人殺しは特殊なことではない - 内なる残虐性を見落とさないために

昔は列車内でよく本を読んだ。最近それほどでもない理由は、クルマを運転するようになって電車移動の時間が減ったことでもあるが、パソコンのバッテリの性能が上がって、座れる限りはラップトップで仕事してることの方が増えたからでもある。いいことなのかわるいことなのかわからない。

それでも、パソコンを持ち出すほどでもないような電車移動の場合は、いまでも本をポケット(もしくはカバン)に入れる。この本、たまたまそのときに読みかけのものがある場合を除けば、なるべく読みにくい本を選ぶ。電車内で読みきってしまうと後が手持ち無沙汰だから。かといって、読みづらすぎる本、退屈な本は、携行しても結局開かないことになるのでよろしくない。ある程度興味深く、また、尾を引かないことも大切だ。電車を降りるときにあとが気になりすぎるとそこからの用事に集中できないから。

読むのに時間がかかるという意味では、英語の本がいい。いくら英語が得意といっても、いまだに私は英語を読むのに日本語を読むのの2〜3倍以上の時間がかかる。1冊あれば相当な時間を潰せる。そして日本語なら、岩波文庫に収録されているような古くさいのがいい。古典までいかなくても、明治期の重要な著作なんかはけっこう面白く、同時に読みづらい。「旧時諮問録」とか「大君の都」とか、幕末期の事情を伝えてくれる資料をポケットに入れて持ち運べるのは、岩波文庫ならではだろう。

そんな中でも割と短距離の移動に向いているなと思うのが篠田鉱造の「幕末百話」だ。何がいいといって、独立した一記事が2〜3ページで終わる。パッと開いたところから読める。時代劇なんかの時代考証の元ネタになっていたりするから、それなりに興味深い。それでいて、口語とはいえ古臭い文体で書いてあるから流し読みはできない。時間つぶしには最適のタイプといえる。今年も、何度目かの読み返しだと思うが、よく持ち歩いた。

この本、幕末の混乱期の実体験を、さまざまな人がさまざまに語っている。「面白い話をしてくれ」という著者の要請に応える形で古老が話したものだから、誇張や記憶違い、時には少々の虚偽も入っているだろう。それでも、眉に唾をつけながら、当時の人々の生きた様子をつかまえることができる。そんな気がする。

 

この本によると、幕末期の日本は相当に血なまぐさい。江戸の市中、辻斬りや喧嘩は日常的に起こっている。戊辰戦争や、その少し前の「貧窮組」の騒動、安政地震、嵐のような自然災害、火事など、人々が死傷する事件には暇がないように見える。もちろん、非日常のそういう事件が記憶に残って後に語られているのだから、そういうことばっかりではなかったはずだ。平穏な日常もあっただろう。それにしても、この時代の血なまぐささは、現代人の感覚から遠いものがある。

そして重要なのは、そんな血なまぐささに違和感を感じるのは、現代人だけでなく、その時代からまだ数十年、実際に体験した人々が多く生きているこの体験談が採録された明治末期にあってさえ、隔世の感を持って語られていることだ。明治末期といえば国内的には平和だったとはいえ、日清・日露戦争もあって現代よりはかなり荒っぽい。それでも、人間はすぐに騒乱の時代を忘れてしまう。記憶には残っていても、その残虐さを遠いものに感じてしまう。

 

だが、この「幕末百話」を読むと、人間がずいぶんとあっさりと殺されていることがわかる。もちろん、殺人はそれなりの罰を受けるわけだけれど、身分のちがいや状況によってはほとんど罪に問われない場合もあったようだ。喧嘩での殺しは逃げるが勝ちみたいなところもあって、殺人者が逃げおおせて若い頃の思い出としてそれを語っているような記事もある。そういった話を読んでいると、人間はけっこう簡単に殺人者になれるのかもしれないと思う。穏やかな老人に見えても、若い頃には血気盛んで相当危険なことをしていたのかもしれない。平和な世界の隣人も、社会の空気が変わればたちまち凶器を振り回すのかもしれない。そんなことには無縁だと思っている自分自身でさえ、そんな可能性がないと言い切れないのかもしれない。

 

たとえば、第二次世界大戦がどれほど残虐だったのか、平穏な時代を過ごしている私たちにはもうわからなくなっているのかもしれない。だが、私が子どもの頃にはまだまだその時代を生きた人がいくらでもふつうにいた。たとえば私の家の隣には、フィリピン戦線で闘った元兵士が住んでいた。非常に穏やかな人で子どもにも優しかったが、ときどき変な言動をする。「ちょっとおかしいから」というのが親の説明だったが、いまでいうPTSDというやつだったのだろう。その彼が、夕暮れ時に厳しい顔をして、銃剣で人を串刺しにする話をしていたのを覚えている。

そういう世界は、波風立たない日常のすぐ隣りにある。そしていったんスイッチが入ったら、人間は想像できないほどのことをする。大量殺戮の記録を読むと、よくそんなところまでと思うようなところまで殺すために探している。「草の根分けてでも」という表現は、決して過剰なものではない。もちろんそれでも逃げる方も必死だから、完全な皆殺しはできないことが多い。九死に一生を得るという表現は、だからそういう場面ではけっこう適切だ。多くが死ぬけれど、中にぽつりぽつりと生き延びる人がいる。

「幕末百話」の中でも、賊軍に参加して官軍の追討を受け、仲間の多くが死罪になる中を生き延びた人の話も出てくる。辻斬りの追跡をすんでのところで逃げ延びた人の話も出てくる。そういうのを読むと、人間の命は実に危ういのだなあと思う。そして、その危うさを握る側に立った人間がどれほど冷酷無比に行動できるのかを知って、肝を冷やす。

 

関東大震災の際に虐殺された朝鮮人の数、6000人が多すぎる推計でないかと言われている。いろいろ読んでみたら、確かに2000人ぐらいが妥当なような気もする。ただ、「6000人が多過ぎる」という主張の中に、当時東京に住んでいた朝鮮人の人数と比較して多すぎるというものがある。統計はあまり信用できないのだが、震災時点で東京には8千人から1万人程度の朝鮮人が在住していたようだ。関東全域だともう少し多い。にしても、その数に比較すれば、6000人は確かに多く感じる。「80%も殺せるはずがない」というのが、現代人の感覚だ。

実際のところは知らない。だが、人間、いったんスイッチが入ったら、その程度の虐殺はやってのける。「皆殺し」が正義という感覚になったら、本気で草の根を分けて探しだす。そういう状態になったときに、生き延びるのは「九死に一生」ぐらいの確率だ。そのぐらい、人間は効率的に仕事をする。特に、緊急時には大量に分泌されるアドレナリンのせいで、信じられないほどのことをやってしまう。

歴史を詳しく調べたわけではないので、関東大震災時の虐殺について何かを言うことは私にはできない。ただ、そのぐらいのことが可能かどうかということであれば、可能だといえるぐらいには人間を見てきた自負がある。そのぐらいには過去の歴史を学んできたと思っている。8000人のうち6000人を殺すことは、武器を持った正義漢が百人もいて、そして群衆がそれを消極的にでも支持していれば、十分に可能だろう。実際にそれがあったかどうかは別にして。

 

だから、私は自分自身に安心ができない。自分の中にも残虐性は眠っている。それが暴発しないように、常に自分を見張っていなければならないと思う。できるだろうか? わからない。

多くの人が、そうやって長い歴史を生きてきたのだと思う。わからなくても、やってみなければならないのだろうな。

熱い人に出会わない

これまでの人生で、何度も熱い人に出会ってきた。その多くはただ熱いだけ、暑苦しいだけの人だったが、なかには「この人は確かに情熱に見合った行動力がある」と思わせてくれる人もいた。何人かのそんな人の下で働くことができたのはラッキーだったと思う。

情熱と行動力のマグニチュードが最も大きかったのは宮本重吾氏だった。といってもこの名前でピンとくる人はほとんどいないだろう。長くなるので書かないが、社会を農業から変えようという途方もないビジョンをもっていたけれど、それがあまりに大きすぎたためにそのカケラも実現できなかった人だ。実現できない夢を現実のものにしようとするわけだから、ホラ吹きとかドン・キホーテとか、ひどいときには詐欺師呼ばわりまでされたこともあった。が、その情熱で結局だれもが「宮本さんならしかたないか」みたいに納得してしまっていた。昨今も田舎にいて夢物語をかたるブロガーが顰蹙を集めているようだが、似たような感じで宮本さんに騙された若い人々もけっこういた。まあ傍迷惑な人でもあったが、行動力も抜群で、だからこそあり得ない国政選挙への挑戦なども、ちゃんとやってのけた。自分が播いた種が百年後に芽を出すことを信じていた人だった。いや、やっぱり長くなりそうだ。やめとこ。

あるいは、ちょっと名前は出さないのだが、某ベンチャーの社長だったMさんも、行動力と情熱を兼ね備えた人だった。最終的には出口戦略に失敗してやはり多くの人を失望させたのだけれど、あそこまでVCを引っ張りまわしたのは立派といえば立派だった。それだけの行動力は、やはり正体不明のあの情熱の裏打ちがなければ続かないはずだ。それだけのものをもっていた人だった。

こういった人々のもとで、私はずいぶん勉強させてもらった。彼らは情熱があるだけに注文もムチャであることが多い。そういうムチャな注文に何らかのカタチをつけていくのはずいぶんと面白かった。私はもともと、自分が考えたこと、自分が手を下したことで何かが生まれたり何かが変わっていくのをみるのが好きだ。基本的にそういう仕事を選んでやってきたようなところがある。熱い人々との仕事は、クリエイティブな衝動を十分に刺激してくれるものだった。

翻訳のような職人仕事が好きなのも、それまでそこになかった文書ができていくのをみるのが好きなのであって、決して作業そのものが好きなわけではない。生来のズボラであって、できるなら縦のものを横にしたくもない。それでも横書きの英文を縦書きの和文に変えていく作業は、そこに新たなものが生まれるから仕事としてたいせつにしてきた。Web時代以前に長く続けた編集屋も、同じ意味で自分の仕事だった。自分の頭の中だけにあった本が形になるのは快感だった。いま、収入の中に家庭教師の比率が大きくなってきているけれど、これも自分が働きかけることでひとが変わっていく、その過程をみることができる仕事だ。成長期の子どもたちは、数ヶ月単位で大きく変わる。そして、これらの仕事の間にいくつか挟まるさまざまな仕事も、やはり物事が生まれること、変わることを実感させてくれるものばかりだった。少なくとも、雑多な仕事たちの中のそういう側面に頼ることで、私はなんとか生きてくることができた。

 

ただ、そういった職人仕事を一人で続けていると、「そろそろ次のステップに」と感じる時期がやってくる。私はおそらく、本当の意味での職人ではない。職人であればひとつの分野を極めてくのだけれど、私の場合、ある分野で少しものが見え始めてくると、その周辺のことが気になり始める。職人仕事は自分の視野を広めてくれるから、どうしてもそこで終わらない。次の段階へと進みたくなってくる。

そんなとき、頼りになるのが熱い人だ。こちらの専門分野なんかはお構いなしに、能力のギリギリのところまで要求してくる。そこに応えようとすることで、自ずと新しい境地に進むことができる。学習参考書という狭い分野でしか編集の経験がなかった私をもっと広い本づくりの世界に進ませてくれたのは宮本重吾さんだったし、若い頃に中断していた文芸翻訳の仕事を実務翻訳の世界で再開させてくれたのはベンチャーのMさんだった。熱い人たちは、私にとっても必要な人たちだった。

 

そしてこのごろ、思う。ここしばらく、熱い人に出会わない。そろそろ次に進みたいような気がする。だけど、熱い人があらわれない。

他力本願はいけないのかもしれない。けれど、熱い人たちだって、ひとりではやっていけないのだ。熱い人たちは、明らかに私の能力を必要としていた。そして私はその能力を提供することで、成長の機会を得た。一種の共利的関係だ。だから私は望んでしまう。

 

そろそろ、熱い人に出会いたいな。

「平等」の残酷さ

日本では、身分制度憲法で明文的に否定されている。そのせいもあって、「生まれがいいから」というだけで特別な待遇を受けるような人生に対して、多くの人が否定的な感覚を覚える。ドラマや小説、アニメやファンタジーであっても、貴族、王族、富貴の生まれであることを鼻にかけるような登場人物はだいたいにおいて悪役か、よくて主人公の引き立て役ということになっている。たまに高貴な生まれの主人公がいたとして、彼は門地や身分によってヒーローになるのではなく、その努力や人知れぬ労苦を経て成長することによってその地位を手に入れる。「親が◯◯だから」ということで人を語ることは、現代的な感覚では正義ではない。

だからこそ、明示的に否定された身分制度が実質的に強固に残存している証拠を見せられると、私たちはたじろいでしまう。たとえば、教育機会が経済的に制限されることによる貧困の再生産。それを指摘したピエール・ブルデューの著作は、バブルの頃の日本でよく売れた。それだけインパクトが強かったわけだ。若かった私も何冊か読んで、なるほどと思った。身分制度そのものではないが、金持ちの子どもたちが金持ちになり、貧乏人の子どもたちが貧乏になるという固定化は、身分制度と何らかわるところはないのではないか。私の記憶ではブルデューは著作の中ではそれを問題だとも問題ではないとも積極的な価値判断は示さず、ただ坦々と事実関係を解き明かしていた。価値判断的な考察は不要だったのだろう。それは読者が勝手にやればいい。問題か? もちろん問題だろう。誰だってそう思う。それが現代だ。

www.hamaren.com

だからこそ、教育機会を均等にという議論が出てくる。大学無償化なんて人気取り政策だって、そういう文脈がなければ単なるバラマキにしか見えないだろう(いや、そうなのかもしれないけど)。それも、外見上の公平だけでなく、踏み込んだ公平性が求められている。たとえば無償である義務教育に通わせるコスト(教材費や文具費など)に対する公的な補助なんかは既に制度化されているし(ウチだってもらってる)、給食費に関してもよく取り上げられる。実質的に全入に近い実態になっている高校に進学するための学習塾にかかる費用が問題になる場合もある。「無料塾」みたいなのはそのような文脈で出てきたもので、それが思いもかけないようなところで言及されていたりするとなんとも不思議な気持ちになる。

toyokeizai.net

〈志望動機=改善例1〉
学生時代、無料塾で小学生を教えていた。親が十分な収入を得られていないため、子どもたちは塾に通って補習する余裕がない。そうした子どもたちのために、寄付や補助金を利用して無料の塾を開いているのだ。私はそこでボランティアとして、算数と理科を教えていた。
(中略)

〈志望動機=改善例2〉
しっかり教えると子どもたちは理解できる。それは親の収入とは関係ない。学習の機会を得られるかどうかの問題だと思った。昨年初めて無料塾から、国立大学の付属中に合格した子どもがでた。初めは落ち着きがなく勉強への興味も持てなかった。しかし、分数の計算がわかるようになってから学習態度が変わった。最後までやり通す根気も出てきた。

貧困が原因で学習の機会を得られないために、勉強の意欲を失わせてはならないと思った。これを切っ掛けに、私は学習機会を増やすための教育事業を生涯の仕事としたいと思い、御社を希望しました。

このような 「志望動機」の「改善例」が説得力をもつのは、それを見て「立派な志だ」と思う人が多いからだろう。「親の収入」という身分によって将来を左右する「学習機会」が左右されてはならない。それはそうなんだろうと思う。

けれど、それではいったい、学習機会が確保されれば、それで公平なのだろうか。親の収入と無関係に教育を受けられるようになったとして、それでも学歴によって平均的な生涯賃金が左右される現実は変わらない。学習機会が公平になり、教育へのアクセスが個人の経済状況に左右されなくなったとき、学歴は最終的には個人のアタマの良さを反映するだろう。となると、格差は親の収入によらなくなるかもしれないが、アタマの良さによって発生するようになる。

アタマがよければ高収入になり、アタマがわるければ低収入。それはいったい公平なのだろうか? 公正なのだろうか? たまたまアタマがよく生まれついただけで楽な人生を送れるというのは、たまたま金持ちの家に生まれたから上流階級というのとどれほどちがうのだろうか?

アタマの良さだけでは学歴差にはつながらないのかもしれない。学問は努力だ。やる気だ。頑張りだ。天才は99%の努力だ。それは生まれもったものだけではなく、本人の心がけだ。心がけひとつで運がつかめるのなら、それは公平だろう。だが、努力はだれだってできるのだろうか? だれだって、同じように頑張れるのだろうか? 努力家、頑張り屋というのは、けっこう性格として決まっていないか? そういう性格に生まれなかったら、もう底辺にあえぐしかないのだろうか?

 

平等は残酷だ。現代社会では必ず格差は発生するし、どっちにしてもダメなものはダメと判定される。それでも、家柄・資産によって発生する格差よりもアタマの良さや性格によって発生する格差のほうが社会に受け入れらるのは、そのほうが社会にとって有益であると考えられているからにちがいない。生まれがよくて能力のない人材、努力しない人材よりは、出自によらずアタマが良かったり勤勉であったりする人材のほうが社会にとって役に立つ。役に立つ人々を優遇するのは当然だろう。そんなふうに考えられているのではないだろうか。

 

単純に平等を実現するのであれば、労働と所得を切り離せばいい。人は働くから生存できるのではなく、人間であるから生きていける。そして、人は生きるために働くのではなく、生きることがそのまま労働になる。そんな社会が実現すれば、おそらく平等は達成される。貧困もなくなる。ただ、現代の経済システムは、それをやってしまったら崩壊してしまう。競合と競争の上に常に優秀さを確保することがなければ、経済は動かない。そのエンジンを外して経済を動かす方法を、まだ人類は実現していない。

であるならば、そのために格差を利用するのもまた、現状ではやむを得ないのかもしれない。やむを得ないと断言するつもりはない。それ以外の道はどこかにあると思う。けれど、それが見えない段階でそっちの話をするのはだいぶとアレだ。だから、「社会にとって役立つ人材を優遇する」ということを公平であることの上位において考えるとする。そうすると、なぜ教育機会の不平等がこれほどまで問題視されているのかが別な側面から見えてくる。再生産を通じた格差の固定化が社会問題とされるのか、角度を変えて理解できる。それは、そういった固定化が、優秀な才能を埋もれさせるからだ。親が金持ちだというだけで能力のない人間がトップに立てば、経済が落ち込む。出自がどうであろうと優秀な人間を必要なポジションにつけるべきだ。そのための機会均等。なんとも身も蓋もない。

 

そして、そういうふうに見ると、貧困の再生産について書かれたこんな記事の末尾に書かれてある一文も、「ああ、そういうことなんだね」と思えてくる。

www.newsweekjapan.jp

そして何よりも、企業や社会がどういった目線で人材を評価し、人材にどんな能力を求めていくのか、あるいはどういった形で彼らの能力育成を行っていくのかということとセットで考え行動して初めて、この大きくて硬い「負の構造」を崩すきっかけが見つかるのではないだろうか。

つまり、「人材の評価」や「人材に求める能力」「能力育成」など、産業社会にとってプラスになる人材を求めていく中で自ずと格差の固定化は解消せざるを得ないということだろう。そしてそこで重要になるのは、

今日本社会のなかで注目されている「21世紀型スキル」や「キー・コンピテンシー」といった新たな能力観の形成が、家庭の環境に大きく影響を受けることが明らかになっているのだ。

という部分で触れられている「21世紀型スキル」や「キー・コンピテンシー」なのだろう。どういうことか。

 

現在の教育機関の価値体系は、1960年代、1970年代の企業の価値体系から一歩も踏み出していない。それはすなわち、勤勉であり、正確性であり、指揮系統の順守である。少なくとも中学校、高校においては、指導要領がいくら変わろうと、実際の指導は勤勉性、正確性、忠誠を高く評価する価値観でもって行われてきた。ところが1980年代以降、企業が求める人材は大きく変化した。それも当初は一部成長性の高い企業のみでの変化であったものが、やがて普遍化していき、逆にそれ以外の旧態依然とした価値観のもとに運営される企業がブラック企業として悪目立ちするようになっていった。そういった1980年代以降の価値体系を「21世紀型」みたいに呼ぶのはちょっとどうかとも思うのだが、現在多くの企業で重視されている基本的な技能は、

  • コミュニケーション能力
  • 批判的思考力
  • 情報収集能力
  • 自己管理能力
  • 公正な判断力

などである。定義は曖昧でケースバイケースでいろいろと異なっているが、こういった重要な能力を「キー・コンピテンシー」と呼んでいる。過去数十年にわたって多くの企業はこのような能力を備えた人材を必要としてきているのに、実際の教育機関では20世紀型(というよりも19世紀型)の勤勉・正確・忠誠といった能力を強調するものだから、ここにミスマッチが生じてきている。

そして、そのミスマッチに乗じて「再生産」の中で重要な役割を果たしてきたのが、おそらくは上記引用にある「新たな能力観の形成が、家庭の環境に大きく影響を受ける」という部分なのだろう。すなわち、経済的に余裕のある家庭では、学校の教育にかかわらず、コミュニケーション能力や批判的思考力を高めるような文化的資産が大きく、それにともなって情報収集能力や自己管理能力も高められていく、というような流れなのだろう。

そして、上記記事の文脈では、そういった「教育以外の環境」にアプローチすることによって、格差の固定化を解消できる、ということになる。そしてそれは、固定化されることによって埋もれる才能の発掘であり、よりよい「優秀さ」を社会にもたらすことである、という言外の価値観を表現しているようにも思える。その際、「じゃ、能力に恵まれなかったオレたちゃどうすりゃいいんだよ」という声は、雑音でしかないのだろう。

 

社会というものを高いところから見下ろして論を張ると、どうしてもそういうことになってしまう。現代はその経済システムを抜きにしては回らない社会であり、経済をまわすためには優れた人材の労働が必要であり、そのためにはインセンティブとしての待遇の格差は欠かせないことだという立場から社会を見れば、「じゃあいかにして優れた人材を確保するのか」が重要で、それを阻害する格差の固定化は解消されねばならない課題となる。その際に、教育現場では重視されていないが実際のキャリア形成では非常に重要なキー・コンピテンシーを得る機会を広く与えていくことが重要になる。私は上記記事をそんなふうに読んだ。だが、低いところ、個人のレベルから見れば、全く別な構図ができあがる。

苦しい生活をする個人は、そこから抜け出すための手段を必要とする。その手段が教育であるのなら、そこにすがりたい。だが、現実の教育は、抜け出す手段を与えてくれない。そこで得られる勤勉・正確・忠誠といった価値は、実際にはブラック企業へ直結する価値観であり、貧困へと至る道だ。そこに陥らないためには、コミュニケーション能力・批判的思考力・情報収集能力などの、学校ではなぜか重要視されていない能力を磨かねばならない。そうやって、はじめて人生ゲームを逆転することができる。

そしてそう思ったとき、現代の学校システムの欺瞞性が見えてくる。なぜ学校ではコミュニケーション能力を潰すような授業しかしないのか。なぜドリルばっかりやらせて批判的なディベートをさせないのか。なぜ授業中にネットへの接続を禁じるのか。それは、そういった多くの企業が求める人材育成をあえてやらないことで、勝者にさらにポイントを与え、敗者からさらに奪うためではないのか。

そして、そこに目をつぶって、学校の勉強の補完をする学習支援なんて、何の意味があるのだろうか? 「無料塾」が学校の勉強よりもさらに質の低い「勉強」を教えたって、貧困の再生産のサイクルは断ち切れない。なぜだれもそこを指摘しないのだろう? もしも本当にそのサイクルを切りたいのなら、学校が教えないキー・コンピテンシーを伸ばしていく教育こそ、そこで行わなければならないのではないだろうか。

そして、それをやろうとしないでボランティアやって自己満足した挙句に「教育事業を生涯の仕事としたい」なんていったって、あの質の低い受験産業をなにひとつ変えることができないだろう。ま、これはジャーナリストが書いた模範解答に過ぎないから、そんなふうに目くじらを立てることではないのだけれど。

完璧を求めることで失うもの

500年ほど時代遅れな「百発百中」

興味深いブログ記事を見た。

d.hatena.ne.jp

実はこの「百発百中」理論、私は若い頃、けっこう取り憑かれていたことがある。私はまともな就職はせずに社長と2人の小さな編集プロダクションのアルバイトから仕事人生を始めたのだが、この社長、なかなかおもしろい人だった。ダンディな人で、よく飲みに連れて行ってももらった。調子に乗ってくると「キミのような人はまさに一騎当千、心強いよ」と、駆け出しのヘマばっかりやってる私を持ち上げてくれたものだ。私の方も調子に乗って、「一騎当千が10人いたら一個師団ですね」みたいな妙な計算をしたものだった。

そういうむちゃな感覚だったから、自分で会社をつくったときも、過剰に個人の力量に期待してしまった。経営者失格だ。国政選挙を手伝ったときも、人員が足りない明らかな負け戦なのにスーパーマン並みの働きをごくわずかのボランティアに割り振ることで形を整えようとした。ブラック企業の発想と何ら変わることはない(その反省からその3年後の選挙では立候補に強硬に反対したのだが、それは別の長い話だ)。この「一騎当千」感覚が抜けるまで、ずいぶん長くかかったものだなあと思う。

上記のブログ記事でシミュレーション検証されているように、「百発百中」とか「一騎当千」というのは、現代の消耗戦においては無意味な概念だ。それが意味をもつのは、一対一の逐次戦が前提であった中世以前の戦闘においてのみだろう。一対一の戦いなら命中率が百倍なら百回戦って百回勝利することも可能だろうし(ただしその勝率は0.99の100乗だから36.6%に過ぎない)、一騎で千人の雑兵にあたることも可能であるのかもしれない(千人規模の集団は統率力を欠くと戦力にならないという特性もあることだし)。消耗戦ではそうは運ばない。流れ弾でも当たれば死ぬのが現実の戦争であり、そこでは映画のように一人のスーパーヒーローが不死身の戦いを続けることはほとんどあり得ない。

そして、現代の社会を回している数多くの業務は、一騎討ち的であるよりはむしろ消耗戦的である。個別の優秀よりは、システムとしてのパフォーマンスのほうが最終的な成果に結びつく。そしてシステムのパフォーマンスは、一点のミスも許さない完璧な部品を組み合わせるよりも、ミスの発生を前提にしながらそれをカバーする機能を組み込んだ設計にするほうが向上する。日常的に使っているパソコンの記憶領域でさえ、エラーの発生を前提にしたエラー補正機構を組み込んでいると聞く。完璧のためにコストをかけるよりも、信頼性を少々下げても、それで問題が出ないように工夫するほうがいい。

一騎当千とか百発百中といった中二病的な考えに毒されていた若い頃の私でさえ、本当に真剣になったときにはそのことをしっかり理解していたようだ。編集作業には校正が欠かせないのだが、この校正を下請けに出すときに、私は必ずマニュアルをつけるようにしていた。そのマニュアルには、1回で完璧な作業をしようとしてはならず、少しの見落としがあってもいいから同じ校正紙で3度作業をするようにという指示を、具体的な方法とともに記載していた。これは自分の経験上、そのほうが絶対にクォリティが上がることがわかっていたからだ。100%を目指せば非常に労力がかかるところ、90%でもかまわないとなったら一気に負担が減る。その代わり、90%の仕事を3回繰り返せば99.9%の精度に達することができて、実質的に100%と変わらない、という理屈だ。まあ実際には一人の人間はたいてい同じところでミスをするので、そうはならない。そこは、校正ごとに担当者を替えることで対処する。なんにせよ、完璧を目指すことのコストの高さは、たいていの仕事で痛感する現実だ。そこを回避するのは、「エラーは必ず発生する」と現実を直視するところから出発するしかない。

何でそんな細部にこだわるかね 

そういった現実世界の仕組みを、残念ながら教育関係者は理解していないのではないかと思う。全員とは言わない。なかにはそういう現実世界の公理を織り込んで実践をしている人もいるだろう。だが、私が家庭教師として接する機会の多い中学生たちを教えている教師たちに関しては、「なんでそんなことまでするかね」という人々が多いのも事実。

たとえば、中学英語といえば、まずやかましく言わねばならないのが「三単現のエス」だ。ヨーロッパ系の言語には格変化というものがあり、英語にもその名残があって、それが動詞の末尾に付け加える「s」の文字だ。中学英語の定期テストでは、これを落とすと容赦なくペケがつく。あるいは単数形と複数形のちがいで不定冠詞の「a」をつけるかどうかをしくじると、やはり非情にもペケがつく。たしかにどちらも文法的には重要で、美しい英文、正しい英文を書くためには蔑ろにしてはならない。

しかし、通じる英語というレベルでいえば、そんな細かいこと、だれが気にするだろうか。そういうミスをして喋っても、あるいはレターを書いても、ほぼ100%、誤解されることはない。なぜなら言語には冗長性がもともと備えられているのであって、一部にエラーがあっても前後関係からきっちりと補正ができるようになっている。言語に冗長性を組み込むことは、長い歴史の中で人類が無意識に「エラーは必ず発生する」という現実に対応するために進化させてきた本質だ。だから、もちろんエラーはないに越したことはないのだし、エラーのない正しい構文を学ぶことも重要ではあるのだけれど、それを実践的に使用する際にいちいちエラーに目くじらを立てるべきではない。英語学習の目的が学習指導要領に「外国語を通じて,言語や文化に対する理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,聞くこと,話すこと,読むこと,書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う。」と定められている以上、まずは通じるレベルの英語に集中すべきであり、その際に、細部に目くじらを立てるのは無意味だ。

もちろん、格変化のおかしいところは指摘すればいいし、抜けている冠詞は赤ペンを入れておけばいい。しかしそれで減点し、あたかもその英語の理解がゼロであるかのような評価は、「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」を潰していく。やたらと完璧を求めることは、コストを上昇させ、結果として成果を著しく低下させることになる。

英語ばかりではない。たとえば数学。なぜこの時代、試験に電卓を持ち込んではならないのだろうか。数学に関して学習指導要領は、「数学的活動を通して,数量や図形などに関する基礎的な概念や原理・法則についての理解を深め,数学的な表現や処理の仕方を習得し,事象を数理的に考察し表現する能力を高めるとともに,数学的活動の楽しさや数学のよさを実感し,それらを活用して考えたり判断したりしようとする態度を育てる。」と定めている。筆算に代表される数値計算は、その原理を理解することは重要だし、実際にそれを使えるようになることも大切だ。だが、それは既に小学校で完結している。中学校ではもっと「概念や原理・法則」「数学的な表現や処理」「数理的考察」に力を注ぐべきだし、その過程で計算処理に対する負荷は減らしてやってかまわない。ところが現実には、1箇所の計算を間違えただけで0点というような手計算の正確さを競うような問題が平気で出題される。結果、小学校の算数で筆算が苦手だった生徒は、中学数学で浮かばれることがない。それどころか、中学になっても計算の完璧さを追求するためだけのドリル問題が多用され、「勉強」とはそういうものであるという困ったイメージを生徒に植え付けてしまう。

いったい、オームの法則の理解に合成抵抗の計算がどれだけ寄与するのだろうか。イチョウ被子植物だろうが裸子植物だろうが、勘違いしているぐらい、大きな理解の妨げになるだろうか。歴史の大きな流れを把握するために正確な年号を覚える必要があるだろうか。地域と社会の関連をつかむ上で日本の南限・北限の島の名前を少々間違えて何の不都合があるか。連体詞と副詞の微妙なちがいを判断できなくて、日本語の使用に難があるだろうか。漢文の返点がつけられないことは意味の把握にそこまで障害だろうか。

もちろん、学問を進めていけばそういった細部にこそ神が宿ると思える瞬間もある。英語なら、冠詞ひとつの有無で意味が変わる場面に「ホウ!」と頷くことだってある。正確な手順をひとつ間違えるだけで結果が変わってくる数学の精妙さに感動することもある。しかし、それはそこまでのコストをかけられる場合だけで十分だ。具体的には、専門の研究職とか、プロとしての仕事の中でこだわればいい。たとえば私は翻訳者としては相当に粘着質だと思うが、それはその時間コストに見合っただけの報酬が得られるからであって、そうでなければGoogle翻訳でも十分だろうとさえ思う。

失われるものは健全な成長に必要な時間 

冷静に考えれば、教育カリキュラムは完璧を求めていない。なぜ同じ日本史を小学校、中学校、高校と繰り返すのだろうか。なぜ小学校で学ぶ比例を中学1年で学び直すのだろうか。電気回路だって人体図だって繰り返し出てくる。それは、レベルが上がるごとに切り口がちがっていたり深度がちがうということもあるのだけれど、基本的には1回の学習で完璧など期待していないことのあらわれではないのかと思う。小学校で納得できなかった百分率を中学2年の方程式のときに身につけてもいいし、高校の簿記ではじめてその意味に気づいたっていい。体積計算が小学校で身につかなくても、中学校で同じことをやってくれる。小学校のときにどうしても横浜しか出てこなかった県名が中学でようやく神奈川と出てくるようになってもいい。小学生のときにぼんやりとしかわからなかった太陽の動きが中学生でわかってもかまわない。1回で完璧を求めるよりも、7割、8割のところでやめておいて、その程度のことを何度か繰り返すほうが低コストで高い効果を期待できる。

そして重要なのは、この「コスト」は、子どもたちの命を削って支払われているということだ。「いのち」までいったら大げさかもしれないが、ほとんどの子どもにとって「勉強」は、できれば避けたい負担でしかない。やりたくないことを、それでもがんばってやるのは、それなりの見返りが期待できるからだ。学習の見返りはもちろん成長だろう。だが、そこで得られる成長がいびつなものでしかないとしたらどうなのだろう。同じだけの成長をもっと負担を軽くしてできるときに、あえて苦しませるのは道義的にどうなのだろう。

子どもたちの健全な成長という視点にたったとき、しっかりとした学習をさせることは重要なのだろう。だが、そこに完璧を求めはじめると、どんどんおかしな方向に曲がっていく。百発百中の命中率を求めたって、そんなものは実戦では役に立たない。それよりは百発に一発しか当たらないようなものでもシステム的にきちんと運用できるような柔軟さを培っていくべきだ。そしてそれは、完璧を求める学習態度とは対極にある。

諸悪の根源は言わずもがな

いったいなんで、教育現場に完璧を求める姿勢が染み付いてしまっているのだろうか。「だいたいあってる」で十分なところにカチッとした正答を求めるのだろうか。生身の人間ならたまに間違えることもあるような計算問題を何百回も繰り返して訓練するようなドリルが愛用されるのだろうか。その理由は至って簡単で、それによってテストの点数が上がるからだ。テストの点数によってその後の人生が左右されるからだ。

入試によって中学や高校が決まり、その学校によって大学が決まり、大学によって就職先が決まり、それによって生涯年収が決まるような世界が存在するとき、一点でも余分に取れば勝ち、という姿勢を批判することはできない。それが現実である以上、一点を笑うものは一点に泣くしかない。

しかしまた、現実とは、意識が創りだす幻影である。人間の最終目標は生涯年収の実績なのだろうか。否。人生の最終スコアを判定する数字は、この世には存在しない。最終的には当人の主観だけが人間の生涯の正当性を決定する。

もちろん、物質的に窮乏する生活は、人を苦しめる。精神的に追い詰められる毎日も、その人の人生を破壊する。だが、そこから逃れる道筋は一通りではない。多様な逃げ道のひとつひとつを教育は伝えることはできない。

しかし、無限に多様な現実にぶつかったときに、それぞれの局面でどんなふうに判断すればいいのか、どんな展開を想定し、どんな準備をして、どう乗り切ればいいのか、それを合理的に思考していく態度と素養を培うことはできる。それが義務教育に求められているものであり、現に(十分とは言わないが)文部科学省が定めた学習指導要領に明記されていることでもある。

それをなぜ、現場の教師は曲解するのか。答えは明らかだ。受験だ。テストの成績だ。この点数主義、権威主義を変えない限り、百発百中をモットーとするような精神主義は消えないだろう。

あーあ、テスト、なくなれ!

エクセル問題に決着をつけるとしたら - まずは仕様策定が必要なんじゃない?

神エクセル? エクセル方眼紙?

少なくとも何ヶ月かに1回は、ネット上で「紙Excel問題」が話題になる。いい加減食傷気味ではあるのだけれど、うんざりしながらも私だってそのたんびに「Excelはどうにかしてくれ」と言ってしまう。たとえばこんな話題なんかにも、ついコメントしてしまう。

togetter.com

なぜ方眼紙的なExcelが問題なのかは、もう語り尽くされている。細かいことは省いて列記すると、

  • データが格納されている場所が恣意的で、使い回しが困難
  • 数式やマクロが存在した場合、メンテナンスが困難
  • 本来「表計算」ソフトであるはずなのにそれをレイアウトソフトとして使用しているため、文書作成に特殊技能が要求される
  • レイアウトソフトでないものでレイアウトしているため、書式の変更その他でデータを継承する際に、さらに複雑な技能が要求される
  • 用途外の使用を行っているため、環境依存の使い方やファイルの肥大など、想定外の問題が発生する

といったところだろうか。ついでに、それに対するExcel擁護派の主張は

  • なんだかんだいってもそれで用が足りる。それ以上のツールが見当たらない
  • ビジネス用途のPCには基本的に入っているので、汎用性が高い
  • ワードがアホ。パワポで作ったら数式を入れられない
  • グラフが簡単に描ける。データの分析もしやすい

みたいなところだろうか。

そして最終的な結論として、たいていはどっちも譲らないのだけれど、中間派の割と説得力のあるものは、「もっと使いやすいツールを誰か作ってくれよ」ということになるだろう。

私自身は、用途に応じてツールを使い分ければ済む話だと思っている。10年以上のLinux使いとしては、オープンソースの世界に必要なツールが揃っていることを声を大にしていいたい。ただ、使い分けにはそれなりの年季が必要だ。汎用性とか言われたら、「やっぱりExcelで作っとくか」みたいなことにもなる。だから、「Excelに代わるソフトを!」という意見も、それなりにもっともなのかなあと思う。

ただ、「じゃあ、それってどういうもの?」といったときに、おそらくそれはひとりひとりの中でイメージが大きくちがうんじゃないかと思う。イメージがちがうから、誰かにとっての「Excelに代わる、Excelを超えるアプリケーション」は、別の人にとってはそうではない。よく見る応酬は、「レイアウトするんならInDesignでやったほうがよっぽどキレイで早いじゃない」というDTP派の主張に対する「そんな高コスト(ソフト代、学習コスト)じゃ話にならない」「印刷物に手書きする書式だけの話じゃない」ってものだろう。Excelは書式の作成だけじゃなく、その書式に対して入力をしていくためのツールでもあるわけだから、レイアウトソフトの出番じゃないという意見には一理ある。けど、だからといってExcelでレイアウトするなんて、DTP触った人間には寒気がするものであることも、実感としてわかる。

Excelをまるごと代替するものは、しょせんExcelの改良版でしかない。そうやってExcelというソフトそのものがどんどん肥大化してきた歴史がある。基本的な機能は20年前、30年前と変わっていない。Excel(というか表計算ソフト)は、どこまでいってもExcelだ。その合理性も非合理性も、改良と肥大化を重ねても変わりはしない。

となると、「代替ツール」を考えるためには、いっぺん根本に戻って、ユーザーがどういうツールを必要としているのか、きっちり仕様を詰めておかねばならないのではないか。そして、そういう作業さえすれば、案外とこの長年にわたった独占状態も崩せるんじゃないだろうか?

なんでエクセル使うの?

では、ビジネスの現場では、どういうニーズがあるのだろう? ここから先は私の観測範囲だけのことなので、信頼性は高くない。問題提起と思って読んでくれればいい。とりあえず列記する。

  • 文書作成機能。罫線を引き、表組みを作り、出力したらそのまま書類として利用できるレイアウトをする機能
  • 入力機能。与えられた書式に対して必要な数値や文字列を記入する機能
  • 計算機能。入力された数値や文字列に対して自動的な処理を行う機能
  • データベース機能。入力された数値や文字列をデータとして保存・処理・活用する機能

このように分析してみれば、なぜExcelがこれほど愛されているのかがわかる。たとえば、文書作成機能だけ見れば、DTPソフトが最強として、慣れればワードやパワポのほうが使いやすかったりもする。ところが、そうやって作成されたデータには、入力がしにくい。DTPソフトで出力されたPDFに上書きするのはけっこう面倒だし(AdobeAcrobatとかIllustratorでPDFに追記するとか、オープンソースならXournalとかInkscapeとか)、ワードやパワポはすぐにレイアウトが崩れる。環境依存性も、Excelが最も小さいように感じる。だいたいが、PDFやPPTに入力されたデータなんて、どうやって使い回す? 一方、データベース機能ならそりゃデータベース専用のアプリケーション、たとえばAccessが当然有利なわけだけど、じゃあAccessの文書作成機能はどうなのかといわれたらExcel派には敷居が高いだろうし、気楽に計算機能をつけていくには学習コストが高い。初心者から上級者まで、さらにはレイアウトからデータ分析まで、多様な場面での多様なニーズにそれぞれそこそこに応えられるソフトは、確かに他にはない。

ビジネス文書には、多くの場合、書式をつくるユーザー(一次作成者)と、その書式を活用するユーザー(二次作成者)が存在する。たとえば営業報告書。報告書の書式を作成するのは上司で、それにデータを入力していくのは部下だろう。そして、そのような現場では、一次作成者のスキルは決して高くない。多くの場合、二次作成者としてデータ入力を繰り返す中でスキルを身につけていく程度の学習しかしていない。そしてExcelでは、そのハードルが非常に低い。日々、データ入力をして操作になじんでいれば、ちょっとだけ調べれば、すぐに一次作成者へとステップアップすることが可能になっている。

ということで、根っこは深いのだけれど、だからといって諦めるのは早いだろう。それぞれの機能にとって、「なぜExcelが使われているのか」をもう少し考えてみれば、出口が見えてくるように思える。

最強の入力ツールはブラウザでは?

まず、最優先で考えるべきなのは、入力機能だ。なぜなら、Excelを最も多く使うのは二次作成者だからだ。Excel擁護派の「ビジネスPCには必ずExcelは入っている。だから汎用性が高い」という主張も、二次作成者を念頭に置いたものであることは明らかだからだ。

そして、そう考えたときに、データ入力そのものにはほとんどExcelの機能は使わないのだということに気がつく。入力者は数字や文字が所定の場所に打ち込めればいいのであって、それはExcelとは無関係な文字入力だけの問題だ。ただ、文字入力する前提として入力するフィールドが何らかのアプリケーション上で開いていなければならない。それを開くためのアプリケーションとして、フィールドを作成したアプリケーションであるExcelがそのまま活用されているわけだけれど、ここは切り離してもかまわないことに気がつく。

となると、最も汎用性が高いアプリケーションは、現代ではExcelではなく、Webブラウザだということがわかる。いくらビジネス用PCではデファクトスタンダードだとはいえ、Excelは家庭用PCにはインストールされていない。さらに近年は、PCではなくモバイル端末が使われる機会も多い。というよりも、世の中は挙げてモバイルファーストの時代なのだ。モバイルでもExcelを開くツールが存在するとはいえ、モバイル端末から利用するのなら文書は基本的にブラウザで開けるようになっているのが好ましい。ブラウザで開ける文書であれば、どんな端末からでも利用できて、ビジネスでの幅がぐっと拡大する。これを使わない手はない。

Webデザイナーじゃあるまいし

入力機能にブラウザを使うとしたら、一次作成者はブラウザで開ける文書をつくらなければならない。そして、この部分のハードルが非常に高い。Webデザイナーならともかくも、専門知識のない人間にとって、ブラウザから入力可能な文書をExcelで表組みをつくるぐらいの気軽さで作成するなんてことはおよそ不可能だ。素人が気軽にいじれるようなGUIツールもない。

根本的な理由は、Webブラウザで開く文書は基本的にオンラインで使われるものであって、伝統的にはHTMLであるにせよ、現代ではCMSのようなサーバーごとにインストールされているシステムを使うものであることにあるのだろう。つまり、文書は特定のサーバーに格納され、それに対してユーザーはオンラインでアクセスする。これは、Excelのように個別の二次作成者が個別に自分のパソコンに文書を保持しているような使われ方とは大きくちがう。二次作成者自身は、データが自分のローカルにあろうがオンライン上にあろうが、どうでもいいだろう。だが、一次作成者にとっては、「ちょっと文書が作りたいな」と思ったときに、ローカルで作業できないのは困る。いちいち管理者権限でCMSにアクセスできるようにするわけにもいかない。制限した権限を与えて自由に文書作成ができるようにしてもいいのだけれど、Excelでゴニョゴニョやるのに比べたら学習コストは比べ物にならないぐらい大きい。

しかし、言葉をかえれば、このあたりさえどうにかできたら、問題は一気に解決できるのではないだろうか。Excelファイルと同じような感覚で一次作成者が気楽に書式を用意でき、それを二次作成者がブラウザで入力できるような仕組みがうまくつくれれば、Excelに頼る必要はなくなる。なぜなら、ブラウザで入力したデータをデータベースに整理するように設計することは困難ではないし、データベース化されたデータを使い回すのに文句をいうような人もいないわけだから。

ブラウザで開いただけで実行できるローカルファイルって、ない?

では、どんな設計にすればローカルで作成したデータをブラウザで扱えるようになるのだろうか。これは案外と厄介だ。たとえば、ローカルのHTMLファイルをブラウザで開くことには、何の困難もない。そこに表組みを作成しておくことも入力フォームを設置することも(現状、使いやすいGUIツールに問題があるとはいえ)簡単だ。だが、その入力フォームに入力したデータをデータベースに保存しようと思ったら何らかのエンジンを起動しなければいけないし、そのためにはたとえばLAMP環境を用意したサーバー上にファイルを置かねばならないとか、急速に話がややこしくなる。その関係の人々にとっては何らややこしいことじゃないのだろうと想像するけれど、ビジネスの現場でちょっと書式でも作っとこうと思ったおっさんにとっては、とてつもなく煩雑な手続きになってくる。

それを回避するためには、サンドボックス的に実行可能な環境までを組み込んだコンテナとしてファイルを用意することだろう。セキュリティ的に工夫は必要なのかもしれないが、外部から見たら1ファイルに見えるようなコンテナの中に、そのコンテナ内のデータファイルだけを変更可能な実行ファイルを予め組み込んでおく。このコンテナをブラウザで開いたときには、その実行ファイルがエンジンとなって、コンテナ内に用意された書式がブラウザ上で表示され、そこに入力したデータはコンテナ内のデータベースに格納される(そうすればローカルにおける相対位置みたいなことで悩むこともない)。そういうコンテナを設計できないだろうか。

一次作成者は、「Excel代替ソフト」を起動し、書式を作成する。それを保存すると、自動的に上記のようなコンテナが生成される。それを二次作成者に配布して(あるいはサーバー上に保管して)、データの入力を求める。サーバー上に置いたファイルに入力されたデータは既に一元管理されているわけだが、個別に配布されたファイルを集計する場合には、それが自動で可能になるような機能も欲しい(現状のExcelでは手動でコピペするのが大半だと思うが、マクロを組めば自動収集は可能だ。それを最初から実装しておくのは困難ではないと思う)。その上で、データをcsvで書き出すようにしておけば、あとはそれこそExcelでもデータベースソフトでも、好きなもので使い回せばいい。なんなら、書き出しと同時にExcelが起動するようなデフォルト設定にしといたってかまわないだろう。

方眼紙機能は、必要なんでしょうね

そういうフローを想定した場合、二次作成者に関しては何の指示も不要だ。ファイルタイプがブラウザと紐付けさえされていれば、ファイルを渡して(あるいは場所を指定して)「入力しといて」というだけでいい。たとえば「交通費の精算はここに入れといてね」で、十分だ。だから、ソフトウェアの作り込みとして重要なのは一次作成者の使用する「Excel代替ソフト」だろう。これが現状のExcelよりも十分以上に使いやすいものでなければ、だれも振り向かない。

現状のExcel人気は、その「方眼紙機能」だ。設計者の想定していないこの機能は、つまり、目視でx−y座標を定め、そこに目視で一定の大きさの枠をつくることができるということである。

これが他のソフトでできないかといえば、それはもう簡単にできる。たとえばワードだと(自分で普段使わないのでこのあたりはウロ覚えだけど)デフォルトでは図形描画はインラインになっている。これを用紙端からの絶対位置にしておいて、その上でグリッド機能を使えば、ほぼExcelと同じように使うことができる(はずだ)。ただ、その場合、文字を打とうと思ったらいちいちテキストボックスを作成しなければならない。そういうレイアウトソフト的な使い方をするのなら、まだパワポのほうがマシかもしれない(LibreOfficeなら図形描画のDrawがいちばんやりやすいと思う)。しかし、何にせよ、文字を入力したいところにそのままカーソルをもってきて入力できるExcel方眼紙にはかなわない。

ならば、そういう機能を実装すればよろしい。グリッド幅を2ミリとか3ミリにデフォルト設定しておいて、その単位で画面端からの場所をクリック操作でスタイルシートに書き込んでいくようなソフトなら、そんなに難しくはないのではなかろうか(どこまでをスタイルシートで指定してどこまでをドキュメントファイルに書き込むのがいいのかはよくわからないけれど)。データ入力フィールドは、デフォルトでは作成順にデータベース上の位置が指定されるようにしておく。タブ移動順の指定とか、そのあたりはAccessのようなデータベースアプリケーションの実装と同じようにすればいいだろう。印刷時のレイアウト崩れなどが発生しないようにブラウザ依存性を下げるにはどうすればいいのかとか、ちょっとシロウトには想像しにくいところもあるけれど、最近のウェブサイトの作りこみとか見てたらけっこう大丈夫じゃないかというような気はする。

諦めるのは哀しい

方眼紙は文化だとか日本人の性格だとか日本語の特性だとか、確かにそういう側面もあるのかもしれないが、重要なポイントは代替手段として「こうすればいい」というのが用意されていないだけの問題ではなかろうか。私は自分の経歴上、印刷書式つくるならDTP、データをいじるならデータベースソフトがよりよい選択肢と思うのだけれど、いずれも総合的に見たら難がある。仮にフロントエンドをIllustratorみたいな描画ソフトで美しく仕上げたって、じゃあ入力環境はどうするみたいな問題が発生する。入力されたデータがcsvできれいに整っていても、どうせそれを分析するのにExcel使うんだったら最初っからExcelでデータ入力しておいてよという気にもなる。

ひとつのツールで書式の作成から入力、データ処理までを一貫してやろうとしたら、どうしてもそのアプリケーションはExcelみたいになる。それを複数のツールを使ってもストレスなく一貫した作業ができるようにすることが重要で、そのためには特に汎用性の高い入力環境としてWebブラウザを採用し、その前後が素人レベルで軽快に行えるような「Excel代替ソフト」を開発する必要がある。

そんな「Excel代替ソフト」があれば、もう不毛な「紙Excel問題」は蒸し返さなくて済むようになるのではないか。意味不明の扱いにくいExcelファイルに困惑することがなくなれば、どれほど生産性が上がることか。そして願わくは、そのツールがオープンなものとして広く利用可能なものであって欲しい。特定の会社の特定の製品を買わなきゃ仕事ができないなんてことが許されるような時代じゃないんだからね。

文章を書くことを教えるのはむずかしい - 教育課程も混乱している?

作文教育は行われているのか?

日本人は論理的な文章を書くのが苦手だと言われている。国際化のこの時代、論理的な文章を書くことの重要性は再三指摘されている。国際化というだけではない。論理的な文章は論理的な思考と表裏一体の関係にある。非論理的な思考では現代社会は立ちいかない。論理的な文章が苦手ということは、現代社会で生きていくうえで大きな障害になりかねない。

論理思考の欠如は日本文化であるとか国民性であるとか、生得的に変えられないもののように言われる場合もある。そういう側面もあるのかもしれないが、それ以上に教育によるものであるように思えて仕方ない。論理的な文章を書く訓練を受けていないから、書けない。それだけのことのように思う。

いつも感じているそんなことを改めて思ったのは、こんな記事を見かけたから。

toyokeizai.net

この記事のタイトル、まるで日本では作文教育が行われていないかのような印象を与える。ところが、実際には作文は小学校から中学校にかけての国語科の定番だ。だから記事中でも、問題にしているのは高校、大学の作文教育だ。そこで話がかみ合わないのに気づく。「作文」って何?

さく‐ぶん【作文】
[名](スル)
1 文章を書くこと。また、その文章。
2 小・中学校などで、国語教育の一環として、児童・生徒が文章を書くこと。また、その文章。綴 (つづ) り方。
3 (略)

デジタル大辞泉

「2」によれば、見事に、高校・大学は除外されている。そりゃあ、記事にあるように「大学でも高校でも、作文の指導をまじめにはやっていません」というのはあたりまえ、ということになる。

ただし、「1」の意味で考えれば、「文章を書くこと」は高校・大学に入ってさらに重要になるのだし、それが教えられていないのはおかしいということになる。けど、それを「作文教育」と言ってしまっていいのだろうか? 少なくとも教育業界で通用している「作文」の用法からいえば、ちょっとちがう。とはいえ、教育業界のジャーゴンは信用すべきではない。

たとえば、教育業界でふつうに使われている「勉強」という単語は、公式には一切使われていない。学習指導要領にもその解説書にも1回も出てこない。同様に、「宿題」という用語も公式には使われない。「作文」もその類で、文部科学省の文書には出てこない。それでは公式にはこのあたりはどう定められているのか。学習指導要領によると

(小学校1〜2年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 経験したことや想像したことなどから書くことを決め,書こうとする題材に必要な事柄を集めること。
イ 自分の考えが明確になるように,事柄の順序に沿って簡単な構成を考えること。
ウ 語と語や文と文との続き方に注意しながら,つながりのある文や文章を書くこと。
エ 文章を読み返す習慣を付けるとともに,間違いなどに気付き,正すこと。
オ 書いたものを読み合い,よいところを見付けて感想を伝え合うこと。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 想像したことなどを文章に書くこと。
イ 経験したことを報告する文章や観察したことを記録する文章などを書くこと。
ウ 身近な事物を簡単に説明する文章などを書くこと。
エ 紹介したいことをメモにまとめたり,文章に書いたりすること。
オ 伝えたいことを簡単な手紙に書くこと。

 

(小学校3〜4年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 関心のあることなどから書くことを決め,相手や目的に応じて,書く上で必要な事柄を調べること。
イ 文章全体における段落の役割を理解し,自分の考えが明確になるように,段落相互の関係などに注意して文章を構成すること。
ウ 書こうとすることの中心を明確にし,目的や必要に応じて理由や事例を挙げて書くこと。
エ 文章の敬体と常体との違いに注意しながら書くこと。
オ 文章の間違いを正したり,よりよい表現に書き直したりすること。
カ 書いたものを発表し合い,書き手の考えの明確さなどについて意見を述べ合うこと。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 身近なこと,想像したことなどを基に,詩をつくったり,物語を書いたりすること。
イ 疑問に思ったことを調べて,報告する文章を書いたり,学級新聞などに表したりすること。
ウ 収集した資料を効果的に使い,説明する文章などを書くこと。
エ 目的に合わせて依頼状,案内状,礼状などの手紙を書くこと。

 

(小学校5〜6年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 考えたことなどから書くことを決め,目的や意図に応じて,書く事柄を収集し,全体を見通して事柄を整理すること。
イ 自分の考えを明確に表現するため,文章全体の構成の効果を考えること。
ウ 事実と感想,意見などとを区別するとともに,目的や意図に応じて簡単に書いたり詳しく書いたりすること。
エ 引用したり,図表やグラフなどを用いたりして,自分の考えが伝わるように書くこと。
オ 表現の効果などについて確かめたり工夫したりすること。
カ 書いたものを発表し合い,表現の仕方に着目して助言し合うこと。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 経験したこと,想像したことなどを基に,詩や短歌,俳句をつくったり,物語や随筆などを書いたりすること。
イ 自分の課題について調べ,意見を記述した文章や活動を報告した文章などを書いたり編集したりすること。
ウ 事物のよさを多くの人に伝えるための文章を書くこと。

 

(中学校1年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育成するため,次の事項について指導する。
ア 日常生活の中から課題を決め,材料を集めながら自分の考えをまとめること。
イ 集めた材料を分類するなどして整理するとともに,段落の役割を考えて文章を構成すること。
ウ 伝えたい事実や事柄について,自分の考えや気持ちを根拠を明確にして書くこと。
エ 書いた文章を読み返し,表記や語句の用法,叙述の仕方などを確かめて,読みやすく分かりやすい文章にすること。
オ 書いた文章を互いに読み合い,題材のとらえ方や材料の用い方,根拠の明確さなどについて意見を述べたり,自分の表現の参考にしたりすること。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 関心のある芸術的な作品などについて,鑑賞したことを文章に書くこと。
イ 図表などを用いた説明や記録の文章を書くこと。
ウ 行事等の案内や報告をする文章を書くこと。

 

(中学校2年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育成するため,次の事項について指導する。
ア 社会生活の中から課題を決め,多様な方法で材料を集めながら自分の考えをまとめること。
イ 自分の立場及び伝えたい事実や事柄を明確にして,文章の構成を工夫すること。
ウ 事実や事柄,意見や心情が相手に効果的に伝わるように,説明や具体例を加えたり,描写を工夫したりして書くこと。
エ 書いた文章を読み返し,語句や文の使い方,段落相互の関係などに注意して,読みやすく分かりやすい文章にすること。
オ 書いた文章を互いに読み合い,文章の構成や材料の活用の仕方などについて意見を述べたり助言をしたりして,自分の考えを広げること。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 表現の仕方を工夫して,詩歌をつくったり物語などを書いたりすること。
イ 多様な考えができる事柄について,立場を決めて意見を述べる文章を書くこと。
ウ 社会生活に必要な手紙を書くこと。

 

(中学校3年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育成するため,次の事項について指導する。
ア 社会生活の中から課題を決め,取材を繰り返しながら自分の考えを深めるとともに,文章の形態を選択して適切な構成を工夫すること。
イ 論理の展開を工夫し,資料を適切に引用するなどして,説得力のある文章を書くこと。
ウ 書いた文章を読み返し,文章全体を整えること。
エ 書いた文章を互いに読み合い,論理の展開の仕方や表現の仕方などについて評価して自分の表現に役立てるとともに,ものの見方や考え方を深めること。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 関心のある事柄について批評する文章を書くこと。
イ 目的に応じて様々な文章などを集め,工夫して編集すること。

引用が長くなったが、学習指導要領を見る限り、論理的で読みやすい文章を書くための国語教育は、段階を踏んで着実に行われるようになっている。多くの教科では、義務教育の9年間で社会生活に必要なだけの基礎を身につけるように課程は工夫されている。英語なんてわずか3年間で英文法の基本を身に着けて日常会話ができるように組み立てられている(実際にそれができるようになっていないのは別の話として)。国語教育でも、義務教育の9年間にしっかりとした文章が書けるようになるはずだと、この指導要領を見る限りは思える。

「作文」と生活綴方 

「作文」が辞書にあるように「 小・中学校などで、国語教育の一環として、児童・生徒が文章を書くこと」であるのなら、上記の指導要領の目標を達成するための手段として「作文」が実施されているはずだと、そう考えて差し支えないように思える。しかし、実際にはそうではない。誰だって、自分自身の学校時代を振り返ってみればわかるはずだ。

日本の国語教育で、「作文」はどのような位置づけにあったか。それは、「生活綴方」の巨大な影響を抜きにしては語れないだろう。「巨大な影響」というのは、私のようなその道のシロウトでも無着成恭の「山びこ学校」は読んだことがあるし、そこで主張されている綴方の直系のものとしての作文教育を受けた記憶がある、ということだ。生活綴方については「山びこ学校」を読めばイメージがわかる。大雑把な私の理解をまとめれば、技巧や定型にはまることなく、自分自身の言葉で自分自身の生活に根ざしたリアルを作文にまとめることを目指す思想だ(もっと正しい理解には、このあたりの論文「戦後作文 ・綴 り方教育史研究」や「無着成恭編 『山びこ学校』の成立 とその反響」いずれも菅原稔、「戦後生活綴方教育全盛の時代」奥平康照、さらにそれ以前の事情については「生活綴方成立史の研究」岡屋昭雄あたりを読むべきなんだろうな)。それはそれで実際、とてつもなく重要なことだと思う。定型的な文なんてほぼ無意味だし、中身の伴わない技巧なんて吐き気を催させる以上の機能はない。

実際、私がかつてお世話になった方々の中に一条ふみさんという女性がいるのだが、彼女が編纂した生活記録文集は凄まじいほどの力をもっていた。いくつかを読ませていただき、最終的にはその一部を託されてしまったのだけれど、私にはそれをきちんと生かすことはできなかった。それでも、その力はわかる。そんな実践をされていた人々が日本にいたことは、誇りですらある。

上記の岡屋論文に記載された国分一太郎によると、生活綴方における教育課程は

ワタクシタチハ、コノヨウナ文章ヲ書カセルスベテノ過程デ、マタ、ソノ作品ヲ集団ノナカデ研究シ吟味シ、ソレニツイテ話シアイヲサセル過程デ、子ドモタチニ、(1) 事物ノ姿ヤウゴキヤソノ相互ノ関係カラ意味・ネウチヲ見イダシ、事実ニモトヅイタ思想・感情ヲ形ヅクル態度ヲシダイニツクリアゲ、(2) 自然ヤ社会ノ事物ニツイテノ正シクユタカナ見方、考エ方、感ジ方ヲシダイニ養イ、(3)書キ手自身ノ観察力・想像力・思考力ヲノバシ、頭脳ノ能動性・創造性ヲシダイニ発達サセ、(4) コノコトニヨッテ、子ドモタチニ、自由ナ個性的ナ自我ヲ確立サセルトトモニ、(5) 人間的ナ社会的ナ連帯感ヲ、シダイニ育テテイクコトヲ目ザスノデアル。(6) 一方日本語(単語・文法・文章・文章構造ナド)ヤ日本ノ文字ニツイテノ意識的ナ自覚ヲウナガシテイクノデアル。

となっている。事実をありのままに観察し、その相互関係に関して考察し、それを通じて自我を形成していくという教育方法は、現代においても有効なものだと思う。そして、その実践を通じて表現手段である日本語を手中にしていくというのも、また一つの正しい道であるように思う。

そんなふうに、生活綴方運動そのものに対して、私は何ら否定的なことを言うつもりはない。だが、そのインパクトによって日本の作文教育は奇妙にゆがんでしまったのではないかと思う。それは、生活綴方が目指したものでは決してないはずだ。

生活綴方の負の遺産

上記の菅原論文には「「生活 を勉強するための,ほんものの社会科をするため」の指導を,「綴方を利用」 し「綴方で勉強」することを目指 して,作文 ・綴 り方教育に取り組んだ」と、当時の考え方が述べてある。すなわち、生活に密着したところから学問を作り上げていくその出発点として自分自身の言葉で自分自身の観察を報告する。それは強調しても強調し過ぎることがないほど重要なことだ。あらゆる学問はそういうふうにはじまるべきだとさえいえるだろう。

そして、当然の帰結として、その書かれた言葉が真実であるかどうかが問題とされ、それがどのように表現されているかということは二の次、三の次となる。美しく飾られた文章よりは、稚拙であっても自分自身の偽りのない報告を行ったものが高く評価される。それもまた、それでいいだろう。

実際、私の息子が通った保育園では子どもたちの言葉を保育士がメモして記録している。子どもたちが日常の中でふともらす宝石のような言葉は、息を呑むほどだ。教えこまれ、暗記した美辞麗句なんかとは比べ物にならない世界がそこに広がっている。

だが、それを重視するあまり、技巧や定型を極端に蔑視する傾向が日本の国語教育業界に残らなかっただろうか。たとえば小学校の作文。生徒が、何を書いたらいいのかわからない。そういう状況はふつうに発生する。そんなとき、教師はどう指導するか。「感じたまま、考えたことをそのまま、書いたらいいんだよ」というのが、日本の作文教育であるように思う。けれど、それってどうやって泳げばいいのかわからない人を説明抜きで水に放り込むようなことではないか。誰だって、感じたこと、考えていることはある。それを表現するためには、相応の技術が必要だ。その技術を教えない。なぜなら、技法は評価しないという奇妙な不文律が「作文」をめぐっては存在するからだ。最低限の作法、原稿用紙の使い方であるとか、「ですます調」と「だである調」の使い分けとか、そういうところは採点の対象になる。しかし、本当に重要な論理構成であるとかセンテンス構造であるとかは、基本的に放置される。それって指導要領と乖離してるじゃないかと外野は思うのだが、国語教師はそうは思わないらしい。

読みやすい文章を書くには?

いったい、読みやすい文章、論理的な文章を書くためには、どのような技術が必要なのだろうか。こんな読みづらいブログを書いておいて私が言うようなことじゃないのだけれど、それは独立したいくつかの技術に分けられるだろう。

まずひとつは段落構成だ。多くの場合、序論・本論・結論とか起承転結とか気楽に語られるが、これにはさまざまなバリエーションがある。いろいろなコツもあって、それを語り始めたら本が一冊書けてしまう。

文法的な理解も、いい文章を書く際には意外と役に立つ。これは品詞の分類とか活用形とか、そういった学校文法的なことではない。そういう知識が多少役立つ場面もあるが、たとえば主語と述語に見られる規則性であるとか、品詞の入れ替えによるセンテンスの改良であるとか、敬語の文法的な位置づけであるとか、センテンスの分割法であるとか、文法知識に裏づけられたそういった実用的な技法はけっこうある。こういうものが読みやすい文章に寄与する場面は意外に少なくない。

さらに、いい文章を書くには、事前準備も重要だ。書きたいテーマがあっても、それだけでは説得力のある文章は書けない。取材や調査があって、はじめてしっかりした根拠ができる。そして、そういった根拠については、必要に応じて引用や参照ができるような工夫もたいせつになってくる。

素材が整っても、すぐに書き始められるわけではない。最初にあげた段落構成とも関わってくるのだが、段落構成を考える以前に、あらかじめネタを広げて全体を鳥瞰して見る作業を行っておくことが有効な場合もある。

そして、これらを含みながらまた独立した技法として、推敲がある。推敲作業は個人的なものであるが、ドラフトを読んでもらったり、あるいはそれをもとに討論をするなどして深めていく作業も、よい作品をつくる上で有効であることが実証されている。

というようなことを念頭に、改めて上記に引用した学習指導要領を眺めてみると、実に、学習指導要領はそれを網羅するようにできていることがわかる。しかも、小学校低学年から一貫して、段階を踏みながらそれを身につけられるようになっている。素晴らしい!

そして学校の実態は…

だが、現実はどうか? そんな作文指導が行われているか? 私の観測範囲(つまり年間十数名の家庭教師の生徒×5年の経験)からいえば、否だ。では、国語教師は学習指導要領を読んでいないのか? そんなことはないだろう。仮に読んでいないとしても、その扱う教科書、教材の制作者は読んでいる。彼らのなかに読んでいない不届き者がいたとしても、全体の流れは指導要領が決めた方向に進んでいる。ただし、その定められた内容は、現実に合わせて往々に恣意的に解釈され、運用される。そして、素直に読んだときの「ああ、なるほど」「うん、これなら素晴らしい!」という感覚は、たいてい裏切られる。

作文、というよりも指導要領の文言に従えば「書くこと」の実際はどうなっているか? たとえば中学1年を例にとって、文部科学省の学習指導要領解説を参照しながら、それが実際にどういう扱いになっているのかを見てみよう。

まず、指導要領の(1)のアには
「日常生活の中から課題を決め,材料を集めながら自分の考えをまとめること。」
とあるのを受けて、指導要領解説には

「日常生活の中から課題を決め」るに当たっては,日常生活で直接体験したことを はじめ,他教科等で学習したこと,友人や家族から聞いたことの中から興味や関心を もったことなどが基になる。これらを「課題」として明確にするためには,何につい て,だれに向け,何のために書くのかを具体化する必要がある。特に,疑問に思った ことについて調べる,問題点について意見を述べるなど,文章を書く目的を明らかに することがその後の学習につながっていく。

と指導方針が記されている。では、そういうことを意識して作文を書くような指導をするかというと、そうではない。そうではなく、この節での試験問題は、たとえば例文があり、「これは誰に向けて書いたものでしょう」とか「何について書いたものでしょう」「何のために書いたのかをア〜エから選びなさい」みたいな設問をつけることになる。さらに

課題が決まったら,その課題に関連して「材料を集めながら自分の考えをまとめる こと」になる。材料を集める段階においては,本,新聞・雑誌,テレビ,コンピュー タや情報通信ネットワークなどの活用が考えられる。

という部分に対しては、「材料を書くときに利用できる手段として適切でないものをア〜エから選びなさい」みたいな問題を用意する。

そして次のイ「集めた材料を分類するなどして整理するとともに,段落の役割を考えて文章を構成すること」については、

第1学年ではそれを踏まえ,問題や課題などについ て述べる段落,集めた材料などについて分析する段落,それらを基に自分の考えや意 見を述べる段落など,段落の役割を考えて構成することを指導する。その際,段落の 役割を明確にするために,「さらに」,「たとえば」,「しかし」など,連接関係を 明示する言葉などを効果的に用いることも指導するよう配慮する。

と指導要領解説書にあるのを受けて、接続詞の穴埋め問題を用意する。「(   )にあてはまる適切な言葉を選びなさい」という問題だ。

ウ「伝えたい事実や事柄について,自分の考えや気持ちを根拠を明確にして書くこと」について、指導要領解説書には

記述に当たっては,接続語の使用 や段落構成の工夫などによって,読み手に対して,どの部分が根拠であるかが明確になるような表現上の工夫をすることが大切である。

とあるのを受けて、「下線部の根拠となっている部分の最初の5文字と最後の5文字を抜き出しなさい」というような問題で、指導要領の要請に応える。

そして、エ「書いた文章を読み返し,表記や語句の用法,叙述の仕方などを確かめて,読みやすく分かりやすい文章にすること」では、

「表記や語句の用法」を確かめるとは,文字や表記が正しいか,漢字と仮名の使い 分けが適切か,語句の選び方や使い方が的確であるかなどをみることである。また, 「叙述の仕方などを確かめ」るとは,文や段落の長さ及び文や段落の接続の関係など が適切であるかなどをみることである。

となっているので、「波線部の語句の使い方で適切でないものの記号を答えなさい」とか「A〜Dの段落を正しい順序に並べ替えなさい」というような問題が出題される。

オ「書いた文章を互いに読み合い,題材のとらえ方や材料の用い方,根拠の明確さなどについて意見を述べたり,自分の表現の参考にしたりすること」では、実際にそういった活動をするのではなく(少しだけはするにしても教師の情熱はそこにはなく)、そういった話し合いをしている模擬的な長文を読解問題の素材として出題することで事足れりとしている。

 

中学1年を例にあげたが、他の学年でも大同小異、つまり、教師は基本的に「問題を解くこと」の方に重心をかけていて、文章を書く能力を上げることにはあまり力を割いていない。そして、その言い訳のように、技法に走った作文の空疎さをあげつらい、拙い言葉でも真実が表現された作品の芸術性を賞賛する。しかし、良い物をより良くしていくためには、批判が重要であり、改善のためには技術的な助言が必要になってくる。それがなければ、拙いものはいつまでたっても拙いままであり、そこから真実を読み取るのは空気を読むような高等な読解力に頼らざるを得なくなる。それは普遍性を欠いている。

では、なぜ学習指導要領を曲解してまできちんとした作文指導を避けるのか。それはやってみればわかる。むずかしいのだ。ほんと、作文を書かせるのはむずかしいし、それを改善するのはさらにむずかしい。こっちもプロだから、いろいろと技はもっている。けれど、それを実践するには非常に時間がかかる。時間がかかる割に、成績には直結しない。そうなってくると、もっと点数に成果がすぐに現れてくるような「試験対策」をやってくれという要望が生徒家庭から出てくる。雇われ者の家庭教師としては、それに抗うわけにはいかない。

まして、数十人の生徒をいっぺんに預かる学校教師に、個別の生徒の発達段階に合わせた細かな文章上達のための指導ができるとはとても思えない。それでなくとも昨今は、全国学力調査の順位を気にする教育委員会からの圧力で、「得点能力」を重視するような指導にシフトせざるを得ない。良心的な教師は辛いだろうと思う。点取りゲームのコーチばっかりさせられたって、生徒のためになるもんじゃない。ま、それが生徒のためだと誤解してる教師が大半だろうから、あまり同情もしないのだけれど。

 

結局のところ、まともな文章を書けるような大人を育てたいのなら、受験制度を改めなければどうしようもない。誰だって受験では高く評価されたいのだし、そのテストの成績が文章を書く能力とは全く無関係な受験技術で決まるのなら、誰だってそっちに精を出す。そんなわかりきったことを放っておいて、「英語以前に作文教育をやるべきだ」もないもんだと思う。

この件に関しては、別な角度から、別な愚痴もあるのだけれど、あんまりとっちらかりすぎるのも何だから、ここはこのあたりでおさめておこう。しかしまあ、もうちょっと読みやすい記事が書けんのかね。たとえブログとはいえ。

それもこれも、まともな作文教育を受けなかったせいなので…

機械翻訳の時代に翻訳者はどう生き残るのか? - 「英語が得意」では食っていけない時代へと

機械翻訳がまた進化した、ようだ

20年ばかりも前に翻訳ソフトというものに初めて触れて以来、いつかは実用的なレベルの機械翻訳が現れると思ってきた。そして10年ばかり前、Googleが「あと10年で完全な機械翻訳を実現する」と言っているのを聞いて、「そりゃそうだろう」と思った。スマホ時代に入ってさまざまな翻訳アプリが登場し、最近ではGoogle翻訳の精度も増して、「やっぱりなあ」という感覚をおぼえることは度々だった。ただし、「それでもまだまだ」「この程度じゃプロの翻訳者が食えなくなることはない」という安堵感も同時におぼえてきた。そう、私は(既に収入面での比率は相当に下がったが)英和翻訳者として飯を食ってきたので。

ちなみに私は資格その他とは無縁の人生を送ってきたのだが、TOEICだけは過去に1回だけ受けたことがあり、そのときの得点は900点を超えている。まあ、そのぐらいなければプロの翻訳者としては苦しいだろう。だが、これからはそれでももっと苦しくなる。なにせ、いよいよ機械翻訳がそのレベルに近づいてきた。

news.mynavi.jp

このみらい翻訳という会社、以前から機械翻訳に関する製品開発を精力的に進めてきていて、2年ほど前には「2019年にはTOEIC800点程度の機械翻訳を」と言っている。その予定がかなり前倒しされたということなのだろう。

japan.cnet.com

で、同社のサイトにはデモが用意されているので、早速試してみた。

www.miraitranslate.com

テストのために使ってみたのは、このブログの一つ前の記事である。著作権の心配とかもないから。あえて名文じゃないほうがいいだろうとも思ったし。

上記の記事にあるように、多くの砲弾は戦場から帰還した軍人が記念として持ち帰り、奉納したものだろう。だが、平和な時代を数十年過ごし、神信心とも縁遠くなってしまった私達の感覚では、それでも「なぜ?」という疑問は晴らせない。たとえば、いかに元軍人とはいえ、武器をそう簡単に持ち出せるものでないことは明らかだ。一発何億円もするミサイルほどではないにせよ、砲弾はそれなりの有価物だ。演習での使用済み品や不良品その他の理由で不要とされたものであったとしても、下げ渡しにはおそらく相当に面倒な手続きが必要だっただろう。

 

As mentioned in the above article, a number of artillery shells would be taken home and dedicated to commemoration. But in the sense of our senses that we spent 10 years in peace and the faith of God became far away, why? The question is. It is clear, for example, that the military cannot easily carry weapons. Even though it is not as much as a missile that costs hundreds of millions of yen, artillery shells are valuable. Even if it was not necessary for used goods or goods or other reasons in the exercise, it would probably be necessary to do a very troublesome procedure.

最初のセンテンスは、ほぼ文句はない。ただ、硬いなあと思う。もうちょっと柔らかく訳して欲しい。とはいえ、そこらの下手くそな翻訳者ではこのレベルもいかない。

次のセンテンスも、アラはある。sense of our sensesなんて詩的な表現かと思ってしまう。それでも、「なぜ?という疑問は晴らせない」を「why」の一言で片付けるような大鉈は、過去の機械翻訳ではなかなかにできなかった。個人的にはここはもうちょっと原文に沿った訳をして欲しかったのだけれど、翻訳のコツとして「原文に沿いつつ、原文から離れる(不即不離)」というのをよく言うので、そういう意味では、コイツはデキる。

ただ、その後に、意味不明の「The question is」が入っているあたり、やっぱりアホなのかなとも思う。ひょっとしたら「疑問は晴らせない」をここにこんなふうにもってきているのかもしれない。だとしたら、まだまだ文脈は読めていない。

その次の文は「いかに」が訳せていない。それに「持ち出す」が「持ち運ぶ」になってしまっている。その次の文はまあいいとして、最後の文は、ちょっと文脈を見失ってしまっている。

ということで、「TOEIC900点以上」はちょっと大げさだと思うが、改良されたGoogle翻訳といいこのみらい翻訳のデモといい、確かに生ちょろい翻訳者よりはまともな文が書けている。ちなみに、このみらい翻訳のサイトには「統計的機械翻訳 (汎用モデル) 」と「統計的機械翻訳 (特許モデル)」のデモも用意されているが、どっちも同じ文で試したらダメダメで、意味が根本的にわかっちゃいない。そういう意味では、確かにAIというのかニューラルネットワークは強い。機械なんだから「理解している」というのとはちょっとちがうのかもしれないが、見かけ上は「理解している」のと非常に近似な挙動を返している。

翻訳者はどうなる?

さて、そうすると、翻訳者は今後不要になるのだろうか? ある意味ではそうだと言えるし、別の意味ではそうではないはずだ。つまり、「英語が読めます」とか「読みやすい日本語の文が書けます」といった語学力レベルだけで仕事をしている翻訳者は生き残っていけない。もちろんそういう翻訳者だって即応性が求められるようなオンサイトの翻訳なら利便性があり得るので絶滅まではいかないだろう。また、他の業務をやっていての兼務なら、やはり利便性を買われるケースもある。だが、専任で機械と競争するなんてむちゃな話になってくる。

しかし、翻訳者のやっていることはそのレベルの仕事だけではない。テキストとしてやってくる原文情報を大きな枠組みの中で判断して、最も適切なアウトプットを用意してやることもまた、翻訳者の仕事だ。そして、それはまだ機械翻訳が進出していない領域だ。機械にできないというのではない。単純に、まだそこまで対象として取り上げられていないというだけのこと。だから、しばらくの時間的猶予はある。

ビジネス文書がやってきたとき、それを翻訳することで、翻訳者はその文書に対するクライアントの反応をある程度誘導している。恣意的な誘導はすべきではないが、何らかの方向性が文書内に読み取れるのなら、その読み取ったことをクライアントに伝えるのは翻訳者の務めだ。たとえば詐欺的な請求文書なら、それが詐欺であることが明らかにわかるように訳出しなければ犯罪の片棒をかつぐことになる。そういった判断は、まだまだ機械にはできないだろう。また、そういう判断をされても困るのだし。

そんなふうに、コンテクストを読む仕事が、翻訳者に求められる。だが、その仕事は本当に翻訳の本質そのものなのだろうか。翻訳者の概念そのものが、これから先の時代、急速に変化していかねばならないようにも思う。

 

とはいえ、そういった変化を(あまり意識もせず)私たちは受け入れてきた。私が初めて翻訳で報酬をもらったときと10年前、そしていまとでは、明らかに翻訳に求められているものがちがう。言葉にするのはむずかしいが、ちがっている。いつか、そういうことも分析できたらおもしろいだろうな。機械に仕事を奪われてすることがなくなったら、やってもいい。もっともそのときには生きていくためにまた別のことで忙しくなっているのかもしれないが。