シアワセの容相

あしたはこっちだ

キャッシュを貯めこんでどうするの? - 暗記派への疑問

人間の記憶はアテにならない

家庭教師という仕事をしていると、ときどき生徒が気の毒になる。学校の教師の中にはずいぶんと大量の知識の暗記を生徒に強いるタイプのひとがいるからだ。そういう教師は、テストに暗記していなければ解けないだろうというタイプの問題を出すし、暗記していなければ時間が足りないだろうというほどの量の問題を出す。そういうテストには、暗記で対応しなければ点数がとれない。これは困る。

というようなことを書くと、勉強は暗記だと思っている人々は不思議に思うのだろう。覚えることが勉強なのだから、覚えれば覚えるほど点数がとれ、完璧に覚えたら満点がとれる。テストとはそういうものだ──そう思っている人は案外と少なくない。実際、私が教えた多くの生徒がそんなふうに思っていた。

だが、学校教育の目的は知識を生徒の脳内に詰め込むことではない。それはもう、学習指導要領にさえ書いてある。だから、たとえば入試問題なんかのようなまともな姿勢で作成されたテストでは、知識に頼った問題はごく一部しかない。ほとんどは、基礎的な知識をもとにした思考力を見る問題になっている。もちろんそういった問題でさえ、実は暗記で対応することはできる。極端な話、正解を全部暗記してしまえば、何も考えなくてもマルがもらえるんだから。だから、思考力を見るようなタイプの問題でも「解き方」を暗記してしまえば、思考力なんかなくったって正解にたどりつける。実際、多くの生徒が(それ以上に多くの教師が)パターン化した「解き方」を暗記することが学習だと誤解している。それ、ちがうから。

なぜなら、人間の記憶ほどアテにならないものはないからだ。「記憶にございません」は、なにも国会議員の専売特許ではない。思い違い、記憶の混乱、意味の付け替え、忘却は、だれにでも起こる。記憶に頼って物事を進めようというのは、そういった非常にあやふやな情報を元に判断しようということだ。そんな危険なことをやられたら、社会はたちまち混乱してしまう。

そういった混乱を防ぐのは、正常な判断力だ。ひとつの不正が起こり、別の不正が起こり、また別の場所でミスが起こり、関係のない場所でもミスが起こる。それらの不正やミスがすべて不可欠の要素となってひとつの事象が起こった場合、それらをつなぐ事実が記憶から消失していたらそれらは無関係の偶然だと言えるのか? 正常な判断力があれば、これらは何らかの目に見えない要因でつながっているとわかる。

情報は、ある程度までは欠損があっても修復することができる。DNAだって、修復の機能をもっている。コンピュータだって、そういう機能をもっている。そういった修復をするには一定の情報が必要ではあるのだけれど、常に大量の情報を保持するコストに比べれば、仮に一部の情報が失われても何とかやっていく能力を身につけるコストのほうがはるかに低い。生物は、どうやらそうやって進化してきたらしい。

記憶がアテにならないのは、人間の仕様なのだ。仕様をしっかり理解しておかないと、運用は破綻する。

暗記とはキャッシュを貯めこむこと

だから、記憶に頼るような生き方をひとはすべきではないし、実際、日常の生活の中ではそんなことはしていない。であるのに、学校教育で暗記を強要するのは奇妙だ。建前上は暗記項目は驚くほど少ない。けれど、学校教師は特に求められてもいないような細部にわたってまで暗記を強要する。

なぜなら、暗記することはスピードアップにつながるからだ。たとえば二次方程式の解の公式というのがあるが、中学3年生程度の二次方程式であれば、あんなものは暗記しなくったって方程式は解ける。ただし、解の公式を暗記していなければ、解法に相当な手間がかかる。その手間のかかる手順をいちいちその場で考えていたのでは1題解くのに何分かかるかわからない。その時間を短縮するためには、その手順を暗記するしかない。同じ暗記するのなら、そういうややこしい手順を暗記するよりは、解の公式ひとつ暗記したほうがマシだろう。結局は、解の公式を暗記することが唯一の方法として残ってしまう。もしもスピードということを優先するなら、だ。そして、入学試験をはじめとして一般にテストでは、スピードが勝敗を分ける。ならば、暗記しない手はない。

けれど、そうやって暗記した解の公式、ほとんどのひとが忘れてしまうのではないだろうか。理科系なら高校数学では必須のツールだし、文系でも数学を必要とする大学受験生は忘れてはならない。けれど、数学を回避して大学に進むこともできるのだし、大学に入ってしまいさえすれば、家庭教師のバイトでもしない限りは使うこともないだろう。事実、工学部にいた私でさえ、解の公式なんてきれいサッパリ忘れていた。その後、問題集の編集を業務とするようになって改めて覚え直したが、その現場から離れて数年もするとまた忘れてしまっていた。忘れてしまっても差し支えないことは、人間、覚えていられないものらしい。

つまり、スピードアップのために行う暗記は、基本的にスピードを確保する必要がなくなった時点で重荷になる。それを保持し続けるメリットがないから捨てられる。これって、パソコンのキャッシュと同じだなと思い当たった。

キャッシュは、元データへのアクセスにかかる手間を省くためにシステムに一時的に置いておくデータだ。Webブラウザなんかでは、リモートのサーバーにアクセスすることで起きるタイムラグを回避するため、けっこう大量のキャッシュを貯めこんでいる。こいつが貯まりすぎると、パフォーマンスがかえって落ちてくることがある。ときにはエラーの原因になったりもする。だから大抵のブラウザにはキャッシュのクリア機能がついている。また、安物のスマホなんぞを使っていると、もともと少ない記憶領域がキャッシュデータに圧迫されてなくなってしまうこともある。そうなったらやっぱりキャッシュのクリアをおこなわなければならない。

人間だって同じで、大学で専門分野の勉強を始めたら高校時代の余分な暗記項目は捨ててしまうほうが頭の回転が早くなるだろう。社会人になったら、大学時代に暗記したことは捨てるべきだ。そうしなければとても新しいことに対応はできない。春四月、いまはキャッシュクリアの季節なのかもしれない。

キャッシュはクリアしても困らない

あっさりと学んだことを捨ててしまうのなら、いったい教育の意義はどこにあるのだろう。暗記こそが学習だと思っていては、この問題は解けない。しかし、人間の記憶はおよそ不確かで信頼するに足りないという立場に立てば、その記憶にいくらの情報を貯めこんだかなんてことは、およそ教育の成果とは無関係だということがすぐに納得できる。じゃあ、教育によってひとは何を身につけるのかというと、それは思考方法だ。情報を元に命題を組み立てていく能力だ。

そういう能力は、暗記では身につかない。「思考方法」と言ったときに、「じゃあその方法を暗記したらいいんでしょう」とはならない。なぜなら、それは数学の問題の「解き方」のようにパターン化できるものではないからだ。「二択を迫られたら第三の選択肢を提示せよ」みたいな公式をいくら覚えたって、それは思考方法を身につけたことにはならない(Thanks to id:hndkjさん)。思考方法とはもっと身体的なものだ。ひとが歩き方の理論を知らなくても歩けるように、思考を繰り返すことによってその理論は知らなくても使えるようになる。もちろん、「こういう体重移動をしたらもっと疲れないよ」みたいな理論で歩き方が向上するように、考え方のヒントで思考方法が改善することは実際にある。ただ、ベースになるのはひたすら練習で、練習する素材としてさまざまな知識が必要になる。

だから、学校で暗記することは、テンポラリーなキャッシュでかまわない。それを使い回すことで、システムそのものの性能が向上する。人間がパソコンとちがうのは、成長することだ。使い込むことによってアップグレードが自動で行われる。そういうアップグレードを教育というのだと思う。

それでも必要なデータセットは圧縮すべき

キャッシュは捨ててしまっていいのだけれど、それでは記憶領域に何も置いておく必要はないのかといえば、それもまたちがう。基礎となるデータセット、常に参照する必要のあるデータセットは、キャッシュとは別の意味で記憶領域に保存しておく必要がある。算数・数学の基本的な演算法則や、日常的な言葉の語義、ごくごく基礎的ないくつかの用語なんかは、やっぱり忘れてはやっていけない。

ただ、人間の記憶は非常に曖昧で頼りにならない。そして、その記憶は、量が増えれば増えるほど混乱するという特性をもっている。だから、記憶すべき情報の量はできるだけ絞り込むべきだ。まるで1980年代のパソコンのプログラムのように、削れるところはできるだけ削って情報量を倹約すべきだ。

だから私は、九九を全部覚えるのは記憶の浪費だと思う。乗法の交換法則という情報の展開方法をひとつ記憶するだけで、九九は半分だけ覚えればそれで十分になる。あるいは、「乗法とは加法の回数を指定する演算である」という根本的な定義を用いれば、実は九九は一切覚えなくても掛け算はできる。しかしそれでは実用速度が出ないので、九九を間引いて覚える。たとえば7×6=42という計算を暗記していれば、7×7=7×6+7=42+7=49と、ごく簡単な計算で失われた情報を復元することができる。

というような理屈を意識していたわけではないが、結局私は小学校2年のときに九九を完全に覚えられなかった。かなりいいセンまでは行ったのだが、あの表を見ると目がチカチカしてどうにもやってられず、8割がた覚えたところで断念した。そして、そのうちのかなりの部分をあっという間に忘れてしまったが、それは、忘れても何の不自由もなかったからだ。ただし、九九のうちの4割ぐらいは記憶に残った。それは、実際にそれを使っていたからだ。最終的に、九九は一部分だけしか覚えていない。いまだに7×3があったら「さんしちにじゅういち」とやっている。「しちさんにじゅういち」は、先に「さんしち」を言わないと出てこない。それで何の不自由もない。

こんなことを書こうと思ったのは、こちらの記事を読んだからだ。

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私から言わせれば、九九を全部覚えないいのは非常に合理的なことだ。記憶は思考と組み合わせなければ意味はない。そして思考力の中にはさまざまな情報圧縮・展開ツールが仕込まれている。それを使うことで保存領域を節約することは、十分に意味がある。なにせ、ハードウェア仕様から言えば、人間はここ何万年もたいしたアップグレードを受けずにいるのだから。