合理的に見える話は案外と危険

世の中、ちょっと考えればウソだとわかることにころっと騙される人が多い。いや、私もけっこう騙される方で、子どもの頃にはあの有名な「消防署の方から来ました」に騙されて、親の留守中に消火器を買わされてしまった経験もあるぐらいだ。「一万円」と言われて「いま五千円しかありません」と答えたら「それでいい」と言われた時点で、おかしいと思うべきだったよな。そんな間抜けな私だからこそ、他の人には「理屈が通っているかよく考えたほうがいいよ」と忠告したりもする。数年前、仮想通貨に投資しようかどうかと悩んでいた友人に、「資産がノーリスクで数百倍にもなるうまい話が転がってるわけないじゃないか。やめとけやめとけ」と、非常に理にかなったアドバイスもした。ま、その結果がどうなったかというのは、世間の人は皆知っている。さいわい、友人から恨み言を言われたことはないが、あのとき煽っておいたら飯の一杯もおごってもらえたかもと思ったら残念だ。

ともかくも、ちょっと考えて理屈に合わないものは、どこかがおかしい。騙されてしまうかもしれない。万病に効く系の健康食品がおかしいのは、互いに拮抗する健康効果もあるはずなのに、そんな都合よく全てが良くなるなんてのは理屈に合わないからだ。景気対策ばかりいう政策が信用ならないのは、景気がよくなって暮らしがよくなったという経験をいまだに私がしたことがないからだ。どう考えても理屈に合わないものは、確かにどこかがおかしい。

では、理屈にあっているように見える話なら、信用できるのだろうか。その通りだと言いたくなる。けれど、一見理屈にあっているような話こそ、実は危ない。確かに本当である場合もあるかもしれないが、実はそうではない場合だってあり得る。それを実感させてくれるブログ記事があったので、その話。

d.hatena.ne.jp

 

この記事によると、読売新聞や毎日新聞の記事で、「親の経済格差による学力差は小学校4年あたりから顕在化する」というような内容の報道があったらしい。ちなみに毎日新聞の記事によると、

経済的に苦しく、生活保護などを受ける世帯の子どもは、そうでない世帯の子と比べて国語や算数の学力の平均偏差値が低くなる傾向があり、特に小学4年生ごろから学力の格差が広がるとの研究結果を日本財団がまとめた。大阪府箕面市の調査を基に分析した。

日本財団は「基礎の応用が小4ごろから必要になる。貧困家庭の子は幼い頃から勉強や規則的な生活習慣を身につけにくく、学力格差の拡大を招いている」と指摘し、低学年への支援を訴える。

https://mainichi.jp/articles/20171230/ddn/041/040/019000c

となっている。いわゆる「貧困の再生産」というやつである。この報道があったらしい年末はバタバタしていたので私は見逃していたのだけれど、もしも読んでいたら、「なるほど、そういうことなのか」ぐらいは思ったかもしれない。

ところが、前記のブログ記事によると、もともとの箕面市の調査結果からは、このような結論は導けない。まず、データの誤差範囲を調べると、一見明瞭に見える差異も、実は有意なものではないとわかる。さらに、データの選定に関して、特定の結論につながりやすいものだけをあえてピックアップしているのではないかという疑いがある。加えて、地域的特性の影響や、調査そのもの手法の問題など、いまひとつすっきりしない点が複数ある。要約としてはずいぶん雑だけれど、私はそんなふうに読み取った。まあ、私のいい加減さを確認したければ元記事を読んでいただければと思う。

 

ということで、この件に関して私が付け加えることは何もないのだけれど、思うのは、「ああ、これって、意識さえしていない常識に騙されたんだなあ」ってこと。そして、それをおそらく見抜けなかったであろう私は、ちょっと恥ずかしいなあってこと。どういうことか。

まず、「貧困家庭とそうでない家庭の学力差が小学校4年あたりから広がる」という言説、少しでも小学校から中学校の教育内容を知っている人には、いかにももっともらしく感じられるはずだ。なぜなら、小学校3年あたりまでは、学校でたいしたことは学ばない。小学生自身にとってはたとえば計算問題の答えが合わないとか漢字が覚えられないとか、それぞれなりの苦難はあるかもしれないが、学習項目毎の達成課題という面からみたら、それらはまったく些細なことでしかない。つまり、生徒本人の主観的な感覚にかかわらず、どっちにしても学習格差はほとんど発生しない。ところが小学校4年生あたりから、学習内容が急速に増えていく。それに伴って、学習格差が発生する。つまり、所得格差とはとりあえず無関係にも、学習格差は小学校4年生以降のものだといってかまわない。そして、多くの人の無意識的な常識として、「成績は勉強量に比例する」という感覚がある。成績がわるいのは勉強しないからで、成績がいいのは勉強したからだ。成績を上げるためには勉強する環境を整えればいいし、そのためには学習塾に行かせるか家庭教師でもつけるのが手っ取り早い。そして、そういった教育に対する投資は、貧困家庭には困難だろう。結果、この時期から学習格差が開いていくのは当然なのではないか。多くの人にはそう感じられるのだろう。

そして、昨今よく聞く「貧困の再生産」論がある。特に、教育は、貧困の再生産に重要な因子だといわれる。だとしたら、なるほど、その萌芽が小学4年生にあるというのはいかにもありそうじゃないか。どこからどう見ても合理的な話だ。そして、このような報道が、疑われることもなく流通する。

 

しかし、私は家庭教師という職業柄、そういった学習格差の発生メカニズムがウソであることを知っている。知っているはずだ。まず、成績は勉強量によって一意的に上がるものではない。勉強している生徒よりも勉強なんかしていない生徒のほうが成績が高いことなんて珍しくもない。さらに、学習塾や家庭教師に対する投資は、決して費用対効果が高くないことも知ってる。同じ投資をするのであれば、もっと別のことをやったほうがいい。そして、貧困の再生産に果たす教育の役割が、決してテストの点数に表現される部分だけに依存しているのではないことも知っている。例えばそれは進学先の選択肢の制限であったり、進学後の学費の問題であったりと、直接的に経済的な要因が働きかける部分が大きいことを知っている。

だから、こういう報道がどこかおかしいことをすぐに見抜けなければならないはずだった。けれど、おそらくこのブログ記事を読まなければ見抜けなかっただろう。それは、私自身が、意識の上では、「受験産業なんて役に立たない、学校の成績なんて見かけだけのものだ」ということを知っていて、それをことあるごとに力説していてさえ、無意識の中では世間の一般常識と同じレベルの「塾にカネをかけたら成績が上がる」式の概念を共有していたからにちがいない。これはちょっと、どうみても恥ずかしいだろう。

 

そして、なぜ当初の報道のような「学力差は10歳から」みたいな研究結果が生まれたのかと考えると、ちょっと空恐ろしくなる。研究者自身には、おそらく世論をどこかに誘導してやろうというような意図はない。けれど、その無意識の中には、「塾に行かせれば成績があがる」というような学習観が存在する。だから、子どもたちが学習塾通いを始める小学4年生付近から学力差が広がることを示唆するような傾向がデータの中にちらっとでも見えたときに、そこに焦点を当ててしまう。

そして、結果として非常に合理的、論理的に見える「学力差は10歳から」といいう結論が導かれる。この結論は、同じ信念を共有している現代社会に広く受け入れられる。そして、その信念を強化する方向に働く。「やっぱり無理してでも塾に行かせなきゃ」とか、「貧困家庭を救うために無料塾が必要だ」とか、なんだか救いようのない方向にどんどんと教育を歪めていく。

私たちは、合理的に世界を見て、合理的な選択をしていると思いこんでいる。しかし、その論理性は、ときには誤った信念の反映でしかない。ことにそういった信念が広く共有されているときには、それを互いにキャッチボールすることで、あたかも存在しないものが実在するように錯覚してしまう。人間社会とは、そういうものであるらしい。

 

だから、批判精神を忘れないことは非常に重要だし、異端になることを恐れてはいけない。そして、自分自身が批判精神をうっかりどこかに置き忘れてしまったときに、それを思い出させてくれる人に感謝することを忘れてはならない。

ありがとう!

学校の要求仕様はどうなっている?

学校は変わらない

義務教育=学校に行かせること、という図式が、ようやく変わろうとしている。変わろうとしているけれど、まだいまのところは変わらない。いろいろあっても結局変わっていない。「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」のことである。

別添3 義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律(平成28年法律第105号):文部科学省

この法律、

(基本理念)

第三条 教育機会の確保等に関する施策は、次に掲げる事項を基本理念として行われなければならない。
一 全ての児童生徒が豊かな学校生活を送り、安心して教育を受けられるよう、学校における環境の確保が図られるようにすること。
不登校児童生徒が行う多様な学習活動の実情を踏まえ、個々の不登校児童生徒の状況に応じた必要な支援が行われるようにすること。
不登校児童生徒が安心して教育を十分に受けられるよう、学校における環境の整備が図られるようにすること。
四 義務教育の段階における普通教育に相当する教育を十分に受けていない者の意思を十分に尊重しつつ、その年齢又は国籍その他の置かれている事情にかかわりなく、その能力に応じた教育を受ける機会が確保されるようにするとともに、その者が、その教育を通じて、社会において自立的に生きる基礎を培い、豊かな人生を送ることができるよう、その教育水準の維持向上が図られるようにすること。
五 国、地方公共団体、教育機会の確保等に関する活動を行う民間の団体その他の関係者の相互の密接な連携の下に行われるようにすること。

と、一方で不登校の実情を追認し、その支援を行うことを求めることで、従来の「不登校は否定されるべきもの」という政策の方向性を変えるものになっている。その一方で第一項、第三項に学校の対応が明示されているように、「義務教育は学校で受けるべきもの」という前提はまったく変わっていない。これは第八条から第十三条までに「支援」が学校中心に行われることを定めてあることからも明らかだ。第三条の第五項に「民間の団体その他の関係者」という文言が入り、第十三条に「学校以外の場において行う多様で適切な学習活動の重要性」という表現が入ったことから「フリースクールが公認された」みたいに喜ぶ声もあるようだが、それはあたらないだろう。この法律そのものは、現状を大きく変えるものではない。

大きく変えるものではないけれど、変わろうとする方向性を示すものではある。たとえば、この流れの中で、文部科学省は「不登校は問題行動ではない」という通知を出したそうだ。

news.yahoo.co.jp

ただ、上記記事によると、この通知はなぜか現場ではほとんど知られていないという。問題はそこにある。変わろうとするのになかなか変われない。学校の現場とは、どうもそういう場所らしい。

本丸は学校 

不登校業界関係者にこんなことを言うと激怒されそうだけれど、不登校は現代の教育問題の中ではごくごく小さな問題でしかない。だから、もっと大きな構図を改めずにそこだけどうにかしようとしても、かえってひどいことになる。例えば今回の「確保法」だけれど、これがもしもフリースクール関係者が期待していたような「学校以外での学びも義務教育とみなす」制度を含むものになっていたらどうなっていただろう。一気に学習塾・予備校業界から大量の参入があって、たちまちいま以上の荒廃がおとずれていただろう。実際、現状をほとんど変えずにただ方向だけを示した今回の法律であっても、それだけで十分に学習塾・予備校業界を呼び寄せる力があったようだ。新規に開校したフリースクールもどきの学習塾が不登校生を引き寄せるため、長く頑張ってきた従来からの子どもたちの居場所としてのフリースクールには生徒が集まりにくくなっているとも聞く(あくまで噂だけれど)。それが関係者が望んだことだとは、私にはとうてい思えない。

やはり、本丸は学校なのだと思う。学校がまともじゃないから、一部の子どもたちは不登校という形でそれに対応する。けれど、多くの子どもはまともじゃない学校に無理にも適応する。どっちの被害が大きいかといえば、それは後者だろう。逃げ出せた子どもたちは、まだ幸せだ。もちろんその先には茨の道が待っている。それでも、逃げ出せば多くの無意味さを経験せずに済むだろう。残った子どもたちはそうではない。

現状の学校でやっていることの多くは無意味だ。私は、家庭教師として毎年20人ばかりの子どもたちに接する中で強くそう感じる。全てが無意味だというつもりはない。ポジティブ変換をかけたら、どんな苦行でも意味あることになってしまうかもしれない(苦しみは忍耐力を培うとかね)。そこまでしなくとも、実際、有益な知識が多少は身につくかもしれないし、友人関係からは得るものも多いだろう。なにより、親としては子どもが学校に行ってくれていれば安心だ。学校は、たとえ現状のままでもそれなりに役には立っている。

だが、だからといって、多くの無意味さ、アホらしさが免罪されるとは思わない。そのバカバカしさは、いちいち挙げていけばたとえばなんで「記録タイマー」をアップグレードする?ことのようになってくるわけだけど、実に限りがない。「いったいなにがやりたいの?」と思ってしまう。

そこが問題なのだ。現状の教育のおかしなところは実は社会のおかしなところの反映であって、たとえば中学校教育が歪んでいるのは高校入試のせいだし、それがなぜそれほどの破壊力をもつのかといえばそれは大学入試のせいだし、それは結局就職から生涯賃金に影響するからで、そこから是正しなければ本当の意味での改革は生まれない。とはいえ、教育のために社会を変えるなどというのは本末転倒だ。教育が徐々に変わることで社会を変えることのほうが本筋だし、実現可能性が高い。それはきっとできるはずだし、実際、教育行政の本流であるはずの文部科学省が作成している学習指導要領を見ると、そういう方向性も見えてくる。ただ、別な方向性も読み取れてしまう。そして学校は変わらない。それは、「いったいなにがやりたいのか?」それが見えないからだ。

学校は何のためのもの? 

学校には、さまざまな目標、目的が期待されている。義務教育に限って考えてみても、まずは基礎的な学力をつけることが期待されているし、社会性を身につけること、健康な身体をつくることも同様に期待されている。親としては子どもを安全に預かってくれることを期待するし、やっぱり競争に打ち勝って少しでも安定した人生の可能性をつかむ訓練をして欲しいとさえ考えてしまう。そこまであからさまでなくとも、子どものもつポテンシャルを十分に引き出して、将来食うに困らないように育てて欲しいと思っている。

だが、それらの全てを学校に期待すべきなのだろうか? それは学校でなければできないことなのだろうか? それは学校のようなシステムで最もよくできることなのだろうか? そして、そのどこまでが公教育として公共のリソースを投入すべきものなのだろうか? 実は、そういった細かな要件が議論されたことは、あまりないのではなかろうか。

過去にはそういう議論もあったのかもしれない。たとえば義務教育草創期の明治時代には、学校教育の必要性のような議論も多少はあったようだ。あるいは戦争直後の学制改革時にも、そういう議論はあったようだ。けれど、実は学校というものは、「学校ってそういうもんじゃない」的な思い込みによって成立してきた部分が大きい。たとえば明治期には寺子屋や藩校のような儒学教育からの連続性が強調され、少なくとも民間レベルでは前近代からの師弟観が継承された。敗戦によって教育は大きく変わったが、その変化はどのように教えるのか、何を教えるのかのレベルでの変化であり、それ以前の学校という存在の根本に関する変化ではなかった。だから新制の学校のほとんどは旧制の学校を受け継いで成立し、形式や指導内容を変えただけで枠組みを変えなかった。学校を支える社会の「学校ってそういうもん」という観念は、基本的に変わらなかった。

しかし、多くの社会制度同様、学校も必要性があって生まれたものである。そして、その必要性は、時代とともに変化している。ニーズが変化するのだから、そのニーズを満たすための制度そのものも変化しなければならない。ところが、学校は驚くほど変わっていない。少なくとも日本では、私の知っているだけでも半世紀は本質的に変わっていない。おそらくその以前から、ほとんど変わっていない。

学校の歴史を遡る

 おもしろい本を見つけた。柳治男著の「<学級>の歴史学 」という10年ちょっと前の新書だ。もちろん本のほうが詳しいのだけれど、書評(こちら)やWeb上で公開されているいくつかの論文(たとえば「学級と官僚制の呪縛」や「農村社会の変化と地方教育行政組織の官僚制化」、「地域社会と学校の論理的媒介としての教育の分業化」、「教職志望学生の志望動機形成と事前制御の受容に関する研究」)あたりをみていると、だいたいの問題意識はわかる。暇な人は読んでみるといいと思う。あえて要約はしない。

氏によれば、現在のような学校の形、すなわち、教室があってそこに生徒が前を向いて並んで座る形式の学校は、産業革命進行中のイギリスで発生した、とのことだ。他の著者の他の論文とかも読み合わせてみるとドイツのような大陸系の集団教育理論とかの系統もあるようだが、日本への直接の影響ということでいえば、どうやら19世紀初頭に成立したモニトリアルシステムが形成した「教室」の伝統が大きいようだ。

そして、この「教室」という空間を利用して、日本の教育システムはできあがっている。すなわち、柳治男によれば、これは教育システムの中で「自明視された空間」である。特に日本では、「担任」が特定の生徒集団を統率する社会単位がこの空間に統合された。そして、その「学級」に対して、ありとあらゆる教育目標の達成が要求された。教師たちは、超人的な努力でそれを達成しようとしてきた。その中で生み出されたノウハウが、現実の学校を形づくっている。

しかしながら、「教室」というスタイル、多数の生徒集団に対して一斉授業を行う教育スタイルは、実は単純な最低限の技能を最も低コストで伝達することに特化して工夫された形態でしかない。産業革命進行期には一定の技能(識字、算術)をもった多数の労働者を確保する必要があったから、このスタイルには相応の合理性があった。労働者とともに一定水準の兵士を確保する必要のあった明治時代以降の日本においても、このようなスタイルは有効だっただろう。特に日本においては、底辺を切り捨てるのではなく、連帯責任と相互扶助をベースに学級が一体化して底上げを行う集団主義がこのスタイルに重ね合わされた。おそらくそれは連隊→大隊→中隊→小隊→分隊とピラミッド構造の集団を構成する軍隊の形式と整合性がいいこともあったのだろうし、伝統的な村落共同体から受け継いだ社会観に合致するためでもあったのだろう。

このあたりから、教室での一斉授業という指導形式とそこに期待される教育内容の不整合が生まれてくる。本来このスタイルは「クラス」別の授業を必要とする。「クラス」とは階級であり、つまりは一定の学力水準を満たしていることになる。そのためには能力を測定する「テスト」が必要となり、その試験に合格した者だけが同じ授業を共有する。ところが日本ではこれを年齢別に編成し、自動的に昇級することにしてしまった。また、識字や算術のような基礎技能だけでなく、より高度な思考や知識を必要とする学問領域、さらには人格形成に必要な素養までが学校教育に期待されるようになった。そして、そういったものが教室での一斉授業スタイルに適合しているかどうかの検討は行われず、学級は「自明のもの」とみなされ、新たな要求だけが次々とそこに投げ込まれた。そして、その不整合を埋め合わせるバッドノウハウが教育法として蓄積されてきた。それでも間に合わないところは、教師の献身的な過剰労働で埋め合わされてきた。

どうやら私たちが目にする学校は、そういう歴史をたどってきたものらしい。つまりは、本来設計されたのとは別用途に使われながら、だれもそれを疑問に思わないシステムだ(まるでエクセルみたいじゃないか!)。現在の学校教育にみられる歪みの多くは、どうもそこから発生しているのではなかろうか。

システムは要件定義から 

たまたまそこに使えそうなシステムがあったから、そこにどんどんニーズを投げ込んでいく。 それはツールの正しい使い方だろうか? 場合によってはそうだともいえる。特に大きな変化が起こるようなときには、見えない方向性に大きな投資をするよりは、とりあえず手近なものを「あるもの使い」で活用し、急場をしのぐことがあってもいい。既存のものに継ぎ接ぎをして、様子を見ることがあってもいい。

しかし、そこには思わぬ落とし穴がある。間に合せのシステムが、あたかもあるべき姿であるように誤解され、問題があっても手直しや機能の追加で対処すべきであると受け取られてしまう危険性だ。時代が進んであらかた要件が出揃った段階で素直に見れば、スクラッチからシステムを設計しなおしたほうがずっといいものができるとわかる。けれど、古いシステムに手直しと追加を重ね、バグにパッチを継ぎ当てて肥大化したシステムは、奇妙な権威を帯びている。その不具合のひとつひとつに、想定外の利害が絡んでしまう。せっかくうまく回っているものを弄るなという声が出る。うまくいってなんかいないのだけれど、システムが巨大化しすぎて目の前の局面しか見えなくなると、個別にはうまく動いているように見える。全体の効率が悪かろうと一部に軋みが集中しようと、それはシステムの本質的な問題ではないように思えてしまう。

学校というシステムで起こっているのは、そういうことではないのだろうか。多数の単純労働者を安価に養成するために設計された教室での一斉授業というスタイルが便利だったので、そこにさまざまなニーズを押し付けた。たとえば軍事教練がそれだ。教育現場の抵抗を受けながらも、日露戦争以降、政府は学校に軍事教練的要素をどんどん導入していった。たとえば道徳教育がそうだ。心の教育は、教壇の上から説教を垂れて行えるもんじゃないだろう。戦後の民主化教育だってそうだ。全員が同じ向きを向いて一人の選ばれた者がそれに対面するスタイルは、民主主義のトレーニングに最も不向きなものだ。理科教育だって、教室スタイルでは絶対に伝えられないものがある。ただ、教室スタイルで伝えやすい内容もあって、そのおかげで理科の教科の内容は著しく歪んでしまった。講義しやすい内容だけが理科の主要部分を占めるようになってしまい、そういうものが科学だと誤解されるようになってしまって長い。

この社会が学校という制度を利用するようになって長い時間がたった。そこに求めるものも、あらかたは出揃っている。そのすべてを満足させようと思ったらパッチだらけで肥大化した現状の学校システムを肯定せざるを得ないのかもしれないが、要求をすべて並べてみて、公教育としてどれが必須でどれがそうでないのかを検討することはできるだろう。

そういう作業をする時期ではないのだろうか。あらゆるものを現状の学校に還元してしまうような発想、冒頭にあげた「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」のような発想では、学校はやがて立ちいかなくなる。学校にはどのような機能があり、何が公教育の必須条件なのかを明らかにすることがまず重要だろう。それがあれば、その必須条件満たすためにどんな代替手段が用意できるのかを、感情論に走らずに議論できる。学校の機能が明確であれば、「それ以上のものを要求しないでください。それ以上が必要であれば、それは公教育以外のサービスを利用してください」と、学校側もはっきりといえるだろう。

たとえばクラブ活動。あれが公教育の機能として本当に重要なのだろうか。そういうものがあったらいい、あったらそれなりの価値があるというのは、否定はしない。しかしそれは、学校システムの中で、公的なリソースを費やしてまで追求すべきことなのだろうか。

 

ま、私としては、学校には最低限、託児機能があって欲しいとは思う。小学校レベルの算術と識字、読解力も欠かせないニーズだろう。こういう時代だから、最低限の情報処理や社会的スキルもそこに加えていい。そこから先は、ぜんぶ疑問符をつけて改めて検討してもいいぐらいに思う。

少なくとも、校則で縛ったり形式にはめこんだりして得られる社会的規律みたいなものは、学校システムからは排除して欲しい。そういうものは、本来の意味での教育じゃないんだからね。

なぜ勉強するのかを教えてはならない - 家庭教師の経験を通じて見えてくる真理

家庭教師としての経験も5年になった。入れ替わりの激しいこの業界だから、ベテランと言ってもいいだろう。これは「プロ」としての経験という意味だ。大学生のアルバイトとか、そういうのは除外したい。

その私が、いくつかの例外的なケースを除いてほぼ最初からずっと厳格に適用してきているルーチンがある。それは、初回の指導時に、「なんで勉強するんですか?」と生徒に聞くことだ。どうしても都合で第1回めにできないときには2回めとか3回めになる場合もあるが、できるだけ早い時期にこれを確認しておく。

本当は、「勉強」という言葉も使いたくない。これは誤用だし、危険な言葉だ。けれど、「学習」みたいなよそ行きの言葉では生徒と話が通じないから、しかたなしに使って尋ねる。「勉強は好きですか?」「好きじゃないです」「じゃあなぜ、好きじゃないことをするんですか? なぜ勉強するんですか?」すぐに答える生徒は多くない。たいていは、こちらの真意を探るように言いよどむ。

そりゃそうだろう。家庭教師を雇うのは、勉強するためだ。やることが前提にあるのに、その理由をいまさら聞く奴は信用できない。そのぐらいに思っても当然だ。だが、こっちにはこっちの理由がある。プロの仕事は、常に成果を求められる。その成果を正しく評価するためには、ゴールが正しく設定されている必要がある。そしてゴールは、雇われた側が勝手に決めつけていいものではない。掃除をしてもらおうと思って家事代行サービスを頼んだのに、掃除はせずに晩飯の用意をされたのでは、いくらその料理が絶品であっても、やっぱり顧客は満足しない。たとえ掃除を依頼して掃除をしたのだとしても、本当はやってほしくないトイレ掃除が中心で、やって欲しかったリビングがざっと掃除機をかけただけとかなら、やっぱり嫌だろう。家庭教師の仕事は成績をあげることと集約されるのかもしれないが、やっぱりそこにはクライアントの微妙なニュアンスのちがいがある。家庭教師が勝手な自分のイメージでカリキュラムを立てることはロクな結果につながらない。医者でさえ、患者の意向を確認する時代だ。家庭教師が「なぜ勉強するのか」を確認するのは、当たり前以上に当たり前だろう。

そして重要なことは、その「なぜ」が、本当であることだ。ウソであっては困る。実際には望んでいないことが現実になって喜ぶ人などいない。だから私は、ここにシビアになる。「親が勉強しろというから」みたいなのは論外で、「じゃあ親が死ねと言ったら死ぬんですか?」ぐらいの極端なことは言う。「勉強しないと将来困るから」と親や教師が説教するときに使う文句を繰り返しても、「本当に困るかどうか、どうやってわかるんですか? 実際に、困らないことのほうが多いんですよ」と、事例をあげて反論する。「勉強しないと高校に入れない」と言ったら、「高校は勉強するところだけど、勉強するために勉強するって、理屈になってないよ」と指摘する。借りてきた理屈、自分で考えていない理由は、たいてい木っ端微塵に砕いてしまう。

そこまでやらなくてもと思うかもしれないが、そのぐらいやると、おもしろいことにたいていの中学生、高校生は、自分の頭で考えた理由を話しはじめてくれる。だれだって、一度や二度、「なんでこんなアホらしいことせんなあかんねん」みたいなことは考えたことがある。子どもたちは案外と、それぞれの理由をしっかりともっている。

そしてここで重要なことは、その理由が全て個別のものだということだ。「なぜ勉強するのか」に、唯一の正解などない。唯一とは言わない。模範解答はない。それぞれのひとが、それぞれの理由でもって何かを学ぼうとする。

もちろん、そこに何か共通する原理を見出そうとすることは不可能ではない。「人間はもともと好奇心をもった生物である」とか、「学習によって人は進化を遂げてきた」とか、「日々発展する社会の中で知識や技能の重要性が増加している」とか、そんな分析をすることも決して的を外したことではない。けれど、それは一般に人が学ぶ理由にはなっても、個別の、一人の人間が学ぶ理由にはならない。

たとえば、現代のテクノロジーを支えているのは根本的には物理学であったり化学であったり数学であったりする。だから現代に生きるのであればそういった学問を学ばねばならない、という理屈は成り立つが、しかしまた、現代のテクノロジーはそういった素養が一切なくてもハイテク機器の活用に何ら支障のないユーザーインターフェイスを達成してくれる。テクノロジーを進化させていくには学習は必要かもしれないが、その恩恵に浴するだけなら別に何も学ばなくてもいい。一部の優秀な人々だけが勉強するような世界だって、別に構わないわけだ。

あるいは、正しい知識がなければ人に騙されるということは実際に起こる。だから、社会で詐欺にあわないように学習しましょうというのも、正しいひとつの考え方ではある。けれど、人に騙されるのは騙される人がわるいのではない。騙す人がわるいのだ。だから、他者の正義に頼って生きるという選択をする人々があっても、私はそういった人々を責めるつもりにはなれない。騙されてはいけないから勉強しないといけないというのは、極端に走れば自己責任主義の強者の理論にしかならないだろう。

一般的な理由、多くの人が納得する理由は、いくらでも出てくる。しかし、それがある個人に該当するかどうかは、一概には言えない。全ての理由には、そうしない理由もまた付随してくる。たとえ人類が知能によって現在の地位を築いてきたのだとしても、その流れに参加しない、参加したくないという人がいることを人間社会は拒否できない。文明の進歩に背を向けたいという人を排除する論理を私たちはもたない。競争に打ち勝つことが善であるという価値観を全ての人に押し付けることはできない。最後に残ってくる「勉強しない奴はダメだ!」みたいな感情論には何の意味も残っていない。

 

社会を論じる立場、生物としての人間を論じる立場からなら、普遍的な理由を探してくれてもかまわない。けれど、決して忘れてはならないのは、個人はあくまで個人として存在するということだ。だから、最終的に、「なぜ勉強するのか」の答えは、個人によって異なってくる。そうでなければ、目的に合わせてカスタマイズしていくことがセールスポイントである家庭教師の仕事は成り立たない。

そして最も重要なことは、「なぜ学ぶのか」を考えることが、既に大きな学習行動であるということだ。詐欺のようではあるけれど、「なんで勉強するんですか、嫌ならなぜやめないんですか?」という問いかけは、実はほとんどのゴールへの第一歩になる。なにせ、考えないことには何一つ解決しない世界に私たちは住んでいる。そして、その考える技能を身につけることこそ、勉強する最大の理由なのだから。

 

ほら、矛盾を指摘してごらん。

15歳になった君に - あるおっさんから息子への手紙

これまで何回も、君の誕生日を祝ってきた。15年前に生まれて、生まれたときはもう必死の思いで、とても祝うどころじゃなかった。だから1年目の誕生日からがお祝いで、今日で15回目のお祝いだ。そして今日は特別だ。ひとつの節目だと思うから。
理由は簡単だ。15歳からは歌になる。そりゃあ、もっと小さな子どもが登場する歌がないわけじゃない。けれど、年齢が象徴的な意味あいをもって歌われるのは、15歳からだ。あえて例はあげないけど、いくらでも思いつくだろう。歌になるということは、それ以前とは存在の大きさがちがうということだ。一人前とまではいかなくても、それに近いものとして社会が受け止めてくれる。そこまできたのだなと思ったら、やっぱり私は嬉しい。極端な話、もう私の役割は終わったなと、安心する。
そんなことを言うと、君の「かあちゃん」は、「まだまだ自立してるわけじゃないんだから、無責任に安心しないでよ」と指摘する。もちろん、まだまだ君には助力が必要だろう。だが、それは、足りないところを補ってもらう程度のことでしかないと思う。小さい頃の君はそうではなかった。
小さな君の隣で寝ていて、ときどき不安になって君の寝息をうかがったものだよ。生きているかどうか、心配になってね。そのぐらい、小さな子どもというのは脆いものだ。危ういものだ。「ああ、ここで自分が倒れたらこの子は死ぬな」と、そのぐらいに思わせてくれた。そこまで言うのは客観的には誇張が過ぎる。けれど、赤ん坊は腹が減ってもおむつが濡れても泣くことしかできない。その泣き声に反応してくれる大人が泣き声の聞こえる範囲内にいなければ、長くは生きていられない。水一杯、自分で飲めないし、着替えることも、寒さに対応することもできない。それは生命の危険に直結する。小さな子どもというのは、とことん誰かに頼らなければ存在さえできない。
けれど、小学校に入ってしばらくするあたりから、「ああ、こいつはもう死なないな」と思えるようになる。相変わらず自立はしていないけど、ある程度のことなら、自分で対処できるようになる。小銭さえそこにあれば買い食いだってできるし、そのうちに簡単な調理もできるようになる。寒ければ暖房のスイッチを入れるとか布団にもぐりこむぐらいの知恵だってついている。親がいなければ生きていけないのは相変わらずだけれど、たとえ親がいなくなっても、よっぽどのことでもなければ社会がどうにかしてくれる。親がいなくても生命の危険まではない。依存する先が変わるだけ。
それでも私はその時期、君の十代前半をそれなりにがんばったよ。それは、そこをしっかり支えなければ、君が君として存在できなくなると思ったからだ。生命としては存在できるかもしれないが、生きているだけでは君ではない。これは親としての思い込みかもしれない。君が君として存在し続けるためには、どうしても譲れないものがある。私はそう感じてきた。親にそう感じさせたのは、君の実力だ。「こいつには何かがある」と確信させるものを見せてくれたから、私はありきたりの世界に君を放り込むことができなかった。「こいつを育てられるのは自分しかいない」ぐらいの覚悟を抱かせてくれた。だから、君が13歳の初秋に学校に行かないことを決めたときも、それをしっかり引き受けていこうと思った。そのために親がいるのだぐらいに思った。こういうことを言うとかあちゃんは怒るかもしれないけど、君は一人では不登校生活を続けられなかったと思う。文句をいい、批判をし、時には怒りを爆発させながらも、やっぱり私は君を支えたのだと思う。君が君でいられるためには、やっぱり私の支えが必要だったのだと思う。
けれど、そろそろその必要もなくなってきている。君は料理もできればその他の基本的な家事もできる。そのうるさい服の好みには、私はついていくことができない。知識や技能も、部分的には私を超え始めている。英語の発音は私よりもきれいだし、3Dモデリングの技術は私の想像を超えている。1年前に始めたギターだって、何十年も弾いている私よりも器用な指遣いを見せてくれる折もある。いろんな作業やスポーツや、そんな機会に少し前までは有効だった私のアドバイスのいくつかは既に外野の騒音と変わらないものになってしまっている。雑学では人後に落ちないつもりの私なのに、最新の知識を君に教えてもらうことも少なくない。
一人前と言うにはまだ程遠いだろう。けれど君は、私よりももっと別の人々、その道の達人たちに支えてもらうほうがいい時期にさしかかっている。そしてその準備も整いつつある。来春には高校に入り、寮生活になる。まだ入試の最終結果は出ていないけれど、私は合格を信じているし、たとえそこに行けなくても同じように君はどこかの場所で、誰かから専門的な指導を受けるようになるはずだ。経済的な部分での責任は私に残るし、週末の生活はたぶんこれまで通りだし、その他のことであっても求められればこれまで同様いくらでもサポートはするけれど、やっぱり日々に君を支える役割はもう終わろうとしている。

 

白状すると、15年前、君が出てくる瞬間まで、私は君のことなど何一つ考えていなかった。君という人を知らなかったのだから、あたりまえだ。君が出てくるまで、私はかあちゃんのことだけ、心配していた。この人が早く苦しみから逃れられればいいのにと、そればっかりを祈っていた。君のことは考えていなかった。
かあちゃんはそうではなかった。君が生まれる前から、ずっと君との生活、君の成長、君の将来を考え続けていた。生まれてからもそうだった。私は君のことを美しいと思ったし、君に対する責任も感じてはいたけれど、どこか他人事のようでもあった。おむつを替えるのも君をお風呂に入れるのも、抱っこして散歩に連れ出すのも、それは君のためというよりは、それでかあちゃんが少しでも楽になるから、かあちゃんが喜ぶからだった。ひどいと思うかもしれないが、父親なんてそんなもんだよ。
かあちゃんがあれほど君のことを考えてくれなければ、私たちの人生はもうちょっと別の方向に動いたかもしれない。けれど、かあちゃんは君のこと優先だったし、私はかあちゃん優先だった。そしてしばらくするうちに、私は君と親しくなった。そして、だんだんと、いつの間にかすっかり、君に魅了された。君ほどおもしろいやつはめったになかったし、その才能をしっかり伸ばしていけるかどうかは思った以上に私にかかっていることに気がついた。私の中で君の優先順位が上がっていった。
振り返ってみれば、この5年余りの月日、私は君を育てるために存在したような気がする。もちろん、自分自身の楽しみ、自分の趣味や自分の興味を追いかけなかったわけではない。君の食事よりも自分の仕事を優先したことだってなかったとは言わない。けれど、私の仕事も、巡り巡って「これをやってきたのは君のためだったんだよなあ」と思えるようなものばかりだった。家庭教師の仕事では、いろんな子どもたちを知ることで、君をより深く知ることができるようになった。もしも他の子を知らずに君だけを見ていたら、私はもっとオロオロしていたかもしれない。いくつかの翻訳の仕事は、私から君へ伝えるべきエピソードをくれた。世の中の仕事が、学問がどんな仕組みで動いているのかを、わずかな事例ではあっても君に見せることができたのではないかと思う。仕事や遊びで様々なソフトウェアを使ってきた実績は、君が新しいことに興味をもつたびに私から伝える知識になった。古本屋の百円コーナーで買い集めた蔵書は、私のものであると同時に君のものにもなった。
それは楽しい年月だった。けれど、同時にフラストレーションの貯まる毎日でもあった。君にとっても私にとってもね。君と私は別々の個性だ。同じ音楽を聞いても、感じるものがちがう。時には「その曲は止めてくれ!」と言いたくなる。全てを分け合うことはできない。バックアップひとつとろうとしない君のパソコンの使い方を私が批判するのも、パソコンを乱雑にかばんに投げ込む私のやり方を君が批難するのも、どっちも正しいのだろうけれど、どっちのトクにもなりはしない。私が頑として「斧は嫌だ」と言っても、君が「薪割りするなら斧でなければ嫌だ」と主張したら、やっぱりどこかで妥協しなければ話は前に進まない。そんなつまらない妥協でエネルギーを消耗するのは最低だと思いながらでも、日々に失うものは多い。
だから君は、もっと広いところに出なければならない。世の中には、父親なんて比べ物にならないぐらいの豊な才能をもった人々がゴロゴロ転がっている。たまたま生まれ落ちた家に住んでいたというだけのおっさんよりも、頼るべき人々はいくらでもいる。それを求めて、活動範囲を広げなければならない。

 

それでも私は、君の父親だ。もうしばらくは、君を支える仕事をさせてもらえるだろう。少しずつ軽くなる荷物でも、もうしばらくは背負っていく。そして荷が軽くなった分だけ、自分を取り戻そうと思う。自分は自分で、もっと広いところに出ようと思う。
その先、どこか思いがけないところで君に出会うことがあったら、それはそれでおもしろいと思う。そんなことを少しだけ、楽しみにしている。良き人生を祈る。そして、これまで、ありがとう。

軍隊は違憲? - アメリカにもあった憲法問題

憲法改正は争点?

衆議院選挙が近い。今回の争点はまったく不明で、単純に政敵を追い落としたいだけの低次元の争いにしか見えないのだけれど、それでも各党の立場のちがいを比較することに意味はある。こんなサイトが、割とわかりやすかった。

go2senkyo.com

そこを争点とするのかどうかはともかく、上記サイトの調査では憲法問題で各党の立場が大きくちがう。設問がなかなかクレバーだなと思うのは、憲法について、それぞれ5段階のYes/Noで「憲法を改正するべきだ」という項目と「憲法9条を改正し、自衛隊の存在を明記すべきだ」という項目を分けていること。憲法論議でこれがよく混同されるのは、一部の左系が主張するように、「改憲勢力の本丸が9条だ」という、あながちウソでもない事情が存在するからだろう。けれど、「憲法を改正しますかどうですか?」という質問と、「改正するなら9条はどうしますか?」というのは、本来別物だ。だから各党の反応も、それぞれになる。たとえば公明党改憲には賛成だが9条に関しては中立、立憲民主党改憲は考慮してもいいが9条に関しては強硬というようなちがいが出る。

私自身は、憲法そのものに改正の手続きが書いてある以上、改憲が必要ならやったらいいと思う。しかし、いま改憲が必要かといえば、別に要らんようにも思う。憲法変えなければ困るようなことも起こっていない。だったら、国民投票とかするコストがムダじゃない。

 

とまあ、実際のところ憲法問題は私の関心ではないのだけれど、それでももしも改憲賛成派が勝利したら国会の議題にのぼってくるのは避けられない。無関心でばかりもいられないだろう。改憲するかどうかではなく、どんなふうに変えるのかとか、どこを変えるのかという具体的な話にもなるかもしれない。ちなみに、社会科で中学・高校生に憲法を教える立場の人間としては、現状の憲法そのものを変えるのではなく、アメリカ合衆国憲法のように修正条項を加えてオリジナルは残す方法にしてほしいなとは思う。現状の憲法は、あれはあれで歴史文書として非常に一貫しているので、継ぎ接ぎで変えられると読解できなくなる。歴史は歴史としてきちんと残しておく意味が、憲法ぐらいの重要文書にはあると思う。

ともかくも、具体的な話になったときに、やっぱり俎上に乗るのは9条だろう。なにしろ、自衛隊憲法9条に外見上の齟齬があることは、はっきりしている。ただし、「きちんと解釈すれば矛盾ではない」という極論から、「この程度の矛盾は矛盾のうちに入らない」とするなあなあ論、「矛盾はあっても運用上問題ない」という現実論から「矛盾があるから訂正しよう」という名実一致論、「現状の自衛隊では不足だから憲法から変えよう」というタカ派論議から果ては「違憲だから自衛隊は廃止」という理想論まで、さまざまな方向性のさまざまな議論がある。その中で自分の立ち位置を決めるのは、なかなか難しい。

だが、そもそも、憲法の条文と現実に多少の齟齬がある、というのは、それほどまずいことなのだろうか。軍事占領下での憲法成立という特殊事情のある日本に固有の事情なのだろうか。ふとそんなふうに思って調べてみたら、なんと、本家のアメリカにも実は軍隊をめぐる憲法問題があるということがわかった。日本のようにそこを巡る議論が決着がつかないわけではないが、日本以上に決着のつかない問題にも連なっている。そのスジの人には常識なのかもしれないけれど、ちょっと驚いたので報告を。

アメリカ合衆国憲法の陸軍

まずはその戦争に関する議会権限についての条文  

第1章

第8 条[連邦議会立法権限]

[第11 項]戦争を宣言し、船舶捕獲免許状(国家が私船に海賊行為をすることを認める許可状。1856 年のパリ宣言で禁止)を授与し、陸上および海上における捕獲に関する規則を設 ける権限。

[第12 項]陸軍を編成し、これを維持する権限。但し、この目的のためにする歳出の承認は、2 年を超 える期間にわたってはならない。

[第13 項]海軍を創設し、これを維持する権限。

[第14 項]陸海軍の統帥および規律に関する規則を定める権限。

アメリカ合衆国憲法|About THE USA|アメリカンセンターJAPAN

アメリカの軍隊は、陸軍、海軍、海兵隊、空軍の4軍からなっているが、憲法に規定があるのは陸軍と海軍。このうち、海軍は「創設し、これを維持する」ことが認められているが、陸軍に関しては「編成し、これを維持する」権限を認められているものの、「この目的のためにする歳出の承認は、2年を超える期間にわたってはならない」となっている。小さなちがいだが、実は憲法ができたときには大きなちがいだったらしい。

どういうことか? 2年を超えて予算をつけられないと言いながら、アメリカでも役所は基本が単年度主義だ。だから、毎年予算は更新されるので、第12項の制限は事実上の制約にはなっていない。だが実は、憲法が書かれた時点で、これは陸軍に関しては「常備軍」を持たないという方針を表明したものとして理解され、合意されていた、ということらしい。

詳しい話はこちらの論文("The History of the Second Amendment" by David E. Vandercoy)に書いてあるのの受け売りなのだけれど、アメリカ建国の時点で、「建国の父」たちは常備軍に対して強烈な拒否感をもっていたらしい。その理由は、彼らの母国であるイギリスの歴史に遡る。ピューリタン革命を中心としたイギリス激動の時代、常備軍は常に権力者の手先として人民を弾圧してきた。理由は単純で、職業軍人は、給料を支払ってくれる権力者の命令を第一に考える。また権力者は、自分の命令に従う人間を好んで軍幹部として採用する。したがって、常備軍が権力者の側に着くことは避けられないし、権力者は常に暴走する危険性をはらんでいる。割りを食うのは人民だ。そして、その弾圧を逃れて新大陸に移民した人々は、最終的にはイギリス国王の常備軍を打ち破ることによって独立を達成した。だから、自由の国に軍隊はあってはならない。これが「建国の父」たちの共通した認識だった。けれど、彼らは現実主義者でもあった。新しく整わない自分たちの国が外国からの侵略を受ける可能性が高いことも十分に承知していた。どうすべきか。

ここで、再び母国であるイギリスの歴史が関係してくる。戦乱の世のイギリスでは、支配者は戦いに勝つために支配下のあらゆる力を動員する必要に迫られていた。ヨーロッパは本来ローマ軍団の残骸である「騎士」が土着領主として封土を支配する封建制を基本としていたが、戦争が続くと非戦闘員である農牧民までを動員するようになる。イギリスでは13世紀頃には「全ての健康な成人男子は武器を持ち、戦時には民兵として出役すること」という近代徴兵制へと続く慣習法が成立していたらしい。いったん戦争が起こると、常備軍に加え、この民兵が戦争に参加する。それは戦う双方ともそうだ。となると、敵の民兵が少ないほうがありがたい。したがって、戦争に勝った方は、常に相手方の民兵武装解除しようとする。常備軍の強化と民衆の武装解除が、アメリカ独立以前のイギリスで繰り返されていた。

ところが、アメリカ独立戦争を勝ち抜いたのは、植民地の民兵たちだった。植民地では、防衛のために民間人の武装を認めないわけにはいかない(参考:米国における軍隊の国内出動 ― 「カトリーナ」が残したもの ― 井上 高志。その武装した民間人が、イギリス伝統の民兵として武装蜂起に参加した。そして勝った。

だから、「建国の父」たちも、いざとなればこの民兵に頼ればいいと考えていた。全ての民間人を対象に、必要なだけの民兵を動員すればいい。およそ植民地の成人男子は、基本的な銃器の扱いはできる。いつでも兵士になることができる。その一方で、特殊な技能と装備を必要とする海軍については、常備軍として維持することもやむを得ないだろう。海軍は海の上のことだけを扱うのだから、民衆の自由を奪う権力者の道具になる可能性も低いだろう。

そんな考えから、海軍については「創設」(provide)する権限を議会に与えているのに、陸軍については「編成」(raise)する権限しか与えていない。「編成」は、文脈からは「招集」ぐらいの訳語のほうがしっくりくるだろう。つまり、陸軍に関しては、必要に応じて招集をかけ、必要がなくなったら解散する。だから、予算年限を2年と決めても問題はない。侵略戦争に対する戦いは、それほど長期に渡ることはないだろう。

アメリカ合衆国憲法は、少なくとも成立時には連邦軍としての常備軍の保持を禁じていたと考えていいようだ。あるいは、連邦陸軍は期間限定でのみ存在できると規定していたと言ったほうがいいかもしれない。軍隊はあくまで臨時編成のものであって、その期限は2年。ただし、海軍は除く。これが憲法の規定で、その後200年以上、改定されていない。ただし、表現が禁止規定ではなく、招集と予算執行の権限を与えるものであったため、解釈によってその後、常備軍憲法に矛盾しない形で運用されてきた。現代では、この第一章の第8条を根拠に「軍隊は違憲だ」というようなアメリカ国民はいない。

アメリカの憲法問題 

ただし、常備軍に対する「建国の父」たちの強い拒否感は、別の憲法問題を引き起こした。そしてそちらの方は現代のアメリカの国論を二分している。修正第2条だ。

修正第2条[武器保有権] [1791 年成立]

規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し携行する権利は、 侵してはならない。

アメリカ合衆国憲法に追加され またはこれを修正する条項|About THE USA|アメリカンセンターJAPAN

常備軍が権力の手先となって民衆を圧迫するというシナリオにおいて、「じゃあ誰がそういう権力者になるんだ」といわれれば、最もありそうなのが「連邦政府」というのが、「建国の父」たちの共通認識だった。これは、反連邦派だけではなく、連邦派にさえ共有されていた認識だというのだから、アメリカ人の自由への執着の凄まじさには驚くべきものがある。では、連邦政府の軍事的暴走を誰が止められるのかといえば、それは同程度以上に強力な軍隊でなければならない。そしてその軍隊は民衆を代表するものでなければならない。しかし、職業軍人は必ずその雇用主の命令に従う。であるならば、職業軍人ではない民兵がその任務を担わなければならない。

民兵は、すなわち武器をもった民衆だ。民衆は常に武器を携え、そして、いったんことあるときには集まって軍団を組織する。その組織は州単位で行えばいいし、平時でも交代で訓練と警備に当たればいいだろう。これが州兵であり、現在のNational Guard of the United States(国家警備隊、国防軍)ということになる。現在のNGUSは外見上、合衆国陸軍(United States Army)と区別がつかない。どちらも大統領の指揮下にあるし、どちらも同じような階級をもち、どちらも同じように任務に着く(例えば海外派兵もかなりの部分はNGUSが担っているらしい)。ただし、州兵の任命権は州にあって連邦にはないし、兵士は原則として専業ではなく、特に志願しない限りは6年間で累計24ヶ月以上の軍務を課せられないなどの規定があるというNational Guard of the United States - Wikipedia。このあたり、「建国の父」たちの民兵に対する思想が連綿と続いているといっていいだろう。つまり、もしも合衆国陸軍が暴走したら、それを止めるのは州兵部隊だということだ。

そして、州兵を構成するのは、原則として民衆の全てでなければならない。なぜなら、一部の職業軍人は、必ず一部の権力者の手先となるからだ。そして、そのためには、一般人は常に武器を携え、その扱いに習熟していなければならない。少なくとも、そうする権利を剥奪されてはならない。

なぜなら、イギリスの歴史は、権力者による反対勢力の武装解除が権力の強化手段として実行されることを教えているからだ。軍隊を手先として暴走する権力者は、必ず、反対勢力である民衆の武装解除を行う。そのような武装解除を明示的に禁止するのが、合衆国憲法の批准と抱き合わせで制定を約束され、そして最初の議会で憲法に加えられた修正第2条なのだ、という。

そして、その「武装する権利」が、アメリカを大惨事に陥れている。乱射事件は跡を絶たず、小規模な銃にまつわる事件・事故は報道さえされない。対岸から見ていれば「銃規制すれば済む話じゃないか」と思うのだけれど、彼らにとっては、それは国家を二分する憲法問題だ。日本人がなぜ憲法9条があるのか、その理念は何かを社会科で教えられるのと同じように、彼らは修正第2条の成立の背景、その理念を教えられるのだろう。だから、日本人にとって9条に手をつけることが平和を乱すことのように感じられるのと同じくらいに、彼らにとって修正第2条を無視することは自由を否定することになる。憲法違反をしてまで銃犯罪を防ぎたいのかと言われれば、それを本末転倒だと考えるアメリカ人が多いのだろう。そして、憲法論争が感情的になるのも、どうやら日米を問わず、ということらしい。

やっぱり憲法は放っておこうよ

こんなふうに アメリカの憲法を見ていると、日本の憲法について、その論争になりがちな9条について、ちょっと別な角度から見えてくるものがある。それは、「実は9条は軍隊を放棄してないんじゃないの?」ということだ。

現在の日本国憲法が占領軍総司令部の草案によるものであることは、いまさらなんの秘密でもない、義務教育の教科書にさえ書かれている歴史的事実だ。その経緯がどうだったかは、いまでも新たな知見が出てきているぐらいでかなり靄がかかっているが、その草案をもとに国会で(主にその解釈を)綿密に議論され、その末に議決によって成立したという正統性とともに、かなりの部分がアメリカ由来であるということは否定してはならない。そして、アメリカ人は、アメリカ人としての常識をもっている。すなわち、常備軍に対する拒否感だ。

そう思って読むと、

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

の第2項にある「陸海空軍その他の戦力」とは、常備軍を意識しているのではないかと思えてくる。なによりも、「保持しない」という文言は、アメリカ合衆国憲法の陸軍の「維持」(support)に相当するように見えてくる。アメリカ的な感覚だと、「国権の発動たる戦争」を行うのは集権的な権力者であり、その手先となるのは常備軍だ。だから、その目的を達するためには常備軍は保持してはならない。だいいちが国家には交戦権を認めない。

しかしながら、 そういった国家の専制的な行為に対する自衛は、当然ながら基本的人権の一部として認められるはずだろう。その専制は、日本国内に発生する場合もあれば、外国に発生する場合もある。それに対して武力で対応するのは、修正第2条をもつような国の国民としては書くまでもない基本的な権利と感じていたはずだ。

そんなふうに思うと、占領軍総司令部のとった戦後処理の大方針、すなわち、「今回の戦争は軍部の暴走であり、日本国民の大部分は一部の指導者に騙されていたのだ」ということで世論をまとめあげようとした大方針も、ひょっとすると彼ら自身がそう信じていたのではないかと思えてくる。彼らにとって常備軍は必ず専制権力と結びつくものであり、あってはならないものだった。だから常備軍は解体で、二度と保持しない。常備軍や専制権力による「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」しなければならない。戦争に勝利した高揚感の中で、そんな理想主義に酔っていたのだと考えてみてもいいのかもしれない。

 

 

もしも日本国憲法の第9条がそういうふうな思想でできたのだとしたら、自衛隊の存在がそれほど憲法違反には見えなくなるのかもしれない。もちろん、自衛隊職業軍人から構成されていて、決して民兵ではない。それでも、文民統制の原則やその活動をきちんと管理する法制度を厳格にしていけば、その武器が国民に向けられるような事態は避けられるのかもしれない。そして、もしもそれが可能であるならば、憲法はいじらなくていい。

正直、私にとって、憲法改正はぜんぜん嬉しくないんだよな。ただでさえ公民は教えることが多くてうんざりするのに、この上、また教えることが増えるのかと思うと…

政治に経済を語ってほしくない - どうやら私は自由主義者らしい

政党座標テストなるものがあった。

www.celebritytypes.com

むかし流行った性格診断とか動物占い程度のことではあるのだけれど、意外な結果が出たのでちょっと考えさせられた。

あなたの政党同調度は:

完全に右派と左派の中間, 61.1% 自由主義者

自分自身の意識としては私は「ノンポリ」だ。いまではこういう言い方はしない。私が若い頃は「野球チームはどこ?」というのと同じくらい気軽に政治意識を尋ねられたものだ。ちなみにその時代、「野球じゃなくてサッカーなんですよね」というのはあり得ない話で、どうでもいいと思ってる人はだいたいが「巨人かなあ」で、アンチが「阪神タイガース!」、本当の野球ファンは「近鉄」とか「南海」と答えたものだった。政治の方では「右」か「左」か「ノンポリ」に三分された。どれかのカテゴリーに分類しなければおさまらないのがダイバーシティもへったくれもない当時の空気で、私はノンポリ枠だった。

とはいいながら、私の人生、完全に非政治的であったのかといえば、それはちがう。いまでも密かに自慢しているのだが、国政選挙の公示日前日に届出書類の束を抱えて3つの府県の選管をハシゴした人間というのは、たぶん私ぐらしか生存していないだろう。参議院の全国比例区に10人の候補者を立てるというミニ政党の無謀な企画に乗っかって、その裏方をやったらそういう結果になってしまった(もちろん選挙は大敗を喫した)。そういう人間を非政治的とは言えない。

けれど、その政治運動は、右でも左でもなかった。だから古い時代の枠組みでいえば、「ノンポリ」とでも表現するしかないだろう。活動中にはけっこう多くの新左翼系の人々が流れ込んできたから、そういう人々には恩義もあるし、親しくもなった。ただ、違和感も感じていたから、私はあえてそういう人々に対しては「右翼ですよ」と自分の立ち位置を表現していた。私が右翼を名乗らなくなったのは、単純に「ネトウヨ」みたいな人々と一緒に括られたくないと思うようになったからに過ぎない。あるいは、もしもそういう「愛国」的な人々が右翼なのだったら、私は右翼ではない。右の主張にも左の主張にも、違和感ありまくり。

ということで、上記の「政党座標テスト」で「完全に右派と左派の中間」とされたことには驚きはなかった(驚きはないけれど、客観的に見れば自分の言動は「はてサ」と呼ばれる人に近いのかなと思ってたから、ちょっとした安心でもあった)。驚きだったのは、「61.1% 自由主義者」のほうだ。へえ、私ってリベラルだったんだ!

 

この「政党座標テスト」、アメリカのサイトだから、アメリカの政治状況下での評価だ。だからこの場合の「自由主義」は「リベラル」の翻訳である。ちなみに「自由主義」の対極に位置している「共同体主義」は耳慣れない言葉だが、英語では「communitarianism」となっている。「コミュニティ」重視の主義主張ということになる。つまり、「個人」を重視する自由主義に対して「地域」や「社会」を重視する立場となる。右に寄れば伝統社会を守る「保守」となり、左に寄れば「社会主義」となるわけである。

私に関していえば、かつての政治的活動の立場からいえば、「地域」重視のはずだ。だから「共同体主義」の方に大きく振れていても不思議はないのに、やってみたら「自由主義」に大きく偏った。ちなみに、英語版でもやってみたら「27.8% Left, 47.2% Liberal」と、ちょっと左に寄ったけれど、自由主義側に大きく偏っている傾向は変わらない。英語と日本語の結果がちがうのは、そのときの気分もあるけれど、やっぱり翻訳の問題だろう。これはこれで興味深いが、まあ、そこはおいておく。

 

この2次元の党派性の分布を見ていて気がついたことがある。それは、左右の軸を形成している価値観が経済であり、上下の軸を形成している価値観が正義であるということだ。経済についての考え方のグラデーションによって水平座標の位置が決まり、正義に関する考え方の変異によって垂直座標の位置が決まる。経済に関しては制限と放任、正義に関しては個人優先と社会優先が両極端になるという仕組みだ。これはまあ、解説にも書いてある。

気がついたのは、このマトリックスでは経済と正義をそれぞれ独立した指標と考えているけれど、自分はそうではない、ということだ。自分は経済と正義を対立するものと考えている。対立という言い方はちょっとちがう。互いに政治的リソースを食い合うものだと捉えている。だから、政治の争点が経済政策になることにひどく違和感がある。そんなことをやってるヒマがあったら、もっと正義のことに取り組めよと思ってしまう。それ、政治のやることじゃないから、と。

もちろん、経済は重要だ。人間、食うものがなければ生きていけない。正義ということでいえば、食うものがあってはじめて正義を考えることができる。衣食足って礼節を知る、だ。さらに、多くの不正は、経済的な搾取の形をとって現れてきた。だから、正義を語るのであれば、まず経済をどうにかしなければならない、という発想はわかる。けれど、経済活動というのは本来個人の領域のものだ。そうじゃないの?

 

政治は、個人と個人が集まって社会をつくったときの社会の動きを扱うものだ。そのツールは法律であり、財政である。ごくごく大雑把に括れば、法律は正義を扱うものであろう。では、財政は経済を扱うものなのか? ケインズ以来、その答えは「イエス」になった。しかし、本来、財政は正義を実現するためのコストを支払うためのものではないのだろうか?

では、なぜ財政が経済を扱うようになったのか? 答えは簡単で、それが正義の実現への早道だと考えられたからだ。たとえば、多くの食えない人がいる。人間と生まれて生きていくのに十分なリソースがないのは正義ではない。しかもそのリソースが全体として不足しているわけではなく、一部に偏在しているために多くの人に行き渡らないのであれば、それは断じて正義ではない。では、その不正を正すためにコストを支払うとして、どのような手段が最も確実かつ低コストか。私有財産の没収と計画経済というソリューションを出したのが百年前のソビエト連邦であり、景気を刺激することで富の循環を促進するというソリューションを試みたのがアメリカ合衆国だった。どっちが正しかったのかはすぐに世界的な戦時経済体制に入ったのでわからなくなったが、戦後数十年の変遷の中で生き残ったのは後者のほうだった。

つまり、経済は手段であって目的ではない。そして、目的が正義であるのなら、経済という手段がベストであるのかどうかは常に再検討されるべきだし、もしももっとコストパフォーマンスの高い手段があるのであればそちらに切り替えるべきだということになる。あるいは経済的な手法に関して、方向性を切り替えることも十分に検討に値することになる。

だから、経済を正義とは別次元のものとして横軸に表現することは、ある程度は妥当性があるのだろう。ただ、その場合でも、経済は正義の実現手段なのだから、まずはどういう正義を実現するのかがはっきりしていなければ適切かどうかを判断できないはずだ。ところが、なぜだか政治の話をすると、必ず「経済はどうします?」というのがくっついてくる。その場合の「どうします?」は、一方的に「景気を良くすることが政治の使命である」という価値観に立脚している。それ、本末転倒だから。

 

長いこと生きてると、景気がいい時代も悪い時代も見てくることになる。そしてどんな時代にも、幸福な人と不幸な人の両方がいることがわかる。景気が良ければ誰もが幸福かというとそんなことはないし、景気の悪い時代にはみんなが不幸かというとそんなこともない。ただ、景気の悪い時代にはその割りを食って追い詰められる人々が増えるのは事実だ。それは(例えばバブル期のように)景気がいい時代に勘違いをして身を持ち崩す人々が増えるのと同じくらいにまちがいない。そして、バブルに浮かれて生活を壊してしまう人々に対して自己責任をいうのは容易いが、不景気で失業して生活苦に陥る人々に同じことをいうのは酷だ。だから、景気が落ち込まないように配慮することが政策としてあってもかまわないとは思う。

しかし、より重要なことは、景気がよくても悪くても一定数は発生する不幸を、経済にかかわらず救済することだろう。つまり社会保障政策だ。その政策のコスト効率を高めるには、発生する不幸を少なくするほうがいい。そのためには極端な景気の悪化は避けたいし、もしも経済政策によって悪化を容易に避けられるのであれば、それは実施すべきだろう。

 

ここで重要なのは、経済の動きをコントロールすることは、まだまだ人間にはできないということだ。少なくとも、再現可能性を実証性の基礎に置いた近代科学的な発想は、1回こっきりの歴史過程を制御することに向いていない。制御しようとする人間そのものが制御されるシステムの一部なのだから、システム論的にも相当に困難なことは理解できる。そして実際に、多くの経済政策が予想外の展開を生み出している。

さらに、仮に経済の動きをある程度コントロールできたとしても、それが必ずしも政治の目的とは整合しないということがある。たとえば、100年前の経済学者が考えた有効需要の創出という発想は、それなりに説得力はあるし、実証的にもその効果は認められているらしい(このあたり、勉強していません。伝聞です)。しかし、マクロの経済の動き(というよりもマクロな経済指標の動き)と個別の苦境(年収や可処分所得)との関係は必ずしも連動していない。平均的にはそれらの指標はある程度関係しているのだけれど、政策が対象とすべきなのは社会的な正義という観点から見てこぼれ落ちる層なのだから、そういった人々との関連で見なければならない。そうなってくると、マクロな経済指標はどうも怪しくなってくる。たとえば、リーマンショック以後のどん底を経てからは、経済指標は一方的に右肩上がりに上昇している。その中で、「等価可処分所得の中央値の半分に満たない」人々は増加している。つまり、社会保障政策の対象とすべき人々が増えているわけだから、マクロの経済指標と政策目標は必ずしも相性がよくないことがわかる。

つまり、正義を実現するという政治の目標の手段として経済に手を出すというのは、それほど効率的なことではない。効率的な局面もあるにはあるのだけれど、常に効率的かと言われれば決してそうではない。 むしろ、経済政策は、そこに費やされるリソースの大きさからいって、他の政策を制限する要因として働くのではなかろうか。

 

政治に経済政策を期待する声を聞いてみると、「そりゃ、景気がいいほうが仕事がしやすい」「収入が上がる」「生活が楽になる」というもっともな内容であることが多い。けれど、個人の経済活動なんて、しょせんは個人的なものだ。いい仕事がしたければ転職すればいいのだし、収入が欲しければ頑張って働けばいい。生活が苦しければ不要な支出を削る工夫でたいていの場合はしのげる。それでも苦しいときに、はじめて社会的な正義に訴えることができる。

だから、まともに生活できている人々、ましてや株の売り買いやら資産の運用やらでヌクヌクと暮らしている人が、いまさら政治に何を求める根拠があるのだと思う。株が上がったほうが嬉しいってたって、それはあんたの商売の話であって、およそ政治とは関係ない。正義とは無関係だ。

だから、政治に経済を語ってほしくない。アベノミクスとか、そういうことをあたかも重要政策であるかのようにいうのは勘弁して欲しい。それに対抗して経済政策をどうこう話す方も見苦しい。「経済は争点ではない」ぐらいに言い切って欲しい。ところが、そういう政党はない。共産党でさえ、経済を口にする。そりゃそうだろう、左右の軸は、経済の軸で、共産党といえば左であることがアイデンティティなんだから。

実際、私がかつて関わったミニ政党でさえそうだった。「経済よりも生命を」という思想を根本にもっていたはずなのに、いざ立候補して「経済政策はどうしますか」とアンケートがきたら、「もちろん、経済はしっかりやります」みたいな回答をしていて心底がっかりしたものだ。カネがなければ始まらないという厳粛な事実と、金儲けを重視しますというのは、根本的にちがう。政治にはそこをはっきりと区別して欲しいと思うのだけれど、どうやら私の思想は極端にマイナーなものであるようだ。

 

そんなふうに自分の思想をまとめてきて、ようやく納得がいく。なるほど、私は「自由主義者」だ。自分自身の生き方について、とやかく言われるのを嫌う。私がなにか商売を始めたかったら、それは放っておいて欲しい。倫理的に問題なければ、何業でもかまわないだろう。それが失敗しても成功しても、自分のやったことだ。同じことを他人にも求める。

ただ、そうはいいながら、それで失敗した人々が苦しむのを見るのは嫌だ。それは人間として許されない。だから、そこを守る政策は必要だし、もっと踏み込んでそういう不幸が発生しにくいような政策も必要だろう。そして、そのコストを負担することも厭わないし、コストがかかるならお金のあるところから徴収するべきだろう。

なるほど、「リベラル」とはこういうことか。リベラルはもともと自由主義者で政府の介入を嫌う人々だったけれど、その流れはネオリベに行き着き、それとは別に社会保障や社会的な公正を重視する人々を現代ではリベラルという。そういう説明を聞いて長いこと腑に落ちなかったけれど、自分自身がリベラルだと判定され、そして自分自身の思想を点検してようやく納得がいった。

自由であることは、責任を伴う。その責任とは、社会的正義だ。そして、自由を自明視するのであれば、同時に社会的正義の実現も自明視しなければならない。だから後者が目立ってあの「リベラル」の概念になる。

だったら、リベラルと呼ばれている人々が政治に経済を持ち込むのはまるで似つかわしくないと思う。結局、そういう人々って、本当の意味でのリベラルじゃないんじゃないかなあ。それとも私の「61.1% 自由主義者」判定がおかしいのか。ま、しょせんは性格判断だし。

定義をするのはむずかしい - ネコは液体か?

イグ・ノーベル賞の季節である。Improbable Researchの発表によれば、トップに来るのが物理学賞「ネコのレオロジーについて」。この「レオロジー」、聞き慣れない言葉だが、連続体力学の中で粘性をもって流動するもの一般を扱うものらしい。そういえば学生の頃に「流れ学」みたいな講義があって、「それって流体力学とちがうんですか?」と、主に単位の関係で疑問に思ったものの、適当に過ごしてしまったような記憶が蘇ってきた。流体力学ニュートン流体と非ニュートン流体の力学を対象とするのに対し、レオロジーは非ニュートン流体の力学と塑性力学をまとめて扱う。といったあたりは俄仕込みの知識だ。

で、非ニュートン流体というのは、水や空気のような単純な挙動をする流体ではなく、塩ビやゴム、デンプンのような高分子がドロっと動くような場合の流体を指すらしい(ああ!いい加減だ)。飛行機の揚力みたいなのは割とニュートン流体的な解釈で計算できるのだけれど、マヨネーズとかケチャップみたいな食品工業で扱うものはだいたい非ニュートン流体らしいので、そっち方面の工学ではけっこう重要な基礎らしい(このあたりとか、参照)。

で、受賞論文を読んでみた。なかなかおもしろい。その紹介。

 

まず、この論文、半分はジョークである。末尾のAcknowledgementを読むとわかるのだが、これは非ニュートン流体力学の権威(らしい)Gareth H. McKinley教授の50歳の誕生日とビンガム賞受賞を記念して書かれたもので、所属も大学と学会(これもちょっと怪しめ)に加えて、「McKinley一家」と、明らかにジョークがかかっている。それでも一応は学会誌なので、決しておふざけには流れていない。ところどころにジョーク(たとえば株屋の慣用句である「死んだネコでも高いところから落とせば少しは反発する」みたいなのを引用するとか)を散りばめてはいるが、論旨はしっかりしている。

で、その論の要は、つまりは固体、液体の定義だ。すなわち、古くから物質の三態は、定性的に定義されてきた。しかし、レオロジーでは、より定量的に、数式を使って定義する。その定義に照らして、ネコを判定してみようというわけだ。ちなみに、いかにも学術論文らしくネコは学名で記載されているが、これもジョークのうちだろう。

さて、レオロジーでは、固体か液体かをデボラ数を用いて判定する(らしい)。デボラ数についてはこちらの解説がシロウトにはわかりやすかったのだけれど、

デボラ数ですが,これは材料の緩和時間と工程の滞留時間の比で定義され,緩和時間に対して通過する工程の滞留時間が短ければ材料は弾性体(固体)として振舞い,滞留時間が長ければ粘性体(液体)として振舞います.

とのこと。つまり、ネコについてデボラ数が算出できれば、それは現代的な科学らしく定量的に固体か液体かを判定できるだろう、ということらしい。

で、そこからの(おそらく玄人受けするジョークを含んだ:たとえばキャピラリー数をわざとcatpillaryと綴り間違えるとか)ディスカッションはすっ飛ばして読み進めると、さらにネコの乾湿、摩擦、降伏応力、接着性などを検討している。わけわからない。たぶんレオロジー関係者には馴染みの深いさまざまな流動体の性質や状態になぞらえているのだろう。そして後半、さらに踏み込んだ検討としてレイノルズ数Weissenberg数を持ち出し、さらには古代ギリシアヘラクレイトスまで持ち出す衒学ぶりで議論を進めるのだが、このあたりもシロウトには読みこなせない(仕事ならもうちょっと頑張るんだけどね)。ざっと見たところでは、万物流動ヘラクレイトスの思想は、「力」がなければすべてのものは止まると考えたアリストテレスによって影響力を失い、さらにガリレオ以降の合力がゼロであれば運動は変化しないという古典物理学の思想によって否定されたみたいな歴史が書いてあって、結局レオロジーヘラクレイトス的でもありアリストテレス的でもありガリレオ的でもある、みたいな感じの議論なのかなあと思う。

で、ネコなんだけど、結局それは慣性的であるのか弾性的であるのかなどの考察を経て、結論はネコはじっとしてないし、「さらなる研究が必要」みたいなことになっている。ま、このあたりはお約束の書き方なのかな。論文は以上。

 

で、ネコは固体なのか液体なのかということでいえば、もちろん、常識的に言ってこれは固体。まあ生物というのは大半が水でできていて、特に動物は革袋に入れた水みたいなもんだから、液体っぽい動きも多少はある。けれど、常識的には液体じゃあり得ない。

ただ、学問の世界での用語は、日常の世界とは微妙に異なる。例えば論文中でも出てくるpowerは日常的には「力」だけれど、物理学では仕事率のことであって、日常的な意味とは別な意味合いをもつ。ニュートン力学での「力」はforceだが、これは決してジェダイが操る「銀河の万物をあまねく包み込む」ものではない

学問に限らないのだけれど学問の世界では特に、言葉は定義された上で用いられる。だがその定義は、ときには日常の経験や常識と整合しない。この論文が(たとえ笑いの要素を評価の尺度としている賞とはいえ)イグ・ノーベル賞を受賞したのは、そういった定義による判定と日常的な経験による判定のズレをしっかりと把握していたからではないだろうか。(かなり強引なこじつけや飛躍があるといえ)、レオロジーの定義を杓子定規に当てはめていくと、ネコは固体であると同時に液体であるとも判定されるのかもしれない。だが、それでもって我々の日常経験が否定されるわけではない。学問の正当性も揺るがない。それがこの論文の鮮やかな結論ではないかと、私はシロウトなりに読んだ。

 

実際、言葉はむずかしい。定義されて使う文脈であっても、往々にして日常的な文脈での用法が混入し、議論を混乱させる。正確な定義の重要性についてはこのブログでも書いてきたし、言葉の定義を辞書から引用した記事も数多い。そうはいいながら、私自身、定義されない言葉に頼って文を書くし、定義がはっきりしている言葉をわざわざひっくり返してみたりもする。かくもいい加減なことばかりしているのに、定義が重要だなんて、聞いて呆れるかもしれない。

それでも、ほんと、誰かが何かを言ったときに、その言葉がどういう意図で用いられているのかを正確に見極めることが、どんどんと重要になってきている。バベルの塔が崩壊したようなこの時代、その作業をおろそかにしたら、次に来るのは混沌しかない。

 

いや、もう混沌の中にいるのか。マヨネーズのような流動体の中でもがいているのが、案外と現代の人間かもしれないよな。レオロジーよ、救っておくれ!