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シアワセの容相

あしたはこっちだ

「破棄ってくる」は、さすがにわからなかった - 通じない言葉をあえて使う意味

いまの若い人には信じられないかもしれないが、ほんの50年ほど前にはまだ「汚い方言はやめましょう。正しい標準語を使いましょう」というのが正義としてまかり通っていた。学校教育ではもちろん、家庭内でまで、伝統的な言葉の使い方は忌むべきものとされた。全ての学校、全ての家庭でそうだったというつもりはない。少なくとも私の家では父親の河内弁は許容されていたし、子どもが子ども同士で地元の言葉で遊んでいるところまで咎め立てはされなかった。しかし、フォーマルな場所では、やはり「標準語が正しい」的な空気があった。地元文化へのこだわりが強い大阪でさえそうだったのだから、他の地方ではもっと同化圧力は強かったのではないかと思う。さすがに「方言札」のようなものは目にしたことはなかったが、教師が直接形で「標準語を使いましょう」と指導していたのは覚えている。もちろん「それがおかしい」と反発している教師も、子どもの目から見てもいることはいたけれど。

なんでこんな話をしているかというと、言葉というのはもともと限られた地域やコミュニティの中でしか通じないものだったのだろうと、改めて思わせてくれるような記事を読んだから。

anond.hatelabo.jp

書かれたものとして読むから、そして前後関係がしっかり書かれているから、私はこの店員の言葉を理解するのに困難はなかった。が、もしも実際にそういう言葉で話されたらこの高齢の元校長と同様、「はぁ?」となったかもしれない。そのぐらい、この店員の言葉は標準的な日本語から外れている。

とはいえ、それが言葉として使えないものかといえば、おそらくはそういう言葉のほうが通じる人々が数十万人から数百万人ほどもいるわけで、それは立派にひとつのコミュニケーションツールを成している。ちょうど、テレビで漫才がブームになり、全国に大阪弁(もしくは大阪弁もどきの関西弁)が広まる以前の大阪弁使用者ぐらいの人数はいるはずだ。

そう思ったとき、半世紀ほど前の、たとえば東京で、あえて「通じない言葉」である大阪弁を使うようなシチュエーションとしてどんなものがあったのかなあと、変な方向に想像が走り始めた。前提として、話者は一応は標準語を使うことができる、とする。標準語は戦前からかなり強くプッシュされていたようだし、ラジオ放送以後は全国で耳にすることができたわけだから、半世紀前ならよっぽどの高齢者でもない限り、大阪人でも大半は標準語を理解し、それなりに喋ることはできたはずだ。それでもあえて、大阪弁を使う。それもそれが通じないことがはっきりしている場所で使う。どういう状況か?

すぐに思い浮かぶのは、ヤクザ映画だ。「おんどりゃー、なにぬかしとんねん!」と、凄みをきかせるために大阪弁を使う(これは広島弁かもしれないけれど)。あるいは、「おまはんらには、わからしまへんやろな」と鼻で笑う。相手との差異をあえて言葉で表現する。こういうのはあったかもしれない。

 

しかし、振り返ってみて、(半世紀前よりはだいぶこっちだが)二十歳そこそこで東京に出た私は、そういう格好のいい大阪弁はついに使わなかった。まあ、ヤクザじゃないからね。郷に入れば郷に従え、学校やバイト先など、フォーマルな場所では学校で習った標準語的な使い方を心がけた(それでも「関西訛り」みたいに、特に最初の数年間は言われた。そりゃしかたないわ)。ただ、それは堅苦しい感じで嫌だった。

だから、親しくなったひとと喋るときなんかは、よく大阪弁(というよりも標準大阪弁が少し混ざった河内弁と学校言葉が入り混じった当時の大阪の若い学生の使っていた言葉)を使った。そのほうが本当の自分が出るような気がした。そして、相手が理解しないときには、改めて標準語で言い直したりもした。なんだ、この記事のコンビニの店員と同じじゃないか。

 

結局のところ、言葉はコミュニケーションツールであるとともに、アイデンティティだ。ツールとしては、いくらでも使い分けができる。特に書き言葉だったら、私はいろんな文体を使うことができる(らしい。ずいぶんむかし、あるブログの読者にそう言われた)。もうだいぶん錆びついたが、若い頃には大阪人としての素性を一切わからせないような無国籍的日本語を喋ることもできた。私だけではない。中学生のうちの息子でさえ、時と場合で言葉を使い分けている。最近の若い人のなかには私よりもずっと正しい敬語を使うことができる人だっている。外国語まで含め、さまざまな場面でさまざまな言葉を自在に操る達人もいる。しかし、おそらく自分自身が最も落ち着く言葉、自分自身が独白するときの言葉は、たぶんひとつだ(もちろん時間とともに変化することはあるとして、ある一時点ではひとつだと思う)。それがアイデンティティとしての言葉である。それが、自分自身だという気がする。意識は言葉で表現される。思考は言葉で組み立てられる。だから、自分自身をさらけ出したいときにはその言葉を使う。ほぼ無意識にそうする。

 

言葉を学ぶとき、その目的はほぼ「コミュニケーションツールの獲得」であると言っていいのではないかと思う。新たな言語を獲得することは、通常は、自分自身のアイデンティティをその言語に同化させることではない。アイデンティティはそのままに、オルタナティブなコミュニケーション手段を身につけることだ。だから、学ぶ言葉は通じることを主目的にしてかまわない。特に、外国人である日本人が英語を学ぶときには、まずは一般に通じる表現を身につけるべきだと思う。

よく英会話系の情報で、「そんな言い方、だれもしませんよ。いまの若い人はこういうふうに言うんです」みたいなネタが流れてくる。そういう言葉は上記記事のコンビニ店員の言葉のように、ふつうの英語とはまったく異なって聞こえる。「それが本当の生きた英語です」みたいな、ちょっと自慢めいたセリフもよく聞く。だが、仮にそういう言語体系をアイデンティティとしている人々が数百万人、数千万人いたとしても、そこに同化していく方向を目指すのは、外国人としてはちがうように思う。そんな若者やマイノリティグループの人々も、やっぱり標準的な英語を読み書きするし、こっちがそれしか使えないとわかったら、ちゃんと同時通訳しながら喋ってくれるはずだ。外国人は、まずは標準的な英語を勉強すべきだろう。たとえそれが、誰もそんなものをアイデンティティとしてはいないような無色透明な言葉であったとしても、コミュニケーションの第一歩には十分に役立つのだから。

 

そんなことも思った記事だった。いや、単純に面白かったと、それだけでよかったんだけどね。