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シアワセの容相

あしたはこっちだ

貧困に対処すること ─ あるいは、とりあえずMNPしようよという話?

あなたの貧困は私の貧困ではないという奇妙な話

貧困は、解決しなければならない問題だろうか。そりゃあ当然だろうと、多くの人がいうはず。けれど、そのときのイメージは、実は人によって大きくちがう。イメージがちがうから、話がかみ合わない。本日はそういうお話。ただし、ここでは、「絶対的貧困」とか「相対的貧困」のことは言わない。そこまで踏み込む以前の問題として、そもそも「貧困」という言葉のもつ字面上の不具合を以前に書いた。

mazmot.hatenablog.com

繰り返すと、社会学で「貧困」は、国際的な用語であるpovertyの訳語として使われている。このpovertyは「物質的な欠乏が生じている状態」であり、そこに「困窮している」という意味内容は、直接的にはない。一方の「貧困」には、文字の成り立ちとして「困」が不可分の要素として入っており、常識的にはどう考えてもpovertyとイコールでは結べない。そこで専門家がpovertyのつもりで使った「貧困」に対して一般人が「困ってないじゃないか」と噛みつく、という事態が発生する。

さらにややこしいのは、専門家の側も、「困」にフォーカスしてしまう、ということだ。これはある意味当然で、とういうのは、貧困を研究する学者の関心事は「貧」の方ではなく「困」の方だからだ。そうでなければいけない。やはり役に立つ研究というのは(研究がすべて役に立たねばならないというのではないが)、現状の問題点を発見するところから出発する。問題になるのは物質的な欠乏そのものではなく、それによって生じる苦痛の方だろう。つまり、貧困研究が解決すべきなのは、究極には「貧」の方ではなく「困」の方だ。だから、議論は紛糾する。議論の余地のない「貧困線以下」という事実よりも、「その個人は困っているのかどうか」という判定のしようのない感覚を巡って水掛け論になる。

幸福と不幸は、それを受ける当人にしかわからない。客観的に観測できないものを俎板の上にのせたら、そりゃあ、炎上するのも当然だろう。常に、「そんなものは困ってるうちに入らない」という批判が生まれるのは火を見るより明らか。

だけども、問題は、今日の雨

客観的に「貧困線」が設定されているのは、そういった議論を避けるためだ。その上で、これも客観的に、貧困線以下の生活をする人々の中に困窮問題が発生する頻度が高いことが証明されている。その順序で話を進める限り、個別の事例で個別の人が「困っているかどうか」を論じることに意味がないことがわかる。あるいは、個別の事例の個別の不幸を個別に救済することが問題の本質ではないこともわかる。

その上でなお、個人にとって、最終的に重要なのは個別の問題だ。社会学が(あるいは政治が)扱うのは社会の問題であるのに対し、個人にとって重要なのは社会全体ではなく、自分自身だ。社会学者(あるいは政治家)以外の個人は、あるいはそういう人々であっても職業的な立場を離れれば、いちばん気になるのは今夜の食事であり、家賃の払いであり、明日以降の暮らしである。自分と家族がきちんと食っていくことができれば、それであらゆる問題の99%は解決する。そんなときに、「貧困線」は意味を持たない。貧困線を超えていても暮らしが成り立たない人もいれば、貧困線を大きく下回っていても余裕で暮らせる人もいる。個別の事情はどこまで行っても一般化できない。

そんな視点、「どうやって明日の暮らしを成り立たせるのか」というところから見れば、貧困への対処は個別の問題を個別に解決することでしかない。それはそれでまちがっていないはず。つまり、個別の事例の個別の不幸を個別に救済することこそ、問題の本質。

「私」が救われることに意味はあるのか?

ここで重要なことに気づく。個別の問題を個別に解決することは、果たして社会問題を解決することと一致するのだろうか。それとも互いに矛盾するのだろうか。

たとえば、貧困による社会問題としてよくあげられるのが栄養の問題だ。貧困線以下の収入の人々と貧困線以上の収入の人々を比べたとき、貧困側に十分な栄養をとることができず、したがって健康が損なわれる人が多い。これは、統計的な事実として知られている(はず。文献は確認していない。ごめんなさい)。社会学(あるいは政治)としてこの問題を解決する方法は格差の是正。貧困線以下の人々の比率を下げ、ゼロに近づけていくことだ。その一方で、実際に健康問題を抱えている人の立場からいえば、そういったマクロな話はどうでもいいのであって、もっとまともな飯を食わせてくれればそれでいい。さて、ここで「それなら私に任せてください」と、ある外食企業が安くて栄養のある料理を提供するチェーンを展開するとする。あるいは有志が「子ども食堂」を地域に開業する。懐を痛めずにだれもが栄養をとれるのであれば、確かに貧困によって発生する健康問題のかなりの部分は解消するだろう。しかし、その一方で、これは貧困率を何ら変化させない。格差の是正には何ら寄与しない。つまり根本的な問題を解決しない。

たとえば、貧困線以下の人々の生活を圧迫するのが、現代では通信費であると言われている。携帯もたずに暮らすことが実質的に不可能な時代だ。そして携帯やスマホの維持費は安くない。大手三社の料金はいずれも横並びで、いくら節約しても使えば同じ程度の高額に落ち着く。ところが、MVNO、いわゆる格安SIMを使えば、この維持費を劇的に下げることができる。もちろんまったく同じサービスではないが、不便のない程度に工夫すれば年間数万円以上の差額を生み出すこともできる。少なくとも私の場合は、半額以下に下がった。では、格安SIMは貧困問題の解決になるか? そんなことを言ったら、社会学者は眉をひそめるだろう。通信費がいくら下がろうが、貧困率は微動だにしないのだ。

「暮らしの質を落とさず支出を減らす方法」は、社会問題を解決しない。ライフハックで世の中は変わらない。けれどその一方、これは個別の苦痛、個別の困難、個別の不幸を軽減する。どの程度軽減するかは一概に言えない。数千円の節約は数千円分の寄与にとどまるし、数万円の寄与は数万円分の価値がある。数十円のちがいしか生み出さなくても、それで助かる部分はゼロではない。お金に代えられないものだってある。野菜と瞑想と運動をすれば、同じ支出でも生活の質をずっと上げることができる。のかな?

極端な事例、というかフィクションだけれど、その後にも数多く設定が使いまわされているおハナシとして、「あしながおじさん」という物語がある。ジルーシャ・アボットのこの物語を私は子どものころ愛読していた。慈善事業で「孤児院」の少女が救われる話である。そして、この物語、というよりもこの系列の物語に対しては、根本的な批判がある。ひとりの不幸を救うことは、何ら社会問題の解決にはならない。ひとりのジルーシャ・アボットの影に、多くの救われない「孤児」がいる。それはもう、はっきりと「あしながおじさん」の作品中にさえ読みとることができる。ジルが世話をしていた年少の子どもたちのことは、彼女が施設を離れて以後、一切触れられていない(ひょっとしたら私が読んだ年少者向けの翻訳のせいだったかもしれないが)。それは痛いぐらい。ラッキーとアンラッキーが引き起こす格差の物語。ひとりの「私」が救われても、社会は何ひとつ変わらない。

結局は人間の問題なのだから

ジルーシャ・アボットのラッキーは、結局のところ無意味なのだろうか。いや、私はそうは思わない。なぜなら、社会的な貧困問題の解決には、結局のところ、貧困によって社会的な不正を生きている人々の声が重要だからだ。そして、その声は、多くの場合、日常の苦難のなかで消えてしまう。文句をいうヒマがあったら稼げというわけだ。あるいは、文句は愚痴に終始してしまう。愚痴にはだれも耳を傾けない。

あしながおじさん」の続編では、ジルは自ら慈善事業に乗り出す(らしい。読んでません。すみませんagain)。慈善事業が偽善であるという立場に立てばこれは偽善が再生産されていくだけの物語なのだが、私はそうは思わない。いちど困窮する立場にたった人は、立場が変わってもそれを忘れない。ま、忘れる人もいる。よけいに攻撃的になる人だっている。けれど、自分が貧乏人だったことを忘れない人は、自分が豊かになったときに、そこに問題があることをはっきりと見るはずだ。そういう人にとって、貧困の問題は自分自身の問題だ。自分自身の問題として、解決しなければならないと思う。そして声をあげるだろう。

社会は、人々の意識によってできている。「言葉は神」、人々の意識は言葉によって変わる。多くの人が、はっきりとものを言うことで社会は変わっていく。貧乏人が貧乏人の言葉で問題を語ることが、問題の解決への第一歩となる。自分自身の言葉で語るために重要なのは、それをするだけの最低限の余裕をもつことだ。つまり、目の前の貧困による苦痛を脱出することだ。つまり、個別の「私の貧困」を解決することだ。重要なのは貧乏人が金持ちになることではなく、貧乏人が貧乏人として発言力を高めることだ。ライフハックは、そのためにこそ有効。

「物質的な欠乏」によって苦難を味わう人々は、まずはその欠乏によって押しつぶされてしまってはならない。つぶされないようにするためには、どんな工夫をしてでも生き延びることだ。少しでも暮らしを楽にすることだ。そのためには、ライフハックだって吝嗇だって、あるいは慈善だってラッキーだって、なんだって活用したらいい。社会的な問題解決は、その先にある。たぶん。