「意訳」という言葉への違和感について - あるいはAI翻訳への期待

英語は、私の重要なメシのタネのひとつだ。英語で初めてお金をもらったのはもう30年も前の話。その後、断続的に、15年ほど前からは継続的に、私の生活をささえてくれている。高校時代に英語で危うく落第しかけたことを思えば奇跡のような話だし、海外生活なんてしたこともない経歴からいえばウソのような話でもある。運がよかったとしか言いようがない。

ただ、その運が永続するとは思っていない。翻訳という作業は、基本的にコンピュータに置き換わっていくと思うからだ。それは、10年以上前からそう思ってきた。たとえば、2007年にはこんなことを書いている。 

あと10年、それでも10年 - d-lights翻訳サービス

 翻訳の仕事もあと10年かなあと思います。Googleはあと数年で完全な人工知能を作るといっているそうだけれど、コンピュータが進歩していけば、まちがいなく翻訳は自動化されるでしょう。そうなったら、翻訳で食っていくことは非常に困難になるはずです。

あれから10年近くたって、Google人工知能はまだまだ完全ではないけれど、かなり役立つレベルまでは到達した。まだ翻訳の仕事はなくならないけれど、それはちょっと余分に時間がかかっているだけのこと。期待したほどのスピードでは進んでいないかもしれないが、失望させるほどの遅さでもない。10年前に「使えない」といっていた翻訳のレベルと、いま「実用的でない」と議論されるレベルでは、もうまったく世界がちがっている。そのつもりになれば、機械翻訳はもう実用レベルといって差し支えない。

なぜこんな古い記事をいまさらながらに引っ張り出してきたのかといえば、それはこんなブログ記事を読んだからだ。

d.hatena.ne.jp

この記事を読んだのはタイトルの「英語を学ぶ意味はあるのか?」に惹かれたからだが、残念ながら記事の内容はそういうことではなかった。だがそれはそれとして、AIによる翻訳の現在の状況を見せてくれる点でおもしろく読ませてもらった。そして、話の要点は実はそこではない。この記事の中に出てくる「意訳」という言葉に引っかかってしまったのだ。「ああ、まだこんな言葉を使う人がいるんだ!」というのが率直な感想。

これについては、やはり2007年にこう書いている。 

正確な翻訳とは? - d-lights翻訳サービス

私が「直訳」「意訳」という捉え方をできないのは、こういう考えがベースにあるからです。「正確な翻訳」は、逐語的な正確さのみを意図した「直訳」ではあり得ません。しかしまたそれは、原文を大づかみにして全く新たな表現を試みる「意訳」であってもなりません。「直訳」や「意訳」を考えることが、既に正確な翻訳からの逸脱だと思うのです。

ちなみに、上記の引用記事「AIが高度に発達することが確定した今、高校生が英語を学ぶ意味はあるのか? 」には、「意訳」についてたとえば

意訳はやりすぎると二次創作と言っていいくらい意味が変わってしまうので注意深くやらなければなりませんが、意訳しないとどうしても読めない文章というのは存在するのです。

と書いてあるが、こういうのが世間一般の「直訳と意訳」に対するイメージ。けれど、翻訳の目的がなにかということを考えたら、意訳だの直訳だのというレベルで話していることがナンセンスだということがわかるはず。

翻訳の目的は、オリジナルが伝えようと意図したことを別言語で伝えることにほかならない。だから逐語訳はほとんどの場合目的を達成しないし、同時に、「読める」ことを目指す改作も本来の目的から逸脱する。注釈つけてでも言葉を変えてでも、ともかくも原文の意図を伝えればそれでいい。あるいは、原文が意図しないことが表現されてしまう事故を防ぐために、バッサリと落とすところは落としてもかまわない。そういう作業を「二次創作」とは呼べない。なぜなら、そこに「創作」的な意図が入り込む隙間はないから。

もしも「創作」とか、その他の「精神活動」が入り込んでしまうのであれば、ここには機械化の余地はない。いくらコンピュータが自動で作曲ができるとはいえ、自動作曲された自動演奏を聞いて心が躍るとは思えない。人工知能が小説を書いても(たぶん十分に完成度の高い作品はつくれるはず)それが文学賞を受賞することはない。人間がおもしろいのは、それが人間だからだ。創作とはそういうこと。翻訳は、もっとシンプルな作業の組み合わせで、ある一定の手順を根気よく繰り返すことで成立する。だからこそ機械化が可能。これは、翻訳という仕事を長くやっていればわかるはず。

だから、「意訳」とか「直訳」という言葉は、およそ翻訳という仕事に対する無理解が根底にあるのだと思う。だいたいにおいて体系のちがう言語で全くの等価はあり得ないのだから全ての翻訳は意訳である、ということもできるし、翻訳がひとつの文字列を別の文字列に移し替える工夫のカタマリであることを考えればすべての翻訳は直訳であるということもできる。つまり、論理的には「直訳は意訳である」ということになって、これらの区別が全く無意味だということがわかる、はず。

 

それが自分のメシのタネを奪っていくからといって、私は翻訳の機械化、AI化を怖れたり卑小化したり、ましてそれに反対したりするものではない(そういう論調が、10年前には多かった)。むしろ、翻訳者としては翻訳の機械化を積極的に支援すべきだと考えている。そのことも、以前に書いた。

この程度の作業をプログラム化できないようであれば、それはプログラマーの怠慢か、頭の中を公開しない翻訳者の秘密主義によるものでしょう。

そして、「秘密主義」と言われたくないから、当時自分の頭の中にあった翻訳の手順をできるだけわかりやすくブログに書いた。ここには実際にプログラマの方もコメントをくれて評価してくださり、嬉しかった。ま、私が書かなくても常識的なことだったかもしれないけれど。その残滓は某所にePub形式でアップしていたのだが、気がついたらそのサイトが消滅していた。まあ、そういうこともある。

サイトが消えるのはともかくも、そうやって、翻訳という業務、つまりは自分の仕事が消えて嬉しいのかと言われたら、私は「はい」と答えるだろう。なぜなら、全ての仕事は(全てではないかもしれないが多くの仕事は)、その仕事がなくなることを究極の目的とすべきだと思っているからだ。

翻訳業に未来はない? - d-lights翻訳サービス

私自身が、常に自分の仕事がなくなることを夢想しながら仕事をしてきた。たとえば、私は編集者時代(といっても末端のしがない指先系肉体労働者だが)、写植の修正仕事が溜まってくるといつも「ああ、ここに機械があって、キーボードを叩いたら直したいところが目の前ですぐに修正できるような時代がこないかなあ」と思っていた。そしたら、そんな時代がやってきた。いまでは常識のDTPだ。DTPではひと儲けさせていただいた。また、非常にマイナーな雑誌の編集をしていたときの何よりの目的は、誰もが自分の意見を検閲なしで発表できるプラットフォームを確保することだった。そしたらインターネットの発達でそんな時代がきた。目的が達せられたことを歓びこそすれ、それで自分が発行していた雑誌の存在意義がなくなったことを恨んだことは一度もない。 あるいは、糖尿病に効く怪しげな健康食品のベンチャーにいたときには、自分の仕事の究極の目的は糖尿病の撲滅だと思っていた。もしも糖尿病がなくなったら、もちろんその健康食品は売れなくなる。だが、それでかまわないと思っていた。売るものは、いくらでも開発できる。重要なのは、目的を達成すること。あらゆる仕事は問題を解決するためにあるんだから、問題が解決したら仕事は消滅する。それが仕事の目的でなくてどうするの?

だから、心から、AIがもっと賢くなって翻訳を自動化してくれるのを望んでいる。そして、その上で、ちょっとだけ加えるなら、もちろん高校生が英語を学ぶ意味はなくならない。そのことについて書いたら長くなるから、それは別の機会にゆずるとして。

 

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(追記)

で、Google翻訳が一段の進化を遂げたそうだ。ようやく来た。身が引き締まる。

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