図書館の本は待って読もうよ - マックで女子高生ならぬ、ファミレスで女子中学生の話題に反応して

図書館の歴史は古い。「図書館」といえば少し意味が狭まるが、ライブラリ、つまり情報を蓄積した場所ということならば古代メソポタミアの粘土板の時代まで遡るそうだ。情報が紙に記載されていた時代には図書館は当然紙の文書の保管庫であり、教会や大学のような研究機関には欠かせないものだった。それを利用できるのは当然リテラシーのある人に限られるので、図書館はもともと限られた人々のためのものだった。それが時代が下って、識字率が向上し、また社会教育の必要性が重視されるようになって、だれもが自由に利用できる現代的な図書館が一般化した。

というような通りいっぺんな歴史はさておいて、なんで図書館みたいなものが存在するのかといえば、それはそもそも本というものが、常時利用されるものではないからだと言えると思う。どういうことかといえば、1冊の本は数十分から長いものでも数時間、難読の書物でも数日以内に読み終わる。読み終わった本は、後日読み返したり参照することもあるから、すぐに廃棄されるものでもない。読まれないまま蓄積されていく。必然的に、本というものは読まれていない時間のほうが長いものになる。そこにあるけれど、利用されていない。そういうものであれば、所有者以外の人が利用してもなんの問題もない。ていねいに扱えば減るものではないのだ。だから、本というメディアの形態は、その特性として回し読み、最終的には図書館の存在を必然的に生み出すのだと言えるだろう。

というようなことを考えるのは、私自身が小さな図書館らしきものを運営しているからだ。「らしきもの」というのは、おそらく正式な意味での図書館の定義は満たしていないからだ。誰でも自由に利用できるし、貸し出しもする。ただし、利用者は近所の子どもに限定されていて、しかも知人その他の関係者以外の利用は年間を通しても10人以下だ。蔵書の千冊余は決して多くもないし、内容も偏っている。それでも、自宅の門にひっそりと「子どものための図書室」と看板をあげ、一室をいつでも利用できるようにしてある。

なぜこういうことをしているかというと、「そこに本があるから」だ。詳しくはこっちに書いてあるが、商売柄、子ども向けの古本を大量に買い込んだ。この本をただ置いておくのはもったいないので、誰でも読めるようにしたいと思った。そういう動機で図書館をつくってみると、「なるほど、図書館というのは本があるからできるんだな」と、上記のような理屈が素直に納得できる。ま、司書の方とか、プロフェッショナルからいえばとんでもない意見なのだろうとは思うが。

 

そんなふうに図書館について改めて思ったのは、こちらの記事を読んだから。

cild.hatenablog.com

上記のように素朴に「本があるから図書館ができる」理屈からは、この中学生の考え方は意味不明になる。なぜなら、そもそも図書館の本は「誰も使っていないときには誰かが使ってもいい」という発想でできているわけだから、「誰かが使っている」なら当然使えない。順番待ちが発生するのは当たり前で、それが嫌なら自分で本を買えばいい、ということでしかない。

しかし、現代的な図書館には、もちろんそれ以上の意味がある。社会教育機関としての性格だ。本を読むことは教養の第一歩なのだから、読書の機会の少ない人々に広く読書の機会を与えることは社会的に意義がある。そう考えれば、本を購入する能力のある社会人よりは、その能力に劣る中学生を貸し出し対象として優先すべきだという考え方も、あり得なくはない。

ただ、ここでもうひとつ思うのは、「その本はいったいどういう本なのか」ということだ。この記事からではわからないが、もしも話題の新刊のようなものだったら、やっぱりそれは、図書館を利用する以上、返却待ちして読むべきものではないのだろうか。このあたりもよく議論になることであるのだが、図書館がベストセラーを何冊も揃えて貸し出し需要に対応することについては、批判が多い。その根拠はそれが本の売上を損なうからというのから、すぐに余剰蔵書となるのが目に見えているのにそこに予算を割くべきではないという現実的な議論までさまざまだ。個人的にはそもそもベストセラーを追いかける読書に興味がないので、やっぱり図書館は話題の新刊のようなものはあまり追いかけないほうがいいと思っている。

もしも件の中学生の借りたい本がそういうものだったとしたら、それは原則に立ち返って、何ヶ月でも待ちましょうというべきかなあと思う。その上で、もしもそうでないのなら、やっぱり少しだけは待つべきじゃないかと思う。というのは、人気のない本にそれほどの待ち時間が発生するわけはなく、いくら長くても2週間ぐらいのうちには手に入るのだから。

このインターネットの時代、欲しい情報が即時に手に入らないのはもどかしいことかもしれない。けれど、読書というのは、もともと気の長いものだ。そして、気の長い楽しみから得られることも少なくないと、私だったら若い人にそう伝えたいなと思う。