反対側を掻く ─ これはかなりおもしろい

うちの母親も、ボケてきたかな?

高齢の私の母親は、なかなか奇妙な人だ。新しいモノにはすぐに飛びつくし、それを何の衒いもなくやってのける。いまではどこの家庭でもめずらしくない電子レンジや食洗機にも、だれよりも早く飛びついた。いわゆるアーリーアダプターの元祖。その割に、古いものを何十年も使い続けたりもする。自分が納得したことについては、他人にどう思われようがかまわない、という厄介な性格。

その母親が、何年か前に、左手を掻いていた。痒いのかと聞いたら、右手が痒いのだという。なんで左手を掻いているのか聞いたら、右手に傷ができていて、掻きたくても掻けない。だから反対側を掻いているのだという。馬鹿なことをといったら、いや、テレビでやっていた、反対側を掻くといいらしいという。「また、奇妙なことをやってるわ」と、そのときは思った。

本当にテレビでやっていたのかどうだかは知らない。私の記憶も曖昧なので、母親の情報源はそこではなかったのかもしれない。ともかくも、「反対側を掻く」というのは、実はれっきとした科学的根拠のある行為であったということを、今日、改めて知った。 

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上記の論文は、「鏡像的な掻き方で痒みを抑える」というテーマだが、つまりは「体の左側がかゆいとき、鏡を見て右側をかくとかゆみが治まる発見」である。そう言われれば「えっ?」と思うのだが、この論文の導入部にはちゃんと先行研究が紹介されていて、「身体の反対側を掻く」ということそのものは決して新奇な発想ではないことがわかる。たとえば、左手を切断された人がいるとする。ところが、実際には存在しない左手に痒みを感じることがある。これは「ファントムリム」(幻肢)として古くから知られている現象(余談だが、これによって霊魂の存在が証明される!という議論もまた古くからあるそうだ。そっちに入ると長くなるので別の機会に)。このときに右手を掻いてその鏡像(つまり左手として見える)を見るとと痒みが減少する、というのが先行研究として報告されている。あるいは、リハビリ中の脳梗塞患者に可動側の四肢を鏡像で麻痺した側のものと見せることで回復にいい影響が出ることもあるらしい。これは既に療法として確立されているようだ。つまり、存在しないもの、動かないものを、きちんと機能している状態に錯覚させることで、一定の効果が生まれる。どうやらこれはこの研究以前から知られていたようで、それが巡り巡って我が老母の怪しげな行動につながっていた、のかもしれない。

ふつうに鏡を見て掻いても効果はありません

こういった先行研究からこの論文の研究が一歩踏み出しているのは、それが「反対側を掻く」という実際の行動と「鏡像を見る」という視覚上の行動との関連を正常に機能している両腕で実施していることなのだろう。つまり、「実際には掻いていなくても掻いていると錯覚して痒みがおさまる」のか、「対称側にある神経を刺激することによって同様の効果が得られる」のか、あるいはその双方が必要であるのかをはっきりさせる実験設定をしている。なるほど。

で、結論としては、「両方あれば痒みはある程度抑えられる」というもの。興味深いことに、というか、あたりまえなことに、いちばん痒みを抑えるのは、痒い場所を直接掻くことだという結果が出た。これは、掻いているところを目で見ていても見ていなくても同じ。掻いているところを見ずに痒い側と反対側を掻いても、痒みはおさまらない。あるいは、実際には掻かずに掻いている映像だけを見せても痒みはおさまらない。ところが、痒いところを掻いていると見せかけて(つまり鏡像を見せて)反対側を掻くと、いくらかは痒みがおさまる。ということは、「掻く」という行為によって痒みが抑えられるメカニズムは、一部は痒い場所で発生しているが、もうひとつ別のメカニズムがあって、それは視覚的な刺激と物理的な刺激の協調によって起こる、ということらしい。

重要なことは、脳が視覚的に錯覚を起こすこと。だから、ふつうに鏡を見て反対側を掻いても、意味はない。鏡に写った自分の左右をとりちがえるということは、長年にわたって鏡を見てきた大人では起こらない。視線方向に垂直に鏡を立ててあたかも左手のある場所に右手があるように見えるようにしておいてから、掻く。あるいは、左右を逆転させる画像処理をした映像をモニタで見せる。この際、カラクリを知っていても別に問題はないようだ。プラセボはそれがプラセボだと知っていても効果があるという研究があるそうだが、神経的な意味での錯覚は、大脳レベルの情報処理とは関係性が低いレベルで行われるのかもしれない(しかし、それなら対面で鏡を見ても錯覚しないのはなぜなのだろう?)。

それから、この実験での「掻く」ことの効果は、「掻く」という行為の実行ではなく、「掻かれる」という刺激を受けることとして測定されている。つまり、被験者は自分で掻かないで、実験者に掻いてもらう。これがまたちょっと笑ってしまうのは、掻くための専用器具とそこに加える圧力やらが記述され、さらに実験前に掻くトレーニングを実施したことが書いてあることだ。大真面目でそういうことをやっているのを部外者が想像するとユーモラスだが、まあ、実りある研究はそのぐらい丁寧にやるべきもの。笑ってはいけない。ということで、自分で掻いたらどうなるかまではこの実験結果では保証されていない。だれか「さらなる研究」をやってくれ!

痒いのには恨みがあります!

個人的にこの研究に興味があるのは、なによりも私自身が「痒い人」だからだ。アトピーという言葉が普及する以前からのアトピっ子で、十代から二十代にかけては体じゅう、顔じゅうがボロボロだった。掻きむしりたいけれど掻いたら痛い、なんてことは毎日のこと。結婚して、ようやくそこから開放されたと思ったら、今度は妻が強烈なアレルギー反応を引き起こした。そうこうするうちに、今度は息子が痒い人となって生まれてきた。毎晩背中を掻いてやる日々が十年近く続いて、ほとほと疲れ果てた。小学生の半ばになってようやく解放されたときは、ホッとしたものだ。

痒みは、決して痒い場所だけの問題ではない。それは、長年にわたる痒みとの付き合いで痛感してきたことだ。痒みは移っていく。痒い場所にクスリを塗って痒みを抑えることができたとしても、別の場所が痒くなる。あるいは、痒みを抑えようと我慢して別の場所を刺激していたら、そっちの方が痒くなってしまう。そんなこともあった。だから、この研究には大きく頷ける。

痒くても、人間はやめたくない

「人間は神経のもの」という言葉は桂枝雀の落語のなかで聞いたセリフだが、錯覚も含めて、人間の感覚なんて、しょせんは神経の信号の交錯だ。そういう概念を突き詰めると、私の大好きな映画マトリックスのようになる。私たちの見ているこの世界は、すべて幻影であるのかもしれない。だが、その幻影がおもしろい。人間がやめられないわけだ。

実は、この論文にたどり着いたのは、「股のぞき効果」の研究がイグ・ノーベル賞を受賞したというニュースからだった。この研究はこの研究で非常に興味深い。ところが、コメントを見ていると、「それよりも、体の左側がかゆいとき、鏡を見て右側をかくとかゆみが治まる発見のほうが気にかかる」といった声が多かった。そう言われればそうだなと検索をかけてみたら、この論文が見つかった。ありがとう、朝日新聞。たまには嬉しいこともしてくれる。

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