なぜ勉強するのかを教えてはならない - 家庭教師の経験を通じて見えてくる真理

家庭教師としての経験も5年になった。入れ替わりの激しいこの業界だから、ベテランと言ってもいいだろう。これは「プロ」としての経験という意味だ。大学生のアルバイトとか、そういうのは除外したい。

その私が、いくつかの例外的なケースを除いてほぼ最初からずっと厳格に適用してきているルーチンがある。それは、初回の指導時に、「なんで勉強するんですか?」と生徒に聞くことだ。どうしても都合で第1回めにできないときには2回めとか3回めになる場合もあるが、できるだけ早い時期にこれを確認しておく。

本当は、「勉強」という言葉も使いたくない。これは誤用だし、危険な言葉だ。けれど、「学習」みたいなよそ行きの言葉では生徒と話が通じないから、しかたなしに使って尋ねる。「勉強は好きですか?」「好きじゃないです」「じゃあなぜ、好きじゃないことをするんですか? なぜ勉強するんですか?」すぐに答える生徒は多くない。たいていは、こちらの真意を探るように言いよどむ。

そりゃそうだろう。家庭教師を雇うのは、勉強するためだ。やることが前提にあるのに、その理由をいまさら聞く奴は信用できない。そのぐらいに思っても当然だ。だが、こっちにはこっちの理由がある。プロの仕事は、常に成果を求められる。その成果を正しく評価するためには、ゴールが正しく設定されている必要がある。そしてゴールは、雇われた側が勝手に決めつけていいものではない。掃除をしてもらおうと思って家事代行サービスを頼んだのに、掃除はせずに晩飯の用意をされたのでは、いくらその料理が絶品であっても、やっぱり顧客は満足しない。たとえ掃除を依頼して掃除をしたのだとしても、本当はやってほしくないトイレ掃除が中心で、やって欲しかったリビングがざっと掃除機をかけただけとかなら、やっぱり嫌だろう。家庭教師の仕事は成績をあげることと集約されるのかもしれないが、やっぱりそこにはクライアントの微妙なニュアンスのちがいがある。家庭教師が勝手な自分のイメージでカリキュラムを立てることはロクな結果につながらない。医者でさえ、患者の意向を確認する時代だ。家庭教師が「なぜ勉強するのか」を確認するのは、当たり前以上に当たり前だろう。

そして重要なことは、その「なぜ」が、本当であることだ。ウソであっては困る。実際には望んでいないことが現実になって喜ぶ人などいない。だから私は、ここにシビアになる。「親が勉強しろというから」みたいなのは論外で、「じゃあ親が死ねと言ったら死ぬんですか?」ぐらいの極端なことは言う。「勉強しないと将来困るから」と親や教師が説教するときに使う文句を繰り返しても、「本当に困るかどうか、どうやってわかるんですか? 実際に、困らないことのほうが多いんですよ」と、事例をあげて反論する。「勉強しないと高校に入れない」と言ったら、「高校は勉強するところだけど、勉強するために勉強するって、理屈になってないよ」と指摘する。借りてきた理屈、自分で考えていない理由は、たいてい木っ端微塵に砕いてしまう。

そこまでやらなくてもと思うかもしれないが、そのぐらいやると、おもしろいことにたいていの中学生、高校生は、自分の頭で考えた理由を話しはじめてくれる。だれだって、一度や二度、「なんでこんなアホらしいことせんなあかんねん」みたいなことは考えたことがある。子どもたちは案外と、それぞれの理由をしっかりともっている。

そしてここで重要なことは、その理由が全て個別のものだということだ。「なぜ勉強するのか」に、唯一の正解などない。唯一とは言わない。模範解答はない。それぞれのひとが、それぞれの理由でもって何かを学ぼうとする。

もちろん、そこに何か共通する原理を見出そうとすることは不可能ではない。「人間はもともと好奇心をもった生物である」とか、「学習によって人は進化を遂げてきた」とか、「日々発展する社会の中で知識や技能の重要性が増加している」とか、そんな分析をすることも決して的を外したことではない。けれど、それは一般に人が学ぶ理由にはなっても、個別の、一人の人間が学ぶ理由にはならない。

たとえば、現代のテクノロジーを支えているのは根本的には物理学であったり化学であったり数学であったりする。だから現代に生きるのであればそういった学問を学ばねばならない、という理屈は成り立つが、しかしまた、現代のテクノロジーはそういった素養が一切なくてもハイテク機器の活用に何ら支障のないユーザーインターフェイスを達成してくれる。テクノロジーを進化させていくには学習は必要かもしれないが、その恩恵に浴するだけなら別に何も学ばなくてもいい。一部の優秀な人々だけが勉強するような世界だって、別に構わないわけだ。

あるいは、正しい知識がなければ人に騙されるということは実際に起こる。だから、社会で詐欺にあわないように学習しましょうというのも、正しいひとつの考え方ではある。けれど、人に騙されるのは騙される人がわるいのではない。騙す人がわるいのだ。だから、他者の正義に頼って生きるという選択をする人々があっても、私はそういった人々を責めるつもりにはなれない。騙されてはいけないから勉強しないといけないというのは、極端に走れば自己責任主義の強者の理論にしかならないだろう。

一般的な理由、多くの人が納得する理由は、いくらでも出てくる。しかし、それがある個人に該当するかどうかは、一概には言えない。全ての理由には、そうしない理由もまた付随してくる。たとえ人類が知能によって現在の地位を築いてきたのだとしても、その流れに参加しない、参加したくないという人がいることを人間社会は拒否できない。文明の進歩に背を向けたいという人を排除する論理を私たちはもたない。競争に打ち勝つことが善であるという価値観を全ての人に押し付けることはできない。最後に残ってくる「勉強しない奴はダメだ!」みたいな感情論には何の意味も残っていない。

 

社会を論じる立場、生物としての人間を論じる立場からなら、普遍的な理由を探してくれてもかまわない。けれど、決して忘れてはならないのは、個人はあくまで個人として存在するということだ。だから、最終的に、「なぜ勉強するのか」の答えは、個人によって異なってくる。そうでなければ、目的に合わせてカスタマイズしていくことがセールスポイントである家庭教師の仕事は成り立たない。

そして最も重要なことは、「なぜ学ぶのか」を考えることが、既に大きな学習行動であるということだ。詐欺のようではあるけれど、「なんで勉強するんですか、嫌ならなぜやめないんですか?」という問いかけは、実はほとんどのゴールへの第一歩になる。なにせ、考えないことには何一つ解決しない世界に私たちは住んでいる。そして、その考える技能を身につけることこそ、勉強する最大の理由なのだから。

 

ほら、矛盾を指摘してごらん。