「やる気」という神様

(以下、「家庭教師のための講座」のための原稿下書き)

生徒に教えていると、「やる気」がなくて困ることって、たくさんありますよね。生徒の「やる気」がなくて困ったこと──そうですよね、皆さん、大きく頷いてらっしゃいます。皆さんの経験でけっこうです。生徒の「やる気」がなくて困ったこと、どんなことがありますか?

「宿題をやらない」。そうですね。やる気がない生徒は宿題を出してもなかなかやってくれません。「居眠りをする」。ありますね。中学生とか、特に夕方の時間帯に居眠りをされることがよくあります。「学校の授業を聞いてこない」。そうなんですよ。家庭教師がいくら頑張ろうと思っても、授業聞いてなかったら、最初っから説明し直さなきゃいけません。時間のロスですよね。「すぐに関係のない話をする」。「集中力がない」。「気が散る」。こういうのは授業にならないです。もうちょっとやる気を出せって言いたくなります。「おぼえてくれない」。「すぐに忘れる」。やる気あんのかって、腹が立ちます。「テストでひどい点をとっても平気な顔してる」。「他人事みたいで当事者意識がない」。こういうのも、「やる気」の問題でしょうか。

「やる気」がないと、こういうことが起こります。つまり、「やる気」があれば、これらの問題が解決するわけです。「やる気」があれば、学校の宿題も家庭教師の宿題もちゃっちゃっとこなすし、自主的にどんどん勉強するし、集中力が高まって、学校でも家庭教師の授業でも、しっかりと聞いて、覚えるべきことは忘れない。常に自分の成績をモニタして、進んで弱点の補強をするし、わからないところはどんどん質問してくれる。成績が伸びないはずはありません。

「やる気」はすべてを叶えてくれます。素晴らしい。まるで、全能の神様のようです。だから、皆さん、「やる気」を高めるための工夫をいろいろなさってますよね。「褒める」とか、「危機感をもたせる」とか、他に何がありますか? モノで釣るっていうのは、ちょっと微妙ですが効果はあります。お家の方にお願いして、生徒のほしいものを目標達成の報酬に設定してもらうとか、ですね。「やる気スイッチ」さえ押せれば、問題はすべて解決する、と。

さて、ちょっと話が変わりますが、皆さん、お米をつくったこと、ありますか? 自分で田んぼをやったことがなくても、日本人ならだいたいのことは知ってますよね。小学校5年生の社会科でも習いますし。この米づくり、基本は弥生時代から変わっていません。苗代で苗を育て、荒起こしから代掻きまで入念に準備した田んぼに移植、水管理と草取りをして育て、中干しやら追肥を必要に応じて行って、稲刈り、天日干し、脱穀、もみすり、最後は精米ですね。まあ、弥生時代は最後の3工程は一緒だったようですけど。

そして、その全ての段階で、トラブルが発生します。むかし、まだ農業技術が発達しなかった頃なら特にそうでしょう。寒のうちから水につけておいた籾が発芽しないとか、苗代の苗が一晩で枯れてしまうとか、荒起こししようと思ったら牛が病気になるとか、代掻きしようと思っても雨がふらず水が足りないとか、田植えに人手が足りないとか、植えた苗がうまく活着しないとか、雑草の勢いが強すぎて稲が育たないとか、虫が大発生してしまうとか、病気になるとか、台風で稲刈り前に全部倒伏してしまうとか、鳥が大襲来してせっかく実ったお米を食べてしまうとか、刈り取った稲がなかなか乾かないとか、収穫が全部ネズミにやられてしまうとか、挙げはじめたらきりがありません。古代の日本人は、こういう苦難を乗り越えて、連綿と米づくりを続けてきたのですね。頭が下がります。

そういったトラブルが連続したとき、古代の人々の中には、「これは神の祟りだ!」と叫ぶ人がきっと現れたことでしょう。たしかに、神様なら(特に日本の八百万の神々なら)、気に入らないことがあっただけでこういった災厄の全てを引き起こすことができたかもしれません。苗代がうまくできないのは神の祟り、肝心なときに水不足になるのは神の祟り、一晩で全ての田んぼに病気が広まるのは神の祟り。自分たちがコントロールできない災厄がやってきたとき、それでも人間はそれに対処しようとします。だから何か合理的に見える原因を探し、そして神様を見つけます。神の怒りを宥めるために祀りをし、供物を捧げ、祈ります。そして、どうにかこうにか災厄から逃れることができたら、神に感謝を捧げることでしょう。そういった古代人の心を私たちは嘲笑うことはできません。

けれど、もしもあなたが現代からタイムマシンで古代に派遣された農業技術者だったらどうでしょう? 同じように神に祈りますか? 苗代の苗に元気がないのは神様がわるいのですか? 水の入ってこない田んぼを前にして、それを神様のせいにしますか? いもち病が大発生したとき、それを神の怒りと感じるのは正しいでしょうか? そうではありませんね。

現代人の常識からいえば、苗代の生育がわるいのは水温が低すぎるのです。太陽の光の当たるところに水路を迂回させたり、あるいは寒冷紗をかけたりして低温を防ぐことで、苗の成長は促進されるでしょう。毎年のように水不足になるのは水利がわるいのですから、用水路を整備したり溜池を造成して長期的な対策をするべきでしょう。稲が雑草に負けるのは水管理がうまくいっていない可能性がありますから、田んぼの均平を徹底したり、深水管理をやってみたりします。病気が発生するのは密植のせいであったり害虫のせいであったりしますから、栽培方法に工夫を加えてみてもいいかもしれません。台風は防ぎようがありませんが、収穫の季節といつもぶつかるようであれば、早生や晩生の品種に変えて栽培時期を少しずらしてみる工夫もあり得るでしょう。

そして、こういった農業技術は、ただ盲信的に神の祟りのせいにする姿勢からは生まれません。そういった言説が説得力をもった時代にあってさえ、やはり「本当の原因は何なのだろう? その原因にどうにかして対処する方法はないのだろうか?」と冷静に分析する人々がいたからこそ、進歩してきたものです。こういった姿勢を、現代的には「科学的」と表現することができるかもしれませんね。

さて、現代の学校教育は、「科学的」であることをひとつの柱としています。これは個人的な信念とは無関係に、否応なく、そういう縛りが入っているのです。学習指導要領でそう決められている以上、公教育では逃れられません。そして、それを補完する形で雇われている家庭教師にとっても、そこを無視することはほぼ不可能です。論理的に考える力を生徒につけていくことが、家庭教師には求められています。論理的であるためには、その前提として、事実を客観的に捉える力が必要です。それを合理的に解釈し、きちんと伝えていく能力が、すべての教科指導の前提としてあるわけです。

そういう前提があるときに、さて、私たちは、「やる気」という神様を持ち出すべきなのでしょうか? 「宿題をやってこないのはやる気がないせいだ」という判断は、いかに説得力があったとしても、「水不足になるのは神様の祟りだ」という判断と同じレベルではないでしょうか? 確かに「やる気があれば集中力が高まる」のは事実かもしれませんが、それは「神様のおかげで豊作だった」というのと同じ程度でしか事実ではないのかもしれません。生徒の「やる気」を賛えるのも神様に感謝するのも正しい姿勢でしょう。けれど、そこで「やる気スイッチ」を探したり神様の喜ぶ供物を考えたりするのは、ひどく浅はかなことではないでしょうか。

もしも「宿題をやらない」という問題が発生したとき、私たちはそれを「やる気」という曖昧なものに転嫁してはなりません。それは、「自分にはそれをコントロールできません」と白状しているのと同じことです。なぜなら、「やる気を高める」と呼ばれている方法のほとんどは、まじない程度の根拠しかないからです。「やる気スイッチ」なんて、人間にはついていません。そういうものがあるなら、見せてほしいと思います。見たことがないものをあたかも存在するかのように触れて回るのは、神様を担いで金儲けをする詐欺師とほとんど変わりません。

「宿題をやらない」という問題が発生したら、その原因を客観的に分析することです。ひょっとしたら、物理的に時間がないのかもしれません。クラブ活動で疲労がたまりすぎていて、とても机に向かえる状態ではないのかもしれません。あるいは、宿題をやらねばならないということに納得できていないのかもしれません。現実に、その生徒にとってその時点で不要な宿題を出してしまっているときに、そういう事態は発生します。家庭教師が「いま、ここで、この課題をこなすことによって、こういう技能が向上する。そしてその技能の向上がいまこの時点で必要になるのだ」ということを確信をもって語れなければ、生徒が納得できるはずはありません。納得がなければ行動はありえません。そういう理由が存在するときに、「いや、宿題は必ずやるべきものだから」とか「学習習慣が大事だから」とか、およそ迷信に近い思い込みで説得しようとしたって、問題が解決するわけはありません。あるいは、家庭教師の説明のしかたが悪く、どのようにして宿題をすればいいのか、具体的なところでわからなくなっているのかもしれません。シャーペンの芯がなくなっていて買いに行けないとか、消しゴムをなくしてしまったとか、「言い訳だ!」と怒鳴る前に、その具体的な理由にひとつひとつ対処していけば、案外と問題は解決するものです。

科学的に学問を教えようというのであれば(そしてそれは明らかに要請されています)、まず、教師自身が科学的でなければなりません。科学的に教えるというのであれば、まず、目的・目標を設定し、手法を考え、環境を整え、その上で発生する問題を客観的に把握し、分析し、論理的に解決策を提案していかなければなりません。そういうことをすべて省略して、迷信に逃げ込むことは楽なことです。古代人が神をもちだしたように、存在するかどうかさえわからない「やる気」のせいにすれば、みんな表面上は納得してくれます。けれど、それではなにひとつ変わらないということを、はっきりと意識すべきだと思います。

それさえできない家庭教師には、本当に「やる気」がないんだと思いますよ。

 

(そのうち、家庭教師相手に講座を開きたいと、ときどき考える。半分本気で。だって、ほんと、何も考えずにただ自分が教えられたようにしか教えられない教師が多すぎるんだもんなあ)

 

 

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追記: こういうのを読むと、やっぱり「やる気がないから」みたいな理由づけは迷信でしかないと思う。単純に二酸化炭素濃度の問題という可能性もある。あらゆる可能性を排除すべきではないよなあ。

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