アタマが良くなるクスリはないのだけれど…

学校のテスト、特に中学校や高校の試験は、点取りゲームに過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。それが掛け値のない現実。だから、テストのための勉強というのはつまりはゲームでハイスコアをとるためのトレーニング。だから、それがその人の知性に対して何らかのプラスになることは、ふつう、たいしてない。もちろん、つまらないネットゲームでもフリックが早くなるとかタッピングが正確になるとかいったメリットが生じる場合はある。あるいは、戦国時代の武将の名前にやたら詳しくなったり、もともと地名である巡洋艦の名前を知って地理に強くなるなどの副次的効果がある場合もある。けれど、ゲームはどこまでいってもゲームであり、ハイスコアを叩きだしたからえらいというのはゲーマーの間だけで通じる歓びでしかない。つまり、本質的な意味は、そこにはない。

もちろん、テストというものは、そういう目的で行われるものではない。目的は、学力の測定。それもまた、疑いようのない事実にちがいない。このあたりの分析は、以前にも別ブログに書いた。

suzurandai.weebly.com

テストとは何でしょうか? (中略)
テストを出す側からいえば、この問いに対する答えは明瞭です。それは学力の測定であり、学習内容の理解度の確認です。学習した内容を正確に把握していればテストの問題には正解できるはずですから、当然のように点数が高ければ理解が十分、点数が低ければ理解が不十分だと判断できるわけです。入学試験などのふるい分けのためのテストであっても、この原則は通用します。それまでに学んだことをしっかりと身につけている生徒を入学させたいわけですから、能力を判別するためのテストで点数が高いほうを選ぶのは当然のことになるわけです。
しかし、視点を変えれば、物事の性格は変わります。生徒にとっては、テストは点取りゲームです。あらゆる意味において、学校ではテストの点数が高いほうがいいのですから、「どうやって点数をとるか」ということがテストのすべてになります。(中略)

さて、テストに対する全く異なった2つの捉え方、どちらが正しいわけでも誤っているわけでもありません。どちらも、現実に学校で行われているテストの実際です。ただし、ここでやってはいけないことがあります。この2つを重ねあわせてしまうことです。

繰り言のように同じことを書くのも芸はないのだが、やっぱり世の中のかなり多くの人は、この2つの現実を1つのものとしてしか見ていないのじゃないかなと、思うことがよくある。それは、こういう記事を読んだとき。

toyokeizai.net

この記事の結論部分は、なるほど、そうだなと思わせてくれる。実際、「考える」作業をしていない生徒は伸びない。だが、「考える」生徒(というよりもそういう若い人たち)が一律に学校の成績がいいのかといえば、そうではない。当然の話で、学校の試験は、生徒にそういう能力を求めないからだ。その現実は、同じ東洋経済オンラインのこちらの記事に如実にあらわされている。

toyokeizai.net

その両者の利害が一致したのが、「教育困難校」独特の慣習である「試験対策プリント」の存在だ。定期試験で出る内容をほぼ網羅した手作りプリントを生徒に配布するのである。試験前の授業で解答を説明するのはまだ良心的な教師で、試験前でも普段と変わらない生徒の状態に手間取って時間が足りなくなり、模範解答を配布するだけの教師もいる。そして、定期試験では「試験対策プリント」にある問題が、そのまま出題される。試験で求められることは問題の解答を考えることではなく、いかに「試験対策プリント」を覚えたかということなのだ。

 この記事の著者はこれを「教育困難校独特の慣習」と書いているが、実際にはこれは中学・高校を通じてほとんどの学校で程度を変えて行われていることだ。「100%それを覚えるだけでOK」というものはさすがに一部の学校だけなのかもしれないが、たとえば高校の場合、中堅校からやや上位の学校でも、プリントは配布される。そして、そこに書かれていることは、ほぼそのままテストに出る。そのままでなくとも、そのプリントに出ていることを暗記していれば概ね解けるような問題が出る。上位校では、指定問題集がある。その問題集の問題の該当範囲の問題を全て暗記すれば、それだけで優秀な成績がとれる。学校の教師も、そういう指導をする。試験前になると問題集の範囲を指定して、それを勉強するように指示を出す。学校の教師の指導通りの勉強すれば、成績が上がる仕組みになっている。

中学校でも概ね似たような状況がある。多くの学校では学校指定の傍用問題集というものが使用される。そして、高校受験の中3生を除いて、多くの試験ではこの傍用問題集からの出題がかなりの割合を占める。もちろん独自の問題を出してくる教師もいるが、そういう教師の多くは奇問・難問を出したがる教師なので、良心的とは言いがたい。生徒の学習の実態をきちんと見ていて学習進度にマッチした問題を選ぶ良心的な教師の多くは傍用問題集の問題もしくはその類題を出題する。そして、そういった問題には傍用問題集をちゃんとやっていれば概ね満足する点数がとれる。悩むことも考えることも必要ない。必要なのはひたすら手順を覚えこむ忍耐力のみ。

大人になるまでの成長期の人間に最も重要なことは考えること、悩むことであると思っている私から見れば、これは全くの時間潰しでしかない。知識は、必要になればいつでも追っかけて追加できる。最近は外部記憶装置に頼ることだってできる。けれど、考える訓練は、若いうちにやっておかなければ使い物にならない。付け焼き刃ではどうしようもないのが思考力だ。だから、上記のように学校でやっている「この中から試験問題が出るからよく予習しておくように」という指導は、本当の意味での人間の成長にとっては無意味どころか、考えるエネルギーを奪ってしまう有害なものだとさえ言えるだろう。

 

と、私は思うのだが、現実にそういうやり方が一般化していることを思えば、この私の考え方はよっぽど異端なのだと思う。そして、反論はほぼ予想できる。つまり、上記引用の「教育困難校」の百パーセント覚えればそれで済むようなプリントと、一般の学校のプリントや指定問題集、傍用問題集とは全く性格がちがうという反論だ。どういうことかといえば、これらの学校では、完全にそのままの問題ではなく、少しだけ変更を加えた問題が出されるのがふつうだ。数値を少し変えたり、境界条件を少し変えたり、あるいは複合させたりと、手を加え、「答え丸暗記」では対応できないようにしてある。だから、生徒は「答えを覚える」のではなく、「解き方を理解する」ことで準備しなければ点数はとれない。だから、学力は伸びるのだと、そういう理屈で反論されることになるのだろう。

つまり、そういう人々にとっては、試験対策のプリントを配布したり問題集を指定することが問題なのではなく、それを丸暗記すれば答えられるような試験を行うことが問題ととらえられるわけだ。だが、現場で若い人たちに数学やら英語やら理科やら社会やらを教えている身としては、それはちょっとちがうんじゃないかと言いたくなる。程度の問題、五十歩百歩、目くそ鼻くそを笑う類に過ぎないと感じている。

どういうことかといえば、多くの生徒が「解き方を教えてください」という態度で「勉強」というものを捉えている。あるいは、「何を覚えればいいのか、どう覚えればいいのか」という姿勢で学問を見ている。そして、「解き方」とか「ポイント」をなんとかして覚えようとする。そういう学習方法は、「答えの丸暗記」とどうちがうのだろう。確かに、答えの数値や文言を暗記することに意味はない。しかし、同じように、公式や解法テクニック、重要語句や文法規則なんかを覚えることにも意味はない。重要なのは、それらのツールを使って何ができるのかであり、あるいはそういったツールの原理を理解することであり、場合によってはそういったツールを自分自身で再発見、再創造する能力を身につけることである。覚えることは、学問ではない。

 

そういうことを言うと、「じゃあ思考能力だけで点数がとれますか? 解法を暗記することに意味はないというけど、それを暗記して使うことで思考力を鍛えるんじゃないんですか? 実際にそういう方法で大学の合格点がとれるんだから、それは思考力が鍛えられたってことになるんじゃないですか」と、受験生だけでなく教師の側からも疑義が出されるだろう。だが、そういう人々は、テストというものがどういうものだかを根本的に理解していない。冒頭に引用したようなことだ。

テストは、課題を出す側の意図と、受験する側の意図とが全く異なる。なぜなら、「能力を測定する」という出題者側の意図が、結果としては「受験者を選別する」という経済行為に結びついてしまうからだ。受験者としては選別の結果が有利になることを期待するのが当然なので、対策をする。それも、テストが単純に点数で評価されるものである以上、点数を上げる上で有効な手段であれば、それは必ずしも「能力を上げる」ことと同じでなくてもいい。たとえば、こんな記事がある。

juken-support.hatenablog.com

ここであなたに知っておいてほしいことは、 

  • 学校のテストでいい点数をとるための勉強
  • 学問として自分の知的欲求を満たすためにする勉強
  • 入試で高得点を取るための勉強

これら3つをまったく同じにしてはいけないということです。

それぞれのテストで出やすいところが違うからです。

一言で言ってしまえばそれまでなんですが、このことは最速で入試で高得点をとるための根幹となり最も重要な考えであると私はとらえています。

最速で入試で高得点をとるためには入試で高得点を取るための勉強をしなければなりません。 そのために最適な手段はずばり、

  • 過去問で勉強をする

 です。

実際、入試直前になって最も有効な得点対策は過去問の分析だ。過去問題から出題傾向をつかみ、出題内容をタイプ別に分け、自分が点数を取れていないタイプの問題に絞り込んで類題を飽きるほど反復すれば確実に点数は上がる。それは上記ブログで解説している英語だけでなく、ほとんどすべての教科に当てはまることだ。たとえば数学なんかは、最もこの考え方が有効な教科であり、高校入試、大学入試を問わず、そういう戦法でたたかえば、最後の追い込みで失敗することはまずあり得ない。

しかし、それでいわゆる「学力」がつくのかといえば、決してそうではない。上記引用のブログは英語について書いてあるわけだが、こういう対策で身についた能力が実際の英語力と等しいかといえば、決してそうではない。英語を使う能力は、実際にどれだけ英語を使ったかによって決まるのであって、それは読んだ英語の量、書いた英語の量、話した英語の量、聞き取った英語の量に依存する。「過去問対策」を通じて英語の読み書きを行えばそのぶんだけは確かに英語力の上昇につながるが、それ以上でも以下でもない。つまり、「過去問」は、あくまで「点取りゲーム」のスコアを上げるためだけに特に有効なのであって、英語という技能や学問にとって特別に有効なものではない。

同様に、上記引用で触れられている「学校のテストでいい点数をとるための勉強」、すなわち、配布プリントや指定問題集、傍用問題集を解いてその「解き方」を暗記することも、「テストでいい点数をとる」という目的には最適化しているかもしれないが、教科の内容を本当に自分のものとする上で最適化しているとは言いがたい。それでもそれはやるべきだ。なぜなら、生徒にとって学校のテストの点数は自分自身の評価であり、将来の人生に大きく影響する。一点でも多いほうがいい。だから、試験対策のプリントを配ってもらって「そこだけしっかりやっとけば大丈夫」というかたちをとってもらうのはありがたいことだし、指定問題集から出題されると教師に言われれば、それを真剣に理解しようとする。私だって、その支援はする。試験前には生徒と一緒になって、そういった教材がきちんと理解できるようにいろいろと工夫する。

しかし、そんな作業は、学習ではない。単なるハイスコアをとるための訓練であって、それでもって何らかのスキルがアップするわけでもなければ思考力が鍛えられるわけでもない。生徒にとってはハイスコアをとることが将来の利益につながるわけだから、そこを否定してはならない。しかし、教師が本当に追求すべきなのは、生徒の能力が豊かに成長していくことだ。その成長を支援するための学習活動を行うのが本来であって、ゲームのテクニックを教えるのはその余技に過ぎない。

 

ところが、多くの学校教師が誤解している。テストの点数が上がることと生徒の能力が上がることをイコールで結んでしまう。この誤解は、テストに対する教師の立場が「能力の検定」であるから生まれてしまう。

けれど、上述のように、テストの出題に特化した対策を行えば、能力をそれほど上げなくてもハイスコアを叩き出すことは可能なのだ。テストの点数が高いのは、生徒の能力が高いからなのかもしれないが、単純に対策を行ったからだという可能性だってある。それを区別することは、実は答案からだけ、点数からだけではできない。もちろん、それを区別するために出題内容を工夫することは可能になる。けれど、それをやったら、今度はそれに対する対策が生まれる。イタチごっこだ。実際、中学入試の問題の多くは、そういうイタチごっこの中で発展してきた。だから、相当に捻くれた特殊な世界になってしまっている。対策は相当に複雑化している。しかし、完全に対策を無視したら、実は素直にいい問題だったりする皮肉がそこに込められている。

ともかくも、どうしてもテストをしなければならないのなら、せめて、それが本当の能力を測定していない可能性を含んでいるのだということをはっきりと自覚しておいてほしい。ところが多くの教師がそれを認識していないどころか、むしろ、本当の能力以上に、「対策をしっかりしたかどうか」を評価するというとんでもない基準をもってしまっている。おい、それはちがうだろう!

 

配布プリントや指定問題集、傍用問題集を多くの教師が使用する実態の背景には、こういう巨大な誤解が横たわっている。そういうものを使い始めたら、テストの点数は生徒の理解力、思考力以上に、その生徒がどれだけ真面目に対策をとったかによって決まってしまう。そして、教師はそれこそが評価のポイントだと錯覚している。つまり、「マジメに教師の言うことを聞いた生徒」こそが評価されるべき生徒だと考えている。そうなのか?

そりゃあ、教師が真剣に生徒の能力を伸ばすことを考えて、たとえば思考力、たとえば理解力をアップさせるような指導を行っているのなら、その指導にしっかりと食らいついてくる生徒の能力が伸びていき、そしてそれを評価するというのは正しいことになるのだろう。ところが、その教師が、「テストの点数が上がることが能力のアップだ」という恐ろしい誤解をしてしまっている。だから教師は、授業でテスト対策をやってしまう。「ここ、テストに出るからしっかり覚えておくように!」というあの言葉ほど、矛盾しているものはない。それは単純にハイスコアをとるための技巧であって、学習や学問ではない。けれど、そういったテクニックを教えることが学問だというふうに錯覚した教師は、悲しいぐらいに多い。

 

経験上、言っておこう(あ、「個人の感想」です)。本当に優秀な生徒は、勉強なんてしない。実に気まぐれで、不真面目で、およそ教師からしたら扱いにくいことこの上ない連中だ。自分に興味のあることしかしないし、興味がないことにはハナもひっかけない。けれど、興味があることに食らいついたときの集中力は凄まじい。指導要領とか教科書とか、そんなものは無視して、とことんまでいく。そのときの理解力、思考能力は、ふだんのあの物分かりのわるさからは想像もできないほどだ。そして、気がついたときにはたいした努力もなしに、勤勉な生徒がちょっとやそっとでは到達できないような高みに達している。

そういった優秀さを、生徒の中につくっていけたらといつも思う。そのために割く時間は、いくらあっても足りない。ゲームに勝つためのテクニックなんか練習する時間なんて、ほんと無駄だ。けど、それが望まれているという現実では、そこも無視はできない。

現実と理想の間で、いつも出るのはため息だ。そして思う。せめて、学校の教師がこういった現実をもっときちんと直視してくれたらいいのになあと。

 

引用したブログ「同じ勉強をしていて差がつく「本質的な理由」 | ぐんぐん伸びる子は何が違うのか?」の冒頭は、次のような読者からの質問で始まっている。

【質問】
いつも記事を興味深く、拝見しております。うちには中学3年の娘と中学1年の息子がいます。2人とも、学校の授業をしっかりとやっており、塾にも通っており、成績はまずまずの上位ではありますが、トップクラスではありません。私から見ても一生懸命やっているようですが、どうしてもトップ(1位や2位)にはなれないようです。
学校で同じ授業を受けて、塾のクラスも同じ友人がトップの成績なのです。それなのにどうして自分はそうなれないのかとぼやいています。どうしたら、そのトップの子のようになれるのか、何か良いヒントがありましたら、お願いします。

この質問者の疑問の中に、実は、「点数」と「能力」をイコールで結びつけてしまっている発想を読み取ることができる。「マジメに勉強する」ことで得られるのは、「学力」ではなく、「得点するためのテクニック」だ。そして、それは最後には本質的な能力、すなわち「考える力」には勝てない。それを一般人である親が理解していないのは無理はない。幸い、回答しているブログの筆者はまともな答えを返しているが、学校や塾の教師がもうちょっとマシな対応ができなかったものかとつくづく思う。できないんだろうなあ。

そのためには、「気づく楽しさ」「知る楽しさ」「考える楽しさ」を知る必要があるのですが、そう簡単に、そのような楽しさを知ることはできませんね。

ここで、これまでたくさんの子どもたちを指導してきてわかってきたある方法があります。

それは、「人と違う意見を発言させる」ということです。

そのときに指導的立場にある人は、「別の見方ない?」「別の意見ない?」などと通常とは異なることを誘導してあげる必要があるでしょう。このような促しによって、人は自然と「気づき→知り→考える」ようになっていきます。そして出てきた発言内容に対して絶対に否定はしません。これを習慣にすると、頭の構造が変わってきます。

こういうことをやったら、現在の学校システムが崩壊してしまうもんな。ま、崩壊したほうがいいのかもしれないけれど。

風邪はなかなかダイナミック

正しく発せられた問いかけは、問題の大半を解決しているという。風邪をひいたらどうすべきだろうか? その問いは、正しく発せられているとは言えない。なぜなら、風邪といっても一様ではないからだ。それに、風邪の各段階によってすべきことはちがう。さらに、風邪をどんなふうに治したいのかによっても、やることはちがってくる。だいたいが、風邪というのは身体的な症状だけではなく、社会的なものでさえある。さまざまな状況を勘案しないでこれがベストというのはあり得ない。

常識的にもわかるそういうことをあえて書こうと思ったのは、この記事を読んで、「なんだかなあ」と思ったから。

www.asahi.com

書いてあることにウソはないのだけれど、なんだかポイントを外している。それは、この著者自身に問題があるというよりもその元になった論文

www.ncbi.nlm.nih.gov

の研究の設計に問題があるようにも思うのだけれど、それをあえて取り上げたのはこの朝日の記事の著者なのだから、まあ、それを弁護の材料にすることもないだろう。

最初に断わっておくと、私は

葛根湯でも総合感冒薬でも、あるいは薬を飲まなくても、おそらく大差はありません。つらい症状が出ていない段階では、病院を受診しなくてもかまいません。むしろ、インフルエンザなどの他の病気をうつされるかもしれませんので、あまりお勧めしません。

という結論部分に関しては、何も文句をいうつもりはない。というか、なかなか医者としては言いにくいことをよく書いてるなと感心する。たぶん、医学なんてのは、世間がそういうふうに祀りあげているほどには、健康に寄与してくれない。だからといって無意味だというつもりは、もちろんない。そういう話ではなく、何でもかんでも医者のいうことが正しいみたいに思われたのでは、医者の方でも迷惑だろうと思うわけだ。とはいえ、この記事は医者が書いているわけで、「医者が言うからそうなんだろう」というのは、やっぱり医学に対する盲信のようなものの延長でもあるように思う。このあたり、切り分けはなかなか厄介。

 

ともかくも、研究の設計に問題があると思うのは、記事の中でも触れられているように、処方が画一的である、という点だろう。「風邪のひきはじめに葛根湯を飲むと効果があるという主張もありますが、」というのが冒頭に書いてあるが、そもそもそういう主張をしているのは、申し訳ないが身体のことにあまり関心も知識もない一部の人々ではないのだろうか。これはまるで、「パソコン入門者にはMacがいいという主張もありますが」という前提で研究しているようなものだ。いや、確かにMacはスタイリッシュだし、初めてパソコンを触る人にとっては使いやすいものかもしれない。使用者のストレスを測定したりサポートにかかる費用を比較するなどの研究もあっていいかもしれない。けれど、それは、「パソコン買おうと思うんですけど、なにがいいですか?」という人に対するアドバイスをする上ではたいした参考にはならない。ちょっとでももののわかったひとなら、「なんでパソコン買おうと思うの?」と質問するだろう。そして、「ああ、それならタブレットにしときよ」とか、「最終的にCGの勉強しようっていうんならグラボ積んだPCの方がいいよね」とか、もちろん、「何も考えんでいいMacにしときよ」というのも含めて、相手のニーズに合わせてアドバイスするだろう。決して一律に「初心者ならMacでしょう」とは言わないはず。

同様に、「風邪のひきはじめ」とひとくちにいったって、それだけで適切なアドバイスができるはずはない。そこに一律に「葛根湯」をもってくる発想そのものが批判されるべきなのであって、その発想をそのままにして「風邪のひきはじめに葛根湯の効果があるかどうか」を調べたってしかたなかろうと思う。世の中にはいろんな料理があるのに、あらゆる料理を出刃包丁と菜切り包丁でやらせてみて「出刃包丁に意味はありません」って言ってるような感じか。小難しい「証」なんて専門用語を使わなくったって、そのぐらいのことはわかる。

こういうことを書くと、(特に例の「キューレーションサイト」問題のあとでは)シロウトがいい加減な医学知識で有害情報を撒き散らすなみたいな批判を受けるわけだが、そんなふうに医学を聖別してしまうことのほうが健全な知識の普及によっぽど有害だと思う。というのは、医学が扱うのは風邪のごく一面にしか過ぎないからだ。そして、その風邪、common cold、上気道感染症、どう呼ぼうと、あの咳やくしゃみ、鼻水、微熱などの症状に対して医学がしてくれることはあまりたいしたことではない。その理由は、医学の中のことなので、それこそシロウトが喋るべきではないのだろうが、たいていの風邪薬が対症療法でしかないという事実がそれを裏打ちしているように思う。

医学的には風邪は悪化しないように症状を緩和して自然治癒を待つというのが風邪治療の実態であるのなら、たとえシロウトであっても、自分自身の経験と観察にもとづいて意見をいうことは何ら咎められることではない。というのも、症状の多くは自覚症状であって、「快・不快」が大きく影響する。そして、なにが快適でなにが不快なのかは、個人の感覚に依存する。個人の感覚を超えて危険な症状は、たとえば呼吸困難につながる咳込みとか後遺症を残しかねない高熱とかだが、多くの風邪はそこまでの過激な症状をもたらさない。じゃあ、どう対処するのっていうのは、個人の感覚に多くが委ねられることになる。

もっというならば、そもそも人はなぜ風邪をひくのか、ということだ。衛生が保たれ栄養状態の行き届いた現代、「絶対に風邪をひかない」と心に決め、それだけに専心すれば、ほぼ風邪をひくことなしに一生を過ごすことも不可能ではない。しかし、だれもそんな人生を歩みたいとは思わない。風邪のいちばんの原因は疲労だ。風邪をひきたければ、年末の時期、徹夜仕事を何日か続け、そのあとで薄着で街に出掛けてふらふら遊び歩いてから帰って寒い寝床にもぐりこめばいい。ほぼ確実に風邪にかかる。しかし、そのリスクを冒しても人は仕事をするのだし、ときには飲みに出かけるし、ここぞというところでは保温性よりもファッション性を重視する。風邪をひくというマイナスと、仕事をするという経済的なプラス、遊びに出るという精神的なプラスとを天秤にかけて、自分に最適と思う選択をする。そんなところまで医学は踏み込むわけにいかない。風邪が社会的な現象だというのは、そういうことだ。

 

だから、たとえば風邪の治療にしたところで、なにを求めるのかは社会的な状況によってちがう。たとえば私の場合、「しまった、うっかり風邪をもらってしまったなあ」と思うことがある。その段階で、もしも急ぎの仕事を抱えていたら、まず考えるのは、どうやってごまかすかだ。本格的に風邪をひきこんでしまう前に、この目の前の仕事だけは片付けなければならない。そのために必要な期間が何日あるかということを考え、その間だけはともかくも寝込まずに済むように、あらゆる手段を動員する。

しかし、いくら貧乏暇なしだからといって、そんな状況ばかりではない。「あ、やられたな」と気づいたときに、「ここしばらく忙しかったからなあ。疲れが溜まってるよ。ここらで休んどかないと先にいって本格的に身体こわしそうだなあ。2、3日なら抜けても大丈夫かもな」なんて考えて、必要以上の対策をとらない場合もある。そういう場合は、予定通りに風邪をひいて寝込んでしまうわけだが、それがいい休養になってくれる。

そして、風邪をひきこんでからの対症療法だってそうだ。とりあえず熱を出せないときは、解熱剤系の風邪薬だって使う。だが、それは風邪を長引かせる。少し休んでもどうにかなるときには、一気に熱を出してしまう。熱を出せるだけだしたほうが、風邪は早くに治る。そして、そういうときに使うかなり危険な手段が、私の場合は葛根湯だ。

 

葛根湯には、体温を上昇させる効果がある。これは、たとえばこういう動物試験の結果を見れば明らかだ。

ci.nii.ac.jp

記憶では、確か10年ぐらい前にヒト試験の論文も読んだような気がするのだが、ちょっと現物が出てこなかった。おぼろげな記憶では体温が0.4℃上昇するとあったように思うのだが、それはこの動物試験で0.6℃上昇するグラフがあるのと符合するだろう。投与後の体温上昇は、ほぼ間違いなく確認されている葛根湯の効果と見ていい。

だからこそ、たとえば葛根湯は肩こりに効くとされている。肩こりも原因のはっきりしない複雑な症状ではあるのだけれど、血行をよくすれば症状が緩和することが多いようだ。そして、体温上昇は血行改善に寄与するだろう。たとえば、次のような研究は、そういう考え方にもとづいて行われているようだ。

葛根湯の肩こりに対する改善効果とサーモトレーサーによる検討
矢久保修嗣、小牧 宏一、八木洋、上松瀬勝男

だからこそ、風邪のひきはじめに葛根湯を飲むと効果があるという主張」が生まれる。風邪は、体温の低下によって誘発される。体温を上げれば、本格的に風邪をひかずに済むかもしれない。だが、それはかなり限定された場面でしか有効ではないはず。

というのは、体温を確保する方法としては、葛根湯なんか飲むよりは厚着をし、湯たんぽを抱え、ストーブのそばに行き、あるいは風呂に入るなどの方法のほうが、はるかに効果があるからだ。しょうがを効かせたあんかけうどんを食うというのは、江戸時代から大阪に伝わる風邪除けの秘伝だ。たぶん、葛根湯以上の効果がある。

まして、風邪の予防のために日常的に葛根湯を飲むというのは、およそ本末転倒ということになるだろう。およそクスリというのは基本的に化学薬品であって、化学薬品に対する身体反応が薬効だ。それは日常的にあっていい刺激と反応ではない。実際、葛根湯を用もないのに飲み続けることによる健康被害も知られている。

感冒予防のために内服した葛根湯で発症した薬剤性肺障害
西山明宏、石田 直、吉岡弘鎮、橘 洋正、橋本 徹
 

こういう健康被害は、「シロウトだから」とか「医者のいうことを聞かないから」といった問題ではない。自分がなにを目的としてどういう行動をとっているのかを深く考えないことが根本的な原因であり、それは非常に安直な「風邪のひきはじめに葛根湯を飲むと効果があるという主張」みたいなのが広まっているという状況と裏表でもあるだろう。「ひきはじめにいいんなら予防にもいいだろう」と考えることそのものはおかしくもないが、その効能が体温上昇だということまで考えたら、葛根湯を飲むよりは下着を保温性の高いものに変えるほうがよっぽど効果が高いことがすぐにわかるはずなのだから。

 

風邪について考えるのは、実際に風邪をひいているときにそれをゆっくりと観察するのがいちばんの材料になる。理想的に進行する風邪の場合、まず最初に寒気がする。いくら着込んでも、カイロや湯たんぽを抱えても、ともかくも寒い。寒いから体温が下がっているのかといえば、この段階では体温は上昇しつつある。体温が上がっているのに、寒い。

この段階では、とにかく身体を温めてやる。毛布でも布団でも、ありったけをかぶる。湯たんぽを3つぐらい布団の中に入れることもある。寒いんだから温めるほうが気持ちがいい。というよりも、この段階でもしも熱冷ましなんか飲んだら、寒くってやってられない。それでも熱を下げたいときもあるにせよ、差し支えなければ熱が上がる間は身体を温める。

やがて、熱が上がりきってしまう。数時間は、高熱の状態が続く。そのうち、突然、寒気が消える。すると、汗が出てくる。体温が高いのだから、暑くって、汗が出るわけだ。そうなったら、汗ぐっしょりにならないように、こまめに着替える。そして布団を薄くする。普段通りに戻すわけだ。西洋式の古い医学ではここで水風呂に入れて急激に体温を下げるらしいが、そんなことをしたらたぶんまた振り出しに戻る。汗をかいたら着替えるのは、急激な体温の低下を防ぐためだ。それでも体温はどんどん下がっていく。うまくいけば、数時間で平熱に戻る。

そのあとでも、体温は微妙に上がったり下がったりを繰り返す。高熱のせいで食欲は落ちているし、体力も使い果たしている。体力を回復させるためゆっくり休んで、2、3日たったらすっかり元気になる。これが、理想的な風邪の進行だ。

 

この理想的な風邪の進行の中で、寒気がするとき、つまり、まだ初期段階で汗が出ていないときに、私は葛根湯を使うことが多い。この段階では、普段は有効な「外から温める」方法が、いくらやってもそれだけでは十分じゃない。そのときに、薬品の効果として体温を上げてくれる葛根湯は、確かにありがたい。

ci.nii.ac.jp

だが、このような葛根湯の使い方は、かなり危険だろうと思う。いってみれば炎上しているところにガソリンを撒くような行為である。体温計を枕元に常備して常に体温の変化をモニタしながら、慎重に使わなければならない。自分にだからやるけれど、他人には勧められない。

 

実際、これが可能なのは「理想的な風邪の進行」の場合であって、たとえば長引いてこじらせた風邪とか、体力が消耗してしまっているときにひいた風邪のときなんかは、こんな荒療治はできない。特にここ数年は、こういうやり方がこたえるようになってきた。年齢のせいだろう。年齢だけでなく、体質にもよる。たとえばそれほど熱が出ない体質の人なら、使うクスリは葛根湯ではないだろう。

だが、いずれにせよ、自分の身体の変化をじっと観察することで、どのような手段をとるべきなのか、どのような手段をとりたいと自分が思っているのかがはっきりしてくる。観察してみれば、風邪のときの身体の変化はかなりダイナミックだ。その変化を楽しめるぐらいの気持ちになれば、風邪には勝てる。

ことしもたぶん、風邪をひくだろう。ことしはどんなふうに身体が動くのか、ちょっと楽しみな季節になってきた。ま、用心しよう。 

 

スパム発信者になってしまった! - これは自分を振り返る機会かもしれない

今朝(というよりもう昨日の朝)、メールを見たら、契約しているレンタルサーバーから「メール送信件数の上限を超過しております」との連絡。やばいよ! 全く心当たりがないのに、1000件以上のメールが送信されている。あわてた。

よく聞く話だがどこか遠いところのことと思っていた。業務用のサイトをハッキングされたらしい。こういうときに敏速な対応ができるひとが羨ましい。私にはできない。えっと、サイトの管理はどうやってたっけ? とりあえずレンタルサーバーからのメールにあるリンクから管理画面にログインし、怪しげなファイルがないか見始めるが、そんなことをやっている間にも次の「メール送信件数の上限を超過しております」メールがやってくる。えっと、CMSの管理は? ローカルのバックアップは? 入れ替えただけで大丈夫なの? CMSのバージョンってどうなってたっけ? しばらく触ってないとすっかり頭から抜け落ちている。そんなことよりなにより、いったんサーバー上のファイルを全て消してしまうことだと気がついて仮のトップページだけ残して全て削除して一息ついた頃には、3000件以上の不明なメールが送信されていた。あーあ、これで私もネット加害者だ。

 

原因とか管理責任とか、そういう話はここではしない。専門家でない私が書いてもトンチンカンなだけだ。原因の心当たりはあるし、それを放置していた責任はひとえに私にある。それ以上の分析をするつもりでこの記事を書きはじめたのではない。こういう恥をさらしてでもブログを書こうと思ったのは、これからのことではたと考えこんでしまったからだ。じっと悩んでいるよりは、手を動かして何か書いたほうがいい。書いているうちに、考えがまとまるかもしれない。ようやくそう思えるくらいに落ち着いてきた。

「業務用のサイト」というのは、翻訳事務所のサイトだ。個人営業の翻訳事務所を開いて十数年になる。最初から、Webに頼りきった事業だった。「事務所」といっても業務に使っているのは自宅の居間と書斎。外向きの営業は、Webサイトだけがオープンな場所だ。だから、Webサイトが消えるということは事業所が消えるというのとある意味等しいぐらいのインパクトがある。そのぐらい重要なサイト。

このサイト、十数年のうちに、何度かメジャーなアップデートを施してきた。ただ、最近のアップデートは単純にマルチデバイス対応への変更をしたぐらいで、大きな構造は変化させていない。ということは、つまりは事業そのものに大きな変化がなかったということ。Webが全ての事務所でWebに変化がない、というのはそういう意味。

それは、私自身が、翻訳という事業に対して大きな変化を求めなかっということでもあるのだろう。だが、実際には翻訳事業は、この十数年、激動の中にあった。そして、その激動もいよいよ最終段階に突入しつつある。機械翻訳の進歩だ。

 

ちょうど10年ほど前になる。サイトのメジャーアップデートをしようとしていた頃だ。翻訳の未来についていろいろ考えていて、最終的に「翻訳に未来はない」と結論づけた。これは、単に英語を日本語に置き換えたり日本語を英語に置き換えるだけの仕事には未来はない、という意味だ。では翻訳者はどうやって生き残っていけばいいのか? 一般論としては、その段階では付加価値としてしか意識されていなかった業務に比重を移していくしかないのだろうと思われた。

たとえばコンサルティング業務だ。翻訳という仕事は、意外とコンサルティングと相性がいい。いろいろな情報を扱い、コミュニケーションに気を配る仕事だから、業務をどう改善すればいいのか、ソリューションにかかわってくるアドバイスができる場合がある。実際、あるコンサルタントの仕事を請け負っているとき、「翻訳の仕事だけじゃなくてコンサルティングの仕事も回せるんですけど」と提案されたことがある。そのときは諸条件があって断わったけれど、やってやれない業務内容じゃないとは思った。 

あるいは、印刷をはじめとするパブリッシング、あるいは調査研究関連の業務とも相性がいい。翻訳に軸足を置きつつもそういった周辺業務に次第に重心を移していけば、翻訳で培った技術や知識を活用しながら新たな仕事をつくり出していけると考えていた。そうするしか、十年後、二十年後に生き残っていく道はないだろうと、あの頃はまじめに考えていた。翻訳者の実力は、決して文章を置き換えていくことだけにとどまるものではない。2つの言語をきちんと理解するということは、その間で生じる情報の屈折を読み取り、それが実務に及ぼす影響を知ることだ。だから、そこから幅の広い業務に進める可能性は小さくないと考えていた。

 

実際にそれから10年がたって、私はそんなふうに事業を変えてきただろうか? 否。それはWebサイトを見ればわかる。基本的に何も変わっていない。

決してそういうつもりではなかった。サイト構築にCMSを導入したのも、変化が前提だった。事業が変わっていくとともに、当然ながらWebサイトも変わっていくだろう。変化に柔軟に対応して素早く的確にサイトの内容を変えていくには、CMSを使うしかない。まだまだ静的なサイトも少なくなかった当時、「それではダメだ」と思い切らせたのは、「この先、同じことを繰り返していたんじゃ生き残れない」という自覚だった。

けれど、実際には変わらなかった。個人営業の限界、といえば言い訳に過ぎるのだが、事業を変えていくだけの余裕がまずなかった。目の前の仕事をやりくりするのに追われていた。そんな中で、仕事は確かに減っていった。ただそれは、決して予想通りの変化ではなかった。技術の革新によって一気に変わると思っていたのに反して、仕事の増減はもっぱら景気に左右された。景気が良ければ業務は持ち直し、景気が悪化すれば立て直すひまもなく生活が脅かされた。そして私は業務を改善するよりは、二足のわらじを履くことでそれに対処しようとした。家庭内の事情もあって翻訳以外の収入に頼る方向にシフトし、最終的には収入の道は二本柱になった。翻訳は未だに私の生活を支える重要な柱だが、規模はずいぶんと縮小している。そして、そんなさなかに、今回の事件が降って湧いた。

 

さて、どうすればいいのだろうか? 単純に復旧することは可能だ。おそらくそこが原因と思われる手抜きの部分(最新のパッチをサボっていたとか)を修正すれば、たぶん元どおりにもどすことはできるだろう。ただ、しばらく触らないうちに忘れてしまったことを思い出したり、最新の情報を収集したりと、手間が全くかからないわけではない。また、素人管理者の陥る危険性というものを今回思い知らされているわけで、それがベストと言い切れる気もしない。

素人が管理するのが危険だと思うのなら、プロの管理者を依頼すればいい。あるいは、それより簡単なのは、自分でCMS本体を触ることができないレディメイドのサイトビルダーを使うことかもしれない。WixとかJimdoとか、信頼性の高そうなところはいくらでもある。そういうところはブラウザ上のWYSWYGで必要なサイトを構築できるし、セキュリティはプロバイダ側で見てくれる。難点としては自由度が制限されることぐらいだろうか。もちろん、独自ドメインをのせることは可能。

その一方で、逆にCMSである必要もないのかもしれない、とも思う。メールサーバーを操作されたのはPHPで動くからで、静的なHTMLファイルをCGIの効かないサーバーに置いておくだけならかえって安全性は高いかもしれない。考えてみればほとんどアップデートしない情報を置いておくだけのサイトなのだから、変化を前提としたCMSでなければならないということはないだろう。

 

と、ここまで考えて、ああ、結局は、自分がこれからどう生きていくのかが問われているのだな、と気がついた。そこをしっかり見極めなければ、正しい対処はできない。

 

もしも、翻訳事業をこれから拡大していくつもりなら、サイト管理を外注してでもサイトを強化していかねばならないだろう。翻訳そのものは機械翻訳の進化の中で先細りは目に見えているが、逆にその周辺の業務には拡大の余地があるかもしれない。たとえば、機械翻訳を上手に使うノウハウ売り物にしたり、機械翻訳を活用しつつ大量の文書を低価格で高品質に捌いていくサービスなんかは、案外あるかもしれない。そういう方向に活路を見出すのか?

あるいは、翻訳から少しずつ離れながらも、そこに自分のセールスポイントを置いて新しい分野に進んでいくことも可能かもしれない。そのつもりなら、そこまでのサイトの強化は不要だけれど、やはり自由度の高いCMSを残しておくべきだろう。たとえば英語でプレゼンテーションをするようなケースはこれから一般にも広がっていく可能性が高いが、それをサポートするようなサービスを展開するとしたら、サイトをそれに合わせてつくりかえていかなければならない。その際に、CMSを活用できることは大きな力になる。

そこまで踏み出すだけの体力がない、という気もする。そして翻訳に全く未来がないかといえば、たとえばデジタルカメラが常識の時代に銀塩写真の写真家が存在するように、昔ながらの手作業の翻訳にこれから先だってそれなりの評価がつかないこともないはずだ。機械化の時代に手仕事職人として生き残る道もあるだろう。実際、この10年で減った仕事に対して増えた仕事の中身を考えたら、職人として生きるのが最もありそうな道に見えてくる。だとしたら、職人は職人としてのこだわりをアピールしなければならない。情報を発信するためのプラットフォームは必要だ。だが、それは自由度の高いCMSでなくてもいい。お仕着せの、安全なサイトプロバイダーで、情報の中身に集中するほうがいいだろう。WixやJimdoにでもお世話になるか。

しかし、10年前のように、翻訳の未来を真剣に考える必要がいまの私にあるのだろうか? 10年前はまだまだ息子も小さかった。大儲けまでは狙わなかったが、堅実に稼ぎたいと願っていたし、その必要もあった。その息子ももう一人前の不登校生だ。ここまできたら、あとは高齢貧困に落ちない程度に仕事をまわしていけばいい。副業の収入だってあるし、そこまで翻訳に賭ける必要もない。考えてみれば、ここ数年、翻訳受注の7割ぐらいはむかしから仕事をくれるクライアントだ。新たな顧客開拓の必要性はもうないのかもしれない。もちろん、そういったクライアントのためだけでもWebサイトは必要だ。数年ぶりに仕事の声をかけてくれるようなクライアントは、古いメールアドレスを掘り返すよりはWebサイトを経由してやってきてくれる。だが、そういう目的のためだけなら、おとなしい静的なサイトでも十分だろう。

 

結局のところ、これから自分はどう生きるのか、それをしっかり定めないとサイトの復旧もできないということになる。サイト侵入者は、思わず私に人生の問いを突きつけた。まだまだ老け込むには早いともう一山、翻訳を中心に事業展開を目論むのか、職人として面白い仕事を創り出していくのか、適当に流して楽をするのか、その他さまざまなバリエーションが考えられる。自分が望む人生は、一体どれなのだろうか?

 

さて、じっくりと考えて、答えを出すとしよう。それにしても、ほんと、世間に顔向けできんな、スパム発信者になるとは。小さな声で、「スミマセン」…

オールドメディアの勝利 - テレビをバカにしてはいけないという教訓

トランプ大統領を生んだ今回の大統領選挙、結果を正確に予測したのは結局はFacebookだけだったという分析記事がある。かなり詳細な考察。

medium.com

けっこう妥当な気がする。そして、こういう記事を見ると、「今回の選挙はやっぱりソーシャルメディアが勝敗を決したんだろうなあ」とも思えてくる。Twitterのフォロワー数ではトランプがヒラリーに1.2倍ほどの差をつけている。Facebookの「いいね!」の数も、トランプがヒラリーの2倍ある(このあたりの数字はTrump vs. Clinton: how the rivals rank on Twitter, Facebook, moreによる)。ソーシャルメディアの勝者が大統領選挙の勝者、という短絡的な見方をしてしまう。そうなのか?

ソーシャルメディアの影響力は、確かに大きい。しかし、本当にソーシャルメディアの力でトランプは勝利したのだろうか? 選挙後にああでもないこうでもないと考えてきて、私はどうもそういうことではないだろうと思いはじめた。というのも、そもそもトランプが大統領選挙に立候補する時点で既にTwitter上で400万人のフォロワーを抱えていた理由を考えれば、彼は基本的にテレビタレントだったという事実に行き着くからだ。

彼の持ち番組は、アプレンティスというリアリティ番組。なかなかの高視聴率を稼ぐ番組で、Wikipediaによればシーズン1は2000万人以上、最も低調に終わったシーズン10でも約500万人の視聴者がいたとのこと。やはりトランプが出演する類似番組のセレブリティ・アプレンティスもシーズン1では1100万人、その後もコンスタントに700〜900万人の視聴者数を稼いでいる。これらの番組の視聴者が400万人のTwitterフォロワーを構成していたわけだ。

トランプの役どころは、「取引の才能に長けた億万長者」。重要なことは、バラエティ番組ではその肩書が本当かどうかは重要視されないということ。事実であろうがなかろうが、番組の中でそういう役回りを果たせればいい。これは日本のバラエティ番組を見れば容易に想像がつく。知識人の肩書が正しいかどうかなんて、視聴者にとってはどうでもいい。おもしろければそれでいいのだし、作る側だって視聴者がそういうものだと心得ている。だが、不思議なことに、視聴者は出演者の役回りがその人の真の姿だといつの間にか思い込む。映画ファンが高倉健を無口で不器用な男にちがいないと思うようなものだ。だから、テレビ視聴者の多くにとっては、トランプはまさに「有能なビジネスマン」だ。

 

選挙中、不思議に思うことが多かった。トランプ批判の言説はどれも非常に具体的で、彼がどれほどのウソをつき、彼がどれほど不誠実であるのかをひとつひとつ証拠をあげて解き明かす。批判するのは当然反トランプ陣営だからそれが一方的であるのはともかくとして、それに対するトランプ支持者の対応が、まるで雲をつかむようなものだったということがどうにも解せなかった。具体性は一切なく、ただ、「アイツは本物だ」式の言説でしかない。「マスコミはそう言うかもしれないけど、トランプは才能があるんだから」とか。あれほど事細かに数多くの欠陥を指摘されていて、それでいて「本物だ」「才能がある」と思える心理がわからなかった。

けれど、それがテレビの力だと思えば、振り返って納得できる。高倉健が実はおしゃべりで、冗談好きな人だと言われたって、映画のなかの健さんだけを見てきたひとには理解できない。「それはそうなのかもしれないなあ」と思っても、「やっぱりあのひとは寡黙な男なんだろうなあ」って、ぜんぜん逆のことを考える。繰り返し映像で見てきた事実と活字で見た情報とでは、どうしても映像の情報のほうが上を行く。だから、「マスコミはウソばっかり言っている」「真実を知っているのは俺達だ」という根拠のない確信が強まっていく。

 

トランプの得票数は、現時点で60,265,858票だ。Twitterのフォロワー全員がトランプに投票したとしても、得票数の20%を占めるに過ぎない。実際にはTwitterのフォロワーはアメリカ国外にも広がっているから、もっと少ないだろう。1割もないかもしれない。ところが、テレビの視聴者はほぼ全員がアメリカ国民だ。2千万人の全員がトランプファンになったわけでもないだろうが、十年以上もテレビに出続けていれば相当な割合のアメリカ人がテレビを通じてトランプのイメージをつくりあげている。有能なビジネスマン、若くして成功した大富豪のイメージだ。その好意的なイメージは、続々と現れるスキャンダルを打ち消すだけの力をもっている。トランプに投票した人々の多くはテレビを通じてトランプを知ってきた人々のはずだ。

だから、マスコミが叩けば叩くほど、人々は「マスコミはウソをついている」と思う。もちろん、全員が騙されるわけではない。テレビを見ない人々は、先入観がないので騙されない。そして、奇妙なことにマスコミの中の人々、メディアの人々は、最近ではもうくだらないテレビなんかみないでソーシャルメディアばっかり注目している。言葉を替えれば、ソーシャルメディアにはそういう人々が満ち溢れている。テレビにどっぷり浸かっているような人々は、たとえTwitterでトランプをフォローしていたとしても、受動的にネットから情報を受け取る人々であって、発信者であることは少ない。だから、メディアの人々は、読み誤る。たとえば、トランプの最もリツイートされたTweetでも30万弱のリツイート数であり、しかもそれは批判のネタとしてヒラリー陣営がリツイートしたものを多く含んでいたと推測される(Clinton and Trump's Most Re-Tweeted Tweets of Election | Mediaite)。結局、ソーシャルメディアを活用していたのは、トランプではなくヒラリー陣営だったわけだ。

私たち日本人も、もともとトランプは知らない(あ、プロレスファンを除く、だね)。全くイメージのないところにあの赤ら顔と破廉恥な発言を見せられたら、「あ、こいつ、ダメじゃん」と思う。そっちの先入観が大きすぎて、テレビで培われたポジティブなイメージがあることを信じられない。そういうことを聞いても、「ふうん、そうなの。なんであんなのがテレビに出られたんだろうね」って思うだけ。

 

 その結果が、今回の大番狂わせだ。そう思えば、全て納得できる。トランプの当選は、日本で言えば古くは青島幸男参議院当選と同じことだ。タレント候補が大量の票を集めるのはごくふつうのこと。そのタレントの属性がお笑いとか時代劇とかなら人々はまだ見誤らなかったのかもしれないが、「有能なビジネスマン」だったから始末がわるかった。最初からタレント候補だと思っていればよかったのかもしれないが、どのニュースもトランプを「大富豪」と紹介していた。彼の属性で大切だったのは、そっちじゃなかったのだ。

結局、テレビが勝利した。それが私の結論だ。ソーシャルメディアなんてのは、オールドメディアであるテレビの前には無力だった。恐るべし、Idiot box!

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(参考)

www.theguardian.com

wedge.ismedia.jp

 

↓この分析よりは、自分の考えのほうが当たってるような気がする。ま、根拠はないが。

www.buzzfeed.com

 

(追記)

↓似たような意見が出てきた。そう、あれはタレント候補だったんだ。

agora-web.jp

 

マイケル・ムーアはさすが。「4年もたない」というのは、私も前に書いたが、全く同感。法律違反で弾劾される以前に、飽きてしまって自分で投げ出すんじゃないかな。

bylines.news.yahoo.co.jp

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(さらに追記)

この記事によると、勝負を決めたのは50歳以上の世代。つまり、テレビとともに生きてきた連中。テレビは衰退しつつあるのかもしれないが、その影響力はまだまだ侮れない。これはきっと、日本でも同じにちがいない。

miyearnzzlabo.com

 

刑務所に入るのはヒラリーか、トランプか? - どっちもありそうにないが

トランプの公約(?)のひとつは「ヒラリーを刑務所に」だが、おそらくこれは実現しない。トランプが指揮権を発動してさらなる捜査が進んでも、メール問題に関しては現在わかっている以上の問題は出てこない。既に徹底的に調べつくされているわけだから。仮にさらなる問題が出てくるとしたら、それはメール問題とは関係のないことで、おそらくは言いがかりに過ぎない微罪だろう。そして、捜査に関しては指揮権を発動できても、アメリカは三権分立の本家。司法まで動かすことはたとえ大統領でもできない。裁判になれば、弁護士業界出身のヒラリーにはいくらでも勝ち目がある。なによりも、いったん戦いに勝った以上、トランプもトランプファンも、もうヒラリーに興味はないだろう。「ヒラリーを刑務所に」は、しょせん罵り言葉に過ぎない。

その一方で訴訟リスクということでいえば、トランプのほうが大きい。彼がかかわっている訴訟は4,000件以上あるそうだが、そのうちの75件が裁判中で、選挙運動中もトランプ本人が出廷しなければならないことも何度もあったらしい。詳しくはこちら。

www.usatoday.com

この記事は投票日2週間ほど前のものらしく、いまとなってみれば相当にヒラリー有利のバイアスがかかってはいるものだが、それでも「もしもトランプが大統領になったら」という仮定のもとに書かれているので、その「もしも」が現実になったいま、読み返してみる価値があるだろう。

最も大きな訴訟は、近日中にも公判がある「トランプ大学」を巡るもの。お世辞にもトランプ有利とはいえない事件だ。だが、これでトランプが刑務所行きになるかといえば、それはおそらくない。民事訴訟だから、負けても賠償金。正確なところは記事からはわからないが、その他にも刑事訴訟は抱えていないらしいので、負け続けても金で解決できる。「金ならある」んでしょう? トランプの最大のウソは実はそこかもしれないのだけれど(実際の資産は本人が公言しているよりも遥かに少ないらしい)、ここからは大統領の給料だって入ってくるし、なんなら4年後の回顧録の印税をカタに借金だってできるだろう。そこに困ることはない。

アメリカは訴訟社会だから、実際、企業経営なんてやってれば、民事訴訟を大量に抱えるのはありそうなこと。そういう意味ではとやかく言うことでもない。ただ、訴訟の内容が、従業員に金を払わなかったとか不当解雇だとか、どっからどこまでいってもブラック企業の親玉だということを示しているのがなんともはや。トランプは雇用を回復するかもしれないが、その内容は相当にブラックになることを覚悟しなければいけないのかもしれないね、アメリカ人は。

トランプは選挙期間中に暴言を吐きまくりだったから、訴訟はこれからもっと増えるだろう。政治的な言論は罪に問われないのがふつうだが、彼の暴言は政治的発言の範疇におさまるものばかりではない。訴訟好きのアメリカ人だから、おおいに法の力を使ってほしいものだ。もっとも、トランプの側も、彼に暴行されたと主張する女性たちを名誉毀損で訴える構えらしい。最も雇用が増えるのは司法関係業界かもしれないな。

 

いずれにせよ、ここから先、アメリカがどれだけ法治国家であるのか、明らかにならざるを得ないだろう。トランプは公約通りに不法移民を規制するつもりらしいが、既にアメリカ永住の地位を得た合法的な移民まで差別することは法が許さない。そして、彼が展開すると公約している公共事業で生まれる雇用はどうせ賃金の安いバラマキ型事業だから、それで潤うのは没落意識だけが高い彼の支持者ではなく、むしろ本当に社会の底辺で苦しんでいる移民たちだろう。皮肉なことに、トランプの政策は彼の支持者ではなく、支持者たちが敵視しているアフリカ系やヒスパニック系の人々を助けることになりそうだ。アメリカが法治国家である限り、その流れを止めることはできない。

そして、それでも白人優先の差別的政策がまかり通るようなら、アメリカの正義なんて口先だけのものだということが明るみに出るだろう。それはそれで、悪いことではない。真実を覆い隠すこと、ウソほど始末におえないものはないのだから。嘘つきは泥棒の始まり。ファクトチェッカーと仲のわるい新大統領をいただくアメリカには、用心したほうがいいな。

 

 

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(余談)

全く関係ないのだけれど、フランス革命から第二帝制までの年表とケネディ当選からトランプ当選までの年表を並べてみるとなかなかに興味深い。民主主義の発展が決して一直線状ではなく、揺り戻しを繰り返しながら発展してきたことがわかる。そう思えば、トランプ以後の未来にも希望がもてるというもの。

画像でいいのがあればと思ったけど、見つからなかった。だれか見やすいものを作ったら、Twitterなんかでリツイートが稼げるかもよ。

トランプ経済は破綻する - もういっぺんだけ言っておこう

私は言霊という非科学的なものをなんとなく信じている。迷信を信じる自由がなくなったらこの世は終わりだと思うから、そのことでとやかく言われたくはない。だから私は、1回も「トランプが当選する」みたいなことは言わなかった。ただ、そうなったらヤバイなあとは思ってきた。いや、ヒラリーが通ったってロクなことではないとは思っていた。あくまでどっちがマシかっていう話で、「こいつだけはやめて欲しい」と思っていた。そう思って言忌をしてきたのに、結局はこれかよ。

決まったものは決まったもの。どんな大統領になるのかと、勝利演説を聞いてみた。たいして期待もせず。そしたら、予想通りというか、やっぱり「オレはえらい」以上の内容はなかった。オバマ初当選の勝利スピーチと比べると、そのあたりは歴然。

www.youtube.com

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選挙戦勝利直後の常として、スタッフをはじめとする身内の論功行賞がかなりの部分を占めるのはどちらも同じだ。だからそこは飛ばして見てかまわない。それ以外の部分を聞いてみるとよくわかる。同じ「私たち」という表現をとっていても、オバマは具体的な国家のイメージがあって、それを支持する人々が「私たち」であるのに対し、トランプは「オレ」を支持した人々が「私たち」である。「みんながえらいから、その結果として自分が選ばれた」というオバマに対して、「オレがえらいから、オレを支持したお前たちもえらい」というトランプと括ったら、乱暴すぎるだろうか。私の印象としては、そんな感じ。

それでも、政策的な話がまったくなかったのかといえば、そこはやはり大統領、少しは触れた。外交に関しては、「うまく取引をやる」と言っただけで、中身は空っぽ。そして経済。「この国を再建する」といい、「都心部を再開発し、道路や橋、トンネル、空港、学校、病院、インフラを再建する」と具体策を述べている。なるほど。

「そこまでアメリカのインフラはガタガタなのか?」というツッコミはさておこう。たぶん、そうではない。けれど、それでもそういった公共事業にどっと公的資金を投入する政策はあり得る。日本でも「失われた十年」には、そういうことが盛んに行われたと記憶している。もっと以前には、日本列島改造論やら、さらには三全総なんてのもあった。ルーツをたどるとアメリカが本家のニューディール政策に行き着く(トランプの好きな「ディール」だな)。中学生でも知っている事実。

なんとも古典的な政策を持ち出してきたものだ。だが、ビジネスマンのセンスなんてそんなものだろう。投資を行って、利益を得る。つまり、政府が積極的に事業に投資する。その過程で仕事をつくっていく。土建事業はその最も手っ取り早いものだ。そしてそれは、確かに雇用を生み出していく。だから、失業や不安定な雇用、低賃金の雇用に悩むアメリカ大衆のニーズと一致する。そういう意味では、トランプは人々の期待を裏切らない。「ぜったいに、がっかりさせないからな」と演説で強調したのは、たぶんウソではない。

ただ、それによって本当に「偉大なアメリカ」が戻ってくるのだろうか。答えは否だろう。もしそうなら、とっくのむかしにアメリカ経済は回復している。これまでもアメリカ政府は、公共事業系の投資を大量に行ってきた。民主党は、もともと「大きな政府」だ。それを「もっと大きな政府」にするというのだが、そうすると、当然財政はもたない。ない金はあるところからもってこなければいけないので、借金か、それとも富裕層に対する増税しかない。トランプは借金で何度もピンチを乗り切ってきたそうだから、借金に走るのかもしれない。今度は兄妹から借りるわけにいかないだろう。まさかロシアから借金するとは思えないが、いずれにせよ財政は破綻に向かって一直線。もちろん議会がウンと言わないだろうが、それでも最初の一年や二年は、トランプの主張する国土再開発に「やらせてみたら」となるのは想像に難くない。

ということで、おそらく、トランプの最初の2年間は、経済は多少なりとも回復する。雇用が改善し、失業率は下がるだろう。だが、それによる税収の回復なんて、どうせたいしたことはない。となると、上がりかけたものが一気に下がる。経済なんてそういうものだ。無理やりバズーカを撃ったって、タマが切れたら終わり。三年後には、元の木阿弥どころか、ひどい急落が待ち構えているのではなかろうか。

あくまで無責任な外野としての予想だけれど、トランプの言葉を額面通りに受け取ると、そういうふうな未来が見えてくる。まあ、未来の予想が当たることなんて、そうそうはない。そう思えば、バックトゥーザフューチャーはすごいな。

www.youtube.com

もういっぺん言っておこう。トランプ経済は破綻する。だが、破綻までのわずかな期間でひと儲けは、できるかもしれない。ヤケドに備えがあるなら、だけれど。あ、火傷は温めちゃダメだよ。

 

mazmot.hatenablog.com

mazmot.hatenablog.com

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トランプ経済に関しては、このあたりの観測も面白かったな。プロレス、か。

blog.mshimfujin.net

 

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追記:

こういう政策綱領見ても、なるほどっていう感じ。やっぱり「なんでもやる」派だ。

gigazine.net

アメリカ大統領選挙への野次馬的感想

(11月9日12時30分)
大統領が今日決まらない可能性 - 投票日から2週間後までもつれた16年前が再びか?

正直、ここまでトランプが引っ張るとは思わなかった。日本時間11月9日12時半の時点で、トランプがリード。そして、勝敗を分けるフロリダ州は49%対48%と報じられている。

またフロリダか!

縺れにもつれた2000年のゴア対ブッシュの大統領選挙で、最後まで紛糾したのがフロリダ州。再集計が行われ、さらに異議申し立てとかもあって、最終的に数百票の差で決着するまでおよそ2週間がかかった。

フロリダ州の法律では、開票結果が0.5%未満の票差の場合、自動的に再集計プロセスが始まるとのこと。

Chapter 102 Section 141 - 2012 Florida Statutes - The Florida Senate

今回の選挙も、また再集計にもつれこむ可能性が高い。もちろんそれ以外の州でトランプがこのまま圧勝を続ければ影響はないのだけれど、西部の諸州でヒラリーが勝てば、またフロリダの再集計待ちにもつれ込む可能性がある。

なんとも異様な風景が続いている。

 

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(13時)
フロリダ再集計はなし

結局、票差は1%以上開いたようなので(1.4%差)、再集計はなさそう。焦点は他の州に移っている。

www.nytimes.com

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(13時30分)
例の元CIA職員

ユタ州で「ひょっとしたらトランプを食うんじゃないか」と言われていたEvan McMullin候補泡沫候補とはいえない善戦をしたけれど、やはりトランプにははるか及ばず。概略の数字で、およそ半分強の票をトランプが獲得し、残りをMcMullinとヒラリーが折半した格好。McMullinの強い地域ではトランプがもっと強い、という結果だから、選挙結果への影響は結局はなかったようだ。

www.npr.org

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(14時)
未だに南北戦争

今回の選挙ではトランプが中西部から南部にかけての諸州で圧倒的な票差で勝ちを得た。ヒラリーが強かったのは、東部と西海岸だけ。で、これって、南北戦争のときの色分けとよく似ている。

https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024010554.jpg

準州とかは除けば、南北戦争で北部側についた諸州のうち、今回ヒラリーはカンサス、インディアナオハイオあたりを落としたことになる。そういう観点から見れば、トランプがとったものの、テキサスでのヒラリーの善戦は意外かもしれない。

南北戦争は、工業化の進んだ北部と、農業中心の南部の経済的なちがいが原因だったという話もある。そういう意味では、アメリカはいまも南北戦争をやっているのかもしれない。

(参考)

www.dailykos.com

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(14時30分)
結局はウィスコンシン

どうやら、ウィスコンシンをとった候補が勝つようだ。現時点でトランプが圧倒的優勢だが、未開票の都市部がヒラリーの票田なので、まだひっくり返る可能性はある。さて、どうなんだ?

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(15時30分)
都市部と田舎と

ほぼ形勢は決まったようだ。

今回、ネットで詳しい分析が見えて、改めてアメリカという国の分断を見た気がした。それは、都市部と田舎の完全な意識の分離だ。田舎はトランプ、都市部はヒラリーというのがはっきりした。人口でいえば都市部が圧倒的に多いので勝負はほぼ拮抗したが、国土全体で見たらトランプ派が圧倒している。

日本でも都会と田舎では世間の常識がちがうが、ここまでではない。それは、都市人口を生み出した母体が田舎であることがはっきりしているからだ。都市と田舎は、分断されつつもつながっている。アメリカではそうではない。

都市を支える田舎の人々が、「なんでオレらがあいつらのために働かなあかんねん」と反乱を起こしたと考えれば、少しは理解できるのかな? このよく理解できない選挙が。

 

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あ、ペンシルベニアがひっくり返った。これで決まりやな。

 

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(11月11日追記)

まだこんなこと言ってるメディアがある。

www.newsweekjapan.jp

そりゃそうかもしれないし、私だってトランプ当選の悪夢が本当に夢ならいいとは思う。けれど、もしもここでひっくりがえるようなことがあったら、混乱どころじゃないだろう。陰謀論とかが噴出して、まともな政治はできなくなる。さすがにそれは、ないと思う。