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シアワセの容相

あしたはこっちだ

「教育勅語を教材に」は、もちろんあり得る

私の祖母はもうずいぶん前にこの世を去っているのだが、私をずいぶんとかわいがってくれた。その祖母が小学生だったか中学生だったかの私に向かって話してくれた言葉を思い出す。

「じゅんちゃん、なんでも覚えといたらええんやで。覚えて悪いことは泥棒だけや。覚えといたらきっと役に立つ」

その当時から雑多な知識ばかりでちっとも系統だった勉強をしなかった私にとって、この言葉はずいぶんと救いになった。まあ、そのせいでこの歳になるまで人生の裏街道を歩み続ける結果になったといえばそうなのかもしれないが、それはそれでずいぶんとおもしろいことでもあったから、恨み言は言わない。

泥棒のことはさすがに学ばなかったが、実際、私はずいぶんといろんなことを学んできた。違法ではなくてもどうにも怪しいような文書の辻褄の合わせ方とか、そんなこともいくつかの職場で経験した。その一方で、高邁な思想や思慮深い分析、学術的に価値のある講演なんかも聞いてきた。それらは全て、私の役に立っている。

ただ、脱法行為が私を犯罪者にしなかったのと同様、価値ある思想や知恵が私を賢者にすることもなかった。しょせん、外部からのインプットは素材でしかない。それをどんなふうに血肉に変えていくのかは、本人の器量だ。あるいは、器量をつくっていく教育というものだ。

 

だから、教育のための素材、つまり「教材」には、あらゆるものがなり得る。厳選されたベストのものだけが教材に適しているという考えは、ちょっとおかしい。小学生が平仮名の練習をするときにはきれいなお手本が必要かもしれないが、同時に下手くそな見本もあれば、それを回避するためにどうすればいいのかを教えることもできる。モノは使いようであって、モノそのものが問題ということは、ふつうはない。

なぜこんな話をはじめたかというと、少し前、文部大臣の「教育勅語を授業に活用することは、適切な配慮の下であれば問題ないと思います」という発言が話題になっていたからだ。そりゃ、問題ないと思うよ。実際、歴史の授業では(そこまで突っ込んでやる時間があるかどうかはわからないけれど)教育勅語の原文を生徒に読ませるぐらいのことはやってもいいと思う。ただし、どうもこのときのやり取りは、そういうことではなかったようだ。

松野博一文部科学大臣記者会見録(平成29年3月14日):文部科学省

このやり取り、非常に興味深い。というのは、官僚的なソツのない回答と、どうみてもこのひとの個人的なデキが表に出てしまっているだろうっていう「おいおい、待てよ」的な回答が入り混じっているからだ。

たとえば、

教育勅語は、日本国憲法及び教育基本法の制定等をもって、法制上の効力を喪失しております。文部科学省としては、学校現場において教育勅語を活用することとした場合には、憲法教育基本法等に反しないような適切な配慮が必要であると考えております。

とか

まず教育勅語を、先ほど申し上げたとおり、憲法教育基本法に反しないように配慮をもって授業に活用するということは、これは一義的にはその学校の教育方針、教育内容に関するものでありますし、また、教師の皆さんに一定の裁量が認められるのは当然であろうかと思います。

とか

文部科学省としては、これも繰り返しになって恐縮でありますが、憲法教育基本法に反しないような配慮があって、教材として教育勅語を用いることは、そのことをもって問題とはしないという見解です。

とかの部分は、ご立派というか、そこだけ読めばまずは文句のつけようのない法治主義的な発言だろう。法律に違反しないように使うとか、法律の制限内での自由を認めるとか、よくわかってるよと思わせてくれる。ところがどっこい、

これは政治事項に関する中立等の話もありますし、まず何よりも憲法で規定されている精神でありますから、教育基本法の内容等に反する部分に関しての指導方法ということであろうかと思います。しかし、具体的には、私も繰り返しお話させていただいておりますけれども、個々の事案がそれに該当するかどうかは、所轄庁によって判断、指導されるものだと考えております。

というあたり、「おや?」と思わせてくれる。つまり、このひとは、教育基本法教育勅語を対立的に考えているわけだ。そう思ってみると、「憲法教育基本法に反しないように…活用する」ということが、別の意味で言ってるのではないかという気がしてくる。

つまり、現行の法体系に則って教育現場で「教育勅語を活用する」という意味は、あくまでそれを教材として利用するということでしかない。この場合の「教材」の意味は、「過去にこのような文書が用いられていた」という事実を伝えるものである。そういう意味では、非常に重要な教材だ。そして、そのような扱いをする限り、教育勅語の内容が教育基本法に反していようがいまいが、それは何ら問題ではない。

ところがそれをわざわざ問題であると認識しているということは、つまり、「教育勅語の活用」が、教育基本法を代替・補完するようなものとしてイメージされていることをあらわしているにちがいない。そう思って見直すと、先ほどの「一義的にはその学校の教育方針、教育内容に関するものでありますし、また、教師の皆さんに一定の裁量が認められ」のあたりも、ずいぶん怪しいものであるように見えてくる。つまり、教育の枠組みをつくるものとして法律以外の文書を「活用」することを認めているように読めてくる。これは、法治国家としてはちょっとあり得ないことではないだろうか。

そう思って読むと、

先ほど申し上げましたとおり、教育勅語を授業に活用することは、適切な配慮の下であれば問題ないと思います。それは一般論から言って、その活用の仕方、これはもう教師の教え方の問題であると思いますし、それは積極的に評価する、消極的に評価する、その項目によってそれぞれ違うものであろうかと思いますので、個々どれをもっていい、どれをもって悪いということは言及しませんが、いずれにせよ、その教えている内容が憲法教育基本法に反するということであれば、それは所轄庁の中で適切な指導がなされるものと考えております。

 

というあたり、まっすぐ読めばどうにも意味不明なのだけれど、これはもう、「教育勅語の内容を項目によっては指導方針の枠組みを形成するために使ってもよい」と言っているように受け取れる。それはもう、ダメダメだろう。なんとなれば、学校教員は、教員としての専門技能や見識以外には、ただただ法令によってのみ縛られる。教育関係の法体系は憲法に発して教育基本法、学校教育法、学校教育法施行規則と降りてきて最終的に学習指導要領となって現場に徹底される。だから、教員は専門知識の他には学習指導要領以外に自分を縛るものを持ってはならない。それ以外のもの、特に廃止された法令でもって教員を縛るのは、それはもう法治主義ではない。すなわち、上級法である憲法違反ということになってしまう。

 

ここで重要になるのが、教員を縛るもうひとつの規範、専門知識だ。「知識」と書いたが、すなわちこれは教員としての素養ということだ。いったい教員にはどのような素養が求められているのか。

これは実は、やはり現行の法体系にあらわされている。指導要領を読んでいると、現代の教育は基本的には科学的であるよう求められていることがわかる。これは、自然科学領域だけでなく、社会科学領域についても強調されている。

そして、科学的な態度の根本は批判精神だ。与えられたものをそのまま受け取るのではなく、批判し、検証し、確信が持てるまで熟慮したうえで受け入れるのが科学的な精神だ。指導要領は、あらゆる教材に対して学習者がそのような態度で臨むよう求めているのだと読み取ることができる。教員の素養とはそれを支援するため、自らも科学的な態度であらゆる教材に接することだ。

つまり、それが教育勅語であれ何であれ、まずは批判が先行しなければ科学的な態度ではない。そして、教育勅語を部分的にであれ全体であれ何らかの規範として受け入れるということは、その段階で科学的とは言いかねるだろう。なぜなら、教育勅語はその本質として一切の批判を受け付けないからだ。批判し、検証された段階で、勅語勅語でなくなる。君主の言葉とはそういうものだろう。

 

では、憲法教育基本法、さらには学習指導要領はどうなのか。現行の法体系は、無批判に受け入れるべきなのだろうか。私はそうは思わないし、実際、自分自身が家庭教師として生徒に教える際にはそうはしていないつもりだ。

生徒によって一律ではないのだけれど、たいていの中高生に(場合によっては小学6年生でも)私はまず指導要領を教える。そのために数学と英語の指導要領は常にカバンの中に持ち歩いている。そして、「こういう目的のためにこれからこういうことをすることになる」と、教科のあらましを説明する。ふしぎなことに、学校ではこういうことをしてくれない。だから家庭教師がやるしかない。

その説明は、相当にいちゃもんの多いものになる。現場で教えていると、どうしたって指導要領の無理なところが見えてくる。そういうところも包み隠さず話す。そしてその上で、最終的に、それが学校教育の枠組みになっていることを納得してもらい、そして教えはじめる。批判をして、その上で、受け入れる。

民主主義国家の法律は、不変のものではない。それは、代議制の合意のもとで変更可能だ。変更可能なものは、批判に耐える。批判にもとづいた改正が期待できるからだ。すぐに変わらなくてもいい。変えていける可能性があるから、おかしなところをおかしいということが意味を持つ。

先々変更できないものは、そうではない。批判は愚痴にしかならない。そんなものに意味はない。そして、詔勅、勅令、勅語のたぐいは、基本的に変更を受け付けないものだ。綸言汗の如しである。それが君主制だ。そして、君主制は科学主義と相性がよくない。科学主義と民主主義は、表裏の関係にある。だからこそ、民主主義を標榜する憲法下での教育は科学的であることを要請するのだろう。

 

私は、科学万能主義を信奉しない。どっちかというとアレな異端者である。民主主義だって胡散臭いものだと思っている。もっとマシなものがどこかにあると信じている。しかし、それは少なくとも、科学主義、民主主義の先にあるものだと思う。そこを乗り越えた未来に何かもっといいものがあると信じているだけで、それ以前の過去に戻るべきだとは思わない。

だから、過去のことをネタにするのはOKだと思うが、そこに戻ることはあんまりだと思う。ま、人間なんて愚かなもので、前に進んだつもりが実は後戻りしているだけ、なんてこともあるのかもしれないけど。

 

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追記: やっぱり政府のオッサンらの考えてることは、せっかく役人が矛盾せんように工夫してタテマエ論でおさえようとしたことを遥かに超越する。こんな報道があった。

www.tokyo-np.co.jp

これは、あかんわ。この記事、書きなおさな。

 

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再追記:ということで、別記事を書いた。

mazmot.hatenablog.com