シアワセの容相

あしたはこっちだ

ごった混ぜ

永遠に続くものはない。その事実を直視すれば、物事はどう始めるかと同じぐらい、どう終わるかが重要だとわかるだろう。たとえば会社。現代的な企業は、終わり方を規定していない。原初期の会社はそうではなかった。定款に目的が具体化されていて、その具体的な目標が完了した時点で会社は清算されるべきものだった。しかし、定款記載事項が抽象化していくなかで、事業というものの終わりが見えなくなった。だから、現代では「目的を達成したために会社が終わる」という事態はもはや発生しない。会社が終わるのは不渡りを出したときであったり事業が買収されたときであったりであって、そしてそういう終わり方は事業を始めた時点で予測できるものではない。つまり、行きあたりばったり、「やってみなければわからない」式の無責任。

もちろん、物事はやってみなければわからない。だからといって、始めるときに終わりを想定しないのは、あまりにも知恵がない。料理を始めるときには後片付けまでの手間を想定するものだし、旅行に行くときには帰ってきたときの段取りをつけておくものだ。仕事を請け負ったら、納品までのスケジュールはきっちりと組まねばならない。もちろん、請求書を書いて売上を確保するところまでイメージがつながっていなければ、およそ仕事は仕事ではない。

と、立派なことを書いておきながら、ブログをスタートするにあたって、明確に終わりを意識することはめったにない。もちろん、極端なほどに意識する場合もある。かつて私は「Ubuntuを使う100の理由」というブログを書いたことがあったが、これははっきりと、「100エントリーで終了」を想定して始めたものだった。こういう例は、たしかにある。あるいは、若い頃のバンドの音源をネット上にあげておくことだけを目的にしたブログなどは、音源が尽きた時点で終わりになるべきものだったし、実際にそうなった。

けれど、ほとんどのブログが、勢いだけで始めている。かつて私はブロガーズネットワーク翼なる場所でブログを書いていたのだが(ブログのタイトルそのものも覚えていないぐらい適当だった)、単純に「ネタ系のブログが書いてみたい」という欲求だけでスタートして、どこまで行くとも見当をつけていなかった。だから、その場が潰れた際に、「もういいや」と無様な投げ出し方をしてしまった。このはてなでも、以前には「言葉職人のデスクトップから」という日記を書いていたのだけれど、あまりにもいい加減に始めてしまったため途中でひどい内容になり、公開を取り下げてしまった。やはり、「どうやって終わるのか」を考えておかないと、ロクなことはない。

たとえ勢いだけで始めるブログでも、、明確な意識とまではいわず、終わりのイメージはもてるものだし、あるいは多くの場合には私もそうやってきたのかもしれないとも思う。始める時点で「だいたいこのあたりで」という予想はつくし、無限に続けるつもりでやるものはひとつもない。たとえばエアパスの家を建てる、住むというブログは、「この新築住宅のことで書くネタがある限りは続けよう」と思っていた。築後数年たって書く内容に繰り返しが多くなってきたところでエントリーが途切れたのは、ある意味、当初に想定した終わり方だったのかもしれない。ポップな歌のEnglishという趣味系のブログは、本当は300記事ぐらいを目標にしていたのだけれど、その半分ぐらいに達したあたりで「だいたいもういいかな」と思えるようになったから終わりにした。私にとっては300も150も似たようなものであったわけだ。

こんなふうに程度の差はあってもなんとなく終わりを意識するのは、基本的に私はブログをひとつの書物のように考えているからだろう。つまり、ひとつのテーマがあって、それについて語り尽くせばその書物は終わる。だから、上に列記した私の過去のブログは、それぞれにテーマがちがう。ここにあげたものだけではない。私はこれまでに、自分でも正確にはかぞえられないほどのブログを書いてきた。そのひとつひとつがそれぞれのテーマをもっていて、だからそれをひとつにまとめるなど考えられない。まとめてしまったら、読者が困るだろうと思うわけだ。

たとえば、子ども向けの「おはなし」をテーマとしたブログがある。ブログというよりも作品集であるわけだけれど、こういうサイトの構築もブログ形式のほうが楽にできる。ごく限られたニッチ向けのサイトだと思うし、実際ビジターも1日に5〜6人とかの呆れるほどささやかなレベルなのだが、ときに1日で数百PVにも伸びることがある。ハマる人には面白いサイトになっているのかもしれない。その一方で、私が最も古くからやっているUbuntuのある日々は更新ペースが激減した現在でも毎日100人以上が訪問し、1000PV以上の閲覧がある(まあこういう数は非常に信頼性が低いのではあるが)。いずれもそれなりの価値はあるサイトだと思っているのだが、もしもこの2つを混ぜてしまったら、その価値は失われてしまうだろう。英語についてのうんちくを読みたい人は意味不明の夢の記録を見せられたら困惑するだろう。家庭教師の生徒を募集するためのサイトを見ていていきなり私の個人的な日記が出てきてもそれは話がちがう。ものを書く以上、必ず読者は想定するわけで、その読者が困るようなことはしないというのは、最低限の礼儀ではないかと思う。

 

だから、基本的に私はテーマを混ぜない。こんなふうに自分の書いてきたブログの一覧(のごく一部であっても)を公表するようなことは、いままでになかった。それを今回、いきなり冒頭の記事で書くのは、考えが変わったのだろうか。

そうではない。単純に、今回のブログのテーマがそれを要求するからだ。このブログのテーマは、「私」である。そういうテーマを選んだ理由はもちろんある。その話は別の機会にするとして、「私」をテーマにする以上、その属性として、いろんなものを混ぜこまないわけにはいかない。

以前にも少し似たことを考えたことはあった。それは、ソーシャルメディアが日常のものになった4〜5年も前のことだったろうか。Facebookのような場を活用しようかと思ったことがあった。SNS、特にFacebookは、その人のあらゆる側面を区別せずにとり込む性質がある。好むと好まざるとにかかわらず、自分自身のあらゆる面がそこに投影される。そういう場では、必然的に私が書いてきたさまざまなことは渾然一体と混ざりこむ。

しかし、私はそれがどうにもピンとこなかった。正直、嫌だった。そういうことを始めたら生涯それに付きあっていくのだろうか? 終わりが見えないプロジェクトには二の足を踏む。やはり私は、ひとつのまとまった作品をつくりたいのであって、どこまでがまとまりともつかないSNSは少々ズレてしまう。

時代遅れであるのかもしれない。Webの世界は、日本ではニフティの掲示板の時代からさまざまな形態を経て進化してきた。もしもいまだに「ホームページ」をつくっているような人がいたら、骨董品扱いだろう。個人でメールマガジンを出しているひともいない。これらは古色蒼然なメディアだ。いずれブログもそうなる。というよりも、もうすっかりそうなっている。

とはいえ、無理矢理に時代に合わせるのではなく、自分にあったことをしていけばいいのだと思う。そうすれば、みんながSNSに飽きた頃に、古臭いブログなんかよりももっと自分にあったメディアが登場する。そのときに周回遅れで集団にそっと紛れ込めばいいだろう。なあに、誰も気がつきはしない。

 

ということで、私は十年来続けてきたことを、さらにここでも続けようと思う。これまでとちがうのは、自分自身のいろんな側面を思い切ってここに展開していくこと。だが、それも、やはりひとつのテーマからは外れない。そのテーマがある以上、やはりこのブログがどのあたりで収束するのかも、なんとなくイメージはある。そこにたどり着けるのか、それとも過去にやってきた無数の失敗と同様にフライングで終わるのか。

ひょっとしたら、スタートはやり直すかもしれない。それでも、たぶん今回のテーマは、どこかでどうにかして取り組んでいくだろう。それが必要だと、ここのところひしひしと感じるのだから。