人は、人の能力を正しく測定できるのだろうか?

ある人に何かの能力があるかどうかを知るには、実際にそのタスクをやってもらうのがいちばんだ。たとえば、ある人がお茶を点てることができるかどうかを知りたければ、お点前をお願いすればいい。よどみない動作で美味しいお茶をいれてくれたら、素人目にも、「ああ、この人はお茶ができるのだな」とわかる。茶道の目的がWikipediaにあるように)「人をもてなす際に現れる心の美しさ」にあるのであれば、実際にもてなしてもらって、その動きを観察すればいい。美しい心は自ずとかたちになってあらわれるものだから。

けれど、茶道の達人であれば、そこまでの必要もないらしい。茶室を横切るその歩き方を見るだけで、しっかりとした茶の心得があるかどうかがわかるそうだ。きちんと茶道を学んだ人は、畳の上の歩き方からしてはっきりとちがう。そういう細部をゆるがせにしない気配りが、自然に身についているものらしい。

さて、ここで、多くの人々を対象に、茶道の心得があるかどうかを検査しなければならない事情が発生したとする。たとえば茶道の能力によって国家から一定の年金が支給されるようになったとでもしようか。こういう制度がもしも実現したら、人々はこぞって茶道を学ぼうとするだろう。受験者も殺到するにちがいない。

けれど、残念なことにお茶の道は時間のかかるものだ。師匠について何年も、細かなことをひとつひとつ身につけていかなければならない。その一方で、試験を実施する側もたいへんだ。お茶の実力の判定のためにいちいち茶席を設けなければいけないとなると、けっこうなコストがかかる。どちらの側にも、いろいろと問題が発生する。

ただ、お茶の能力は歩き方だけで判定できる。だとしたら、能力判定のためにお点前させる必要はない。受験者を師範の前で歩かせればいいということになる。試験が歩き方だけでいいとなったら、「じゃあ歩き方だけ練習すればいいじゃない」と考える不届き者が出るのはあたりまえだろう。そして、お茶を極めた結果として美しい歩き方ができる人と、歩き方だけを集中的に練習してそれを身につけた人と、おそらく判別はできない。もしも判別できるとしたら、その細かなちがいを分析して、さらにそこを訓練することで対応ができる。茶道の実力が歩き方だけで判定されるようになったら、ほとんどの人が「お茶の練習とは歩き方の練習である」と受け止めるようになるだろう。そこに何の不都合もない。

けれど、もしも本当に茶道の能力を評価したいのなら、それはちょっとおかしい。では、どうするか。たとえば歩き方の練習だけ積んだ人には、袱紗がさばけない。ならば袱紗のさばき方も試験項目にい入れればいい。いや、茶道はやっぱりお茶をいれてこそだろう。茶筅の使い方もチェックしなければならない。こうやって項目が追加されれば、それぞれの項目について受験者は一生懸命練習するようになるだろう。全てのチェック項目にパスすれば、その人は茶道を極めているといえるはず。そうだろうか?

一般に、「AならばB」であることは、必ずしも「BならばA」であることを意味しない。「茶道の心得がある人はきちんと歩ける」が正しいとしても、「きちんと歩ける人は茶道の心得がある」とはいえない。ただし、普通なら、後者も実用的に正しいといって問題ないのだろう。つまり、他人に茶道の心得があると錯覚させることを目的として歩き方を練習するやつなんて、ふつうであればいないからだ。これは、「歩き方」を「歩き方と袱紗の扱いと茶筅の扱いと…」と項目を増やしても同じこと。むしろ、項目を増やせば、常識的には逆はほぼ正しいといえるはず。

ただし、ここにそうやって人を欺くことが何らかの利益につながるような事情が発生すると、一気に話は変わる。これらのチェック項目さえクリアすればお金がもらえるのだとなれば、人はその項目の一つ一つについて最低限のコストで最大の効果を出すような投資をしてくるものだ。「茶道の心得があるからできるはずのこと」が、「茶道の心得があることを示すためにできなければならないこと」として習得されるようになる。たとえそのようにして習得される技術が基本的にチートであって、茶道そのものではないとしても。

むしろ、そういったことをする人々にとっては「茶道を学ぶこと」と「茶道の試験に合格するための練習をすること」の区別がそもそもつかないだろう。なぜなら、「歩き方ができ、袱紗が捌け、茶筅が正しく扱え…」といった項目ができれば公に「茶道の心得がある」と認定されるときに、それらの個別の練習をすることが茶道を学ぶことでないわけはないではないか。そうではない、というのは、お茶の師範であれば誰だって思うことだろう。けれど、「いや、歩き方さえ見ればお茶をやってるかどうかはすぐにわかります」と主張したのは師範自身であり、その言葉に間違いはないはずだ。さすがにそれではまずいと思っても、「じゃあ、歩き方も袱紗のさばき方も何もかも全部完璧だったらいいじゃないですか」と言われたら、言葉の返しようもない。たとえそれが「BならばA」でもって「AならばB」を担保しようとする無茶ぶりであることが明らかであっても、反論はできなくなってしまう。

これがいま、学校教育で起こっていることだ。学校教育の目的は、ごく大雑把に言ってしまえば批判的思考力やコミュニケーション能力、情報収集・処理能力を身につけることである。これは私が言ってるんじゃなくて、文部科学省が出している学習指導要領に書いてある(要約のしかたが大雑把すぎるのは私のせいだけれど)。そして、随所で行われる学力試験(考査、テスト、その他いろいろな名前で呼ばれる)は、「そういった能力が身についていたらこのぐらいは解けるはず」という観点から、問題を作成し、出題するものだ。つまり、授業を中心とする日常の学習活動の中での目標の達成度を把握するために実施されるのが試験である。そして、日常の学習活動は、常に教育の目的である現代社会に必須の能力の獲得のために行われるはずのものだ。ところが、いったん試験によって評価するという風習が定着してしまうと、「試験で高得点をとる」ことが「学習活動の達成」とイコールであるという誤解が生まれる。つまり、「AならばB」であるはずのものが、「BならばA」として解釈される。結果、「学習活動」はすなわち「試験対策」と同義になり、試験に出そうな問題を繰り返し練習することが「勉強」であると受け止められるようになる。こうやって、最終的には入試をゴールにおいた現代の教育システムができあがる。

私は何も、「試験のための勉強は誤っている」と、一義的に断罪するものではない。なぜなら、もしも何かをすることで明らかに利益が得られることがわかっているときに「それはちがう」とダメを出す権利など、誰にもないからだ。ゴミのような練習問題を繰り返し解くことで試験で高得点が得られ、高得点が得られることで難関校に合格が決まり、それによって最終的に生涯年収が数千万円から数億円ちがってくるようなときに、「それは本末転倒だから」とストップをかける権利は、少なくとも教師には、ない。たとえチートであっても、そこをくぐり抜けていくことで人生を築き上げていくことを私たちは何ら非難できない。

もちろん、個人的には基礎的な能力を上げていくことでほとんどの試験問題は解けるようになるものだと信じているし、最終的にはそちらのほうが早道で、より高いところまで到達できる方法だと思っている。だから自分の生徒にはなるべくそういう教え方をしているのだけれど、その一方で目の前にテストがぶら下がったときには、やっぱり(特に進学のための受験を前にした時期には)チートである点取りゲームを率先して指導する。だいいちが、「試験対策こそ勉強」というわけのわからない信念のもとに長年培われた教育体系の中では、ある程度それに合わせたこともやっておかないと、生徒が著しい不利益を被ってしまう。だから、私だって付き合い程度に試験対策はやるし、その程度なら大きな害悪もないのかとさえ思う。ときには、そういった圧倒的な誤解の中で本来の目的である批判的思考力やコミュニケーション能力をどうやってつけさせるかという課題こそが、プロとしての自分のセールスポイントであるとさえ思ったりもする。

つまり、現状は原則論からいえば問題だが、現実論からいえばしかたないといえる。あるいは、教育の内側だけの議論では変えられない問題だから、内側の議論をしても始まらないと思う。これは、試験によって人間を評価する社会システムのもつ問題であり、学校を序列化のための道具として利用してきた産業社会全体の問題だから、そこを含めた議論をしなければ解決への糸口は見えない。そこを無視して教育の中身だけで話をしても、「学力評価にはどんな方法が適切なのか」みたいなところにしか落ち着かない。ところが、「試験対策」が効かないタイプの試験にさえ対策しようとするのが業界のならいだ。序列化が前提になっているとき、その方法を変えても結局行き着くところは同じ。

私が問題にしたいのは、そういった現実があることは重々承知の上で、なお、「学力=試験の成績」つまり、「AならばB」として設計されたものを「BならばA」の研究に使って何の疑問ももたない教育研究の世界のことだ。「学力試験」の成績を「学力」として扱って平気な研究のことだ。そういうものが存在する、というよりも、学力に関する研究にはほとんどそういうものしか存在しないことを最近知って愕然とした。それって、科学的じゃないから。

科学的な研究では、実験が重んじられる。実験結果は、統計処理されて議論の根幹となる。なるほど、特に近年の教育関係の研究は、そのあたり、きっちりできているように見える。けれど、その実験結果としての学力試験の得点は、どのような意味をもった数字なのだろうか。

ほとんどの学力試験において、生徒はそれぞれ高得点を目指す。これは、小学校の高学年から中学生ぐらいにかけては特に顕著になる。なぜなら、高得点をとることが彼らの利益につながるからだ。この「利益」とは、、たいていの場合、保護者からの承認が得られるであるとか、クラス内での地位が確保できるとか、何らかの方向付けをされた価値観が満たされることによる快感であるとか、およそ学習活動の目的とは無関係なものであることが多いのだが、それはそれでかまわない。ともかくも、多くの生徒が「よい点を取ろう」と努力をすることが、現実の学力試験においてはふつうに発生する。

ところで、たとえば糖尿病に関連して何らかの薬品の効果を実証しようとしている研究があるとしよう。当然、ランダムに被験者を選び、無作為抽出によって投与群と対照群を分け、一方に薬品を与え、他方には偽薬を与える。さて、この被験者に対して、「これから糖尿病の実験をしますから、頑張って糖尿病を治しましょう」と告げることは、実験をよりよいものにするだろうか。実験結果の数値、たとえば血糖値の数値目標を設定し、そこに近づけるために患者に頑張らせることは正しいだろうか。7日おきに血糖値を測定すると決めたとき、「水曜日は測定日だから、火曜日には腹八分でお願いします」みたいに患者にお願いすることは正しいことだろうか。

もちろん、そういうことをやってもきちんと比較ができるように、対照群を用意してあるわけだけれど、それでもやっぱり、「よい結果を出すために普段とちがうことをする」というのはタンパリングであって、実験結果の信頼性を落とすことになる。仮に一部の被験者が試験薬以外の薬品を使用したとしたら、その人々は統計から外すべきだろう。科学的な試験の基本は、調べたい条件以外の部分にはできるだけ触らないようにすることである。

ところが、「学力」を測定する試験では、あらかじめよい点数が取れるような「対策」を実施することが常識になっている。その時点で既にこれは科学的なデータとしてはかなり有効性が下がっていると言わざるを得ないだろう。それも、その「対策」が、目先の点数を上げるため以上の意味をもたないようなものでしかなく、かつ、それを実施することで実際に点数が大きく変化してしまうとき、何らかの働きかけ(たとえばある教材を使用した理科実験の手法)が生徒の理解(理解度が高まればテストの点数が上がるものとしてテストが設計されている)を高めたかどうかなど、どうして試験の点数から判別できようか。そういった効果は、「テスト勉強」の前に埋没してしまうのが明らかだというのに。

正しい測定というのは、案外とむずかしい。特に、測定の対象が人間である場合には、かなりむずかしい。それでも、その困難を超える方法を科学は編み出してきた。

だが、測定の結果が人間の利害に直結するとき、すなわち社会的な力関係を規定してしまうとき、測定される人間はありとあらゆる方法を使ってその測定の裏をかこうとする。試験があれば、必ず対策をしようとする。その対策をすることが正しいことであるとさえ信じ込んでしまう。結果として、測定結果は全く信用できないものとなる。

だから、世にあふれた「○○学習法」みたいなのは、およそ科学的な根拠をもたないものとなる。それでも私は、やっぱり何らかの方法で、人間の批判的思考力やコミュニケーション力、情報処理の力を高めることができるのではないかと思っている。だって、それが仕事なのだから。そして、科学的な根拠があればなあと思う。思うのだけれど、それを正しく測定する方法は見つからない。だって、テストやったら、みんながんばってしまうんだもんなあ。

60年前のスパゲティレシピについて

なんか、しょうもない増田につけたコメントにやたらと星がついてるみたいなので、補足しておく。いや、補足するほどの情報もないのだけれど、ちょっと誤解を招いてはいけないなあとも思ったので。

30年前のスパゲッティ

一方、60年前に出された料理本には、「スパゲッティの麺は手に入りにくいので、細めのうどんを使います」と書いてあった。

2018/06/05 18:23

b.hatena.ne.jp

 

元増田

anond.hatelabo.jp

に関しては、「ちょっと時代がズレてないか」みたいな指摘もブコメに多い。私もそう思わないでもないが、まあ、地域差、コミュニティの差というようなものもあるのだろう。私自身の経験ではたしかに子どもの頃はいわゆるナポリタンが標準で、それが70年代にミートソースが出始め、80年代にはもう一通り揃ってたような気がするのだが、個人的には自分自身の成長の中で新しいものを知っていったという感覚なので、それが時代と関係していたとまで断言する気にはなれない。

 

さて、60年前の方だが、60年前には私は生きていない。じゃあなぜ、「60年前の料理本」なんて書けるのかというと、これはウチの母親が嫁入り修行中に買ったと思われる料理本で、長らく母親のネタ本になっていたのを中学生か高校生ぐらいのときに面白半分で読んだのを覚えているからだ。だから、ひょっとしたら70年ぐらい前のものかもしれない。奥付もちゃんと見たのだけれど、はっきりと覚えていない。ただ、1945年よりは後のものであったことはまちがいない。だから、70年以上前ということはないだろう。

 

「スパゲッティの麺は手に入りにくいので、細めのうどんを使います」というのは、そこに書いてあった。もうちょっと正確には、「細めの乾麺をゆでて使います」だったと思うが、正確な表現は思い出せない。なぜそんなことを覚えているかといえば、なんだかあまりにもあんまりだったので、とてつもなく奇妙に思ったから。私が子どもの頃にはもうスパゲッティは日常食だったから、「これはあり得ないよな」と思ったのも無理はない。

 

さて、ではこの料理本が書かれた1950年代には、それほどスパゲッティが珍しいものだったのだろうか。私はそうは思わない。いまのようにイタリアンの店がそこらにあるような状況ではなかったとはいえ、戦前から洋食を食わせる店はあり、スパゲッティもそれなりに供されていたらしい。では、なぜ「うどん」なのか。それは単純に戦後の物資不足のせいなのだろう。

第二次世界大戦後、日本は食糧難に陥った。何もかも放り出して総力戦を戦ったツケが回ってきたわけだ。戦争中は、案外と食い物はあったらしい。これは、自国内での生産が十分でなくとも、植民地から食料を移入できたから、というのが大きいようだ。だから、植民地の方の食糧事情は悪化したのだろうと思うのだけど、今回、そこまでは調べていない。ともかくも、植民地は失う、国内の農業は働き手を失って生産力が低下している(ちなみにこの頃にいまでいう中学生ぐらいだったウチの親父は、ムラに残った数少ない労働力としてこき使われ、百姓が厭になってしまったらしい)。そんな日本人を餓死させるわけにいかないから、アメリカは多くの物資を日本に支援した。その主力は小麦だったわけだが、大部分は薄力粉だったようだ。

スパゲッティは、グルテン含量の高い強力粉でつくられる。一方のうどんはふつうは中力粉でつくるが、いよいよなければ薄力粉でつくれなくもない。ということで、おそらく日本の製麺業界は、うどんの乾麺はつくれても、とてもスパゲッティまでは手が回らない状態だったのではないだろうか。

 

そういう状態は長くは続かなかったようで、この料理本の奇妙な記事を発見した私が母親に「むかしはスパゲッティの代わりにうどんを使ったの?」と尋ねたときには、母親は馬鹿にしたような顔で「そんなん、聞いたことない」と言い放った。だから、実際にうどんの乾麺をスパゲッティの代用にしなければならない時代はほんの短期間で終わったのだろう。おそらく花嫁修業中の母親がスパゲッティの項目まで進むまでに、スパゲッティは入手可能になったのではなかろうか。

 

もっとも、私の記憶にある家庭のスパゲッティは、ふにゃふにゃのゆで麺であり、決しておいしいものではなかった。あれだったら、うどんで代用というのも、あり得なくはなかったかもなあと思う。

 

資料が1冊の料理本に過ぎないので(しかもそれが記憶の中の断片に過ぎないので)、これ以上書くことはない。ただ、こういう食にまつわる歴史は、古本屋とかに行けばそれなりに資料も手に入るはずなので、いつか時間ができたらもうちょっと漁ってみたいなあとは思う。時間、あるのかなあ…

「文化の格差」という捉え方をやめよう - ちがっているのがあたりまえ

地方都市は住みやすい

若い頃、田舎まわりをしていた。それについて書き始めたら長編小説並みの自分語りになるのでやらないが(いつか書き残しておきたいとは思うけど)、沖縄を除いてほとんどの都道府県に足を踏み入れた。風来坊を泊めてくれる奇特な農家の厄介になって、いろんな田舎を見ることができた。もちろん、日本の隅々まで見たというつもりはない。田舎は実に多様で、山ひとつ越えれば風土も暮らし向きもちがう。人間だから、隣同士の人でも考え方がちがう。数十箇所の個別の事例だけからは、容易に全体像は見えてこない。そういう意味では、私は農村部の暮らしやそこでの生活感覚について、たいして知っているわけではない。

一方で、近畿地方北部の地方都市とその周囲の農村については、少なくとも都会を離れたことがない人たちよりは知っている。あわせて十年あまりの歳月をそこで過ごしたからだ。人口10万人レベル以上の地方都市に住んでみると(これも場所によって一律ではないとは思うが)、その便利さに驚く。なにしろ、必要なものがほとんどワンストップで揃っているからだ。たしかにいま、地方ではクルマが必須となっている。けれど、コアな部分は徒歩でぐるっとひと回りできる範囲に揃っている。東京だったら神保町で打ち合わせをしたあと渋谷で買い物をして、都庁に寄ってから池袋に呑みに帰ったら、その移動だけでずいぶんと時間がつぶれてしまう。地方都市だと喫茶店は駅前だし、買い物をするのは駅前の商店街(もっとも最近は郊外のショッピングセンターに移ってちょっと不便にはなったが)、役所はたいてい駅から歩いて10分以内だし、飲み屋も駅と役所の周辺が多い。都会のようにあちこち移動しなくても、だいたいの用事が身の回りで片付く。そんな場所に事務所を構えたら、必要なものはすべて近所で手に入るから、仕事が捗ること。

もちろん、提供されるサービスの量は小さいし、質も必ずしも高くない。たとえば裁判所は支部でしかないし、国の出先機関が少ないのでたとえば産業局への書類申請は中核都市まで出向かなければならなかったりする。いまでこそマニアックな品物はWeb経由で発注できるようになったが、私が地方都市にいた頃にはちょっと変わった品物は大阪や東京に出張した折に仕入れてくるしかなかった。ライブハウスや市民会館に大物がやってくることもふつうはなかった。図書館の蔵書は少なく、見るからに市役所から左遷されてきた職員のレベルも最低だった。美術館に常設されているのは、全国的にはほぼ無名の地元芸術家の作品でしかなかった。

しかし、それをもって「文化程度が低い」と断じる気には、私はなれない。なぜなら、その私にとって故郷ともいうべき地方都市にいたときのほうが、それ以前に住んでいた大阪、東京、京都といった大都市に住んでいたときよりも、あるいはその後に移ってきて現在住んでいる神戸市の近郊での暮らしよりも、生活はずっと優雅だったからだ。暮らしが優雅なことを文化的と表現するなら、あの頃が私の人生の中で最も文化的だった。

なぜなら、それは質と量の不足を補う利便性があったからだ。図書館ひとつとっても市立図書館のレベルは情けないものだったが、大学(これもいわゆるFランなのだろうが)の図書館はそれなりにしっかりしていて、そしてそれが市民利用を認めていることも広くアピールされていた。車社会だから、隣の自治体の図書館に足を伸ばすことも気軽にできた。やってくるアーティストの格は低かったかもしれないが、その分だけ低価格で気軽に覗きに行けた。地元に定着している田舎暮らし系のアーティストたちは都会にもっていけば吹けば飛ぶようなレベルなのかもしれないが、十人前後の集まりで目の前で演奏してもらう機会、作品の解説をお茶なんか飲みながら作者自身がしてくれるような機会は、それなり以上のインパクトがあった。田舎の資料館には、全国的な著名人の資料が収蔵されていて驚かされた。田舎の強みはそこに流れる時間の蓄積であり、長い歴史の中ではどんな草深い田舎でも一人や二人の偉人を生み出しているものだ。数は多くなくとも、一点突破式に歴史の複雑さを学ぶことができる。そして、そういった公共施設の多くは無料だ。こんなふうに、田舎は案外と、かんたんに文化的な生活ができてしまう。

多様性こそ文化の源

都会の多様性は、人口の多さによって担保されている。たくさんの人がいれば、それだけいろんな人がいるという理屈だ。数がいれば、その中に優秀な人が含まれる確率も上がる。枠からはみ出る人、変人や奇人、おもしろい人、魅力的な人が含まれる確率も上がる。いろんな人がいるから、都会は輝く。

しかし、都会というシステムが多様性を産み出すものかといえば、むしろそうではないだろう。都会が人を惹きつけるのはそこに仕事があるからだが、都会で行われる仕事は基本的に規格化、統一化されていて、業務内容の多様性にもかかわらず、生活に与える影響は似たりよったりになる。結果として、都会は多様性に富むのだけれど、人口の割には変異の幅は小さくなる。

一方の田舎は、人口が少ない分、どうしても極端な変異は見つけにくくなる。超一流の人は、田舎よりも都会に見つかる確率が高い。しかしその一方で、田舎は多様な生き方を許容する。そういうとちょっと都会人の常識とはちがって聞こえるのかもしれないが、かつて画一的な農作業を基準に統制されていた農村経済はとうに崩壊し、個別の状況や工夫で生き延びることができる人が田舎の主力になっている。資産を食いつぶしている人、役所や農協のような安定した職場を見つけた人といった保守的な生存戦略をとっている人々から、起業(第二起業)で起死回生を図る人や新しいライフスタイルを試みる人のようにアグレッシブな生存戦略を選ぶ人まで、およそ都会のような「会社に勤めてりゃなんとかなる」が通用しない世界では、それぞれがそれぞれの事情に応じて生き方を探るしかない。結果として、地方都市や農村には、都会とは別なかたちでの多様性が生まれる。

そして、世界が狭い分だけ、その多様な人々が互いにかかわり合う場面が多くなる。若いころ、東京の都心部に住んでいて「山の中でだれにも会わずに暮らしたい」と思ったりしたものだが、現実には世捨て人の生活は、都会でこそ可能になる。生きていくためには必ずだれかとかかわるわけで、そのかかわりを無名性の中で実行できる都会とは異なり、田舎では多くの場合そこに特定個人が紐付いてくる。結果として、やたらといろんなところにつながりが生まれていく。好きでもないところに引っ張り出されたりもするが、それが新たな発見につながることもある。身の回りには、思いもかけず多様な世界が広がっていく。そういった地方都市やその周辺部での暮らしは、私にとって十分に文化的だった。それは、いろんな人に出会えたことが大きいのだと思う。人間の多様性こそが、文化を支えている。

「文化と教育の格差」論

文化というものを意識しない多くの人にとっても、やっぱりそういった地方での暮らしは十分に文化的なのだと思う。草深い田舎に住んで俳句の投稿を欠かさない高齢者、伝統の織物や染め物を受け継ぎ、ときにはローカルな講座で講師をつとめる農村の婦人部の人々など、文化という視点から見て評価に価する人々はいくらでもいる。田舎の文化程度が都市に比べて低いなどというのは、寝言でしかない。

それでは、最近はてブで賑やかなこういう一連の議論の中での「文化と教育の格差」は、どう受け止めればいいのだろうか?

gendai.ismedia.jp

gendai.ismedia.jp

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ここで問題になっているのは、一義的には教育の格差である。そして、教育の格差の要因としての文化の格差が問題になっている。それが存在しない、などと真正面から否定してしまうことはできない。なぜなら、上記記事の2名の著者、そしてそこにコメントを付している多くのブクマカたちの議論を見れば、何らかの格差が存在することはほぼ否定できない事実だからだ。議論は、それが存在するかどうかについてではなく、どちらかといえばその表現や受け止め方が妥当かどうかというところを巡って行われている。あるいは、それがどう作用しているのか、どう変わっていくべきなのかという次元に向かっている。

では、ここで問題になっている格差とは何だろうか? それは、最終的には経済格差の話である。つまり、現代社会では階層化された学校システムの上位に進んだ者ほど経済的に上位に到達する。学校システムの中での順位差は教育によって発生し、教育を支えるのは文化である。経済格差が厳として観測される以上、そのもとをたどれば文化格差が存在しないはずはない。当然だろう。そして、水野氏のブログの結論:

阿部幸大氏は東大を経て現在はアメリカで学究に励まれているようであるが、「文化と教養の格差」克服のために、ぜひとも将来は釧路に戻られ、地域の若者に薫陶を授けていただきたいと思う。

は、つまり学校システムの上位に上り詰めた人に対して地方に戻ることを奨めているわけだが、結局のところこれは経済社会の中での上位者に地方に戻れと言っているわけで、それはつまり経済の還流をせよと提案していると捉えていいのだろう。それはそれでまちがっていないとは思う。

原理主義者の違和感

そういう話の流れをわかった上で、それでもなお、私は「文化と教育の格差」という捉え方に違和感を覚える。「文化」だけでなく「教育」に関してもそうだ。なぜなら、教育とは人間の成長そのものであり、個別の人間に即してみれば、それぞれの成長が異なっているのは当り前であり、また、その成長の様式もちがう。そこに格差のような集団的な分析をあてはめるのは穏当ではない。穏当ではないが、そういう考え方は成立する。それは、その成長に一定の方向の順位づけをあてはめる場合であり、そして、現に現在の経済社会ではそういった順位づけが行われている。むしろ、学校システムの中のそういった順位競争を順当に上り詰めていくことこそが教育であるというような錯覚さえ与えてしまう。そういう枠組みに立ったときには、そういった一方向への進行を促進するものと阻害するものという観点から、格差という捉え方が可能になる。それに密接に関連する要因として文化があるのなら、そこをひとつにひっくるめて「文化と教育の格差」という括り方が可能になる。そういう括り方をしてしまえば、それは確かに存在するし、それはどうにかしなければならない問題というふうになる。

だから、ここで私は2つに分裂してしまう。現状のそういった教育システム、あるいはそれを前提として成り立っている経済システムが実際に存在しているということから出発すれば、これらの記事にあるような議論に参加できる。しかし、その一方で、「教育なんてそんなもんじゃない」「文化ってそういうもんじゃない」という立場からいえば、こういう議論はトンチンカンなものにしか見えない。東大行くことがエライんじゃなくて、その人がその人生を豊かにできるだけの知恵をつけることが重要なんだ。それが教育の意味だ。文化は競争のためにあるのではなく、人間の暮らしそのものが文化なんだ。そういった原理主義に立てば、寝言は寝て言えという気分にもなる。

そして、私自身が地方都市やその周辺で体験したことを照らし合わせ、さらに自分自身が受けた教育が階層社会の中で上位に進むことには何の役にも立たなかったにもかかわらず自分の人生を豊かにしてくれたことを思うにつけ、やっぱり大都市と地方の「文化と教育の格差」なんて、幻に過ぎないのだと改めて思う。確かにちがいは存在する。それはときには経済格差にも結びつき、場合によっては地域の消滅にもつながりかねない深刻な問題にもなる。それに対処することは十分に重要だ。けれど、それは、そういった格差を生み出してる競争社会、学歴社会、金儲け優先社会の枠組みの中に参加することで解決できるものではない。そこから抜け出したときに、大都会と地方の間に存在するのは単なるちがいであり、ちがいはあってあたりまえであり、そのことが上下方向の差、つまり「格差」であると意識されないものになるはずだ。

そういう世の中になって欲しいと思うんだが、さて、それはこの世界線ではなかったかもしれないなあ。私はやっぱり、異世界から転生してしまった人間なんだろうか? そんなわけ、ないか。

「やる気」という神様

(以下、「家庭教師のための講座」のための原稿下書き)

生徒に教えていると、「やる気」がなくて困ることって、たくさんありますよね。生徒の「やる気」がなくて困ったこと──そうですよね、皆さん、大きく頷いてらっしゃいます。皆さんの経験でけっこうです。生徒の「やる気」がなくて困ったこと、どんなことがありますか?

「宿題をやらない」。そうですね。やる気がない生徒は宿題を出してもなかなかやってくれません。「居眠りをする」。ありますね。中学生とか、特に夕方の時間帯に居眠りをされることがよくあります。「学校の授業を聞いてこない」。そうなんですよ。家庭教師がいくら頑張ろうと思っても、授業聞いてなかったら、最初っから説明し直さなきゃいけません。時間のロスですよね。「すぐに関係のない話をする」。「集中力がない」。「気が散る」。こういうのは授業にならないです。もうちょっとやる気を出せって言いたくなります。「おぼえてくれない」。「すぐに忘れる」。やる気あんのかって、腹が立ちます。「テストでひどい点をとっても平気な顔してる」。「他人事みたいで当事者意識がない」。こういうのも、「やる気」の問題でしょうか。

「やる気」がないと、こういうことが起こります。つまり、「やる気」があれば、これらの問題が解決するわけです。「やる気」があれば、学校の宿題も家庭教師の宿題もちゃっちゃっとこなすし、自主的にどんどん勉強するし、集中力が高まって、学校でも家庭教師の授業でも、しっかりと聞いて、覚えるべきことは忘れない。常に自分の成績をモニタして、進んで弱点の補強をするし、わからないところはどんどん質問してくれる。成績が伸びないはずはありません。

「やる気」はすべてを叶えてくれます。素晴らしい。まるで、全能の神様のようです。だから、皆さん、「やる気」を高めるための工夫をいろいろなさってますよね。「褒める」とか、「危機感をもたせる」とか、他に何がありますか? モノで釣るっていうのは、ちょっと微妙ですが効果はあります。お家の方にお願いして、生徒のほしいものを目標達成の報酬に設定してもらうとか、ですね。「やる気スイッチ」さえ押せれば、問題はすべて解決する、と。

さて、ちょっと話が変わりますが、皆さん、お米をつくったこと、ありますか? 自分で田んぼをやったことがなくても、日本人ならだいたいのことは知ってますよね。小学校5年生の社会科でも習いますし。この米づくり、基本は弥生時代から変わっていません。苗代で苗を育て、荒起こしから代掻きまで入念に準備した田んぼに移植、水管理と草取りをして育て、中干しやら追肥を必要に応じて行って、稲刈り、天日干し、脱穀、もみすり、最後は精米ですね。まあ、弥生時代は最後の3工程は一緒だったようですけど。

そして、その全ての段階で、トラブルが発生します。むかし、まだ農業技術が発達しなかった頃なら特にそうでしょう。寒のうちから水につけておいた籾が発芽しないとか、苗代の苗が一晩で枯れてしまうとか、荒起こししようと思ったら牛が病気になるとか、代掻きしようと思っても雨がふらず水が足りないとか、田植えに人手が足りないとか、植えた苗がうまく活着しないとか、雑草の勢いが強すぎて稲が育たないとか、虫が大発生してしまうとか、病気になるとか、台風で稲刈り前に全部倒伏してしまうとか、鳥が大襲来してせっかく実ったお米を食べてしまうとか、刈り取った稲がなかなか乾かないとか、収穫が全部ネズミにやられてしまうとか、挙げはじめたらきりがありません。古代の日本人は、こういう苦難を乗り越えて、連綿と米づくりを続けてきたのですね。頭が下がります。

そういったトラブルが連続したとき、古代の人々の中には、「これは神の祟りだ!」と叫ぶ人がきっと現れたことでしょう。たしかに、神様なら(特に日本の八百万の神々なら)、気に入らないことがあっただけでこういった災厄の全てを引き起こすことができたかもしれません。苗代がうまくできないのは神の祟り、肝心なときに水不足になるのは神の祟り、一晩で全ての田んぼに病気が広まるのは神の祟り。自分たちがコントロールできない災厄がやってきたとき、それでも人間はそれに対処しようとします。だから何か合理的に見える原因を探し、そして神様を見つけます。神の怒りを宥めるために祀りをし、供物を捧げ、祈ります。そして、どうにかこうにか災厄から逃れることができたら、神に感謝を捧げることでしょう。そういった古代人の心を私たちは嘲笑うことはできません。

けれど、もしもあなたが現代からタイムマシンで古代に派遣された農業技術者だったらどうでしょう? 同じように神に祈りますか? 苗代の苗に元気がないのは神様がわるいのですか? 水の入ってこない田んぼを前にして、それを神様のせいにしますか? いもち病が大発生したとき、それを神の怒りと感じるのは正しいでしょうか? そうではありませんね。

現代人の常識からいえば、苗代の生育がわるいのは水温が低すぎるのです。太陽の光の当たるところに水路を迂回させたり、あるいは寒冷紗をかけたりして低温を防ぐことで、苗の成長は促進されるでしょう。毎年のように水不足になるのは水利がわるいのですから、用水路を整備したり溜池を造成して長期的な対策をするべきでしょう。稲が雑草に負けるのは水管理がうまくいっていない可能性がありますから、田んぼの均平を徹底したり、深水管理をやってみたりします。病気が発生するのは密植のせいであったり害虫のせいであったりしますから、栽培方法に工夫を加えてみてもいいかもしれません。台風は防ぎようがありませんが、収穫の季節といつもぶつかるようであれば、早生や晩生の品種に変えて栽培時期を少しずらしてみる工夫もあり得るでしょう。

そして、こういった農業技術は、ただ盲信的に神の祟りのせいにする姿勢からは生まれません。そういった言説が説得力をもった時代にあってさえ、やはり「本当の原因は何なのだろう? その原因にどうにかして対処する方法はないのだろうか?」と冷静に分析する人々がいたからこそ、進歩してきたものです。こういった姿勢を、現代的には「科学的」と表現することができるかもしれませんね。

さて、現代の学校教育は、「科学的」であることをひとつの柱としています。これは個人的な信念とは無関係に、否応なく、そういう縛りが入っているのです。学習指導要領でそう決められている以上、公教育では逃れられません。そして、それを補完する形で雇われている家庭教師にとっても、そこを無視することはほぼ不可能です。論理的に考える力を生徒につけていくことが、家庭教師には求められています。論理的であるためには、その前提として、事実を客観的に捉える力が必要です。それを合理的に解釈し、きちんと伝えていく能力が、すべての教科指導の前提としてあるわけです。

そういう前提があるときに、さて、私たちは、「やる気」という神様を持ち出すべきなのでしょうか? 「宿題をやってこないのはやる気がないせいだ」という判断は、いかに説得力があったとしても、「水不足になるのは神様の祟りだ」という判断と同じレベルではないでしょうか? 確かに「やる気があれば集中力が高まる」のは事実かもしれませんが、それは「神様のおかげで豊作だった」というのと同じ程度でしか事実ではないのかもしれません。生徒の「やる気」を賛えるのも神様に感謝するのも正しい姿勢でしょう。けれど、そこで「やる気スイッチ」を探したり神様の喜ぶ供物を考えたりするのは、ひどく浅はかなことではないでしょうか。

もしも「宿題をやらない」という問題が発生したとき、私たちはそれを「やる気」という曖昧なものに転嫁してはなりません。それは、「自分にはそれをコントロールできません」と白状しているのと同じことです。なぜなら、「やる気を高める」と呼ばれている方法のほとんどは、まじない程度の根拠しかないからです。「やる気スイッチ」なんて、人間にはついていません。そういうものがあるなら、見せてほしいと思います。見たことがないものをあたかも存在するかのように触れて回るのは、神様を担いで金儲けをする詐欺師とほとんど変わりません。

「宿題をやらない」という問題が発生したら、その原因を客観的に分析することです。ひょっとしたら、物理的に時間がないのかもしれません。クラブ活動で疲労がたまりすぎていて、とても机に向かえる状態ではないのかもしれません。あるいは、宿題をやらねばならないということに納得できていないのかもしれません。現実に、その生徒にとってその時点で不要な宿題を出してしまっているときに、そういう事態は発生します。家庭教師が「いま、ここで、この課題をこなすことによって、こういう技能が向上する。そしてその技能の向上がいまこの時点で必要になるのだ」ということを確信をもって語れなければ、生徒が納得できるはずはありません。納得がなければ行動はありえません。そういう理由が存在するときに、「いや、宿題は必ずやるべきものだから」とか「学習習慣が大事だから」とか、およそ迷信に近い思い込みで説得しようとしたって、問題が解決するわけはありません。あるいは、家庭教師の説明のしかたが悪く、どのようにして宿題をすればいいのか、具体的なところでわからなくなっているのかもしれません。シャーペンの芯がなくなっていて買いに行けないとか、消しゴムをなくしてしまったとか、「言い訳だ!」と怒鳴る前に、その具体的な理由にひとつひとつ対処していけば、案外と問題は解決するものです。

科学的に学問を教えようというのであれば(そしてそれは明らかに要請されています)、まず、教師自身が科学的でなければなりません。科学的に教えるというのであれば、まず、目的・目標を設定し、手法を考え、環境を整え、その上で発生する問題を客観的に把握し、分析し、論理的に解決策を提案していかなければなりません。そういうことをすべて省略して、迷信に逃げ込むことは楽なことです。古代人が神をもちだしたように、存在するかどうかさえわからない「やる気」のせいにすれば、みんな表面上は納得してくれます。けれど、それではなにひとつ変わらないということを、はっきりと意識すべきだと思います。

それさえできない家庭教師には、本当に「やる気」がないんだと思いますよ。

 

(そのうち、家庭教師相手に講座を開きたいと、ときどき考える。半分本気で。だって、ほんと、何も考えずにただ自分が教えられたようにしか教えられない教師が多すぎるんだもんなあ)

 

 

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追記: こういうのを読むと、やっぱり「やる気がないから」みたいな理由づけは迷信でしかないと思う。単純に二酸化炭素濃度の問題という可能性もある。あらゆる可能性を排除すべきではないよなあ。

togetter.com

数学教育の意味と、残念なその現状について

学校で数学を学ぶのは、何のためなのだろうか。家庭教師として生徒と数学を始めるとき、だいたいは最初のうちにここを生徒に確認する。「何のために数学やるの?」。多くの生徒が「将来困るから」みたいなことを答えるので、「学校で習う数学を使うことなんてほとんどないよ。足し算、掛け算、引き算は、別ね。割り算は微妙かな。あとはふつう、使わない。連立方程式使って買い物する人は見たことないし、速さのグラフを書かなくても電車やバスに乗れる。確率の計算ができなくても天気予報はわかるし、図形の証明ができなくても日曜大工ぐらいできる。数学やらなくても、大人になって困ることなんか、ふつうはないよ。もちろん、数学が役に立つ仕事もある。家庭教師なんて仕事は、数学をわかってないとできない。君は将来、家庭教師になるの?」ぐらいのことは言って、その曖昧さをぶち壊しておく。

もちろん、数学を学んだことは役に立つ。だが、その役に立ち方は、見えないところに現れてくる。その見えない部分が重要なのだけれど、生徒にはそれがイメージできていない。イメージできていないから、なにをがんばればいいのか、どういうことがわかれば「数学がわかった」ことになるのかがわからない。だから、苦しむ。いや、テストの点数は、決して数学の理解を示しているんじゃないから。

数学を学ぶ理由は、私がつらつらと考察してもいいのだけれど、どちらかといえば数学が苦手なしがない家庭教師があれこれと考えなくったって、ちゃんと公の文書に記されている。学習指導要領だ。去年改訂になったばかりの最新版によると、それはこういうこと。

第1款 目 標
数学的な見方・考え方を働かせ,数学的活動を通して,数学的に考える資質・能力を次のとおり育成することを目指す。

という部分は、中学、高校とも同じ。そして、「次のとおりの」の部分もほとんど同じなのだけれど、微妙なちがいがあるから、両方とも引用する。

(中学)

(1) 数量や図形などについての基礎的な概念や原理・法則などを理解するとともに,事象を数学化したり,数学的に解釈したり,数学的に表現・処理したりする技能を身に付けるようにする。
(2) 数学を活用して事象を論理的に考察する力,数量や図形などの性質を見いだし統合的・発展的に考察する力,数学的な表現を用いて事象を簡潔・明瞭・的確に表現する力を養う。
(3) 数学的活動の楽しさや数学のよさを実感して粘り強く考え,数学を生活や学習に生かそうとする態度,問題解決の過程を振り返って評価・改善しようとする態度を養う。

(高校)

(1) 数学における基本的な概念や原理・法則を体系的に理解するとともに,事象を数学化したり,数学的に解釈したり,数学的に表現・処理したりする技能を身に付けるようにする。
(2) 数学を活用して事象を論理的に考察する力,事象の本質や他の事象との関係を認識し統合的・発展的に考察する力,数学的な表現を用いて事象を簡潔・明瞭・的確に表現する力を養う。
(3) 数学のよさを認識し積極的に数学を活用しようとする態度,粘り強く考え数学的論拠に基づいて判断しようとする態度,問題解決の過程を振り返って考察を深めたり,評価・改善したりしようとする態度や創造性の基礎を養う。

読めばそのままなのだけれど、大雑把にまとめれば、(1)として数量で表現・処理する技能、(2)として論理的な考察力とその表現、(3)として数学的表現を活用する思考力を求めていると解釈できるだろう。つまり、「技能」的な部分は3つの目的のうちの1つに過ぎず、しかもその(1)の中身を見れば「原理・法則の理解」が半分を占めるので、「技能」は全体の6分の1程度しか占めていないことがわかる。つまり、数学を学ぶ目的は、本質的には「技能」ではない。

数学的な「技能」とはなにかと言えば、それはたとえば四則演算であったり、方程式を解く技術であったり、関数を座標や変化率で操作する技術であったりする。こういった技能は、残念ながら、ごく一部の専門職を除き、学校以降の人生で役立つことはほとんどない(かんたんな加減乗算は別として)。もしも数学の目的が技能の取得であるのなら、それは袋小路に過ぎない。無意味といってもいい。

技能を身につけることはたしかに目的のごく一部を占めはするが、実際にはより大きな目的は別にある。それは、「論理的に考えること」「数学的に表現すること」「数学的な思考方法を活用すること」である。そして、これら、技能ではない部分の素養を身につけることは、学校以降に役に立つ。ほとんどの仕事は論理的に考えて進めないと失敗する。仕事だけではない。日常生活でも、論理的に考えることによって破綻から逃れられるケースは少なくない。数字で表現したり、数字で表現されたものから情報を読み取ることも、多くの現場で必要になる。そして、これらに比べれば出番は少ないけれど、数学的な思考方法で問題が解決できる場面は、業務によってはけっこうあったりする。特にPCでかんたんなプログラミングでもしようかという場合には、こういった素養がものをいうだろう。

だから、数学の目的は、さらにギュッと要約してしまえば「論理的な思考力を身につけること」になる。論理的な思考力は数学でしか身につかないのかといえば、そうではない。国語教師に言わせれば、国語の問題は論理的思考で解くものだそうだ。社会科の入試問題なんかを見ていても、良問は暗記ではなく思考力を要求するようにできている。しかし、そういった人文系の学問は、どうしても曖昧な部分が多くなり、論理の積み上げにしても恣意的なところが入り込みがちになる。それに対して数学は、厳密なところまで論理の構成できちんと処理できる。文句のつけようがなく論理の正否が明らかになる。だからこそ、論理的思考力を身につけるための科目として、数学が教育課程に組み込まれている。このぐらいまでのところは、たとえ相手が中学生であっても、噛み砕いて授業の最初にわからせておく。

じゃあ、技能は無視していいのかというと、実はそうではない。なぜなら、論理の展開は数値計算をはじめとする演算処理を伴うのが通常で、その演算処理にエラーが出たら論理が破綻してしまうからだ。だから、たとえば四則演算の技能は「論理的思考力」を数学で展開する上では必須になる。指導要領に定められた数学の目標の中に「技能」が含まれるのは、このような理由からであろう。

 

では、実際に数学が教えられている中学、高校の現場では、指導要領に記載されたそのような目標に即した指導が行われているだろうか? 数学教師に尋ねれば、ほぼまちがいなく「そうだ」と答えるだろう。なぜなら、中学生活の最後にやってくる高校入試、高校生活の最後にやってくる大学入試では、指導要領の範囲を逸脱して出題しないという不文律がある。そういった入試で合格点をとるためには、指導要領に即した指導をしなければならない。教師であれば、それは強く意識しているはずだ。

しかし、実際にやっていることはどうなのだろう? それら教師の指導を受けている生徒たちを見る限り、学校の授業では「論理的思考力」など、ほとんど身につかないのが明らかだ。もちろん、中学・高校を通じて論理的思考力を発達させる生徒は多い。だが、それは、言っちゃわるいが、あんな授業にもかかわらず、自力で発達しているのだ。本来は発達を支援するための授業が、むしろ阻害要因になっていることのほうが多い。

それは、極端な技能偏重主義にある。どういうことかというと、本来は、論理的思考力を鍛えることによって解決すべき演習問題を、基本的に教師は考えさせない。考える時間を与えない。そりゃ、ほんの数分の余裕を与えることはあるかもしれないが、数学の問題なんて、本格的に悩み始めたら1時間、2時間といった単位で考え込むものだ。そのぐらい悩んだら、以後、すべての問題は解決する。それが数学的・論理的な思考力を鍛えるただひとつの方法だ。ただ、悩み続けるのは相当にしんどいので、教師はそれを支えてやらなければならない。個人によってプロセスの異なるそういった学習を、学校のような空間でやるのは無理だ。結果として、学校では演習問題の解法を覚えさせる。すなわち、思考力問題を技能として扱う。

このようにして、数学はさまざまな問題パターンの解法を集積したものに成り下がる。解法は、それをたどれば正解にたどり着くことができる。ただし、解法を忘れてしまえばそれまでだ。もしも正しい思考力が身についていさえすれば、解法なんて忘れてもすぐに復元できる。ちょうど、正しく学んだプログラマのようなもので、問題を与えられたら自力で解決することができる。私のような見様見真似のパソコンユーザーはといえば、マクロひとつ書くのにもウェブを検索し、当てはまりそうなスクリプトを見つけ、それを切り貼りして、野暮ったいものを仕上げるしかない。それはそれでひとつの技術であるのかもしれないが、そこに創造的な未来はない。数学を正しく学ぶことも同じだ。参考書の解法をコピペで書き写して暗記するだけでは、ほぼ意味はない。目の前の入学試験に必要な点数を確保するという以上の意味は。

 

こういった本質を離れてしまった数学教育の見本として、中学数学の証明問題を例にあげておこう。図形の証明問題は、典型的な論理学の学習だ。多くの人々にとって実用的な意味の小さい図形の性質ではあるが、それを利用することで、論理をどのように組み立てれば説得力をもつのかを生徒に学ばせるのがこの単元の目的である。仮定を出発点に、公理や定理を論拠にして結論に至る強固な道筋をつけていく。その道筋は、決して一通りではない。けれど、いくつもある正解の中に一定の規範を見つけることで、古代から広く認められてきた論理の展開方法を理解するわけである。

したがって、この単元では、何より重要なのはとにかく自力で書いてみることと、そこで書いた証明の過程を批判することである。「ここが論理的につながっていないよ」とか、「ここの根拠が弱い」とか、そういった批判がなければ、どのような手続きが批判に耐え得るのかを身をもって体験することができない。たとえば、中学2年の三角形の合同で、合同条件を「2組の辺とその間の角がそれぞれ等しい」と根拠を書く場面があるのだけれど、これを初心者はよく「2つの辺とその間の角が等しい」と書く。学校ではこれを自動的にペケにする。あるいは、「『2つ』ではなく、『2組』と書きなさい。『それぞれ』は決して忘れないようにしましょう」と指導する。その理由をもしも質問されたら、「等しいというのだから2つのものが等しいはずで、それが2セットあることは『2つ』では表せません。『2組』になるはずです。『それぞれ』がなければ、1つの三角形の2つの辺が等しい(つまり二等辺三角形)と誤解されます」と、詳細に説明してくれる場合もあるだろう。けれど、そういう手順では、正しい論理感覚は身につかない。まして、ほとんどの学校では、採点が大変だからとか、公平性を欠くからとか、生徒の負担が大きすぎるからとか、あるいは県によっては「入試に出るのがその形式だから」というもっともらしい理由をつけて証明をスクラッチから書かせない。証明問題は、基本的に穴埋め形式となる。その穴埋めの根拠として「2組の辺とその間の角がそれぞれ等しい」と書くときに、論理はそこに必要ない。必要なのは暗記であり、いかに正確に条文を再現できるかということでしかない。

クラッチから証明を書かせ、それを正当な根拠で批判するという面倒くさい手続きを踏んだとしても、それでとれる点数は変わらない。だから証明問題は丸暗記問題として生徒に受け取られ、その最も肝心な論理性はほとんど無視される。そしてその傾向は、高校数学になっても変わらない。なにしろ、多くの生徒の通過儀礼となっているセンター試験は、穴埋め問題の極北であるのだから。

 

ひどい例をあげ始めたらきりがない。だが、極端にひどい例は、教師の資質であるかもしれない。たとえば、どこからどこまで理にかなった解法をしているのに、「オレが教えた解き方じゃない!」と激怒してペケをつけた高校教師なんかは、おそらく多数派ではないのだろうと信じたい。それにしても、ローカルルールに過ぎない代数のエックスの書き方にこだわる教師とかには普通にお目にかかるし、独自の教材プリントをつくる熱心なのはいいのだけれどその中身が暗記項目リストみたいになっている教師とかもしょっちゅう遭遇する。そういう人々が生徒に送っているメッセージは、「数学とは形式を重んじることだ、正解に至る道筋を覚えることだ」というものだ。学習指導要領が「数学とは論理的に考えることである」と定義しているのはそれを読めばほぼ明らかなのに、そこで必要最小限に触れてある「技能」を最大限に押し戴く。これが数学教育の現状だ。

 

そして、そんな数学教育が続くのであれば、それは「本当に必要なの?」と疑問を呈されても不思議ではないだろう。もちろん、「数学教育の本質はそうではない。数学は論理的思考だ!」と擁護することはできる(私だって擁護したい)。けれど、現状の学校教育制度の中では、ほぼそれが不可能だ。それは、現場の教師がよく知っているはず。

なぜなら、まず、論理的思考の発達という個人の内面に付き合うためには、数十人を一度に相手にする講義形式に限界がある。それを補うために「宿題」の形で演習を課しても、生徒にとって宿題とは、「さっさと済ませてしまいたいもの」のトップでしかない。さっさと済ませるためには、考えていてはいけない。授業のノートを参照して、形を真似る、模範解答をなぞる、最後の手段は答えを丸写しする、それが効率的・効果的な宿題のやり方として、実際に推奨されさえする。量をこなすには、そのほうがいいからだ。なにしろ実際に出題される問題の予想があらかじめつくのだから、そういう問題に対処できるだけの思考力をつけるよりはむしろ、そういう問題の解法パターンを覚えさせるほうが短時間で得点力を上げるには効果的。

現実を考えたら、数学教育はいまのような形にならざるを得ない。それが現場の教師の本音ではないだろうか。たとえまちがっていることがわかっていても、そうせざるを得ない。まちがっていることは、家庭教師みたいな仕事をやっていればすぐわかる。時間と手数はかかるけれど、しっかり理解させ、しっかり考えさせるようにすれば、だいたい数学の成績は上がっていく。数学の教師が覚えさせようとしている公式や解法パターンをすべて無視しても、それを自分で見つけていけるようになる。もちろん、そういうやり方が通用しない生徒もいる。そこは、適性だろう。数学的な思考方法がどうしても性に合わない生徒もいる。家庭教師は、さすがに頭の構造までは変えられない。それでも、多くの生徒は、論理的に考える方法を受け入れることができる。それで成長していくことができる。

だから、数学教育は重要だ。学習指導要領で必須の扱いを受けているのも当然だ。けれど、現状の数学教育、学校教師がやむを得ず取り組んでいる数学のあり方がほぼ無意味だということも、明らかだ。無意味なことを生徒に強制するのは、無意味に無意味を重ねて害悪のレベルに達する。だから、現状の技能偏重主義の数学教育であるのなら、私は教育課程から外したってかまわないと思う。

人間は、教育によって成長する。ただし、ある程度は放っておいても成長する。これは、不登校でまったく学校に行っていなかった生徒を教えてみればよくわかる。学校に行っていない部分は、教科指導は一切受けていない。だから、その部分がわからない、知らないのは当然だ。ただ、たとえば中学1年生に教えるのと、中学1年生で学校に行くのをやめた中学3年生に教えるのとでは、同じことを教えても、理解力に格段の差がある。15歳の生徒は、なにも教えてもらわなくても、13歳の生徒よりもはっきりと成長していて、短時間で追いつくことができる。これは、学校に行っていない生徒だけではなく、授業についていくことができずに「落ちこぼれた」生徒、つまり、出席はしているけれども授業に参加していなかった生徒に関しても同じことがいえる。13歳のときに理解できなかった同じことを15歳なら理解できる。「ちゃんと授業を聞いてればよかったよ」と後悔する場合もあるが、13歳に戻ったらやっぱりわからないのかもしれない。年齢による成長というものは、確実に存在する。

だから、たとえ中学校の数学の成績が5段階評価の1や2だったような生徒でも、高校数学は改めて理解できる可能性がある。そこで大きく伸びるかもしれない。「論理的な思考力」は、どこからでも鍛えることができる。

しかし、高校ではこういった「落ちこぼれ」た生徒にどういう「数学」を教えるか? あるいは「Fラン」といいわれるような大学ではどう扱うか? 小学校の算数や中学数学の技能を教えるのである。その言い分は、「基礎ができていなければ、高校の数学なんてわかるはずはない」なのだけれど、高校数学の基礎ぐらい、どんなできのわるい生徒でも、その年齢に達していればたいていのところは3時間もやれば理解できる。そこから始めて何の問題もないのに、なぜかそれでは不十分だと思う。なぜなら、技能の伴わない理解は理解ではないという固定観念があり、そして、技能は反復練習でしか身につかないという思い込みがあるからだ。そこに、小学校の算数を高校生にさせるのは失礼だとか、そんな練習をさせられる高校生が数学をどういうものと捉えるだろうかとか、そういった発想はまったくない。

筆算ができなければ電卓を使えばいいのだ。技能として関数の操作ができなければ、WYSIWYGで操作できるアプリケーションを導入すればいいのだ。高校数学の要は、「数学を活用して事象を論理的に考察する力,事象の本質や他の事象との関係を認識し統合的・発展的に考察する力,数学的な表現を用いて事象を簡潔・明瞭・的確に表現する力」だと学習指導要領に書いてある。だったら、物理運動のような「事象」が数学的に表現でき、そして解析できるということを教えればいいのであって、そこにその操作や解析をするための技能が欠けていることを問題にすべきではない。数学的に表現するというのはなにも数式を書くことだけではなく、実際にプログラミングのブロックを組み合わせて入力と出力がきっちり対応することを示すのでもかまわない。工夫はいくらでもできるし、それを指導要領内から逸脱しないようにすることだってできる。

じゃあなぜそうしないのかといえば、中学数学は高校入試、高校数学は大学入試に縛られているからだ。そういった入試とは無関係な非進学校でさえ、入試を規範とする体系から抜け出すことはできない。高校数学がそういう世界になってしまっているときに、一人だけ別のことをやる勇気をもった教師はいないだろう。そして、「基礎が大事ですから」と、ほぼ無意味なドリルを繰り返し、生徒のモチベーションは底の底まで低下する。

 

だから、入試制度に縛られている現状の教育システム全体を変えない限り、教育課程に数学を必修にする意味はない。論理的な思考力は、技能に特化した数学よりはむしろ読書によって発達するだろう。本来は論理的な思考力を鍛えるために最も適している数学をそのように扱うことをしない、できないのだから、ここはもう言い訳はできない。「数学ぐらいはやっとけよ」と私だって思うが、延々とドリルを反復するような無意味なことは、百害あって一利なしだ。それが数学ならやめちまえ。

 

と、こんな記事を読んで思った。あんなひどい受験数学の中でも論理的な思考力を養うことができる人はいる。そういう特別な秀才には、そうでない人々の気持ちなんかわからいんだろうなと思いながら。

jbpress.ismedia.jp

合理的に見える話は案外と危険

世の中、ちょっと考えればウソだとわかることにころっと騙される人が多い。いや、私もけっこう騙される方で、子どもの頃にはあの有名な「消防署の方から来ました」に騙されて、親の留守中に消火器を買わされてしまった経験もあるぐらいだ。「一万円」と言われて「いま五千円しかありません」と答えたら「それでいい」と言われた時点で、おかしいと思うべきだったよな。そんな間抜けな私だからこそ、他の人には「理屈が通っているかよく考えたほうがいいよ」と忠告したりもする。数年前、仮想通貨に投資しようかどうかと悩んでいた友人に、「資産がノーリスクで数百倍にもなるうまい話が転がってるわけないじゃないか。やめとけやめとけ」と、非常に理にかなったアドバイスもした。ま、その結果がどうなったかというのは、世間の人は皆知っている。さいわい、友人から恨み言を言われたことはないが、あのとき煽っておいたら飯の一杯もおごってもらえたかもと思ったら残念だ。

ともかくも、ちょっと考えて理屈に合わないものは、どこかがおかしい。騙されてしまうかもしれない。万病に効く系の健康食品がおかしいのは、互いに拮抗する健康効果もあるはずなのに、そんな都合よく全てが良くなるなんてのは理屈に合わないからだ。景気対策ばかりいう政策が信用ならないのは、景気がよくなって暮らしがよくなったという経験をいまだに私がしたことがないからだ。どう考えても理屈に合わないものは、確かにどこかがおかしい。

では、理屈にあっているように見える話なら、信用できるのだろうか。その通りだと言いたくなる。けれど、一見理屈にあっているような話こそ、実は危ない。確かに本当である場合もあるかもしれないが、実はそうではない場合だってあり得る。それを実感させてくれるブログ記事があったので、その話。

d.hatena.ne.jp

 

この記事によると、読売新聞や毎日新聞の記事で、「親の経済格差による学力差は小学校4年あたりから顕在化する」というような内容の報道があったらしい。ちなみに毎日新聞の記事によると、

経済的に苦しく、生活保護などを受ける世帯の子どもは、そうでない世帯の子と比べて国語や算数の学力の平均偏差値が低くなる傾向があり、特に小学4年生ごろから学力の格差が広がるとの研究結果を日本財団がまとめた。大阪府箕面市の調査を基に分析した。

日本財団は「基礎の応用が小4ごろから必要になる。貧困家庭の子は幼い頃から勉強や規則的な生活習慣を身につけにくく、学力格差の拡大を招いている」と指摘し、低学年への支援を訴える。

https://mainichi.jp/articles/20171230/ddn/041/040/019000c

となっている。いわゆる「貧困の再生産」というやつである。この報道があったらしい年末はバタバタしていたので私は見逃していたのだけれど、もしも読んでいたら、「なるほど、そういうことなのか」ぐらいは思ったかもしれない。

ところが、前記のブログ記事によると、もともとの箕面市の調査結果からは、このような結論は導けない。まず、データの誤差範囲を調べると、一見明瞭に見える差異も、実は有意なものではないとわかる。さらに、データの選定に関して、特定の結論につながりやすいものだけをあえてピックアップしているのではないかという疑いがある。加えて、地域的特性の影響や、調査そのもの手法の問題など、いまひとつすっきりしない点が複数ある。要約としてはずいぶん雑だけれど、私はそんなふうに読み取った。まあ、私のいい加減さを確認したければ元記事を読んでいただければと思う。

 

ということで、この件に関して私が付け加えることは何もないのだけれど、思うのは、「ああ、これって、意識さえしていない常識に騙されたんだなあ」ってこと。そして、それをおそらく見抜けなかったであろう私は、ちょっと恥ずかしいなあってこと。どういうことか。

まず、「貧困家庭とそうでない家庭の学力差が小学校4年あたりから広がる」という言説、少しでも小学校から中学校の教育内容を知っている人には、いかにももっともらしく感じられるはずだ。なぜなら、小学校3年あたりまでは、学校でたいしたことは学ばない。小学生自身にとってはたとえば計算問題の答えが合わないとか漢字が覚えられないとか、それぞれなりの苦難はあるかもしれないが、学習項目毎の達成課題という面からみたら、それらはまったく些細なことでしかない。つまり、生徒本人の主観的な感覚にかかわらず、どっちにしても学習格差はほとんど発生しない。ところが小学校4年生あたりから、学習内容が急速に増えていく。それに伴って、学習格差が発生する。つまり、所得格差とはとりあえず無関係にも、学習格差は小学校4年生以降のものだといってかまわない。そして、多くの人の無意識的な常識として、「成績は勉強量に比例する」という感覚がある。成績がわるいのは勉強しないからで、成績がいいのは勉強したからだ。成績を上げるためには勉強する環境を整えればいいし、そのためには学習塾に行かせるか家庭教師でもつけるのが手っ取り早い。そして、そういった教育に対する投資は、貧困家庭には困難だろう。結果、この時期から学習格差が開いていくのは当然なのではないか。多くの人にはそう感じられるのだろう。

そして、昨今よく聞く「貧困の再生産」論がある。特に、教育は、貧困の再生産に重要な因子だといわれる。だとしたら、なるほど、その萌芽が小学4年生にあるというのはいかにもありそうじゃないか。どこからどう見ても合理的な話だ。そして、このような報道が、疑われることもなく流通する。

 

しかし、私は家庭教師という職業柄、そういった学習格差の発生メカニズムがウソであることを知っている。知っているはずだ。まず、成績は勉強量によって一意的に上がるものではない。勉強している生徒よりも勉強なんかしていない生徒のほうが成績が高いことなんて珍しくもない。さらに、学習塾や家庭教師に対する投資は、決して費用対効果が高くないことも知ってる。同じ投資をするのであれば、もっと別のことをやったほうがいい。そして、貧困の再生産に果たす教育の役割が、決してテストの点数に表現される部分だけに依存しているのではないことも知っている。例えばそれは進学先の選択肢の制限であったり、進学後の学費の問題であったりと、直接的に経済的な要因が働きかける部分が大きいことを知っている。

だから、こういう報道がどこかおかしいことをすぐに見抜けなければならないはずだった。けれど、おそらくこのブログ記事を読まなければ見抜けなかっただろう。それは、私自身が、意識の上では、「受験産業なんて役に立たない、学校の成績なんて見かけだけのものだ」ということを知っていて、それをことあるごとに力説していてさえ、無意識の中では世間の一般常識と同じレベルの「塾にカネをかけたら成績が上がる」式の概念を共有していたからにちがいない。これはちょっと、どうみても恥ずかしいだろう。

 

そして、なぜ当初の報道のような「学力差は10歳から」みたいな研究結果が生まれたのかと考えると、ちょっと空恐ろしくなる。研究者自身には、おそらく世論をどこかに誘導してやろうというような意図はない。けれど、その無意識の中には、「塾に行かせれば成績があがる」というような学習観が存在する。だから、子どもたちが学習塾通いを始める小学4年生付近から学力差が広がることを示唆するような傾向がデータの中にちらっとでも見えたときに、そこに焦点を当ててしまう。

そして、結果として非常に合理的、論理的に見える「学力差は10歳から」といいう結論が導かれる。この結論は、同じ信念を共有している現代社会に広く受け入れられる。そして、その信念を強化する方向に働く。「やっぱり無理してでも塾に行かせなきゃ」とか、「貧困家庭を救うために無料塾が必要だ」とか、なんだか救いようのない方向にどんどんと教育を歪めていく。

私たちは、合理的に世界を見て、合理的な選択をしていると思いこんでいる。しかし、その論理性は、ときには誤った信念の反映でしかない。ことにそういった信念が広く共有されているときには、それを互いにキャッチボールすることで、あたかも存在しないものが実在するように錯覚してしまう。人間社会とは、そういうものであるらしい。

 

だから、批判精神を忘れないことは非常に重要だし、異端になることを恐れてはいけない。そして、自分自身が批判精神をうっかりどこかに置き忘れてしまったときに、それを思い出させてくれる人に感謝することを忘れてはならない。

ありがとう!

学校の要求仕様はどうなっている?

学校は変わらない

義務教育=学校に行かせること、という図式が、ようやく変わろうとしている。変わろうとしているけれど、まだいまのところは変わらない。いろいろあっても結局変わっていない。「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」のことである。

別添3 義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律(平成28年法律第105号):文部科学省

この法律、

(基本理念)

第三条 教育機会の確保等に関する施策は、次に掲げる事項を基本理念として行われなければならない。
一 全ての児童生徒が豊かな学校生活を送り、安心して教育を受けられるよう、学校における環境の確保が図られるようにすること。
不登校児童生徒が行う多様な学習活動の実情を踏まえ、個々の不登校児童生徒の状況に応じた必要な支援が行われるようにすること。
不登校児童生徒が安心して教育を十分に受けられるよう、学校における環境の整備が図られるようにすること。
四 義務教育の段階における普通教育に相当する教育を十分に受けていない者の意思を十分に尊重しつつ、その年齢又は国籍その他の置かれている事情にかかわりなく、その能力に応じた教育を受ける機会が確保されるようにするとともに、その者が、その教育を通じて、社会において自立的に生きる基礎を培い、豊かな人生を送ることができるよう、その教育水準の維持向上が図られるようにすること。
五 国、地方公共団体、教育機会の確保等に関する活動を行う民間の団体その他の関係者の相互の密接な連携の下に行われるようにすること。

と、一方で不登校の実情を追認し、その支援を行うことを求めることで、従来の「不登校は否定されるべきもの」という政策の方向性を変えるものになっている。その一方で第一項、第三項に学校の対応が明示されているように、「義務教育は学校で受けるべきもの」という前提はまったく変わっていない。これは第八条から第十三条までに「支援」が学校中心に行われることを定めてあることからも明らかだ。第三条の第五項に「民間の団体その他の関係者」という文言が入り、第十三条に「学校以外の場において行う多様で適切な学習活動の重要性」という表現が入ったことから「フリースクールが公認された」みたいに喜ぶ声もあるようだが、それはあたらないだろう。この法律そのものは、現状を大きく変えるものではない。

大きく変えるものではないけれど、変わろうとする方向性を示すものではある。たとえば、この流れの中で、文部科学省は「不登校は問題行動ではない」という通知を出したそうだ。

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ただ、上記記事によると、この通知はなぜか現場ではほとんど知られていないという。問題はそこにある。変わろうとするのになかなか変われない。学校の現場とは、どうもそういう場所らしい。

本丸は学校 

不登校業界関係者にこんなことを言うと激怒されそうだけれど、不登校は現代の教育問題の中ではごくごく小さな問題でしかない。だから、もっと大きな構図を改めずにそこだけどうにかしようとしても、かえってひどいことになる。例えば今回の「確保法」だけれど、これがもしもフリースクール関係者が期待していたような「学校以外での学びも義務教育とみなす」制度を含むものになっていたらどうなっていただろう。一気に学習塾・予備校業界から大量の参入があって、たちまちいま以上の荒廃がおとずれていただろう。実際、現状をほとんど変えずにただ方向だけを示した今回の法律であっても、それだけで十分に学習塾・予備校業界を呼び寄せる力があったようだ。新規に開校したフリースクールもどきの学習塾が不登校生を引き寄せるため、長く頑張ってきた従来からの子どもたちの居場所としてのフリースクールには生徒が集まりにくくなっているとも聞く(あくまで噂だけれど)。それが関係者が望んだことだとは、私にはとうてい思えない。

やはり、本丸は学校なのだと思う。学校がまともじゃないから、一部の子どもたちは不登校という形でそれに対応する。けれど、多くの子どもはまともじゃない学校に無理にも適応する。どっちの被害が大きいかといえば、それは後者だろう。逃げ出せた子どもたちは、まだ幸せだ。もちろんその先には茨の道が待っている。それでも、逃げ出せば多くの無意味さを経験せずに済むだろう。残った子どもたちはそうではない。

現状の学校でやっていることの多くは無意味だ。私は、家庭教師として毎年20人ばかりの子どもたちに接する中で強くそう感じる。全てが無意味だというつもりはない。ポジティブ変換をかけたら、どんな苦行でも意味あることになってしまうかもしれない(苦しみは忍耐力を培うとかね)。そこまでしなくとも、実際、有益な知識が多少は身につくかもしれないし、友人関係からは得るものも多いだろう。なにより、親としては子どもが学校に行ってくれていれば安心だ。学校は、たとえ現状のままでもそれなりに役には立っている。

だが、だからといって、多くの無意味さ、アホらしさが免罪されるとは思わない。そのバカバカしさは、いちいち挙げていけばたとえばなんで「記録タイマー」をアップグレードする?ことのようになってくるわけだけど、実に限りがない。「いったいなにがやりたいの?」と思ってしまう。

そこが問題なのだ。現状の教育のおかしなところは実は社会のおかしなところの反映であって、たとえば中学校教育が歪んでいるのは高校入試のせいだし、それがなぜそれほどの破壊力をもつのかといえばそれは大学入試のせいだし、それは結局就職から生涯賃金に影響するからで、そこから是正しなければ本当の意味での改革は生まれない。とはいえ、教育のために社会を変えるなどというのは本末転倒だ。教育が徐々に変わることで社会を変えることのほうが本筋だし、実現可能性が高い。それはきっとできるはずだし、実際、教育行政の本流であるはずの文部科学省が作成している学習指導要領を見ると、そういう方向性も見えてくる。ただ、別な方向性も読み取れてしまう。そして学校は変わらない。それは、「いったいなにがやりたいのか?」それが見えないからだ。

学校は何のためのもの? 

学校には、さまざまな目標、目的が期待されている。義務教育に限って考えてみても、まずは基礎的な学力をつけることが期待されているし、社会性を身につけること、健康な身体をつくることも同様に期待されている。親としては子どもを安全に預かってくれることを期待するし、やっぱり競争に打ち勝って少しでも安定した人生の可能性をつかむ訓練をして欲しいとさえ考えてしまう。そこまであからさまでなくとも、子どものもつポテンシャルを十分に引き出して、将来食うに困らないように育てて欲しいと思っている。

だが、それらの全てを学校に期待すべきなのだろうか? それは学校でなければできないことなのだろうか? それは学校のようなシステムで最もよくできることなのだろうか? そして、そのどこまでが公教育として公共のリソースを投入すべきものなのだろうか? 実は、そういった細かな要件が議論されたことは、あまりないのではなかろうか。

過去にはそういう議論もあったのかもしれない。たとえば義務教育草創期の明治時代には、学校教育の必要性のような議論も多少はあったようだ。あるいは戦争直後の学制改革時にも、そういう議論はあったようだ。けれど、実は学校というものは、「学校ってそういうもんじゃない」的な思い込みによって成立してきた部分が大きい。たとえば明治期には寺子屋や藩校のような儒学教育からの連続性が強調され、少なくとも民間レベルでは前近代からの師弟観が継承された。敗戦によって教育は大きく変わったが、その変化はどのように教えるのか、何を教えるのかのレベルでの変化であり、それ以前の学校という存在の根本に関する変化ではなかった。だから新制の学校のほとんどは旧制の学校を受け継いで成立し、形式や指導内容を変えただけで枠組みを変えなかった。学校を支える社会の「学校ってそういうもん」という観念は、基本的に変わらなかった。

しかし、多くの社会制度同様、学校も必要性があって生まれたものである。そして、その必要性は、時代とともに変化している。ニーズが変化するのだから、そのニーズを満たすための制度そのものも変化しなければならない。ところが、学校は驚くほど変わっていない。少なくとも日本では、私の知っているだけでも半世紀は本質的に変わっていない。おそらくその以前から、ほとんど変わっていない。

学校の歴史を遡る

 おもしろい本を見つけた。柳治男著の「<学級>の歴史学 」という10年ちょっと前の新書だ。もちろん本のほうが詳しいのだけれど、書評(こちら)やWeb上で公開されているいくつかの論文(たとえば「学級と官僚制の呪縛」や「農村社会の変化と地方教育行政組織の官僚制化」、「地域社会と学校の論理的媒介としての教育の分業化」、「教職志望学生の志望動機形成と事前制御の受容に関する研究」)あたりをみていると、だいたいの問題意識はわかる。暇な人は読んでみるといいと思う。あえて要約はしない。

氏によれば、現在のような学校の形、すなわち、教室があってそこに生徒が前を向いて並んで座る形式の学校は、産業革命進行中のイギリスで発生した、とのことだ。他の著者の他の論文とかも読み合わせてみるとドイツのような大陸系の集団教育理論とかの系統もあるようだが、日本への直接の影響ということでいえば、どうやら19世紀初頭に成立したモニトリアルシステムが形成した「教室」の伝統が大きいようだ。

そして、この「教室」という空間を利用して、日本の教育システムはできあがっている。すなわち、柳治男によれば、これは教育システムの中で「自明視された空間」である。特に日本では、「担任」が特定の生徒集団を統率する社会単位がこの空間に統合された。そして、その「学級」に対して、ありとあらゆる教育目標の達成が要求された。教師たちは、超人的な努力でそれを達成しようとしてきた。その中で生み出されたノウハウが、現実の学校を形づくっている。

しかしながら、「教室」というスタイル、多数の生徒集団に対して一斉授業を行う教育スタイルは、実は単純な最低限の技能を最も低コストで伝達することに特化して工夫された形態でしかない。産業革命進行期には一定の技能(識字、算術)をもった多数の労働者を確保する必要があったから、このスタイルには相応の合理性があった。労働者とともに一定水準の兵士を確保する必要のあった明治時代以降の日本においても、このようなスタイルは有効だっただろう。特に日本においては、底辺を切り捨てるのではなく、連帯責任と相互扶助をベースに学級が一体化して底上げを行う集団主義がこのスタイルに重ね合わされた。おそらくそれは連隊→大隊→中隊→小隊→分隊とピラミッド構造の集団を構成する軍隊の形式と整合性がいいこともあったのだろうし、伝統的な村落共同体から受け継いだ社会観に合致するためでもあったのだろう。

このあたりから、教室での一斉授業という指導形式とそこに期待される教育内容の不整合が生まれてくる。本来このスタイルは「クラス」別の授業を必要とする。「クラス」とは階級であり、つまりは一定の学力水準を満たしていることになる。そのためには能力を測定する「テスト」が必要となり、その試験に合格した者だけが同じ授業を共有する。ところが日本ではこれを年齢別に編成し、自動的に昇級することにしてしまった。また、識字や算術のような基礎技能だけでなく、より高度な思考や知識を必要とする学問領域、さらには人格形成に必要な素養までが学校教育に期待されるようになった。そして、そういったものが教室での一斉授業スタイルに適合しているかどうかの検討は行われず、学級は「自明のもの」とみなされ、新たな要求だけが次々とそこに投げ込まれた。そして、その不整合を埋め合わせるバッドノウハウが教育法として蓄積されてきた。それでも間に合わないところは、教師の献身的な過剰労働で埋め合わされてきた。

どうやら私たちが目にする学校は、そういう歴史をたどってきたものらしい。つまりは、本来設計されたのとは別用途に使われながら、だれもそれを疑問に思わないシステムだ(まるでエクセルみたいじゃないか!)。現在の学校教育にみられる歪みの多くは、どうもそこから発生しているのではなかろうか。

システムは要件定義から 

たまたまそこに使えそうなシステムがあったから、そこにどんどんニーズを投げ込んでいく。 それはツールの正しい使い方だろうか? 場合によってはそうだともいえる。特に大きな変化が起こるようなときには、見えない方向性に大きな投資をするよりは、とりあえず手近なものを「あるもの使い」で活用し、急場をしのぐことがあってもいい。既存のものに継ぎ接ぎをして、様子を見ることがあってもいい。

しかし、そこには思わぬ落とし穴がある。間に合せのシステムが、あたかもあるべき姿であるように誤解され、問題があっても手直しや機能の追加で対処すべきであると受け取られてしまう危険性だ。時代が進んであらかた要件が出揃った段階で素直に見れば、スクラッチからシステムを設計しなおしたほうがずっといいものができるとわかる。けれど、古いシステムに手直しと追加を重ね、バグにパッチを継ぎ当てて肥大化したシステムは、奇妙な権威を帯びている。その不具合のひとつひとつに、想定外の利害が絡んでしまう。せっかくうまく回っているものを弄るなという声が出る。うまくいってなんかいないのだけれど、システムが巨大化しすぎて目の前の局面しか見えなくなると、個別にはうまく動いているように見える。全体の効率が悪かろうと一部に軋みが集中しようと、それはシステムの本質的な問題ではないように思えてしまう。

学校というシステムで起こっているのは、そういうことではないのだろうか。多数の単純労働者を安価に養成するために設計された教室での一斉授業というスタイルが便利だったので、そこにさまざまなニーズを押し付けた。たとえば軍事教練がそれだ。教育現場の抵抗を受けながらも、日露戦争以降、政府は学校に軍事教練的要素をどんどん導入していった。たとえば道徳教育がそうだ。心の教育は、教壇の上から説教を垂れて行えるもんじゃないだろう。戦後の民主化教育だってそうだ。全員が同じ向きを向いて一人の選ばれた者がそれに対面するスタイルは、民主主義のトレーニングに最も不向きなものだ。理科教育だって、教室スタイルでは絶対に伝えられないものがある。ただ、教室スタイルで伝えやすい内容もあって、そのおかげで理科の教科の内容は著しく歪んでしまった。講義しやすい内容だけが理科の主要部分を占めるようになってしまい、そういうものが科学だと誤解されるようになってしまって長い。

この社会が学校という制度を利用するようになって長い時間がたった。そこに求めるものも、あらかたは出揃っている。そのすべてを満足させようと思ったらパッチだらけで肥大化した現状の学校システムを肯定せざるを得ないのかもしれないが、要求をすべて並べてみて、公教育としてどれが必須でどれがそうでないのかを検討することはできるだろう。

そういう作業をする時期ではないのだろうか。あらゆるものを現状の学校に還元してしまうような発想、冒頭にあげた「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」のような発想では、学校はやがて立ちいかなくなる。学校にはどのような機能があり、何が公教育の必須条件なのかを明らかにすることがまず重要だろう。それがあれば、その必須条件満たすためにどんな代替手段が用意できるのかを、感情論に走らずに議論できる。学校の機能が明確であれば、「それ以上のものを要求しないでください。それ以上が必要であれば、それは公教育以外のサービスを利用してください」と、学校側もはっきりといえるだろう。

たとえばクラブ活動。あれが公教育の機能として本当に重要なのだろうか。そういうものがあったらいい、あったらそれなりの価値があるというのは、否定はしない。しかしそれは、学校システムの中で、公的なリソースを費やしてまで追求すべきことなのだろうか。

 

ま、私としては、学校には最低限、託児機能があって欲しいとは思う。小学校レベルの算術と識字、読解力も欠かせないニーズだろう。こういう時代だから、最低限の情報処理や社会的スキルもそこに加えていい。そこから先は、ぜんぶ疑問符をつけて改めて検討してもいいぐらいに思う。

少なくとも、校則で縛ったり形式にはめこんだりして得られる社会的規律みたいなものは、学校システムからは排除して欲しい。そういうものは、本来の意味での教育じゃないんだからね。