存在する。それはときには経済格差にも結びつき、場合によっては地域の消滅にもつながりかねない深刻な問題にもなる。それに対処することは十分に重要だ。けれど、それは、そういった格差を生み出してる競争社会、学歴社会、金儲け優先社会の枠組みの中に参加することで解決できるものではない。そこから抜け出したときに、大都会と地方の間に存在するのは単なるちがいであり、ちがいはあってあたりまえであり、そのことが上下方向の差、つまり「格差」であると意識されないものになるはずだ。

そういう世の中になって欲しいと思うんだが、さて、それはこの世界線ではなかったかもしれないなあ。私はやっぱり、異世界から転生してしまった人間なんだろうか? そんなわけ、ないか。