シアワセの容相

あしたはこっちだ

米はどこへ行った - 若い頃の疑問にここらで決着をつけておこう

学生の頃だったかあるいはその少し後だったかは忘れたけど、とにかく若い頃、「米はどこへ行った」という大きな疑問が私の中に生まれたた。現代の話ではない。江戸時代のことだ。

私が子どもの頃、教科書には「江戸時代には士農工商身分制度があり、農民が90%以上を占めていた」というようなことが書かれてあった。そして、「農民は五公五民とか六公四民とかいわれる重税にあえいでいた」というようなことも書かれていた。この2つを合わせると、論理的には非常に奇妙なことになる。米が余るのだ。

仮に90%が農民だとして、その農民が生産物の50%を収奪される。残りは農民の生存のために必要だ。では、収奪された50%はどうなる? 農民以外の10%の人々が食うのか? だとしたら、それらの人々は農民の9倍の米を常食しなければならなくなる。そんなに米ばっかり食ったら糖尿病になるぞ!

その疑問は、さらに年を経て、食のことに関心をもつようになって深まった。日本人全員が白米を常食にできるようになったのはようやく戦後十数年を経てからのことだというではないか。それ以前は粟や稗といった雑穀類、あるいは大麦や芋類を米に混ぜ込んだ糧飯が農村部で広く食べられていたという。ということは、さらに米は余るはずだ。

そして、農業のことを少しなりとも勉強するようになって、米が余るというのは確信に変わった。稲作は、投下労働力に対する生産効率が非常に高い。現代の機械化・化学化された農業であれば、1人の1年間の労働で数百人が1年間に消費する米をつくることは容易だ。そして、機械化される以前の農作業であっても、1人で3反程度の田んぼを耕作することは可能であり、そして3反の田んぼからは当時の標準でも5〜10人が食べられるほどの米が穫れるのがふつうだった。ちなみに、三反百姓は最小限自活できる零細農民の呼び名である。吹けば飛ぶような細農でも、一家が食べる分量よりも遥かに多くの米を生産する。そういう農民が国の大半を占めるのであれば、当然のように米は余らなければおかしい。

 

では、米はどこに行ったのか? 税として集められた米は、領内での消費分を除けば大坂の米問屋に送られ、換金されたという。では、大坂で売られた米はどうなるのか。上方や江戸の都市部で消費されるのだが、もしもこれが上記の計算通りなら、消費量を遥かに上回る米が取引されることになる。江戸時代の米は通貨単位としての性質をもつ。米本位制ともいえる経済物質でもあるから、すぐに消費される必要はないのかもしれない。けれど、米はミヒャエル・エンデ式にいうなら「腐る通貨」だ。保存性がいいとはいえ、数年で劣化する。どんどん増えたらそれでいいというものでもない。

食うものは、どうにかして消費しなければならない。米を消費する方法といえばもう食うしかない。そうだろうか。いや、それ以外の消費方法は、ある。それは酒だ。

上方には、灘、伏見という巨大な酒造産業集積地があった。灘と伏見に酒造業が立地した要因としてまずあげられるのは水だ。灘は六甲の花崗岩に磨かれた宮水、伏見は桃山丘陵をくぐった伏水という銘水の産地だ。そして、どちらも丹波・但馬・丹後(いわゆる三丹)という日本海側の後背地に近く、冬季の出稼ぎ労働力が確保できた。そこに原料供給地としての大坂がもうひとつの要因としてあったことはまちがいない。

若い頃の私は、このアイデアに飛びついた。過剰に生産された米は酒となって消費されたにちがいない。そして、一揆や打毀しが起これば必ず標的になるのは造酒屋だ。なぜならそこには米がある。酒造業はそのようにして、生産と消費の調整弁となった。なかなかよくできた理論だ。そして、それはすぐに実証できると思っていた。江戸時代の米の生産量と酒の生産量は、必ずどこかに統計があるはずだ。

ただ、当時はまだインターネット以前の時代である。インターネットそのものはこの世のどこかに存在したのだろうけれど、私は存在すら知らなかった。当然、いまのように検索すれば論文がゾロゾロ出てくるようなこともない。実証的な資料は、大学にでも行かなければ手に入らない。だからこれはあくまで仮説の域を出なかった。それでも私は、会う人ごとにこの仮説を披露して、そして「これで論文かけるはずだからぜひ実証的な研究してくれ」みたいなことを吹聴していた。

 

シロウトの考えなんて、ずいぶんと浅はかなものだ。だが、その浅はかな考えであっても、きちんと言うことは大切だ。なぜなら、それを批判し、訂正してくれる人が現れるからだ。人伝ではあったが、私のそういう言説を聞いてある郷土史家の方が「網野善彦を読みなさい」と教えてくれた。彼によれば、そもそも農民が90%以上というのがまちがっているのだそうだ。私にはそれが信じられなかったが、やがて網野善彦の本を読んで、納得した。「百姓」は、農民とイコールではない。年貢によって管理される武士以外の人々が全て百姓であって、その中には商工業者も含まれる。商工業者の中には農村にあって兼業的に事業を営む人々も地方都市で専業的に経営している人々もいる。それらの人々は年貢米を購入して納税するか、もしくは金銭でもって代替する。したがって、税収としての米は必ずしも生産量としての米の正確な反映ではない。領内での米の流通には食料としての流通だけでなく通貨としての流通もあったことになるし、それは全国でも同じこと。そして、その量は決して当時の日本人の人口で食べきれないほどではなく、むしろ不足するほどであった。

 

もっといい資料もあるのだろうが、軽くWeb検索をして出てくる論文を見るだけでも、どの程度の米の生産量があったのかはすぐにわかる。たとえば

社会経済的背景との関連からみた天明の飢饉と疫病(秋山房雄ら)

の表1によれば、天保年間の米の名目生産量(税収の基礎となる数値)は3000万石であるのに対し、実際の米生産量は2003万石と、2/3でしかない。石高は百姓が負担する税を反映しているわけだから、おおまかにはざっと1/3が農民ではないわけだ。つまり、人口の半分強が自分たちの生活に必要な米のおよそ2倍を生産し、余剰分を残りの半分が食べていたとすれば、食料としての米の収支はほぼ辻褄が合う。

ただ、そんな説明を受けても、私の中には釈然としないものが残った。たとえ非農業人口がかつての教科書の説明とは異なってずいぶんと多かったのだとしても、それでも日本はやはり農業国だ。それは、昭和になってからの農村の人口だけを見てもわかる。農水省の統計によれば、昭和35年時点でも農家人口は3千4百万人を数え、総人口の1/3を超えている。日本の耕作地の多くが明治維新までに開墾されていることを思えば、江戸時代にもやはり相当数の農民がいなければ話が合わない。そして、稲作の生産性が高いことは上述のとおりだ。さらに、山間部では雑穀飯、平野部では麦飯が伝統的に多く食されていたことは、やはり昭和初期の食生活を聞き書きした農文協日本の食生活全集を読めば明らかだ。

だから、「大坂に集積された米の大部分は酒に消えた」という持論は半分は撤回したけれど、それでも「米はどこへ行った」の命題は残るし、それを解決するのはやはり酒造業だろうと考えていた。江戸時代の酒造業は、灘・伏見だけではない。地方の蔵元から農家の台所でつくられるどぶろくまで入れたら、やはり日本人は米の相当部分を飲んでいたのではないだろうか。

 

しかし、こういった空想は、やはり実証的な数字によって訂正される。まず、上記の論文の表を見れば、米の生産量と人口から、1人1日あたりの米の量が計算されている。これによれば、先ほどの天保年間で2.0合である。1合は約150グラムだから、およそ300グラムの米になる。現代では日本人は1日平均200グラムも米を食べていない。その感覚からいけば300グラムの米は十分すぎるほどだが、米の300グラムはおよそ1200kcalであり、これは成人1日の所要熱量の半分にも満たない。毎日の食事の主要部分を穀物に頼っていた日本人の食生活を考えれば、少なくともこの2〜3倍の米を食わなければやっていられない。実際、こちらの論文によると

CiNii Articles - 移行期の長州における穀物消費と人民の常食 -  Grain Consumption and People's Staple Food in the Tokugawa-Meiji Transition Period(Special Issue 4 Commemorating the Twenty-Fifth Anniversary)

 幕末期の長州藩で1人1日あたり2.2合の米と、上記資料とほぼ一致する。そして、麦・雑穀などを加えて農村部で3〜5合の主穀類を1人1日あたり消費している。都市部では米が中心だっただろうから、農村部では米が半分以下の糧飯が主流だったというのはほぼ間違いなかろう。

ちなみに、同じ論文で、軍隊での米の消費量が1人1日あたり米643.39グラム、つまり約4.5合と報告されている。肉体労働をする当時の日本人では、このぐらいの米の消費はふつうだった。実際、宮沢賢治の有名な詩でも、「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」となっている。重労働をする大工や木こりなどでは「一升飯」という表現もふつうだったようだ。大量の米が必要とされる中で、限られた生産量の米はやはり貴重なものだったようだ。

 

とはいえ(しつこい!)、大坂には大量の米が集積される。それが本当に全て食料として消費されたのだろうか。もちろん、灘、伏見での消費は決して少なくあるまい。たぶん、探せば実際の米の消費量もどこかに数値はあると思うのだが、Webの検索から出てきたこの論文からでもおよその推察はできる。

近畿における近代酒造業の変遷 - 灘五郷を中心に(塩見侑吾)

ここにあるのは明治年間の数字であるが、およそ年間30万石の酒が灘で生産されている。私自身のどぶろくづくりの経験からいえば清酒1升には2合程度の白米が必要なので(搗精度合を上げると原料米はさらに多く必要になる)、30万石の清酒の製造には6万石ぐらいの原料米は必要になったことだろう。江戸時代の米の流通量は生産量の1/4程度に当たる500万石程度らしい。そのうちの200万石ぐらいが大坂で流通したようだから、その3%程度は酒造にまわったと考えていいようだ。

3%というのは、微妙な数字だ。物資の供給不足・過剰は、数%のちがいによって引き起こされることが多い。3%は余剰を吸収したり不足分を放出するバッファとして十分だろうか。だが、酒飲み連中は、飢饉だからといって飲むのをやめるわけではない。地方の蔵元であれば一揆や打毀しの対象にもなるかもしれないが、灘五郷の大店が襲われるようなこともなかなかないだろう。結局、若い頃に私が空想した「余剰米はみんな呑んでしまったに違いない」という理論は、どうやらどこにもその根拠を見出だせない誤りであったようだ。

 

それでも、私はなお、しつこく、日本の経済に与えた日本酒の影響というものをもっと考えていきたいと思っている。というのは、主食である穀物がそのまま酒造原料であるというのは、非常におもしろい構造だからだ。たぶんここには、なにかがあると思う。暇なときにはまた、Googleの論文検索でもあたってみて、いろいろな研究を見てみたいと思っている。暇さえあればねえ…。