読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

シアワセの容相

あしたはこっちだ

アタマが良くなるクスリはないのだけれど…

学校のテスト、特に中学校や高校の試験は、点取りゲームに過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。それが掛け値のない現実。だから、テストのための勉強というのはつまりはゲームでハイスコアをとるためのトレーニング。だから、それがその人の知性に対して何らかのプラスになることは、ふつう、たいしてない。もちろん、つまらないネットゲームでもフリックが早くなるとかタッピングが正確になるとかいったメリットが生じる場合はある。あるいは、戦国時代の武将の名前にやたら詳しくなったり、もともと地名である巡洋艦の名前を知って地理に強くなるなどの副次的効果がある場合もある。けれど、ゲームはどこまでいってもゲームであり、ハイスコアを叩きだしたからえらいというのはゲーマーの間だけで通じる歓びでしかない。つまり、本質的な意味は、そこにはない。

もちろん、テストというものは、そういう目的で行われるものではない。目的は、学力の測定。それもまた、疑いようのない事実にちがいない。このあたりの分析は、以前にも別ブログに書いた。

suzurandai.weebly.com

テストとは何でしょうか? (中略)
テストを出す側からいえば、この問いに対する答えは明瞭です。それは学力の測定であり、学習内容の理解度の確認です。学習した内容を正確に把握していればテストの問題には正解できるはずですから、当然のように点数が高ければ理解が十分、点数が低ければ理解が不十分だと判断できるわけです。入学試験などのふるい分けのためのテストであっても、この原則は通用します。それまでに学んだことをしっかりと身につけている生徒を入学させたいわけですから、能力を判別するためのテストで点数が高いほうを選ぶのは当然のことになるわけです。
しかし、視点を変えれば、物事の性格は変わります。生徒にとっては、テストは点取りゲームです。あらゆる意味において、学校ではテストの点数が高いほうがいいのですから、「どうやって点数をとるか」ということがテストのすべてになります。(中略)

さて、テストに対する全く異なった2つの捉え方、どちらが正しいわけでも誤っているわけでもありません。どちらも、現実に学校で行われているテストの実際です。ただし、ここでやってはいけないことがあります。この2つを重ねあわせてしまうことです。

繰り言のように同じことを書くのも芸はないのだが、やっぱり世の中のかなり多くの人は、この2つの現実を1つのものとしてしか見ていないのじゃないかなと、思うことがよくある。それは、こういう記事を読んだとき。

toyokeizai.net

この記事の結論部分は、なるほど、そうだなと思わせてくれる。実際、「考える」作業をしていない生徒は伸びない。だが、「考える」生徒(というよりもそういう若い人たち)が一律に学校の成績がいいのかといえば、そうではない。当然の話で、学校の試験は、生徒にそういう能力を求めないからだ。その現実は、同じ東洋経済オンラインのこちらの記事に如実にあらわされている。

toyokeizai.net

その両者の利害が一致したのが、「教育困難校」独特の慣習である「試験対策プリント」の存在だ。定期試験で出る内容をほぼ網羅した手作りプリントを生徒に配布するのである。試験前の授業で解答を説明するのはまだ良心的な教師で、試験前でも普段と変わらない生徒の状態に手間取って時間が足りなくなり、模範解答を配布するだけの教師もいる。そして、定期試験では「試験対策プリント」にある問題が、そのまま出題される。試験で求められることは問題の解答を考えることではなく、いかに「試験対策プリント」を覚えたかということなのだ。

 この記事の著者はこれを「教育困難校独特の慣習」と書いているが、実際にはこれは中学・高校を通じてほとんどの学校で程度を変えて行われていることだ。「100%それを覚えるだけでOK」というものはさすがに一部の学校だけなのかもしれないが、たとえば高校の場合、中堅校からやや上位の学校でも、プリントは配布される。そして、そこに書かれていることは、ほぼそのままテストに出る。そのままでなくとも、そのプリントに出ていることを暗記していれば概ね解けるような問題が出る。上位校では、指定問題集がある。その問題集の問題の該当範囲の問題を全て暗記すれば、それだけで優秀な成績がとれる。学校の教師も、そういう指導をする。試験前になると問題集の範囲を指定して、それを勉強するように指示を出す。学校の教師の指導通りの勉強すれば、成績が上がる仕組みになっている。

中学校でも概ね似たような状況がある。多くの学校では学校指定の傍用問題集というものが使用される。そして、高校受験の中3生を除いて、多くの試験ではこの傍用問題集からの出題がかなりの割合を占める。もちろん独自の問題を出してくる教師もいるが、そういう教師の多くは奇問・難問を出したがる教師なので、良心的とは言いがたい。生徒の学習の実態をきちんと見ていて学習進度にマッチした問題を選ぶ良心的な教師の多くは傍用問題集の問題もしくはその類題を出題する。そして、そういった問題には傍用問題集をちゃんとやっていれば概ね満足する点数がとれる。悩むことも考えることも必要ない。必要なのはひたすら手順を覚えこむ忍耐力のみ。

大人になるまでの成長期の人間に最も重要なことは考えること、悩むことであると思っている私から見れば、これは全くの時間潰しでしかない。知識は、必要になればいつでも追っかけて追加できる。最近は外部記憶装置に頼ることだってできる。けれど、考える訓練は、若いうちにやっておかなければ使い物にならない。付け焼き刃ではどうしようもないのが思考力だ。だから、上記のように学校でやっている「この中から試験問題が出るからよく予習しておくように」という指導は、本当の意味での人間の成長にとっては無意味どころか、考えるエネルギーを奪ってしまう有害なものだとさえ言えるだろう。

 

と、私は思うのだが、現実にそういうやり方が一般化していることを思えば、この私の考え方はよっぽど異端なのだと思う。そして、反論はほぼ予想できる。つまり、上記引用の「教育困難校」の百パーセント覚えればそれで済むようなプリントと、一般の学校のプリントや指定問題集、傍用問題集とは全く性格がちがうという反論だ。どういうことかといえば、これらの学校では、完全にそのままの問題ではなく、少しだけ変更を加えた問題が出されるのがふつうだ。数値を少し変えたり、境界条件を少し変えたり、あるいは複合させたりと、手を加え、「答え丸暗記」では対応できないようにしてある。だから、生徒は「答えを覚える」のではなく、「解き方を理解する」ことで準備しなければ点数はとれない。だから、学力は伸びるのだと、そういう理屈で反論されることになるのだろう。

つまり、そういう人々にとっては、試験対策のプリントを配布したり問題集を指定することが問題なのではなく、それを丸暗記すれば答えられるような試験を行うことが問題ととらえられるわけだ。だが、現場で若い人たちに数学やら英語やら理科やら社会やらを教えている身としては、それはちょっとちがうんじゃないかと言いたくなる。程度の問題、五十歩百歩、目くそ鼻くそを笑う類に過ぎないと感じている。

どういうことかといえば、多くの生徒が「解き方を教えてください」という態度で「勉強」というものを捉えている。あるいは、「何を覚えればいいのか、どう覚えればいいのか」という姿勢で学問を見ている。そして、「解き方」とか「ポイント」をなんとかして覚えようとする。そういう学習方法は、「答えの丸暗記」とどうちがうのだろう。確かに、答えの数値や文言を暗記することに意味はない。しかし、同じように、公式や解法テクニック、重要語句や文法規則なんかを覚えることにも意味はない。重要なのは、それらのツールを使って何ができるのかであり、あるいはそういったツールの原理を理解することであり、場合によってはそういったツールを自分自身で再発見、再創造する能力を身につけることである。覚えることは、学問ではない。

 

そういうことを言うと、「じゃあ思考能力だけで点数がとれますか? 解法を暗記することに意味はないというけど、それを暗記して使うことで思考力を鍛えるんじゃないんですか? 実際にそういう方法で大学の合格点がとれるんだから、それは思考力が鍛えられたってことになるんじゃないですか」と、受験生だけでなく教師の側からも疑義が出されるだろう。だが、そういう人々は、テストというものがどういうものだかを根本的に理解していない。冒頭に引用したようなことだ。

テストは、課題を出す側の意図と、受験する側の意図とが全く異なる。なぜなら、「能力を測定する」という出題者側の意図が、結果としては「受験者を選別する」という経済行為に結びついてしまうからだ。受験者としては選別の結果が有利になることを期待するのが当然なので、対策をする。それも、テストが単純に点数で評価されるものである以上、点数を上げる上で有効な手段であれば、それは必ずしも「能力を上げる」ことと同じでなくてもいい。たとえば、こんな記事がある。

juken-support.hatenablog.com

ここであなたに知っておいてほしいことは、 

  • 学校のテストでいい点数をとるための勉強
  • 学問として自分の知的欲求を満たすためにする勉強
  • 入試で高得点を取るための勉強

これら3つをまったく同じにしてはいけないということです。

それぞれのテストで出やすいところが違うからです。

一言で言ってしまえばそれまでなんですが、このことは最速で入試で高得点をとるための根幹となり最も重要な考えであると私はとらえています。

最速で入試で高得点をとるためには入試で高得点を取るための勉強をしなければなりません。 そのために最適な手段はずばり、

  • 過去問で勉強をする

 です。

実際、入試直前になって最も有効な得点対策は過去問の分析だ。過去問題から出題傾向をつかみ、出題内容をタイプ別に分け、自分が点数を取れていないタイプの問題に絞り込んで類題を飽きるほど反復すれば確実に点数は上がる。それは上記ブログで解説している英語だけでなく、ほとんどすべての教科に当てはまることだ。たとえば数学なんかは、最もこの考え方が有効な教科であり、高校入試、大学入試を問わず、そういう戦法でたたかえば、最後の追い込みで失敗することはまずあり得ない。

しかし、それでいわゆる「学力」がつくのかといえば、決してそうではない。上記引用のブログは英語について書いてあるわけだが、こういう対策で身についた能力が実際の英語力と等しいかといえば、決してそうではない。英語を使う能力は、実際にどれだけ英語を使ったかによって決まるのであって、それは読んだ英語の量、書いた英語の量、話した英語の量、聞き取った英語の量に依存する。「過去問対策」を通じて英語の読み書きを行えばそのぶんだけは確かに英語力の上昇につながるが、それ以上でも以下でもない。つまり、「過去問」は、あくまで「点取りゲーム」のスコアを上げるためだけに特に有効なのであって、英語という技能や学問にとって特別に有効なものではない。

同様に、上記引用で触れられている「学校のテストでいい点数をとるための勉強」、すなわち、配布プリントや指定問題集、傍用問題集を解いてその「解き方」を暗記することも、「テストでいい点数をとる」という目的には最適化しているかもしれないが、教科の内容を本当に自分のものとする上で最適化しているとは言いがたい。それでもそれはやるべきだ。なぜなら、生徒にとって学校のテストの点数は自分自身の評価であり、将来の人生に大きく影響する。一点でも多いほうがいい。だから、試験対策のプリントを配ってもらって「そこだけしっかりやっとけば大丈夫」というかたちをとってもらうのはありがたいことだし、指定問題集から出題されると教師に言われれば、それを真剣に理解しようとする。私だって、その支援はする。試験前には生徒と一緒になって、そういった教材がきちんと理解できるようにいろいろと工夫する。

しかし、そんな作業は、学習ではない。単なるハイスコアをとるための訓練であって、それでもって何らかのスキルがアップするわけでもなければ思考力が鍛えられるわけでもない。生徒にとってはハイスコアをとることが将来の利益につながるわけだから、そこを否定してはならない。しかし、教師が本当に追求すべきなのは、生徒の能力が豊かに成長していくことだ。その成長を支援するための学習活動を行うのが本来であって、ゲームのテクニックを教えるのはその余技に過ぎない。

 

ところが、多くの学校教師が誤解している。テストの点数が上がることと生徒の能力が上がることをイコールで結んでしまう。この誤解は、テストに対する教師の立場が「能力の検定」であるから生まれてしまう。

けれど、上述のように、テストの出題に特化した対策を行えば、能力をそれほど上げなくてもハイスコアを叩き出すことは可能なのだ。テストの点数が高いのは、生徒の能力が高いからなのかもしれないが、単純に対策を行ったからだという可能性だってある。それを区別することは、実は答案からだけ、点数からだけではできない。もちろん、それを区別するために出題内容を工夫することは可能になる。けれど、それをやったら、今度はそれに対する対策が生まれる。イタチごっこだ。実際、中学入試の問題の多くは、そういうイタチごっこの中で発展してきた。だから、相当に捻くれた特殊な世界になってしまっている。対策は相当に複雑化している。しかし、完全に対策を無視したら、実は素直にいい問題だったりする皮肉がそこに込められている。

ともかくも、どうしてもテストをしなければならないのなら、せめて、それが本当の能力を測定していない可能性を含んでいるのだということをはっきりと自覚しておいてほしい。ところが多くの教師がそれを認識していないどころか、むしろ、本当の能力以上に、「対策をしっかりしたかどうか」を評価するというとんでもない基準をもってしまっている。おい、それはちがうだろう!

 

配布プリントや指定問題集、傍用問題集を多くの教師が使用する実態の背景には、こういう巨大な誤解が横たわっている。そういうものを使い始めたら、テストの点数は生徒の理解力、思考力以上に、その生徒がどれだけ真面目に対策をとったかによって決まってしまう。そして、教師はそれこそが評価のポイントだと錯覚している。つまり、「マジメに教師の言うことを聞いた生徒」こそが評価されるべき生徒だと考えている。そうなのか?

そりゃあ、教師が真剣に生徒の能力を伸ばすことを考えて、たとえば思考力、たとえば理解力をアップさせるような指導を行っているのなら、その指導にしっかりと食らいついてくる生徒の能力が伸びていき、そしてそれを評価するというのは正しいことになるのだろう。ところが、その教師が、「テストの点数が上がることが能力のアップだ」という恐ろしい誤解をしてしまっている。だから教師は、授業でテスト対策をやってしまう。「ここ、テストに出るからしっかり覚えておくように!」というあの言葉ほど、矛盾しているものはない。それは単純にハイスコアをとるための技巧であって、学習や学問ではない。けれど、そういったテクニックを教えることが学問だというふうに錯覚した教師は、悲しいぐらいに多い。

 

経験上、言っておこう(あ、「個人の感想」です)。本当に優秀な生徒は、勉強なんてしない。実に気まぐれで、不真面目で、およそ教師からしたら扱いにくいことこの上ない連中だ。自分に興味のあることしかしないし、興味がないことにはハナもひっかけない。けれど、興味があることに食らいついたときの集中力は凄まじい。指導要領とか教科書とか、そんなものは無視して、とことんまでいく。そのときの理解力、思考能力は、ふだんのあの物分かりのわるさからは想像もできないほどだ。そして、気がついたときにはたいした努力もなしに、勤勉な生徒がちょっとやそっとでは到達できないような高みに達している。

そういった優秀さを、生徒の中につくっていけたらといつも思う。そのために割く時間は、いくらあっても足りない。ゲームに勝つためのテクニックなんか練習する時間なんて、ほんと無駄だ。けど、それが望まれているという現実では、そこも無視はできない。

現実と理想の間で、いつも出るのはため息だ。そして思う。せめて、学校の教師がこういった現実をもっときちんと直視してくれたらいいのになあと。

 

引用したブログ「同じ勉強をしていて差がつく「本質的な理由」 | ぐんぐん伸びる子は何が違うのか?」の冒頭は、次のような読者からの質問で始まっている。

【質問】
いつも記事を興味深く、拝見しております。うちには中学3年の娘と中学1年の息子がいます。2人とも、学校の授業をしっかりとやっており、塾にも通っており、成績はまずまずの上位ではありますが、トップクラスではありません。私から見ても一生懸命やっているようですが、どうしてもトップ(1位や2位)にはなれないようです。
学校で同じ授業を受けて、塾のクラスも同じ友人がトップの成績なのです。それなのにどうして自分はそうなれないのかとぼやいています。どうしたら、そのトップの子のようになれるのか、何か良いヒントがありましたら、お願いします。

この質問者の疑問の中に、実は、「点数」と「能力」をイコールで結びつけてしまっている発想を読み取ることができる。「マジメに勉強する」ことで得られるのは、「学力」ではなく、「得点するためのテクニック」だ。そして、それは最後には本質的な能力、すなわち「考える力」には勝てない。それを一般人である親が理解していないのは無理はない。幸い、回答しているブログの筆者はまともな答えを返しているが、学校や塾の教師がもうちょっとマシな対応ができなかったものかとつくづく思う。できないんだろうなあ。

そのためには、「気づく楽しさ」「知る楽しさ」「考える楽しさ」を知る必要があるのですが、そう簡単に、そのような楽しさを知ることはできませんね。

ここで、これまでたくさんの子どもたちを指導してきてわかってきたある方法があります。

それは、「人と違う意見を発言させる」ということです。

そのときに指導的立場にある人は、「別の見方ない?」「別の意見ない?」などと通常とは異なることを誘導してあげる必要があるでしょう。このような促しによって、人は自然と「気づき→知り→考える」ようになっていきます。そして出てきた発言内容に対して絶対に否定はしません。これを習慣にすると、頭の構造が変わってきます。

こういうことをやったら、現在の学校システムが崩壊してしまうもんな。ま、崩壊したほうがいいのかもしれないけれど。