蔵書は散逸してこそ - 古本はたいせつにしよう

桑原武夫蔵書破棄のニュースを聞いたときには、なんとも残念な気持ちになった。けれど同時に、「ああ、そうだよなあ」とも思った。

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敬意を込めて「桑原武夫」と敬称抜きで書くのだけれど、恥ずかしながらたぶん私は桑原武夫の著述を読んでいない。ただ、京大人文研という括りで見たら、今西錦司を筆頭とするその一派の人々の著作にはいろいろと学ばせてもらったし、何よりも私が若い頃所属した山岳部のトップにはその一派のさる碩学の教授がいた。話が長くなるのが嫌なのであえて名前は出さないが、この教授の没後、その書斎に入ることを一度だけ許されたのは、私の数少ない自慢話のひとつになっている。大学に寄贈されてコレクションとして管理されることが決まったその蔵書が移動される前に、山岳部関係の資料を持ちだしてよいと遺族の方が許可してくれたからだ。私は下っ端の荷物持ちとして先輩について行っただけなのだけれど、それでも静謐なその書斎の雰囲気は忘れられない。

そんなこともあったから、同じ京大人文研の桑原武夫の蔵書の一部が破棄されたというニュースは、ショックだった。だが、古びたものを無限においておくことはできない。それはこの世の定めだ。いつまでも残すわけにもいかないだろう。散逸してもやむを得ない。今回は散逸ではなく廃棄なので、失われたものは二度と戻らない。せめて古書店が引き取るものだけでも形が残ったらよかったのだろうけど、まあ、完全に同じものでないとはいえ別のコピーもあるだろうから、情報がこの世から失われたわけではない。

 

廃棄されることでこの世から消えてしまうような儚い情報もある。だが、それらは、消えてしまっても仕方ないものであるかもしれない。私はこれまでに何度か本を処分している。特に大量に本を処分したのは結婚前後の数年間の時期だった。その少し前まで私はある非常にマイナーな分野の微小な雑誌を編集していて、そのおかげで大量の資料を収集していた。その中には、小部数しか発行されていない自費出版本や手作りのミニコミ紙などのコレクションがあった。それらの資料はけっこういろんなネタのソースとして役立った。おそらくほかにはどこを探してもそれだけのコレクションはなかっただろう。なにせ、マニアックな分野だから。そしてそれらは、編集が私の手から離れるときに一緒についていき、そして散逸した。おそらく二度と復元できないだろう。情報としても、あのコレクションは失われてしまった。

結婚してからは何度か引っ越したが、そのたびに本を処分した。比較的まとまったシリーズは友人が新たにできるコミュニティ施設のような場所に本棚ごと引き取ってくれたが、数年たってその施設が閉鎖されるときに恐らく廃棄された。むしろ生き残ったのは、友人たちが借りて行ってそのままになっていた本たちだろう。私が基本的に「借りパチ」(借りっぱなしで失敬してしまうこと)を歓迎しているのは、実はそういう事情もある。自分の手元からは失われるけれど、それほど遠くないどこかで生き延びてくれるから。そして比較的どうでもいい本は、ブックオフ行きとなった。その中でもさらにどうでもいい本は、ブックオフ経由で廃棄されたはず。私にとっては貴重であっても世間的にそうでないようなものは、容赦なく破棄されるだろう。

 

そんなふうに本や資料を散逸させてきて、残念だなと思う一方で、それでよかったのかなとも思う。というのは、あの大量の資料を自由自在に使えたのは、私だけだったからだ。

どういうことか。編集者時代、資料はオフィスの本棚にぎっしりと詰めてあった。訪れる友人たちは勝手に手に取ることができたし、実際、そこから本を引っ張りだして読んでいく奴もいた。けれど、いろんな話をしていて、「そういえばこんなことが書いてあったよ」と本や雑誌、ミニコミなんかを引っ張り出してくるのは私だった。それをネタに話題が広がると、またそれに関連した資料を引っ張り出してくる。私にはそういうことができた。他の誰にもできなかった。

資料と私はワンセットだった。資料を失ってからは、「うん、たしかそういうのは『現代農業』のどっかに書いてあったはずだよ」みたいなことは言えても、不確かな記憶以上の情報は出せなくなった。けれど、どっちみち私自身の活動分野が他にシフトしていったので、そういう情報を必要とする機会も減っていった。私が資料を必要としなくなり、資料が私を必要としなくなって、散逸した。これは避けられないことだ。

 

そんな昔のことを思い出すと、結局のところ、大学者のコレクションにしたところで、それを隅々まで知っていてどう活用したらいいかをきちんと押さえている本人が生きて活動していてこそのものだと思えてくる。大先生の思想とコレクションは不可分のものだ。そして一方がいなくなってしまえば、コレクションだけ残っても意味はない。

もちろん、大学者の場合には思想を受け継ぐ人々がいる。そういう人にとっては、コレクションが散逸せずに一箇所に残っていることはありがたい。だが、一人の人間の思想をそのままの形で完全に継承することができるだろうか。私が死後に書斎を訪れたあの先生のコレクションでさえ、山岳部関係の部分は余分なものだと判断されたわけだ。一人の人間の興味関心の幅は広い。そして、その一見無関係な関心が総合されてひとつの思想をつくる。その思想は、別の人間の興味関心の対象となって継承されるが、そのときにはまた別な個人の別な興味関心のセットの中に組み込まれ、元の思想を形作った要素のかなりの部分は不要になってしまう。

だから、大学者の思想を受け継いだ人も、そのコレクションの全部は必要としない。そして、必要な部分は、継承者によって異なってくる。複数の継承者が共通して必要とする部分もあれば、一人の継承者がやっと必要とする部分、誰にも必要とされない部分さえあるだろう。そして、それらを全てセットとして残すことは、すでに大学者がこの世にいない以上、記念碑的な意味以上の意味はない。

つまり、蔵書のような研究資料は、本来散逸すべきものなのだ。散逸し、その行った先々で新たなコレクションの一部となって、はじめて役に立つ。そうならない部分については、いくら残念でも消えてしまうのが順当な運命だ。

 

ちょうど有機体のようなものだ。生物の身体をつくるタンパク質は、その生物が死ぬと他の生物に取り込まれ、別の生物を形作る一部となる。分解されてこの世から消えてしまうものもあるが、輪廻の中で生き続けるものもある。書物も同じようなもので、散逸することによって新たな別のコレクションの一部となって生き延びる。そうなるものもある。

もちろん、コレクションがコレクションとしてそのまま存在することにも、それはそれで意義はある。思いもかけない情報の間のつながりが、同じ空間に複数の書物が存在することによって見えてくることもある。だが、それを発見する能力をもった次世代の学習者は、おそらくそのコレクションがなくても、いつの日かそれを発見する。保存のためのコストは、循環させるために使ったほうがおそらく効率的だろう。

散逸の過程で消失し、取り返しがつかなくなる情報も少なくない。ただ、幸いなことに、これから先の未来に生まれていく情報は、基本的に電子データを伴っている。電子データは、物理的な書籍類に比べて保存も複製も容易だ。それらの情報に完全に失われるリスクは大きくあるまい。

 

そう思えば、なお一層、古い印刷物は情報のカケラとして大切だ。実際、50年前、百年前といった程度の古書からさえ、いろいろと学べることは多い。ああ、早稲田界隈の古本屋にまた行きたくなってしまった。もう長いことあのあたりには行っていないのだけれど、まだあるんだろうか?

ただ、それを集めはじめると、また本が増えてしまうのがなあ…