シアワセの容相

あしたはこっちだ

言葉の定義と、詩と、気温と

もちろんノーベル賞はもらえない

高校生ぐらいの頃だったと思うが、「ボブ・ディランみたいな歌が書きたい」と思った。コンセプトは、「とにかく長い歌」。ディランの歌は、やたらと長い。長ければボブ・ディランというわけではないだろうし、ボブ・ディランの歌に普通程度の長さのがないかといえばそういうわけでもない。それでも、若い頃の私が惹かれたのは長い歌だった。Lily, Rosemary And The Jack Of Heartsのような物語(16番まである)、Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Againのようなイメージがどこまでも広がっていくような歌が好きだった。

曲をつくるのは、簡単だった。循環コードさえ用意すればいい。だが、歌詞はそうはいかなかった。いろいろやってみたが、結局ロクなものはできなかった。あきらめて、それ以後はもっとふつうの、甘ったるいラブソングしか書かなくなった。そこからの私と音楽の話は長くなるので、別の物語。

ディランの歌詞で感心するのは、全く関係のないものが突然出現することだ。たとえば代表曲のひとつとされるLike A Rolling Stoneでは、前後の脈絡もなく、「浮浪者」とか「外交官」とか「ナポレオン」が登場する。聞いている方はびっくりするが、しかし、そこを切り口に世界が広がる。曲の中で一貫して皮肉っぽく批判されている「You」のイメージがより具体的になっていく。うまいなあと思う。

こういうのをシロウトが真似したって、「関係ないじゃない」「頭おかしいの?」「話が通じてないよ」と思われるのが関の山。脈絡のない単語を出せばそれでいいってもんじゃない。それなりの緻密な計算がある。少なくともそう見える。単純にクスリやって脳の回路がぶった切れていたというだけのことではないのだろう。

詩人は圧縮された暗号を使う

優秀な詩人は、聴き手の頭の中にあるイメージを利用する。たとえばIt's All Over Now, Baby Blueの中の「聖者」、「ギャンブラー」は、その単語だけでディキシーランド・ジャズ(「聖者の行進」)やカントリー・ブルーズ(たとえばロバート・ジョンソンなど)を連想させる。一言だけで、聴いている人の中にさまざまなイメージを投影することができる。ただし、それは使い古されたお定まりのイメージに陥ってしまう危険性にもつながる。そこに、「あれ?」と思うような組み合わせの「船酔いをした水夫」や「絵筆を持っていない画家」を登場させる。あるいは、「トナカイの軍団」みたいなどうみても場違いな言葉が出てくる。それがありきたりの絵に堕してしまうことから救ってくれる。

こんなふうに、言葉は、それが既に受け手の中に備えられた回路を動作させるトリガーとしてのはたらきをもっている。短い言葉で豊かなイメージを喚起するためには、そういった技術が必要だ。それを上手に使う人が、コミュニケーションの達人。詩人に限らず、名文を書く人はだいたいそういうことをやる。(ただし、それは時代が経って発信者と受け手との間に同じイメージが共有されなくなると理解されなくなる。失われたイメージを学習によって身に着けている人は教養人ということになるし、そうではない一般の我々は注釈に頼らなければ文脈を読めなくなる)。

暗号化は誤解のもと 

そんなふうに言葉を使うときには、ひとつひとつの単語の解釈は基本的に受け手に任されている。だから解釈をめぐってさまざまな論争が起こる。Blowin' In The Windの「風」は何を象徴しているのか、それはIdiot Windの「風」と関係があるのか、ないのかなどといったことを、作者の意図とはほぼ無関係にファンが語り合うことができる。何が正しくて何が誤っているのかということに結論はない。結論が重要なのではなく、「私はこう思う」という考えを交換することだけが意味をもつ。文学とはそういうもの。

けれど、日常に文学を持ち込まれた日にはたまらない。「私はこう思う」ということだけではコミュニケーションは成り立たないからだ。イメージは、ひとによってちがう。異なったイメージがあるひと同士が話しているときには、往々にして食いちがいが生まれる。別々のことを話しているのだから当然だ。たとえば、「ごはん」という言葉は、「食事」という意味でも「米飯」という意味でも用いられる。糖質制限をしているひとが「ごはんは食べないんです」と言った言葉を、相手は「このひとは断食しているんだろう」と受け取るかもしれない。「起業するんです」っていう話にベンチャーキャピタルとか資本比率とかのことを想像するひとと個人営業の脱サラ事業をイメージするひととでは、まるで話がかみ合わない。糖尿病患者が身近にいるひととそうでないひとでは、おのずと病院に通うひとのイメージが異なってきて、結果として罵り合いにさえなる。

そういうときに、「私が使っている意味」「私のイメージ」「私の知っている事実」が正しいのだと主張することには、なんの意味もない。正しいかどうかでいえば、すべてのひとがそのひとの内部では正しいのだ。そうではなく、「私はこういう意味で使っている」と相手に伝え、「ここからの議論はこういう範囲内だけでこの言葉を使うことにしましょう」という合意を得ておかなければならない。そうでなければ、互いに自分の正しさを主張する不毛な争いになる。それはゴメンだ。

そういう作業を、「定義」という。ただ、定義づけをするのは面倒くさい。英文の契約書なんかだと、最初に延々と「定義」が続く。場合によっては数ページも続く。そういうことを日常的にやるわけにはいかない。だから、私たちは「そのぐらい常識だろ」的に、すべての定義をすっ飛ばして議論を進める。日常的なことなら、それでたいてい間に合う。

それでもやっぱり、「どうにも議論がかみ合わないな」というとき、じっくり考えてみると、たいていは定義の問題なのだということがわかる。異なった定義にもとづいて議論をしていると、かなりの確率で紛糾する。別々のことを話しているのだから、当然だ。そして、もしもその段階でその原因を指摘したら、たちまち「だってこの言葉がこういう意味だってことぐらい常識でしょう」みたいな正統性をめぐる罵り合いに転化してしまう。いや、どっちが正しいかじゃなくて、その議論においてはどういうふうな定義にするのがいいのかという問題なんだとわかってほしくても、最初に定義をすっ飛ばした段階でそういう観点は抜けているから、いまさらどうにもならない。

日常的なことなら、たいていは問題ない。意見がちがったって、「まあ、いろんなひとがいるよね」程度のこと。それですまないのは、正確な議論が必要なケース。たとえば、科学。たとえば、政治。両方がかかわってくる場合はなおさらのこと。

 定義はなんなのか?

しばらく前、こんな記事を見た。

qiita.com

話題になった部分は、この記事がさらに気象庁のサイトから引用しているこんな記述。

政府機関または地方公共団体が気象観測を行う場合(研究や教育のための観測を除く)、又はそれ以外の方が観測の成果を発表するため、 あるいは災害の防止に利用することを目的として気象観測を行う場合には、技術上の基準に従って行い、気象観測施設設置の届出を気象庁長官に行うことが義務付けられています。(気象業務法第6条)

これで、「外気温を測ってホームページで公開すると気象庁から怒られる」と記事の筆者氏は結論づけたわけだけれど、これって典型的に定義の問題だと思う。

法律の条文は、特に定義を要する文言ばかりだ。たとえば、「業」という言葉ひとつとっても、これは「営利目的で同種の行為を反復・継続して行うこと」と定義されるわけで「気象業務法」という法律がまずは「業」を対象としていることを前提として読まねばならない。そのように法律特有の用語は、定義がはっきりしている。問題は、法律用語ではない用語だ。たとえば「気象観測」。一般的な法律用語でないものは、法律内に定義して用いられる。ここでは気象業務法に定義されている。

(定義)
第二条  この法律において「気象」とは、大気(電離層を除く。)の諸現象をいう。
2  この法律において「地象」とは、地震及び火山現象並びに気象に密接に関連する地面及び地中の諸現象をいう。
3  この法律において「水象」とは、気象又は地震に密接に関連する陸水及び海洋の諸現象をいう。
4  この法律において「気象業務」とは、次に掲げる業務をいう。
一  気象、地象、地動及び水象の観測並びにその成果の収集及び発表
二  気象、地象(地震にあつては、発生した断層運動による地震動(以下単に「地震動」という。)に限る。)及び水象の予報及び警報
三  気象、地象及び水象に関する情報の収集及び発表
四  地球磁気及び地球電気の常時観測並びにその成果の収集及び発表
五  前各号の事項に関する統計の作成及び調査並びに統計及び調査の成果の発表
六  前各号の業務を行うに必要な研究
七  前各号の業務を行うに必要な附帯業務
5  この法律において「観測」とは、自然科学的方法による現象の観察及び測定をいう。
6  この法律において「予報」とは、観測の成果に基く現象の予想の発表をいう。
7  この法律において「警報」とは、重大な災害の起るおそれのある旨を警告して行う予報をいう。
8  この法律において「気象測器」とは、気象、地象及び水象の観測に用いる器具、器械及び装置をいう。

とまあ、けっこうしっかり定義づけられている。そして、重要なことはこの法律中に「気温」の言葉が用いられていないこと。測定器具として「温度計」は登場するが、「気温」は定義どころかそもそも用いられていない。常識的にいえば「気象」の観測結果に気温は当然含まれるわけだが、なにをもって「気温」とするのかの定義はない。この法律が参照している計量法にも「温度」は定義されているが、「気温」ではない。では定義はどこにもないのかといえば、気象庁は次のように定義している。

通常は地上1.25~2.0mの大気の温度を摂氏(℃)単位で表す。度の単位に丸めるときは十分位を四捨五入するが、0度未満は五捨六入する。

気象庁|予報用語 気温、湿度

つまり、百葉箱のような適切な観測環境を用意して測定した温度のみが「気温」と定義されるわけである。一方、気象業界以外の普通の人々の「気温」のイメージはどうなのか? それは、単純に温度計が示す値のことである。つまり、気象庁が言う「気温」と一般人が言う「気温」は、同じではない。

では、一般人が常識的な意味で「気温」という言葉を使ってはいけないのかといえば、そんなことはあり得ない。言葉は誰のものでもない。たとえば「住所」という言葉は立派な法律用語であって民法に「各人の生活の本拠をその者の住所とする」と定義されているが、日常的には必ずしもそんな定義にとらわれずに使っているし、それでなんの問題もない。「物」という単語さえ、民法には「この法律において「物」とは、有体物をいう」と定義されているが、この定義にあるとおり、民法以外の文脈では「物」は実体のないものにまで拡張して使っている。言葉は、コミュニケーションのツールとしては、どのような使い方をしてもかまわない。定義どおりに使う必要はない。

これは科学の場合にはさらにふつうに起こることだ。たとえば「力」(force)は、力学では非常に重要な概念であるが、これはニュートンによって質量1kgの物体に対して1秒あたり1m/sの速度を加速するのに要するものとして定義されている。ところが、日常的にはだれもそんな意味で使っていない。ときには顔が汚れて出なくなるものであるかもしれない。なかには「あらゆる生命を繋ぐエネルギー場」という意味で使うひとだっている。けれど、だれもそれに文句は言わない。なぜならそれは科学の定義を離れて使われているのが明らかであり、いったん科学の文脈を離れれば科学には言葉を縛る権力などないことをだれもが知っているからだ。科学を語るのでなければ、フォースで奇跡を起こしてくれたっていい。その代わり、科学的な話をするのならまずは定義を確かめようよというのが、正しいあり方。

気温を発表しても、いいじゃない

さて、ふつうのひとが日常的な意味での「気温」を測り、日常的な活動としてそれを発表する。これを法律が規制することができるだろうか。できるのかもしれない。しかし、言葉と定義という観点からだけ見れば、それはバカげている。そもそも定義がちがう。だれも「地上1.25~2.0mの大気の温度」だなんて主張していない。あくまで「ウチの温度計の表示した値」という意味で「気温」を使っている。それが明らかな場に、明確な定義のある「気温」の規制を持ち込むのは文脈を外している。

もちろん、そうやって発表された統計を何らかの根拠にしようとするときには、話がちがってくる。だがその場合は、まずその議論の論拠として、その数字がどのようにして求められたのかを明確にする必要があるだろう。そうでなければ議論の対象としては相手にされない。結局、科学の土俵では科学の言葉として定義して語らねばならなくなる。そのようなときには、改めて正確に「ここでいう気温とは、校正を経ていない誤差の大きな値であり、また観測地点も一般の気象観測の要件を備えていない」ということを明確にすることだ。そうすれば、少なくともイメージの食いちがいによる混乱は避けられる。

結局は、ひとを誤りに導くようなやり方さえしなければ、何を言ってもいいのだろう。裏返せば、たとえルールに則ったように聞こえる発言でも、ひとを誤りに導くようなものは非難されるべきだ。あ、気をつけなくちゃ。

 

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定義については、こんなことも書いた。

mazmot.hatenablog.com

学問の世界で使われる「貧困」と日常事しての「貧困」はちがう。それを混同するから話が紛糾するという考察。これは、マスコミや政治家が意図的に(でなければ全くの不勉強で)混同して使っていることにも原因があると思う。それはまた別の機会に書くとしよう。少しばかりは、以下の記事にも書いている。

mazmot.hatenablog.com

定義をはっきりさせない習慣は、特に教育現場で奇妙なことを引き起こす。たとえば教師の仕事を明確に定義した学習指導要領があるときに、なぜかそこから逸脱したことが行われてしまう。あるいは、過去に引きずられた時代遅れの教育をしてしまう。

mazmot.hatenablog.com

mazmot.hatenablog.com

結局は、日常であっても、ときどきは言葉の定義を意識したほうがいいのかもしれない。たとえば、定義さえきちんとすれば、サンタクロースだって実在するのだしね。

mazmot.hatenablog.com