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シアワセの容相

あしたはこっちだ

プロは信頼しても、やっぱり安心はできないという話

家庭教師の仕事をやっていると、けっこうな確率で学習障害(LD)に出くわすことになる。家庭教師というと「難関校受験対策のために金持ちが雇うもの」というイメージがあるかもしれないが、実際にはそういうケースはそれほど多くなく(もちろんある程度の比率を占めるのは事実だが)、最も多いのが「平均点もとれない子ども」であり、その極端なケースとしての学習障害者だ。ちなみに家庭の収入も決して高所得者に偏っているわけではなく、余裕のない収入の中から教育費を捻出しているらしい生徒家庭もけっこう珍しくない。だが、そのあたりは推測の域を出ないし、また別の話。

学習障害とは、公的な定義によると

学習障害とは、基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態を指すものである。
学習障害は、その原因として、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定されるが、視覚障害聴覚障害、知的障害、情緒障害などの障害や、環境的な要因が直接の原因となるものではない。

主な発達障害の定義について:文部科学省

ということになる。成績が低い生徒が学習障害というわけではないが、学習障害者に学校の成績が低い場合が多いのは、上記の特徴からわかるだろう。これが、家庭教師に持ち込まれるわけだ。

ちなみに、「けっこうな確率で出くわす」と書いたけれど、私は上記の定義に該当する意味での学習障害者を受け持ったことがない。同業の家庭教師と話していると、学習障害の話がよく出る。定義上は学習障害者ではないとはいえ、「学習障害の疑いがあります」と学校教師に宣告されている生徒は何人も教えてきた。だから、いつ定義上の学習障害者を担当することになっても不思議ではないと思っている。

ただ、本当の意味での学習障害者は、家庭教師ごときでどうにかなるものではない。このあたりのことは以前、「プロの家庭教師になってしまったら読む本」というささやかな電子本で、次のように書いた。

ここで注意しておかなければならないのは、これが何らかの医学的な障害によるものではないことを確認することだ。家庭教師は指導のプロであるかもしれないが、特別な研修をしたとかその分野で経験があるとかいう場合を除いて、障害者教育に関しては素人である。素人が生兵法でおかしなことをするべきではない。ほかの教科でもそうなのだが、基本的に家庭教師は学習障害者の指導はすべきではないと思う。それはその道の専門家に任せるべきだ。確定診断のついた学習障害者ではないことは、契約前にはっきりと確認しておかねばならない。あるいは、診断がついた上で医師が家庭教師をつけることを推奨したのであれば、医師の所見・意見を確認して自分ができることとできないことをはっきりさせておく必要がある。

ただし、

とはいえ、学校の教師が自分勝手に「学習障害かもしれません」と言ったとか、親が気を回して「この子は学習障害らしいので」などという言葉は基本的に信用してはならない。たいていは単なるレッテルに過ぎない。だから、自分でかんたんなテストをしてみるべきだ。その結果、多くの場合は「学習障害ではない」と自信をもっていえるだろう。そうでない場合は、もちろん家庭に相談して医師の受診を勧めるべきだ。妙な気を遣って、正しい対応ができない状態に放置すべきではない。

ということも事実である。どうやら学校教師は、自分の指導の失敗を学習障害のせいにして問題を棚上げにしてしまう傾向があるらしい。このあたりのことも含め、学習障害に関しては、以前、こっちにも書いた。

suzurandai.weebly.com

家庭教師を含め、教科指導が専門の教師は、通常は障害者教育・支援の専門家ではない。専門家であればベストなのかもしれないが、そこまでやってられないというのが正直なところ。ただし、非専門家であっても多少の知識はあるべきだ。だから、「学習障害の疑いがあります」で放置するのはおかしな話で、簡易なスクリーニング(例えばこの程度のものはすぐに出てくる)を実施して必要に応じて医療機関への紹介を実施すべきだ。それもせずにいたずらに「学習障害かもしれませんので注意してください」と親や本人に責任をなすりつける学校教師のやり方は、(上記記事と重なるが)どうにも気に入らない。その結果として呼び出されるのが家庭教師なのだから、これはまったくのところ他人事ではない。

 

とまあ、文句は文句として、実はそれだけで話が終わるわけではない。本題は、スクリーニングをやって、シロならばそれでよし、引っかかるようなら医療へと、きれいに2つに割り切れるものではない──そこが悩ましいところ、というお話。

どういうことかといえば、つまり、学習障害とか自閉症とかADHDとかいった障害は、スペクトラムと呼ばれるぐらいに幅が広くて、そして、連続している。典型的な学習障害者ははっきりと「ああ、これは普通の指導法じゃ意味ないな」ってわかるのだろうが、そこまでいかないけれどスクリーニングの項目にはけっこう当てはまって、「境界型かなあ」って生徒はいる。そういう場合、自信をもって「学習障害じゃない」と判断しても、あるいは(いままでそういうことはなかったのだけれど)医師の診断を勧めても、やっぱり割り切れないものは残る。なぜなら、連続しているところに、人為的に決めた境界線をひくわけだから、その近傍では、「本当にこれが正しい判断だったのか」ということについて、常に疑問がつきまとうからだ。

これはなにも、診断基準に関して異議があるとか、そういう話ではない。あるいはそこで一刀両断にする行為に対する異議でもない。もしも私が専門家だったら、迷わず、診断基準を満たしたものに関しては確定診断を出すだろう。それが専門家の役割だ。診断が確定したら、それにもとづいて処方をする。特別な支援教育が必要なら、それを手配することになる。そのことに対して何ら疑いはない。

ただ、それでもなお、それがその個人にとってベストの選択であるのかどうかということに対しては、やはり確信を持てない。そのぐらいに人間は多様で、そして物事の帰結は不確実だ。

たとえば、軽度の学習障害は、けっこうふつうに乗り越えることができる。振り返ってみると私には、ちょっと学習障害の傾向があったようだ。実際、九九をいまだに完全には覚えていない。小学校のときに苦労して何度も口誦したが、どうしても出てこないものが何箇所かあった。自分自身の能力のなさに絶望していたのだけれど、乗法の交換法則を使えば半分覚えるだけで実用上はまったく問題がないことに気がついてからは、それ以上の努力を放棄した。大量の数値が並んでいると目がチカチカして見ていられなかったし、左右はかなり長いこと混乱していた(だから鏡像文字を小学校高学年まで書いていた)。けれど、最終的には工学部に進学することができたわけだし、その後はあろうことか問題集を作ったり、さらには学習指導までやることになった。

そんなふうに、軽度のものであればたいした問題もなく乗り越える(あるいは回避する)ことができるのが学習障害だ。じゃあ、どこまでが「軽度」なのか。確かにどこかで線をひくことはできる。だが、連続した程度の変化の中にひかれた線一本で、なにかが根本的に変わるのだろうか。そんなわけはない。線の向こう側の人だって案外と軽快に障害を乗り越えられるのかもしれないし、線のこちら側にいたってうまくいかないのかもしれない。それは個人の資質だけでなく、周囲の環境や運のようなものにも左右されるだろう。時間が解決する部分も、決して無視はできない。そういう要因をプラスにもっていけるかマイナスにしかならないのかもまた、個人に固有の諸条件に依存する。単純な診断基準でそれらの全てを予想することは不可能だ。

だから、たとえそれがプロによるまちがいのない判定であったとしても、それによって行われる対応策に関しては、常に「これでいいのかなあ」という割り切れない思いがつきまとう。これは、事例を多く知る専門家であればあるほど感じることではないかと思う。

 

それでもプロは、そんな不確実な未来を相手にベストを尽くさねばならない。プロというのはそういうものだ。そして失敗もする。失敗のない仕事なんてものはない。予期しない結果、予期したことと正反対の結果が出ることもあるだろう。それでもやらないよりはやったほうがいい。そのぐらいの覚悟でプロは仕事をしている。プロに任せることは、そこまでの幅を含めてのことだと心得るべきだ。

だから、私は何事であれ、「プロに任せれば安心」という気持ちにはなれない。特に、それがLDやAutism、ADHD、あるいはその他さまざまな人間の精神に関わることであれば、たとえ専門家が適切な対処をしているのだということがわかっていても、やっぱり「本当にそれがよかったのかなあ」と思わずにいられない。だからどうすることができるのだと問われても何も返せないのだけれど、気持ちは割り切れない。ただただ、当惑するばかりだ。

 

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この記事は、こちらの記事

note.mu

につけたブコメに対して id:bottomzlife さんから

性の悦びおじさんを笑った人へ|yuzuka|note

id:mazmot なに言ってんだかわからん。反知性主義? 単にその分野の仕事を一生懸命やってる人のほうが向いてるってだけの話だろ/id:abcd0035 じゃあ、おまえのアヌスの動画もおもしろいから公開しろ。PIPで顔も映せよ

2017/03/13 23:09

b.hatena.ne.jp

というコメントをもらったことをきっかけにいろいろ考えていたことからできた。ちなみに、元記事に対する他のブコメを見ているとどうやら元記事の方にも何らかの事実の誤認があるようだが、もともと私はそこで取り上げられている事件に関しては過去の報道を含めて何も知らないので、論評する立場にはない。ただ、元記事がかなり一生懸命に、奥歯にモノの挟まったような言い方に聞こえながらも、伝えようとしているところには共鳴した。そして、そのモノの挟まったような感覚がどこからきているのかなと思ったときに、実はプロである元記事筆者そのものが、そのプロの仕事の限界をよく知っているからではないかなと思った。そんな思いつきをメモしたコメントではあったのだが、外部から見ればそういう読み取り方はできなかったのだろう。

反知性主義」というような大層な言葉も頂いたが、私が反知性主義だったら、本物の反知性主義が顔を赤らめて逃げ出してしまうだろう。「知性」に関して何らかの疑義がないわけではないが、どっちかといえば反知性主義の反対側に位置するのが自分だと思っている。定義に当てはめていっても、私は反知性主義者ではないと思う。ま、他の人がどう呼ぼうとかまわない。ただ、本物の反知性主義に対して、気兼ねをしてしまう。

なんにせよ、しばらく書けなかったブログにネタを提供してくれたブコメ主には感謝するしかない。